鎌倉時代末期の名将・楠木正成をご存知でしょうか?
この記事では、楠木正成の銅像がなぜ皇居にあるのかを、わかりやすく解説いたします。
楠木正成の子孫の苗字は、かわらず楠木なのか?
家系図で子孫が今も続いているのかどうかを、確認してみましょう。
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この記事を短く言うと
- 楠木正成は、天皇の忠臣として北条氏や足利尊氏と戦ったため、その功績をたたえて皇居に銅像が築かれた
- 元々楠木正成の評価は低かったが、江戸時代・明治時代に名誉回復がされた
- 子孫は楠木同族会という組織で、現在も親睦会を行っている
楠木正成の銅像が皇居にある理由
楠木正成の銅像が、皇居にある理由は、楠木正成が天皇のために戦った忠臣だからです。
楠木正成とは、鎌倉時代末期に後醍醐天皇を補佐した名将です。
当時の日本は、北条高時をトップとする北条一門による武家政権・鎌倉幕府に支配されていました。
その鎌倉幕府の圧政に民衆が苦しんでいた時、後醍醐天皇は打倒・北条一門を掲げて挙兵したのでした。(元弘の乱)
しかし後醍醐天皇の兵力は1000人以下だったといいます。
対して鎌倉幕府軍は、なんと数十万だったといわれています。(実際には10分の1程度で、多くて数万だろう)
敗北必至の絶体絶命の状態で、後醍醐天皇はある日、不思議な夢をみました。
二人の菩薩の御使いが、後醍醐天皇の前に現れ、こう言ったのです。
「この後、しばし世の中は乱れます。
あの『木の南』に、天皇の席をご用意いたしましたので、そこでしばらくお休み下さい」
そう言うと二人の御使いは、巨大な葉緑樹を指差したといいます。
木の南とは、何を意味しているのか。
これは漢字にしてみるとわかりますが、つまり【楠】を意味するわけです。
この夢をみた後醍醐天皇は、【楠木正成を味方にせよ】という神仏のお告げであると信じ込みます。
こうして後醍醐天皇は、悪党と呼ばれた不良領主・楠木正成に対して、異例ともいえる使者を発してむかえたのでした。
それにこたえた楠木正成は、幼い頃から鍛えあげた兵法を駆使して、数十万の幕府軍をわずか500人足らずの兵で迎撃します。
ゲリラ戦で散々に相手を苦戦させて時間を稼ぎ、その間に手薄となった北条家の京都の本拠地・六波羅探題を足利尊氏が攻撃。
同時に北条一族の本拠地である鎌倉を、新田義貞が制圧に成功します。
楠木正成・足利尊氏・新田義貞の連携によって、鎌倉幕府は滅びたのです。
この後、鎌倉幕府に代わって後醍醐天皇が、建武の新政と呼ばれる新しい政治を行いました。
それはあまりにも不公平で、現実からかけ離れた理想主義の政治でした。
新しい政治に失望した多くの武士たちは、後醍醐天皇を見捨てて離れていきました。
後醍醐天皇を見捨てた武士たちは、源氏の棟梁(武士のボス)であった足利尊氏をリーダーにまつり上げて、後醍醐天皇と戦うことになったのです。
対して後醍醐天皇の味方をした武士は、新田義貞と楠木正成でした。(他にも北条時行や公家・北畠顕家が味方した)
しかし新田義貞は所詮、足利尊氏には遠く及ばない人物でした。
それに対して、やはり楠木正成は優秀でした。
戦う前から勝ち目がないことを見抜いていた楠木正成は、後醍醐天皇に足利尊氏との和睦(仲直り)を勧めます。
ところが後醍醐天皇は、楠木正成の提案を拒絶します。
和睦を拒絶された楠木正成は、京都からの撤退とゲリラ戦での戦いを主張します。
楠木正成は、圧倒的な戦力を保持する足利尊氏に対しては、ゲリラ戦でしか勝機がないことを知っていました。
足利尊氏の大軍に対して楠木正成は、足利軍を京都へ誘き寄せて、ゲリラ戦で兵糧攻めにする作戦を提案します。
