幕末「禁門の変」で、長州軍を率いて亡くなった長州藩士「来島又兵衛」とは、どんな人なのか?
その「生涯」をわかりやすく解説します。
「来島又兵衛は、禁門の変で長州藩の軍を率いて、即開戦を主張して戦死した人物」
援軍を待つべき、と主張した秀才「久坂玄瑞」を死なせた男だった
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この記事を短く言うと
・来島又兵衛とは、長州藩士にして「禁門の変」で「すぐに戦うべきである」と主張し、「援軍を待つべき」と主張した「久坂玄瑞」をののしった人物
・このとき、長州藩士達は、「楠木正成」の「湊川の戦い」における忠誠心の物語にあこがれ、決死の覚悟を固めていた
・2018年の大河ドラマ「西郷どん」では、プロレスラー「革命戦士」こと「長州力」が、「来島又兵衛」を演じた
来島又兵衛の功績とは?
1864年に起こった「禁門の変」で戦死した長州藩士「来島又兵衛」

《来島又兵衛》
『引用元ウィキペディアより』
来島又兵衛は、どういう功績を残した人物なのでしょうか?
【来島又兵衛】の功績
来島又兵衛の功績を簡単に解説すると
・高杉晋作の奇兵隊と並ぶ、「遊撃隊」を結成して自ら率いた
・「禁門の変」で薩摩藩と激戦を繰り広げ、壮絶な最期を遂げた
禁門の変での激戦・・・。これを功績と呼んでよいのかどうか悩みましたが、それでも来島又兵衛の華々しい最期を彩る意味を込めて、功績とさせていただきました。
生涯年表
1817年2月23日、長州藩・長門国厚狭郡西高泊村の下級武士「喜多村家」の次男として誕生
1836年、「来島政常」の婿養子となる
1841年、大石神影流剣術を学ぶ
1846年、江戸へ剣術修行に出る・・・この修業で長州藩随一の武芸者となる
1848年、長州藩へ帰国。来島家の家督継承
1851年、養父「来島政常」が亡くなり、「来島又兵衛政久」と改名
1863年、猟師により編成された「狙撃隊」を率いて京都へ
同年、「八月十八日の政変」で長州藩は京都から追い出される。
同年、「遊撃隊」を組織。自ら総督に就任
1864年、薩摩藩の国父「島津久光」の暗殺を企てるも失敗
同年、「禁門の変」勃発。薩摩藩士「川路利良」の狙撃で致命傷を負い、来島又兵衛・自決。享年47歳
来島又兵衛の大失敗!失敗の原因は「楠木正成」
来島又兵衛といえば、「禁門の変」のときに、「吉田松陰」の義弟「久坂玄瑞」を「医者坊主」と罵倒して、強硬策を主張した人物。簡単に言えば、超武闘派。
「禁門の変」とは、「八月十八日の政変」で会津藩・薩摩藩の手で京都から追い出された長州藩が、軍を率いて朝廷に対し「攘夷(外国勢力を武力で追い出す政策)」を主張しようとした事件。
2万人・・・・2千人の軍を率いていた長州藩に対して、幕府と諸藩の連合軍は10倍の「2万人」大軍団。長州藩はこの「2万人」を打ち破り、御所にいる帝に対して「攘夷」を直訴しようとしたのです。
しかし、久坂玄瑞は、わずか2000人しかいないことを危険視し、後からくる予定だった「長州藩本隊・7000人」の軍を待つべきだと主張。
それに反対し、強硬策を主張したのが「来島又兵衛」でした。来島又兵衛は、本隊到着を待たずに御所へ討ち入り、帝へ直訴すべきと主張したのです。
久坂玄瑞の主張は却下、来島又兵衛の主張が取り入れられ、長州藩2千人は御所へ突入を試みたものの、敗北。来島又兵衛は戦死。
「大楠公」に憧れた来島
来島又兵衛は、当時のほとんどの長州藩士達と同じく、攘夷を実行するために強行あるのみと強く主張していた人物でした。
それにしても、わずか「2000人」の部隊で、「2万人」の幕府軍に勝てないことなど、誰にでもわかるはずなのに、なぜ来島は強硬策を主張したのでしょうか?
1864年、長州藩・山口で「楠公祭」という祭りが行われているのです。
「楠公祭」とは、大楠公と呼ばれた武将「楠木正成」をたたえるお祭り。
これを見た長州藩士たちは、決死の覚悟を固めたと考えられます。どうして「楠木正成」をたたえると、決死の覚悟を固めることとなるのか?
