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【倒幕運動とは】わかりやすく解説!なぜ倒幕派が誕生したのか?

幕末の歴史上、よく耳にする言葉「倒幕(とうばく)」とは、何を意味している言葉なのか、ご存知ない方にこの記事は役立つはずです。

「倒幕」とは「江戸幕府という古い国家を倒して、新しく強い国家をつくろう」という考えのことです。

この「倒幕」は将軍「徳川慶喜」と薩摩藩主の父「島津久光」という二人の人物の対立が原因で盛り上がっていきます。

この記事では「倒幕」の意味や原因、その後の流れを、わかりやすく簡単に解説いたします。

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・倒幕とは、武力で「幕府」を倒し、新しく強い統治機構(政府)をつくろうという運動のこと

・倒幕派誕生のきっかけは「徳川慶喜」が、「島津久光」の政治介入を阻止したことがきっかけだった

・徳川幕府は、西郷隆盛勝海舟の「江戸城無血開城」によって消滅した


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目次

倒幕運動とうばくうんどうとは?わかりやすく解説

まずは「倒幕運動」とは何か見ていきましょう。

そもそも「倒幕」は、

アメリカとの不平等条約「日米修好通商条約」の締結以降、権威を失い弱体化した幕府を倒し、近代的な新しい政府のもと強い日本を作ろうとする思想

を指します。討幕とうばくと書く場合もあります。

このことから、倒幕運動とは『江戸幕府を倒し、新しい政治体制を作るための運動』といえます。



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当時、日本にはさまざまな思想が根付いていました。

天皇を敬い、外敵を追い払う「尊皇攘夷」や、幕府を補佐する「佐幕」などです。

ここで注意していただきたいのは、必ずしも尊皇=倒幕ではないことです。

つまり、佐幕派も攘夷派と同様に、「尊皇」の考えを持っていたのです。

ちなみに、佐幕派が持つ尊皇の考えを「公武合体」と呼んでいます。

倒幕運動が成功した明治維新において、よく勘違いされるのが「攘夷派vs佐幕派」ですが、あくまでも「倒幕派」と「佐幕派」の権力争いを指しています。



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なぜ倒幕運動が起こったのか?倒幕までの流れをわかりやすく解説

倒幕が始まった原因の一つに、将軍・徳川慶喜と薩摩藩の権力者・島津久光の関係があげられます。

ここで、島津久光は最初「公武合体」の考えを持つ人物だったことを覚えておきましょう。

関ヶ原の戦い以降、幕府政治に参加できたのは、徳川家一族の大名と関ヶ原以前から徳川家の家臣であった譜代ふだい大名だけでした。

島津家は関ヶ原後に徳川家に臣従した「外様大名」であったため、幕政に関与することはできなかったのです。

そこで、島津久光は外様も含めた諸大名が幕政に関われるようにするため、1862年に兵を率いて江戸に上り、幕府に対して軍事的圧力をかけました。

この結果、諸大名が朝廷の会議に参加するための政治制度「参預会議さんよかいぎ」が新たに設置されることになりました。

久光が行なった軍事的圧力は、あくまでも朝廷と幕府が協力し合う関係を築く「公武合体」を目指した行動の一つに過ぎません。

しかし、この行動は将軍後見職に就いていた徳川慶喜や幕府関係者に対して、良い印象であったとはいえません。

慶喜は、外様大名・島津久光の政治介入を強く嫌ったのです。

しかも参預会議最大の議題となった「横浜港開港・鎖国問題」で慶喜と久光が対立、さらに、慶喜が酒に酔った勢いで久光を「愚物ぐぶつ」と罵倒したことで、二人の関係は急速に悪化していきました。