京都を手放したくない後醍醐天皇はこの作戦を却下。
なんと後醍醐天皇は、戦いの天才・楠木正成の提案を却下して、足利の大軍団を迎撃せよと命令してしまうのです。
楠木正成は、天皇の命令には逆らえず、仕方なく新田義貞とともに湊川で、足利尊氏軍を迎撃。
圧倒的な強さを誇る足利尊氏軍を相手に、わずか数百人の楠木軍は当然ながら敗北します。
1336年、この湊川の戦いで、楠木正成は亡くなりました。
絶対に敗北するとわかっていた楠木正成。
しかし後醍醐天皇に評価してもらい引き立ててもらった恩義を、楠木正成は忘れなかったのです。
天皇の恩に報いるために、楠木は死を決した戦いにおもむいたのでした。
後醍醐天皇に死を賭して忠誠を誓い続けた姿勢を評価され、楠木正成の銅像が皇居前につくられたというわけです。
楠木正成の評価とは
現在では評価されている楠木正成ですが、宿敵・足利尊氏が支配する室町時代においては、その評価や名誉は非常におとしめられました。
しかし楠木正成の子孫を自称する楠木正虎(信長・秀吉の家臣)なる人物が、戦国時代に正成の赦免運動と名誉回復運動をおこなったのでした。
そして楠木正虎は、正親町天皇から楠木正成・赦免を許されました。
その後、楠木正成は再評価がされるようになり、特に水戸徳川家からは忠臣として尊敬を集めることとなったのです。
明治時代になると、天皇中心の政治が行われるようになったため、天皇に忠誠を誓って戦った楠木正成や新田義貞は、非常に高い評価をされたのです。
楠木正成の愛刀・小竜景光は、明治天皇の佩刀となったともいわれています。
昭和10年頃に楠木正成の子孫が発見されて、現在では楠木同族会なる組織が発足し、現在でも活動しています。
楠木正成は【太平記】という歴史書では、天才武将として描かれています。
特にゲリラ戦を得意とし、少ない兵で大軍団を相手にする能力は、まさに神業だったのだとか。
特に【聖徳太子の予言】のエピソードは有名です。
正成は自分の部下たちに対して
【北条一門は滅びる】という予言を聖徳太子が残している
と語ったといわれています。
それを聞いた兵士たちはテンションが上り、やる気を取り戻して、鎌倉軍を圧倒したといいます。
それにより、実際に鎌倉幕府は滅びたのでした。
当然ですが、この聖徳太子の予言は、楠木正成による捏造である可能性が高いです。
聖徳太子を利用した楠木正成は、まちがいなく戦いの天才だったのでしょうね。
「聖徳太子」については、以下のリンク記事をご利用下さいませ。
子孫の苗字と家系図
楠木正成の子孫は、現在まで続いています。
苗字は楠木、または平木という姓を名乗ったみたいです。
例えば、戦国時代の楠木正虎の他にも、秀吉に仕えた武将・蜂須賀小六は、楠木の一族では?といわれています。
江戸時代に反乱を起こした軍学者・由比正雪の妻は、楠木正虎の孫だといいます。
家系図を観てみると、こんな感じです。
- 楠木正成
- 正儀(正成の三男)
- 正秀
- 正盛
- 盛信
- 盛宗
- 盛秀
- 長成
- 成隆
- 正虎
- 正辰(軍学者)(由比正雪の師)
- 娘(由比正雪の妻)
楠木正成の子孫は、同族会なる組織を通じて親睦会を度々開いており、元衆議院議長であった綿貫民輔さんが会長を務めていたようです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・楠木正成は、天皇の忠臣であったため皇居に銅像が建てられた
・戦国時代・江戸時代・明治時代に、楠木正成の名誉は回復した
・子孫は楠木や平木などを名乗り、現在では楠木同族会なる組織で親睦会を行って活動している
以上となります。
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