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足利尊氏の家系図と子孫の現在を解説!足利尊氏の先祖は誰なの?

鎌倉幕府を倒し、室町幕府を開いた武将・足利尊氏の子孫は現在も続いているのでしょうか?

足利尊氏の子孫は、今でも続いているのか?

そして、足利尊氏の先祖は、誰なのかをわかりやすく解説いたします。

天下を取ることが出来た理由は「性格が良かったため」だったようです。

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 足利尊氏は、室町幕府の初代・征夷大将軍にして、鎌倉幕府を滅ぼした武将の一人
  2. 足利尊氏の子孫は、今でも続いている。現当主は足利浩平氏
  3. 足利尊氏の先祖は、源義家とその子・源義国という人物。
  4. 尊氏は、度量が広く度胸があったため、全国の武士たちから非常に慕われた

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目次

足利尊氏の【家系図と子孫】

足利尊氏の子孫は、現在【足利浩平】さんというお方です。

足利尊氏の子孫は、今に続いています。

明治時代には子爵という爵位を持つ名家であり、現在は足利浩平さんという方が足利家の当主をなさっておられるようです。

足利浩平氏の前当主で、伯父に当たる足利惇氏あつうじさんは、5代目東海大学学長を務めたお方で、1974年に亡くなっておられます。

さて、尊氏からの家系図なのですが、足利浩平氏は、尊氏の四男・足利基氏もとうじの子孫です。

足利家は、江戸幕府・喜連川きつれがわ藩を立藩した際に、喜連川という苗字に代わっています。

しかしその後、明治維新後に足利の姓に戻しているのです。

【足利将軍家の家系図】 クリックで拡大できます


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以下の系図は、足利尊氏から現代の足利家当主・足利浩平さんまでを順に記したものです。

その下が、初代将軍・足利尊氏から、最後の室町将軍である15代将軍・足利義昭までの系図です。

見にくいですが、お許しくださいませ。

名前が切れている12代将軍は、足利義晴です。

【足利尊氏の家系図】 クリックで拡大できます

「足利尊氏」→「足利基氏」(鎌倉公方かまくらくぼう)→「満兼」→「持氏」→「成氏」(古河公方こがくぼう)→「政氏」→「義明」(小弓公方こゆみくぼう)→「頼純」→「喜連川頼氏」(下野・喜連川藩・初代藩主)→「義親」→「尊信」→「昭氏」→「氏春」→「茂氏」→「氏連」→「彭氏」→「熙氏」→「喜連川縄氏」(足利縄氏、明治に足利姓へ改姓して「足利縄氏」と名乗る)→「足利聡氏」→「足利於菟丸(おとまる)」→「足利惇氏」(元・東海大学学長)→「足利浩平」(現在)

どうやら喜連川藩は5千石程度の小さな藩だったようです。

藩とは1万石以上の国をいい、それ以下は旗本というのが常です。

しかし喜連川は名門・足利家の流れを組んでいるので、徳川家康は特別に5千石でも藩として認めたといわれています。

徳川家康
引用元ウィキペディアより

この喜連川藩は、そのまま存続し、明治をむかえました。


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足利尊氏とは【何した人】なの?

足利尊氏あしかがたかうじとは、源氏の名門・足利家の当主であり、鎌倉幕府かまくらばくふを滅ぼし、室町幕府むろまちばくふを開いた人物です。

足利尊氏
引用元ウィキペディアより

源頼朝の妻・北条政子の一族である北条家が支配していた鎌倉幕府の部下、いわゆる御家人ごけにんの一人だった足利尊氏。

当時、北条一門のトップだった北条高時ほうじょうたかときの悪政で、御家人たちは幕府に不満を抱くようになっていました。

しかも京都では、後醍醐天皇ごだいごてんのうが倒幕のために挙兵していました。

さらに名将・楠木正成たちが後醍醐天皇に同調して、鎌倉幕府に戦いを挑んできたのでした。


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鎌倉幕府は、一度は後醍醐天皇を打ち破りました。

天皇を隠岐島に流罪としましたが、隠岐を脱出した後醍醐天皇は、再び挙兵します。

後醍醐天皇の挙兵に協力したのが、鎌倉幕府の御家人だった足利尊氏と新田義貞です。

鎌倉幕府の御家人だった足利尊氏と新田義貞は、幕府を裏切って、北条一族に戦いを挑みます。

足利尊氏は京都・六波羅探題ろくはらたんだいを攻撃。

同時に新田義貞は、鎌倉を襲撃。

源頼朝が開き、平氏の一族である北条家に奪われながらも約141年続いた鎌倉幕府は、新たなる源氏の棟梁である足利尊氏の手で滅亡したのです。

ところが、鎌倉幕府に代わって行われた後醍醐天皇の政治【建武けんむ新政しんせい】は、独裁的で問題の多い制度だったため、武士たちは急速に失望させられます。


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土地を無理やり奪われるなどの悪政をおこなう後醍醐天皇に対して、武士たちは激怒します。