ついには幕府への協調姿勢を諦めた久光が参預会議から脱退し、その後慶喜も参預を辞職したことで、参預会議体制は崩壊してしまいました。

参預会議が崩壊したことで、薩摩藩・島津家のような外様大名が、政治に参加する手段が失われたのです。

これに激怒した「島津久光」と薩摩藩は、徳川慶喜を倒すべく「公武合体(佐幕)」から「倒幕」へと、方針転換を果たすのでした。

つまり、薩摩が政治に参加できないのなら【幕府を倒して自分で政治をやってやろう】、と島津久光は考えたのです。

これが倒幕運動が始まった原因です。



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「幕府」の終わりを意味する「江戸城無血開城」について

島津久光が倒幕派へ傾いたことにより、江戸幕府崩壊への歯車が動き始めました。

薩摩藩は同じく倒幕派の長州藩と手を結び、さらに朝廷より徳川慶喜討伐の詔である「倒幕の密勅」を手に入れます。

薩摩藩はもともと幕府を助けようと考えていたので、長州藩とは敵対していました。

しかし薩摩藩が倒幕派へ方向転換したため、長州藩と目的が一致したのです。

その一方で、倒幕の動きが激しくなってきたことを察したのか、15代将軍となっていた慶喜は自ら政権を朝廷に返還する「大政奉還」を行いました。

これにより、名目上、江戸幕府は消滅。

せっかく手に入れた「討幕の密勅」は何の意味も持たぬものとなってしまったのです。

今に例えていうならば大政奉還とは、内閣総理大臣を辞めさせようとデモをやろうとしたら、内閣総理大臣が辞職したので、デモをする必要が無くなってしまったようなものです。

しかし、実際は未だ旧幕府が政権を担っている状態であり、西郷隆盛ら薩摩藩は「王政復古の大号令」を発するなど、旧幕府側を挑発。

鳥羽・伏見の戦い、その後の戊辰戦争を起こして、完全な幕府消滅を画策します。

鳥羽・伏見の戦いで「錦の御旗」を目にした徳川軍は瓦解。徳川慶喜が離脱すると、幕府軍は総崩れ。

江戸へと逃げ出した慶喜は、江戸城にて籠城を行いました。

その後、薩摩軍・西郷隆盛と旧幕府軍・勝海舟の会談が執り行われると、武力を伴わず江戸城を新政府軍へ引き渡すことが決定しました。

いわゆる「江戸城無血開城」です。

これにより、265年続いた「江戸幕府(徳川幕府)」が終わりを告げたのでした。



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「倒幕」について「ひとこと」いいたい

現代において「維新」を口にする人がいます。

しかし、現代日本で「明治維新」のような過激な革命・・・すなわち「レボリューション」「御一新」が起こってはなりません。なぜなら「革命」には「犠牲」が伴うからです。

幕末の日本には「選挙」がなかったため、日本を統治する「幕府」に不満があっても、「政権交代」など不可能でした。

だから「西郷隆盛」や「高杉晋作」「木戸孝允」らは、「武力討幕」を実現しようとしたのです。

今の日本には「選挙」があります。「明治維新」や「幕末志士」に憧れて、わざわざ過激なことなどする必要はないはずです。もしも江戸時代に「選挙」があったら、西郷隆盛も坂本龍馬も、歴史の英雄として名を刻むことはなかったでしょう。彼らは喜んで選挙に行ったはずです。

「日本にとって有益ではない政権」だと判断したら「選挙」でNOを突きつければよいだけ。

「明治維新」という歴史の教訓を、間違って判断してはならないのではないでしょうか。

失敗を犯さぬよう、歴史に学ぶことはたくさんあるのではないでしょうか



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まとめ

いかがでしたでしょうか。

本日の記事をまとめますと

以上のことから、倒幕運動のポイントは、

・「倒幕運動」は江戸幕府を倒して新しい政治体制のもとに、強い日本を作ろうとする運動のこと。

・「参預会議」による徳川慶喜と島津久光の対立で、久光が倒幕派へ転身した。

・倒幕運動が激化し鳥羽・伏見の戦いが勃発し、最終的に「江戸城無血開城」により江戸幕府は崩壊した

といえるでしょう。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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