「楠木正成」とは、1333年・・・・「後醍醐天皇」に従い、「足利尊氏」や「新田義貞」と協力して「鎌倉幕府・北条一族」を討ち果たした名将。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は「建武の新政」に失敗し、足利尊氏を首領とする「武家勢力」と対立。そこで後醍醐天皇に忠義を尽くして、足利尊氏と戦ったのが「楠木正成」。
「楠木正成」は、足利尊氏の大軍団と戦っても、勝ち目がないことをよくよく知っていました。そのため、後醍醐天皇に対して「京都から退去すべき」と主張します。
しかし、後醍醐天皇はこの作戦を却下し、京都にしがみつきます・・・。楠木正成に、足利尊氏を堂々と迎撃するように命じるのでした・・・。
勝ち目が無く、戦ったら死ぬことがわかっていた楠木正成は、戦についてきた息子「多聞丸(後の楠木正行)」と別れ、後醍醐天皇へ忠誠を尽くすために出撃。
「湊川の戦い」で壮絶に討ち死にをしたのです。
この死を、敵である足利尊氏は哀れみ、以前ともに鎌倉幕府と戦った戦友の情を思い起こして、楠木正成の首を丁重に息子・正行に送り届けたのでした。
長州藩士たちは、この「湊川の戦い」を「楠公祭」で刷り込まれたわけです。
「武士は負けるとわかっていても、戦わなくてはならない」
「忠誠を尽くすとは、つまり戦いで亡くなることだ」
「楠木正成」に強い憧れを抱いていた長州藩士たちは、「禁門の変」という舞台こそが死に場所だと感じていたことでしょう。
来島又兵衛も、「禁門の変」で死に、楠木正成のように忠節を尽くした生涯を終えようとしていたのでしょう・・・・。この禁門の変で敗北した後「馬関戦争(下関戦争)」「第一次長州征伐」で、長州藩が崖っぷちに追い込まれるとも知らずに・・・。
「楠木正成」に憧れて玉砕した来島又兵衛たち・・・。
この犠牲の後、長州藩は薩摩と協力して「明治維新」を成し遂げたわけですが、明治新政府の基本方針となったのが「五箇条の御誓文」。
「五箇条の御誓文」は・・・・「維新十傑」の一人「横井小楠」の「国是七条」を、坂本龍馬が応用した「船中八策」「新政府綱領八策」が基礎となっています。
その「横井小楠」の「小楠」というお名前・・・実は「楠木正成」の息子「楠木正行」の異名「小楠公」から取ったものなのです。おそらく「楠木正成」に憧れた横井小楠が、楠木正成の異名「大楠公」を使うことを恐れ多いと考え、息子の「小楠公」の名前を取ったのでしょう。
楠木正成・・・その存在は「明治維新」に大きな影響を与えているのかもしれません。
子孫と家系図
来島又兵衛の子孫は、どうなったのでしょうか?

「家系図の引用等はご遠慮くださいませ」
来島又兵衛には「亀之助」という息子がいました。亀之助は後に「森」という姓を与えられ、「森清蔵」と名乗ります。
その「清蔵」は、外務大臣「井上馨」の妹「厚子」を妻としています。
その後、「清蔵」は「井上馨」の兄「光遠」の子「祐三郎」を養子として迎えています。
この「祐三郎」は、後に「三井銀行」の下関支店長、「三井物産」の門司支店長を歴任・・・三井財閥と強く結びついていたわけですが、おそらくそれは財界と強い結びつきを持っていた「井上馨」の影響もあったのでしょう。
歴代『来島又兵衛』役を演じた俳優たち
歴代大河ドラマにおいて、この「来島又兵衛」という人物を演じてきた方々には、一つの共通点があります。
2010年「龍馬伝」・・・「角田信朗」
2015年「花燃ゆ」・・・「山下真司」
2018年「西郷どん」・・「長州力」
共通点・・それは・・・・・皆さん体育会系でゴツいこと・・・。
やはり「武芸の達人」である来島を演じるには、分厚い身体を持つ人物にしか出来ないことなのかもしれません。
特にプロレスラー「革命戦士」の異名を持つ「長州力」さんが「来島又兵衛」を演じたのは、かなり話題になりました。
演技の中で、必殺「リキラリアット」をかましていたということで、「新日本プロレス」を知る人からすれば、かなり嬉しいものがあります・・・。
『来島又兵衛』について、レビュー(評論)!
来島又兵衛・・・よくドラマや映画なんかでは「久坂玄瑞」の敵役・悪役のような立ち位置で描かれます。
慎重策を主張して、本隊到着を待つべきと、当たり前の作戦を主張する「久坂玄瑞」に対して、それを「医者坊主」と罵り、強硬策を主張する来島又兵衛・・・。
結果からみると、この「来島」の「強硬策」は間違っていました。「久坂」の「慎重策」が正しかったのです。長州藩は禁門の変で惨敗し、京都の三分の一が焼けてしまいます。
とはいえ、来島の主張は、当時の長州藩士の大半が主張していたことでした。おそらく一般的・常識的な意見だったので、それほど突飛な発想でもなかったのでしょう。
長州藩一の武人「来島又兵衛」は、彼らの気持ちを代弁しただけなのではないでしょうか。
来島又兵衛・・・ドラマや映画でいくら悪役に描かれようとも、個人的にはそれほど憎めません・・・。
何故かと言うと、「来島又兵衛」と言われると、「長州力」の顔を思い浮かべてしまうから・・。
長州・・・・山口県出身のあんたが「来島又兵衛」を演じてくれたおかげで、来島への悪感情はどこかへ消え失せてしまいました。
「マサ斎藤」さんと「革命軍」を結成した長州・・・・谷津嘉章と「維新軍」を結成した長州・・・。
あなたほど、長州軍を率いるにふさわしい人は、絶対にいません!!!
長州・・・・・・・ありがとう。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・来島又兵衛とは、「禁門の変」で強硬策を主張し、久坂玄瑞の主張を退けた人物
・来島又兵衛たち、大半の長州藩士は、「楠公祭」で楠木正成に憧れ、「禁門の変」では強硬策を主張していた
・来島の孫は、井上馨の甥であり、三井財閥で仕事をしていた
以上となります。
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