激怒した武士たちは、源氏の棟梁たる足利尊氏を筆頭つまり盟主に祭り上げます。

尊氏は、後醍醐天皇と戦うことになるのです。

→→→→→【足利尊氏と後醍醐天皇が戦った理由】についてくわしくはこちら

もともと後醍醐天皇に、異常なまでの忠誠心を抱いていた足利尊氏も、武士たちに担ぎ上げられ、逃れられなくなっていました。

→→→→→【足利尊氏と後醍醐天皇の仲】についてくわしくはこちら

後醍醐天皇は足利尊氏に敗北し、天皇の座を追われ、光明天皇こうみょうてんのうが即位。

しかし後醍醐天皇は、吉野へ逃亡。

そこで天皇を自称したため、京都と吉野に二人の天皇が存在する異常事態が発生するのです。

この北の京都と南の吉野に、二人の天皇が存在するこの時代を、南北朝時代なんぼくちょうじだいと呼びます。

その後、後醍醐天皇が病気で亡くなり、後を継いだ後村上ごむらかみ天皇が戦闘を継続したため、南北朝の動乱は泥沼化。

足利尊氏は、征夷大将軍となって室町幕府を開くこととなりますが、尊氏は南北朝の動乱が終わる前に亡くなります。

尊氏の死後も続いた南北朝の動乱は、尊氏の孫で、室町幕府3代将軍である足利義満よしみつの時代にやっと南北朝合一なんぼくちょうごういつがなされて終焉するのです。


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足利尊氏の【先祖】は誰?

足利尊氏の先祖は、源義家みなもとのよしいえという武将の息子で、源義国みなもとのよしくにという人です。

もともと足利家は、源氏の血を引く一族なのです。

前九年の役と後三年の役という、奥州での戦乱で活躍した源義家は、【天下第一の武勇の士】と呼ばれるほど伝説的な武将です。

その源義家の息子・源義親みなもとのよしちかの血を引く子孫が、鎌倉幕府を開いた源頼朝みなもとのよりともです。(頼朝は義家の孫の孫にあたる)

