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井伊直弼はなぜ安政の大獄を起こしたの?実は直弼の判断は正しかった

大老「井伊直弼」は、なぜ「安政の大獄」を起こしたのか、わかりやすく解説いたします。

「安政の大獄」・・「吉田松陰」「徳川斉昭」ら「一橋派」を弾圧した事件。

実は「安政の大獄」は「一橋派」の粛清が目的ではなく、「幕府の権威」を守り、内戦を防ぐための、やむを得ない事件だった


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この記事を短く言うと

井伊直弼が「安政の大獄」を起こしたのは、「幕府の権威」を維持するため

・「井伊直弼」の領地「彦根」では、直弼は「名君」として評価されている

・井伊直弼によって処刑された「吉田松陰」もまた、直弼を「名君」と呼んで評価していた

・直弼の判断は、ほとんど正しかったのではないか


安政の大獄を起こした理由!『ただの弾圧』ではなかった

安政の大獄・・・・1858年~1859年まで続いた弾圧事件

この弾圧事件を起こしたのが、当時の江戸幕府・大老「井伊直弼」

「引用元ウィキペディアより」

「安政の大獄」は、1860年3月3日の「桜田門外の変」で「井伊直弼」が暗殺されるまで続きます。

さて、どうして井伊直弼は「安政の大獄」を引き起こしたのか?

まずは当時の政治状況について、「アメリカからの通商条約における圧力」と「将軍後継問題」があった点について解説させていただきます。



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当時の政治状況「アメリカの圧力」と「将軍後継問題」

当時、日本は2つの難題を抱えていました。

「アメリカからの通商条約における圧力」と「将軍後継問題」

「アメリカからの圧力」とは、1854年に「日米和親条約」を締結したアメリカが、今度は「日米修好通商条約」を締結するようにと圧力をかけてきた一件。

「将軍後継問題」とは、病弱で、いつ亡くなってもおかしくない13代将軍「徳川家定」の後継者を誰にするか、という問題です。

「日米修好通商条約」

日米修好通商条約とは、つまり「日本とアメリカの間で貿易を行う条約」

アメリカの圧力は強く、これを拒絶したら「アメリカ」と戦争になりかねませんでした。

そのため、日本は「日米修好通商条約」を締結するために奔走。

しかし難題が1つありました。それは「日米修好通商条約」を締結するためには「孝明天皇」が出す『許可』が必要であったこと。しかし「孝明天皇」は異国人が嫌いで有名だったのです。

