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徳川慶喜とは何をした人?年表で簡単解説【大政奉還と鳥羽・伏見の戦い】

皆さんは徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)を、ご存知でしょうか?

実は徳川慶喜について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

この記事では徳川慶喜を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

今は慶喜について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、最後の将軍・徳川慶喜に詳しくなれます。

この記事を読んで、徳川慶喜についての疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

1,「徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)とは、どんな人なのか?

徳川慶喜は、江戸幕府最後の将軍であり、徳川家康の子孫に当たる人物。

水戸藩主・徳川斉昭の七男で、一橋徳川家へと養子入りした後、江戸幕府・第15代征夷大将軍に就任した人物。

 

2,「徳川慶喜」は、何をした人なのか?

徳川慶喜は、大政奉還江戸城無血開城を実行して、江戸幕府を終わらせた、最後の征夷大将軍。

慶喜は、鳥羽・伏見の戦いで薩摩長州軍に敗北し、部下を置き去りにして敵前逃亡した。

 

3,徳川慶喜の最期とは?

1913年(大正2年)】、慶喜は76歳で亡くなった。

死因は、風邪と肺炎の併発による

徳川慶喜とは、どんな人なの?【プロフィール】

戦国時代に天下統一を成し遂げた武将・徳川家康の子孫「徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)

そのプロフィールは、以下のとおりです

 

  1. 父・徳川斉昭(水戸藩主)
  2. 役職・徳川幕府(江戸幕府)第15代征夷大将軍(日本史上で最後の将軍)
  3. 出身地・東京小石川水戸藩邸(水戸にて養育された)
  4. 幼名・七郎麿
  5. 生年・1837年
  6. 没年・1913年(大正2年)

徳川慶喜
『引用元ウィキペディアより』


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徳川慶喜の年表

  • 1837年徳川慶喜誕生
  • 1853年黒船来航
  • 1858年井伊直弼日米修好通商条約を締結。安政の大獄徳川慶喜が謹慎
  • 1860年井伊直弼桜田門外の変で暗殺。慶喜の謹慎が解除
  • 1864年徳川慶喜が、禁門の変(蛤御門の変)で、長州藩を撃破
  • 1867年徳川慶喜が第15代征夷大将軍に就任。大政奉還により、徳川幕府が形式上消滅
  • 1868年、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)勃発。江戸城無血開城により、徳川幕府が完全消滅。
  • 1869年、戊辰戦争が終結。これ以降、慶喜は隠居
  • 1913年徳川慶喜死去。

 

「徳川慶喜の年表」や「生涯」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。


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徳川慶喜とは、何した人なの?

徳川慶喜がやったことは、大きく分けて3つあります

  • 大政奉還
  • 鳥羽・伏見の戦いにおける敵前逃亡
  • 江戸城無血開城

それぞれ詳しく解説してまいります。

大政奉還とは何か?

大政奉還とは、「幕府が持っていた政治をおこなう権限を、朝廷へ返還すること」です

大政奉還図
『引用元ウィキペディアより』

また、「江戸幕府を形だけではあるが、滅亡させる行為」でもありました。

よく勘違いされていますが大政奉還は、「徳川慶喜によるギブアップ宣言」ではありません。

この大政奉還により、慶喜を殺して徳川幕府を戦争で滅ぼそうとしていた西郷隆盛大久保利通は、窮地に追い込まれることとなります。

大政奉還とは、「幕府を消滅させて、薩摩・長州連合軍との開戦を回避する行為」です。

そして、徳川慶喜による、強力な反撃の一手でもありました。

 

「大政奉還」や「朝廷」について、くわしくは以下のリンク記事で解説しております。


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「鳥羽・伏見の戦い」とは何か?

鳥羽・伏見の戦いとは、西郷隆盛ひきいる薩摩長州の連合軍と、徳川慶喜ひきいる旧幕府軍による戦争のことです。

徳川慶喜は、圧倒的な大軍団を持っていたにも関わらず、西郷隆盛ひきいる薩長連合軍に敗北したのです。

敗北したとはいえ、その損害は軽いものでした。

薩長軍5千人にたいして、旧幕府軍1万5千人

再び戦えば、旧幕府軍の勝利は確実でした。

ここで徳川慶喜は、部下たちに「徹底抗戦せよ」と命令しておきながら、自分だけが船で逃亡しているのです。

この「鳥羽・伏見の戦いにおける敵前逃亡」が、現代における徳川慶喜の評価を失墜させた原因です。

慶喜は敵前逃亡することで、薩長軍と旧幕府軍の全面戦争を回避しようとした、といわれています。

 

「鳥羽・伏見の戦い」についてくわしくは、以下のリンク記事で解説しております


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江戸城無血開城とは何か?

江戸城無血開城とは、徳川幕府が戦うことなく完全に消滅した、いわゆる「徳川幕府の降伏」を意味する行為です。

大政奉還によって、徳川幕府は消滅した事になってはいます。

しかし「徳川幕府」という看板は下ろしたものの、幕府という組織や軍団は残ったままでした。

鳥羽・伏見の戦いに敗北し、逃げ帰った徳川慶喜は、部下である勝海舟にすべてを託して、薩長軍に降伏します。

≪勝海舟≫
「引用元ウィキペディアより」

西郷隆盛大久保利通は、徳川慶喜という天才政治家を殺害しなくては、源頼朝のように復活して仕返しをされると考えていました。

ところが、徳川慶喜から全てを任された勝海舟が、西郷隆盛と交渉し、戦うことなく江戸城を明け渡すことに決まったのです。

こうして徳川幕府は、完全に消滅したのです。

徳川家康がつくった江戸幕府は、徳川慶喜があっさり降伏したことで、無益な死者が出ることなく終わりました。

この江戸城無血開城は、無血革命という世界史上でもめずらしい偉業なのです。

 

