足利尊氏の家系図と子孫を調査!性格が良かったため将軍になれた?

「鎌倉幕府」を倒し、「室町幕府」を開いた武将「足利尊氏」

足利尊氏の子孫は、今でも続いている?

天下を取ることが出来た理由は「性格が良かったため」?


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この記事を短く言うと

・足利尊氏は、室町幕府初代将軍にして、鎌倉幕府を滅ぼした武将の一人

・足利尊氏の子孫は、今でも続いている。現当主は「足利浩平」氏

・尊氏は、度量が広く度胸があったため、家来に非常に慕われた


足利尊氏とは?

足利尊氏・・・「源氏の名門・足利家」の当主。

北条一門が支配していた「鎌倉幕府」の家来「御家人」の一人。

しかし、北条一門のトップ「北条高時」の悪政で、御家人たちは幕府に不満を抱くようになっていました。

しかも、京都では「後醍醐天皇」が「倒幕」のために挙兵。

楠木正成」たちが後醍醐天皇に同調して、鎌倉幕府に戦いを挑んできたのでした。

一度は後醍醐天皇を打ち破った鎌倉幕府・・・。天皇を「隠岐島」に流罪としましたが、隠岐を脱出した後醍醐天皇は、再び挙兵。

後醍醐天皇の挙兵に協力したのが、鎌倉幕府の御家人「足利尊氏」と「新田義貞」。

鎌倉幕府の御家人だった「尊氏」と「義貞」は、幕府を裏切り、尊氏は京都を、義貞は鎌倉を同時に襲撃し、「源頼朝」が開き「平氏・北条一門」に奪われ約141年続いた鎌倉幕府は、「源氏の棟梁」である足利尊氏の手で滅亡したのです。

ところが、鎌倉幕府に代わって行われた後醍醐天皇の政治「建武の新政」は、独裁的で問題の多い制度だったため、武士たちは急速に失望。

失望した武士たちは、源氏の棟梁たる足利尊氏を筆頭にして、後醍醐天皇と戦うことになるのです。

後醍醐天皇は、尊氏に敗北し、天皇の座を追われ、光明天皇が即位。

しかし後醍醐天皇は「吉野」へ逃亡し、そこで天皇を自称したため、京都と吉野に二人の天皇が存在する異常事態に!

この「二人の天皇」が存在する時代を「南北朝時代」と呼びます。

その後、後醍醐天皇が病気で亡くなり、後を継いだ後村上天皇が戦闘を継続したため、南北朝の動乱は泥沼化・・・。

足利尊氏は、征夷大将軍となって「室町幕府」を開くこととなるのですが、南北朝の動乱は続き、3代将軍「足利義満」の時代にやっと「南北朝合一」がなされるのです。


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足利尊氏の家系図と子孫

足利尊氏の子孫は、今に続いています。

明治時代には「子爵」という爵位を持つ名家であり、現在は「足利浩平」という方が「足利家」の当主をなさっておられます。

「足利浩平」氏の前当主で、伯父に当たる「足利惇氏(あつうじ)」さんは「5代目東海大学学長」を務めたお方で、1974年になくなっておられます。

さて、尊氏からの家系図なのですが、「足利浩平」氏は、尊氏の四男「足利基氏」の子孫。

江戸幕府・喜連川藩を立藩した際に「喜連川」という苗字に代わっていますが、明治維新後に「足利」の姓に戻しています。


以下の系図は、足利尊氏から現代の足利家当主「浩平」氏までを順に記したもの・・。

その下が、初代将軍「尊氏」から、最期の15代将軍「義昭」までの系図です。

見にくいですが、お許しくださいませ。名前が切れている「12代将軍」は「足利義晴」です。

足利尊氏

足利基氏(鎌倉公方)

満兼

持氏

成氏(古河公方)

政氏

義明(小弓公方)

頼純

喜連川頼氏(下野・喜連川藩・初代藩主)

義親

尊信

昭氏

氏春

茂氏

氏連

彭氏

熙氏

喜連川縄氏→足利縄氏(明治に足利姓へ改姓)

足利聡氏

足利於菟丸(おとまる)

足利惇氏(元・東海大学学長)

足利浩平(現当主)


どうやら「喜連川藩」は5000石程度の小さな藩だったようです。

藩とは「1万石」以上の国をいい、それ以下は「旗本」というのが常なのですが、喜連川は名門・足利の流れを組んでいるので、徳川家康は特別に「5000石」でも「藩」として認めたと言われています。

この「喜連川藩」は、そのまま存続し、明治を迎えました。


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性格が良かったため、将軍になれた!

