【公武合体とは】尊皇攘夷や倒幕との違いを世界一わかりやすく解説

幕末の日本史でよく目にする言葉「公武合体」

その意味を、世界一わかりやすく解説いたします。

「尊皇攘夷」「倒幕」という言葉との違いを比較してみました


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この記事を短く言うと

・公武合体とは、「朝廷と幕府」が協力して日本を守ろう・・・という思想のこと

・公武合体と尊皇攘夷・・・・双方ともに「外国に対する」という意味では同じ。倒幕とは、尊皇攘夷派が考えたもので「弱い幕府という組織を倒そう」という思想

・「参預会議」「四侯会議」を潰された薩摩藩主の父「島津久光」が、徳川慶喜に激怒して「倒幕」へと方針転換した


公武合体とは何か?分かりやすく解説

公武合体とは何か?

簡単に言ってしまうと「公武合体」とは

「公家(朝廷)と武家(江戸幕府と全国の藩)が協力して、日本全国が日本を守るために協力する体制」

幕末の日本は「外国勢力」の圧力を受けて、存亡の危機を迎えていました。そのため、朝廷と幕府が協力して国難に当たらなくてはならない・・・と考えられていたのです。

公武合体・・・・理解するためには、この思想が生まれた当時の政治状況を解説しないといけません。


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幕末の日本を統治していたのは徳川家康が開いた「江戸幕府」でした。

家康の子孫が代々「将軍」を務め、今でいう内閣総理大臣を務めていたのです。それを補佐していたのが「老中」と呼ばれる・・今でいう「閣僚」たち

つまり当時の江戸幕府は、将軍をトップとして4~5人の老中が協力して政治を行う体制が整えられていたのです。徳川家康の子孫でなくては「将軍」になることはできないわけですが、通常であれば幕府という組織の中で頑張って出世していたとしても「老中」で終わりです。

その上に「大老」という職があるにはありますが、「臨時職」なので緊急事態にしか任命されることはありません。

「老中」になることができるのは「譜代大名」または「徳川」の血を引く「一族」のみ・・。外様大名は「老中」になれません

家康の親族である「松平」姓を名乗る大名、または「1600年・関ヶ原の戦い」以前に徳川家康の家来となった「譜代大名」だけが「老中」になれた・・・つまり日本国の政治(幕政)に参加できたのです。

これに不満を持ったのが「関ヶ原の戦い」以後に徳川家の家来となった「薩摩藩」や「長州藩」などの「外様大名」たち。


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外様大名の不満は、「政治に関与したい」「我々の手で日本をさらに良くしたい」という形で高まり続け、「黒船来航」で頂点に達します。

黒船が来航したことで、日本は大混乱。弱腰外交を繰り返して不平等条約を締結し、日本の国益を次々損ねました。これに怒った外様大名たちは幕政への参加を志して活動を開始。

この時、彼らが考え出した「外様大名が政治に介入できる方法」が「公武合体策」でした。

外様大名にとって「公武合体」とは、つまり「挙国一致」・・・・それは「朝廷・天皇」と「幕府」が協力する・・というだけではなく、全国の外様大名も含む諸藩も、朝廷と幕府に協力して、一緒に日本の政治を行い、日本をさらによりよくする・・・ということなのです。

外様大名とは「薩摩藩」「長州藩」「土佐藩」「肥前藩」など。

譜代大名とは井伊直弼の「彦根藩」や、松平春嶽の「福井藩」、松平容保の「会津藩」、そして御三家と呼ばれる「尾張」「紀伊」「水戸」の徳川分家など。

「公武合体」は、日本全国の藩や幕府・朝廷が協力して日本を守ろうという、あくまでも平和的な思想。

1861年の「和宮降嫁」・・・つまり14代将軍「徳川家茂」に、「孝明天皇」の妹「和宮」が嫁いだのも、「公武合体」のための工作の一つです。「朝廷と幕府は協力体制にある」ということを強く印象付けるための作戦。

この「公武合体」に敵対する思想が「尊皇攘夷」・・・尊皇攘夷は、公武合体に比べてかなり過激な思想です。


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公武合体と尊皇攘夷、倒幕の違い

公武合体の反対の思想が「尊皇攘夷」なわけですが、公武合体と尊王攘夷は何が違うのか?

そして「倒幕」というのは、どういう意味なのでしょうか?