源頼朝
引用元ウィキペディアより

一方、その源義家の息子で、源義親の弟にあたる源義国を先祖としているのが、足利尊氏なのです。

つまり、源頼朝と足利尊氏は、同じ源義家の子孫というわけです。

また、鎌倉幕府を滅亡させるため、足利尊氏と一緒に戦った新田義貞も、源義国の子孫です。

新田義貞
引用元ウィキペディアより

新田義貞は、難攻不落の要塞・鎌倉を滅亡させるため、海に太刀を投げ入れて海の水を引かせるという奇跡を起こして勝利したとされています。

→→→→→【新田義貞の奇跡】についてくわしくはこちら


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足利尊氏は【性格が良かった】ため、征夷大将軍になれた

足利尊氏はカリスマ性があり、人々からとてつもない人気がある人物だったため、武将たちの指示を集めて征夷大将軍にまつりあげられたと考えられています。

足利尊氏は、非常に人徳のある武将、つまり人々から愛される武将だったといわれています。

物欲がまるで無いため気前が良く、心が広くて優しく穏やかな性格。

しかも死を恐れない勇気を持っていたため、家来たちから非常にしたわれたのだとか。

そのため部下たちは【この人を敗北させてはならない】と、必死になって尊氏を補佐したといわれています。

おそらく、自ら部下を率いるタイプではなく、味方にまつりあげられて集団の力を引き出すリーダーだったのでしょう。

その性格のために、将軍になれたと考えられます。

以下に、尊氏の性格を表すエピソードをご紹介いたします。


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尊氏を守るために落とした「マゲ」

足利尊氏の部下たちは、尊氏を守るために、全員そろって武士の証ともいうべきマゲを切り落としたといいます。

中先代なかせんだいの乱で【逃げ上手の若君】こと北条時行ほうじょうときゆきに鎌倉が攻め落とされた際、足利尊氏は窮地におちいりました。

鎌倉から逃亡した弟・足利直義ただよしや、息子・義詮よしあきらを救うため、援軍として出陣しようとした尊氏でしたが、後醍醐天皇から出陣の許可が出ません。

そこで尊氏は、後醍醐天皇の命令に反して、勝手に京都から鎌倉へ出陣。

その後、尊氏は京都に戻ること無く、関東で武家政権を樹立する構えを見せました。

それに激怒した後醍醐天皇は、足利尊氏討伐の綸旨りんじ(天皇の命令)を発し、新田義貞を討伐軍の大将に任命。

足利尊氏は、尊敬していた後醍醐天皇と戦いたくはないと主張し、部下たちが止めるのも聞かず、いきなり出家。

新田義貞に敗北して、命の危機にひんした弟・直義を助けるため、やむなく出陣。

その時、尊氏はマゲを切り落としていたため、武者の中にいると非常に目立ち、標的にされかねない状況でした。

これをみた部下たちは、尊氏を目立たせないために、全員がマゲを切り落としたのだとか。

以下の画像は、マゲを切り落としたざんばら髪の高師直こうのもろなおです。

高師直は、足利尊氏の側近中の側近で、のちに尊氏の弟・足利直義に殺される運命にあります。

高師直
引用元Wikipediaより

→→→→→【高師直の最期と死因】についてくわしくはこちら


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尊氏は後醍醐天皇を本気で尊敬していた

足利尊氏は、自らを引き立て、寵愛してくれた後醍醐天皇を本気で崇拝していました。

尊氏が、全身全霊をかけて戦うこととなった宿敵は、あろうことか尊氏が崇拝していた後醍醐天皇でした。

足利尊氏を引き立て、倒幕軍を率いた尊氏の主君それが後醍醐天皇です。

敵味方に別れ、南北朝の動乱で戦う運命となっても、尊氏は後醍醐天皇を尊崇していました。

一般的に、後醍醐天皇を裏切った足利尊氏は、後醍醐天皇に対して良からぬ心を持っていたと考えられていますが、それは違います。

尊氏は本気で、後醍醐天皇を崇拝し、尊敬していたのです。

ところが、弟や部下やその他全国の武士たちに、後醍醐天皇と戦うことを迫られ、断りきれずに戦うしかなくなったのです。

尊氏は後醍醐天皇が亡くなったときには、後醍醐天皇の宿敵・光厳上皇こうごんじょうこうに頼み込んで、その菩提ぼだいとむらう許可をもらいます。

更には、後醍醐天皇の菩提を弔うため、京都・嵐山に天龍寺てんりゅうじを建立しています。

天龍寺の庭

敵にまで情けをかける度量の広さが、尊氏にはありました。

実際に尊氏は、一度は敵になった武将に対しても、降参すれば基本的に許しています。


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宿敵・楠木正成への情け

足利尊氏は、打倒鎌倉幕府で共闘したものの、湊川みなとがわの戦いで戦い討ち取った名将・楠木正成くすのきまさしげに対して、とても情け深い対応をしています。

尊氏は湊川の戦いで、兵法の達人【楠木正成】を打ち破っています。

楠木正成
引用元ウィキペディアより

この時、戦場のならいとして、討ち取られた楠木正成の首は、首札くびふだをつけられて京都・六条河原にさらされました。

しかし、さらされた首は、見物人の目に止まった瞬間、あっという間に僧侶たちが持ち去り、供養くようしたと言われています。

おそらく尊氏の命令だったのでしょう。

正成の首を観た人は、ほとんどいなかったといわれているほどです。

この楠木正成の首は、尊氏の命令で丁重に扱われ、正成の故郷・河内国かわちのくににいた息子・正行まさつらのところへ送られました。

正成と尊氏は、敵味方に別れたとはいえ、一度は北条一族を敵として一緒に戦った仲です。

尊氏としては、敵視することは出来なかったのでしょう。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 足利尊氏とは、室町幕府初代将軍にして、後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府を滅ぼした人物
  2. 尊氏の子孫は、江戸幕府・喜連川藩を通じて、現代まで続いている
  3. 尊氏の性格は、度量が広く、無欲で勇敢だったらしく、部下に非常に慕われた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。


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