足利尊氏は、非常に「人徳」のある武将だったと言われています。

物欲がまるで無いため気前が良く、心が広く寛容で温厚、死を恐れない勇気を持っていたため、家来たちから非常に慕われたのだとか。

そのため「この人を敗北させてはならない」と、家来たちは必死になって尊氏を補佐したと言われています。

おそらく、自ら部下を率いるタイプではなく、味方に祭り上げられて集団の力を引き出すリーダーだったのでしょう。

その性格のために、将軍になれたと考えられます。

以下に、尊氏の性格を表すエピソードをご紹介いたします。


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尊氏を守るために落とした「マゲ」

こんなエピソードがあります。

中先代の乱で、鎌倉が攻め落とされた際、足利尊氏は、鎌倉から逃亡した弟・直義や、息子・義詮を救うため、後醍醐天皇の命令に反して京都から鎌倉へ出陣。

その後、尊氏は京都に戻ること無く、関東で武家政権を樹立する構えを見せました。

それに激怒した後醍醐天皇は、「足利尊氏討伐」の綸旨(天皇の命令)を発し、「新田義貞」を討伐軍の大将に任命。

足利尊氏は、尊敬していた「後醍醐天皇」と戦いたくはないと主張し、家来たちが止めるのも聞かず、いきなり出家。

しかし弟の足利直義が新田義貞に敗北して、やむなく出陣。

その時、尊氏はマゲを切り落としていたため、武者の中にいると非常に目立ち、標的にされかねない状況でした。

これをみた家来たちは、尊氏を目立たせないために、全員がマゲを切り落としたのだとか。


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後醍醐天皇を本気で尊敬していた尊氏

さらに、足利尊氏の人柄を表すエピソードが・・・。

尊氏が、全身全霊をかけて戦うこととなった宿敵「後醍醐天皇」

足利尊氏を引き立て、倒幕軍を率いた「尊氏」の主君。

敵味方に別れ「南北朝の動乱」で戦う運命となっても、尊氏は「後醍醐天皇」を尊崇していました。

後醍醐天皇が亡くなったときには、後醍醐天皇の宿敵・光厳上皇に申し出て、その菩提を弔う許可をもらいます。

更には、後醍醐天皇の菩提を弔うために「天龍寺」を建立。

敵にまで情けをかける度量の広さ・・・実際尊氏は、一度は敵になった武将に対しても、降参すれば基本的に許しています。


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宿敵・楠木正成への情け

尊氏は、湊川の戦いで、名将「楠木正成」を打ち破っています。

この時、戦場の慣習として、討ち取られた「楠木正成」の首は、首札をつけられて京都・六条河原にさらされました。

しかし、さらされた首は、見物人の目に止まった瞬間、あっという間に僧侶たちが持ち去り、供養したと言われています。

おそらく尊氏の命令だったのでしょう。正成の首を観た人はほとんどいなかったと言われているようです。

この「楠木正成」の首は、尊氏の命令で、丁重に扱われ、正成の故郷・河内国にいた息子・正行のところへ送られました。

正成と尊氏・・・敵味方に別れたとはいえ、一度は北条一門を敵として一緒に戦った仲。

敵視することは出来なかったのでしょう。


楠木正成」については、よろしければ以下のリンク記事をご利用下さいませ。

↓↓↓↓↓


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・足利尊氏とは、室町幕府初代将軍にして、後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府を滅ぼした人物

・尊氏の子孫は、江戸幕府・喜連川藩を通じて、現代まで続いている

・尊氏の性格は、度量が広く、無欲で勇敢だったらしく、部下に非常に慕われた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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