「尊皇攘夷」というのは

「日本の天皇を祭り上げ尊んで大切に守り、外国勢力を武力で打ち払う」

という思想。

武力で打ち払うのですから、かなり過激な思想です。

この「尊皇攘夷」・・・・・日本にペリー率いる黒船が来航し、その圧力に屈して「日米和親条約」や「日米修好通商条約」を締結した頃から盛り上がった思想でした。

日米修好通商条約で、日本は不平等条約を締結させられ、それに不満を持った日本人は「外国人を武力で追い払うべきだ」と考え始めます。

ところが、幕府は外国人を打ち払おうとしません・・・・。これに国民・武士は不満を覚えます。

「日本がなめられて国益を次々と損ねているにもかかわらず、外国人を追い払わないなんて・・・幕府は腰抜けなのか?」

「外国勢力を打ち払わない腰抜けな江戸幕府に、日本の政治を任せてはおけない」

尊皇攘夷派は、そのように考え、「倒幕」を志すようになるのです。

つまり「倒幕」とは、尊皇攘夷派が、「攘夷(外国勢力を武力で打ち払う)」をしない「江戸幕府」に不満を持ち、そんな幕府を倒そうとした考えのことです。


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実は幕府が弱かったのではなく、外国勢力が強すぎたために「攘夷」など不可能だったのですが、攘夷派の武士たちはそんなこと知らないので幕府の弱腰を「仕方ない」とせず批判しまくったのです。

『尊皇攘夷派』の人物といえば、土佐藩「武市半平太」「中岡慎太郎」、小浜藩「梅田雲浜」、長州藩「吉田松陰」とその義弟「久坂玄瑞」、門弟「高杉晋作」など。

『公武合体派』といえば、「孝明天皇」、土佐藩「坂本龍馬」。または薩摩11代藩主「島津斉彬」もまた「公武合体派」でした。

「尊皇攘夷派」の藩といえば、「長州藩」

「公武合体派」の藩はというと「会津藩」や「福井藩」

「薩摩藩」は???というと、当初は「公武合体派」でしたが、後に「倒幕」へと方針を大転換しています。

「尊皇攘夷派」は、1863年の「八月十八日の政変」で、尊皇攘夷派の急先鋒「長州藩」が京都から追い出されたことで衰退。尊皇攘夷派の土佐藩士「武市半平太」も、「八月十八日の政変」直後に捕らえられて切腹させられています。


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島津久光が、公武合体思想を終わらせた

薩摩藩は11代藩主「島津斉彬」の代では「公武合体派」・・・つまり挙国一致体制を志す藩でした。

しかし斉彬が亡くなり、弟「島津久光」が薩摩藩の実権を握ると、徐々に思想が変わってきます。

久光は当初「公武合体」を目指していました。兄「斉彬」の意志を継いだのです。

そして公武合体(挙国一致)を実現するために、それまで国の政治(幕政)に関与することが禁じられていた外様大名(関ヶ原の戦い以後に徳川の家臣となった大名)に政治介入ができるシステムを、かなり強引に作り上げます。(文久の改革)

「参与会議」「四侯会議」などのシステムを作り上げ、外様大名も政治に関与できるようにしたのです。おそらくこれら外様大名が政治に介入できるシステムを考え出したのは「大久保利通」が考えたものでしょう。

しかしこのシステムは、どちらも「徳川慶喜」によって妨害され、失敗に終わります。


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「外様大名」の政治介入を阻止された久光は激怒。久光は、幕府と「徳川慶喜」を倒さなくては政治に介入できないと、考えを改めます。「公武合体」から「倒幕」へと方針を大転換するのです。

「四侯会議」が設置される前年、1866年に締結されていた「薩長同盟」を利用して、倒幕を成し遂げようとします。

この「四侯会議」がつぶされた翌年の1868年、薩長は「鳥羽伏見の戦い」「戊辰戦争」で江戸幕府を完全に終わらせ、明治維新を達成。

公武合体(挙国一致体制)は、島津久光が「公武合体派」から「倒幕」へと方針転換をしたことがきっかけで、終焉を迎えることとなったのです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・公武合体とは、朝廷と幕府、全国の藩が協力して日本を守る、という思想のこと

・尊皇攘夷とは、「天皇を守って外国勢力を武力で打ち払う」という思想であり、「倒幕」とは弱い「幕府を倒して新しい組織をつくろう」という思想のこと

・公武合体は、島津久光が「倒幕」へ方針を転換したことで実質的に終わった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


島津久光」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

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