幕末・・・「薩長・新政府軍」と「旧幕府軍」の間で行われた「戊辰戦争」
その勝敗を決したのは、一つの「旗」・・すなわち「錦の御旗(にしきのみはた)」だったと言われています。
なぜ「旗」一つで勝敗がきまってしまったのか?
「錦の御旗」の意味が簡単に理解できるように、わかりやすく解説いたしました
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この記事を短く言うと
錦の御旗とは何?
錦の御旗
「薩長・新政府軍」と、「旧幕府軍」がぶつかったこの戦い。
そこには、有名な一つの見せ場があります。
「錦の御旗」・・・・薩長軍が、この旗を持って旧幕府軍の前に現れ、旧幕府軍が逃亡するシーンです。
この旗を持つものは、「天皇の軍」つまり「官軍」であるということを意味します。
つまり「錦の御旗」とは、「天皇が、自らの軍であると認めた者たちに対して与えた旗」
「錦の御旗」を持つものは「朝廷軍」「官軍」「天皇の軍」ということ。この「官軍」に対する敵は「賊軍(朝敵)」ということになります。
「鳥羽・伏見の戦い」において、この「錦の御旗」をみた旧幕府軍の兵士たちは驚きます。
旧幕府軍は、自分たちが「賊軍」「朝敵(朝廷・天皇の敵)」となってしまったことに驚き、一気に戦意を失って逃亡を開始。徳川慶喜もまた、家来たちを置いて、江戸へ逃亡。
「錦の御旗」の絶大な威力によって、薩長・新政府軍は勝利したのでした。
戊辰戦争における「錦の御旗」の効果とは?
どうして旧幕府軍は、これほどまでに「錦の御旗」を恐れたのか?
当時「旧幕府軍」にいた方々は「武士」階級の人達です。つまり、かなりのレベルの教育を受けて育った人たちということ。彼らは歴史を学んでいます。
「朝敵」「賊軍」・・・・歴史上「朝敵」「賊軍」となった人物は数多くいます。
「平将門」「源義経」「藤原泰衡」「武田勝頼」などなど。彼らの共通点は、全員が「滅亡」しているということ。
幕末、「鳥羽・伏見の戦い」の直前には「長州藩」が「禁門の変」で朝敵とされ、散々な目にあっています。
つまり当時の常識として
「朝敵・賊軍 = 滅亡 or 大敗」
という認識が武士たちにはあったのです。
確かに、歴史上「北条義時」や「足利尊氏」「大内義興」のように、戦に勝利して朝敵の汚名を返上したものも、いるにはいます。例えば「長州藩」も、「禁門の変」で一時的に「朝敵」とはなったものの、「鳥羽・伏見の戦い」で「官軍」になっています。
しかしそれはごく一部。「朝敵の汚名返上」は、至難の業なのです・・・。
当時の武士からすれば、「朝敵」とは、「絶対に滅亡する」ことを意味していたのでしょう。朝敵とはすなわち「天皇の敵」・・それはすなわち「日本全体の敵」を意味するのですから。
錦の御旗を前にして、「旧幕府軍」が総崩れとなったのも無理はありません。
今で例えるなら、「錦の御旗」を敵とすることは
「公衆の面前で、警察や自衛隊を相手に、銃器を使って戦いを始める」
ようなものでしょうか。これで裁判により「逆転無罪」を勝ち取り、「汚名返上」は至難の業です。
上手に例えられていませんが、とにかく「賊軍」となるということは、「全国指名手配」を受けた「犯罪者」になるよりも、遥かに大変なことなのです。
実は岩倉具視のブラフだった!
鳥羽・伏見の戦いで「薩長軍」が持ってきた「錦の御旗」・・・実は「岩倉具視」が持ち出した「偽物」だったというのは有名な話です。
薩摩の「大久保利通」や、長州藩の「品川弥二郎」(吉田松陰の弟子)が、天皇の許しもなく、勝手に「錦の御旗」を作って戦場に持ち込んだのだとか
「勝てば官軍」・・・・まさにこの言葉通り、岩倉具視は「鳥羽・伏見の戦い」に勝利することで、天皇から本物の「錦の御旗」を賜っています。
勝ってしまえば大義名分はあとからついてくる。江戸でゲリラ活動をしてまで、幕府軍を戦争に引きずり込んだ「西郷隆盛」、ニセの「錦の御旗」などなど。
なんとしてでも「徳川慶喜」を倒そうとする執念が感じられます。
『錦の御旗』について「ひとこと」いいたい
慶喜が「錦の御旗」を恐れた理由
「錦の御旗」を極端に恐れた人物がいました。「徳川慶喜」です。
先程申しましたように、「賊軍」「朝敵」となっても、戦いに勝利することで、逆に「官軍」となった例はいくらでもあります。
「長州藩」しかり。「北条義時」しかり。
特に「足利尊氏」なんかは「後醍醐天皇」から「朝敵」とされながらも、天皇の官軍と戦い勝利。名将「楠木正成」を討ち果たしています。
「鳥羽・伏見の戦い」で敗北したとはいえ、旧幕府軍は圧倒的な軍事力を持っていました。薩長軍と再戦すれば勝利できたはずです。
しかし「錦の御旗」を持ってきた「薩長・新政府軍」に対して、徳川慶喜は一気に戦意を喪失。
なぜか?
なぜ徳川慶喜は「錦の御旗」を前にして戦意を喪失したのか?戦えば絶対に勝てるのに・・。
その理由は「徳川慶喜」が「水戸藩出身」だから。
「水戸藩」は、徳川家康の末裔。徳川家の分家。
「水戸徳川家」は「尊王思想」の強い家柄なのです。つまり、「水戸徳川家」は「天皇」に対して極端に忠誠心が強いのです。
そんな家で「徳川慶喜」は育ちました。慶喜は父「徳川斉昭」から、こんなふうに教え込まれて育ったはずです。
「天皇陛下は、とてもとても偉い。
そんな天皇に逆らうなんて、とんでもないことだ」
と・・・。
小さい頃から叩き込まれてきた「天皇の尊さ」・・・。
その尊く偉い「天皇」が、「鳥羽・伏見の戦い」で徳川慶喜に襲いかかってきたのです。それはそれは恐ろしかったはずです。
「徳川慶喜」は名君か?バカ殿か?
「徳川慶喜」は、鳥羽・伏見で敵前逃亡し、旧幕府軍の武士たちを見捨てたように見えます。
しかし、実際には慶喜が逃げたことで旧幕府軍は、慶喜や松平容保ら、一部のみを「朝敵」とするだけで済んでいます。
慶喜・・・逃亡したのは家来たちが「朝敵の汚名」を受けないようにするための、家来たちへの最大限の配慮だったのかもしれません。
また、この敵前逃亡と勝海舟による「江戸城無血開城」のおかげで、日本国内での内乱を未然に防ぎ、諸外国の介入を招かずに済みました。
慶喜は「幕府のトップ」としては、敵前逃亡したので失格かもしれません。しかし「日本のトップ」としては「内乱を防いだ」ということで、結果を出した有能なトップなのではないでしょうか。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 『錦の御旗』とは、それを持つ者が「天皇の軍」「官軍」を意味する代物のこと
- 「錦の御旗」を目の当たりにした「旧幕府軍」は、朝敵となって敗北することを恐れ、崩壊した
- 「水戸藩」で育った「徳川慶喜」は、天皇への忠誠心が強く、朝敵となることを極端に恐れていた
以上となります。
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