案の定、許可は下されず・・・・・井伊直弼は、独断で、孝明天皇の許可を得ること無く「条約」に「調印」してしまったのです。



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「将軍後継問題」

もう一つの問題「将軍後継問題」

当時、日本は諸外国からの圧力にされ、非常に苦しい立場でした。

そんな中で、トップは病弱で愚鈍と噂の「徳川家定」。彼はいつ亡くなってもおかしくないほど病弱な人だったのです。

そのため、幕府重役たちは、次の将軍を誰にするかで、意見が真っ二つに割れていました。

この難局を乗り越えられるように「能力第一主義」で、優秀と噂されていた「一橋慶喜」を推す「一橋派」

そして「血統」を重視して、紀州藩「徳川慶福」を推す「南紀派」が争っていたわけです。

井伊直弼は「南紀派」でした。彼は強引に、次の14代将軍後継者を「徳川慶福」に決めてしまいます。



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「安政の大獄」が起こる前の「戊午の密勅」

日米修好通商条約を勝手に締結したことに激怒した「徳川斉昭」「松平春嶽」たちは、江戸城に登って井伊直弼に抗議

すると井伊直弼は「許可も得ず、勝手に江戸城に登った罪」をあげて、「徳川斉昭」や「松平春嶽」を弾圧。

これが「安政の大獄」の始まりと言われています。

しかし、本格的な「処刑」や「流罪」の嵐が起こる前に、1つの事件が起こるのです。

それが「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」

これは何か?というと、孝明天皇が「水戸藩」に出した「秘密の命令」のこと。

戊午の密勅・・・その内容をまとめると、以下の3つになります

1,日米修好通商条約を締結したことへのお説教と、締結について詳細に解説せよ

2,徳川御三家や全国の諸藩は、幕府と協力して「公武合体」を成し遂げ、幕府に攘夷を行うための改革を行うように、という命令

3,以上2つの内容を、水戸藩が諸藩へ伝達せよ

この3つの「勅命(天皇の命令)」が、幕府を通り越して、幕府の下部組織である「水戸藩」へ出されたのでした。

これは幕府の権威を傷つける行為です。

これをそのまま野放しにしては、幕府の命令に従う藩は無くなり、日本はまとまりを欠いて大混乱になりかねません。

そのため井伊直弼は、この「戊午の密勅」に関わった人間を、根こそぎ弾圧するように命令したのです。

小浜藩「梅田雲浜」達は、この「戊午の密勅」に携わった罪で、獄死。その他にも100名近い人間が処刑や流罪となりました。

つまり安政の大獄は、単純に「井伊直弼に逆らったものを弾圧した」のではなく、幕府の権威を失墜させかねない「戊午の密勅」に携わった人間を処罰した事件なのです。

その中には「橋本左内」のような、「一橋慶喜擁立」の動きを見せた人間の処刑も含まれてはいますが、主な理由は「幕府の権威を守るため」

ちなみに「吉田松陰」は、元々「梅田雲浜」について、長州藩での動きを尋ねられただけでしたが、尋ねられてもいない「老中暗殺計画」を自白したため斬首。

吉田松陰は、「戊午の密勅」や「将軍後継問題」とは、あまり関係ない理由で無くなっているのです。



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井伊直弼は独裁者ではなく、名君?

井伊直弼・・・・まるで恐ろしい独裁者として知られていますが、本当にそうなのでしょうか?

実は、「安政の大獄」で亡くなった「吉田松陰」は、井伊直弼を

「名君である」

と評価しています。

彼は井伊家の「14男」として生まれ、養子の先もなかったため、32歳まで『居候』として生活していました。

しかし、井伊直弼はその間も修行を怠らず、学問と武芸に励み続けたのです。

すると、彼の兄たちが次々に無くなり、「彦根藩主」の座が舞い込んできました。

井伊直弼は積極的に「藩政改革」を実行し、領民想いだったことから、「名君」と評価されていたのです。

また、直弼は「日米修好通商条約」を断交したり、「徳川慶福(後の14代将軍・徳川家茂)」を後継者にしたことで、恨まれていることを誰よりも知っていました。

実は「桜田門外の変」が起こる直前、「暗殺計画」を密告するものがいたのです。

にもかかわらず、井伊直弼は警備を増やすでもなく、ルートを変えるでもなく、そのまま暗殺を受け入れます。

挙句の果てには、自らが亡くなったあとの「戒名」まで、自分で考えていました。

既に死を覚悟していたのです。

井伊直弼・・・単純な独裁者ではなく、「名君」だったのかもしれません。



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直弼の判断は正しかった?

井伊直弼が行ったこと

「日米修好通商条約の調印」
「戊午の密勅に対する、安政の大獄」
「徳川家茂擁立」

これらは正しかったのでしょうか?

「日米修好通商条約」に早く調印しなかったら、アメリカと戦争になっていたかもしれません。

「安政の大獄」で「戊午の密勅」に関わった人間を処罰しなかったら、幕府の権威は失われ、日本は大混乱に陥っていたでしょう。

徳川家茂擁立・・・これもまた、「秩序(ルール)を重んじる」なら仕方なかったかもしれません。

井伊直弼・・・彼は「幕府・大老」です。

安政の大獄がなかったら、幕府はもっと早く崩壊していたでしょう。

日米修好通商条約への迅速な調印がなかったら「日本」は、アメリカの攻撃を受けていたかもしれません。

井伊直弼の行動は、「正しかった」と言えるのではないでしょうか。

もちろん・・・・弾圧行為は今の時代の価値観からすると、許されるものではありません。

しかし、安政の大獄で処罰された「松平春嶽」もまた、後に井伊直弼を再評価するような言葉を残しています。

井伊直弼・・・名君と呼んで問題ない逸材なのではないでしょうか。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・井伊直弼が「安政の大獄」を起こしたのは「幕府の権威」をまもり、内乱を防ぐため

・直弼は「名君」として評価されている

・直弼の判断は、概ね正しかったのではないか

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


井伊直弼」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

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「井伊直弼と井伊直虎の関係と家系図を一挙公開!子孫は現在公務員?」の記事はコチラ
「井伊直弼とはどんな偉人か簡単解説!井伊家当主の中で最も優秀だった」の記事はコチラ
「井伊直政の家系図解説!直虎や桜田門で死んだ井伊直弼との関係は?」の記事はコチラ
「井伊直弼の墓所はなぜ東京・豪徳寺なの?彦根・龍潭寺ではない理由は」の記事はコチラ

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