「江戸城無血開城」について、くわしくは以下のリンク記事で解説しております。


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徳川慶喜の性格がわかるエピソード

徳川慶喜は、かなり変わった性格の持ち主ということで有名なお方です。

そのため、その性格を物語るエピソードがたくさんあります。

どうやら慶喜は、優秀ではあるものの、のんびり暮らすことを夢見るお方だったようです。

父に送った手紙「将軍になどなりたくない」

幼い頃から天才だった徳川慶喜は、父・徳川斉昭や名君・島津斉彬たち、数多くの人々から、次の征夷大将軍(武士のトップ)になってほしいと頼まれていました。

しかし、慶喜は将軍などという面倒な役はやりたくなかったらしく、父に向けておくった手紙に、こんなことを書いています

「将軍などという面倒な役職にはつきたくない。

天下を支配することほど、面倒なことはないのですから」

慶喜には、天才的な頭脳や能力はあったものの、使命感や志のようなものは、まったくなかったのです。

 

「徳川斉昭」についてくわしくは、以下のリンク記事で解説しております。


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イケメンで優秀だったため徳川家定に嫌われる

12代将軍・徳川家慶も、慶喜を次の将軍にしようとした一人です。

徳川家慶は、自分の息子である徳川家定をさしおいて、慶喜に将軍の位を引き継がせようとしたのです。

ところが、周囲の反対もあって、家慶は息子の徳川家定に将軍職をゆずって亡くなります。

実は13代将軍・徳川家定は、かなりのバカ殿だったのです。

しかも、顔には大きなアザがあったのだとか。

家定は、無能で醜い自分とは正反対の、優秀でイケメンな徳川慶喜を嫌っていたといいます。

そのため家定は、自分の次の将軍を、慶喜ではなく、徳川家茂(とくがわ いえもち)という人物に指名したほどでした。

 

「徳川家定」についてくわしくは、以下のリンク記事で解説しております。


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敵前逃亡と謹慎生活

徳川慶喜は「鳥羽・伏見の戦い」に敗北した部下たちを残して、一人だけ逃亡しています。

これは、武士たるものが絶対にやってはいけない行動でした。

一説によると、慶喜は天皇をとても尊敬していたため、天皇がひきいた薩摩長州軍とは戦う気になれなかったとのことです。

天皇と戦いたくないからといって、部下を置き去りにして逃亡した慶喜は、その後【上野寛永寺・水戸・静岡】と、謹慎生活を続けて、天皇に歯向かうつもりがないことをアピールしたといいます。

謹慎生活は、2年にもおよび、謹慎が解除されたあとも、明治天皇に謁見するまで、30年も自主的に謹慎していたのです。

慶喜は、天皇への忠誠心が強い水戸藩で育てられたため、天皇を強く尊敬し恐れていたのです。


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長い謹慎生活における趣味の数々

1868年に謹慎した徳川慶喜は、そのあと亡くなるまでの45年間、仕事など全くせずに、趣味に没頭していました。

その趣味は数多くあり、慶喜が多趣味であったことを物語っています。

  • 写真撮影
  • 絵画
  • 狩猟
  • 弓道
  • 手裏剣術
  • サイクリング

慶喜はこれらの趣味を通じて明治という時代を生き抜いたのでした。

ただ、旧幕府の部下たちが生活に困窮する中で、自分だけは悠々自適で贅沢な生活をしていたため、かなり恨まれたともいわれています。


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妻が死んだとき、葬儀もせず帰宅

徳川慶喜の妻・一条美賀子(いちじょう みかこ)は、【1894年(明治27年)】に、乳がんで亡くなっています。

乳がんと診断された美賀子は、治療のため静岡を離れて、東京で入院します。

ところが治療の甲斐もなく、彼女は60年の生涯を終えたのです。

妻が危篤であるという知らせを聞いた慶喜は、急いで静岡から東京へ向かいますが、一足遅く、妻は亡くなっていました。

妻の死を知った慶喜は、なんと葬儀をすることもなく、一人で静岡の自宅へ帰ってしまったといわれています。

美賀子はその後、谷中墓地へと埋葬され、現在は徳川慶喜もその隣に埋葬されています。

 

慶喜の妻「一条美賀子」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。


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徳川慶喜の最後と死因

1913年(大正2年)11月22日】、徳川慶喜は東京の自宅で亡くなりました。

享年77歳。

死因は風邪と肺炎の併発によるものといわれています。

慶喜が亡くなる前年、慶喜が尊崇していた明治天皇も亡くなっています。

まるでそのあとを追うようにして、慶喜は亡くなっているのです。

慶喜を除く徳川家の歴代14名の将軍は、全員が仏教のお墓に埋葬されています。

しかし慶喜は、尊敬する明治天皇への敬意をあらわすために、天皇と同じく、仏教ではなく神道のお墓で埋葬されています。

また、慶喜が眠る谷中墓地には、慶喜を尊敬していた元部下・渋沢栄一のお墓もあります。

 

「徳川慶喜の子孫」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)とは、どんな人なのか?

徳川慶喜は、江戸幕府最後の将軍であり、徳川家康の子孫に当たる人物。

水戸藩主・徳川斉昭の息子で、一橋徳川家へと養子入りした後、江戸幕府・第15代征夷大将軍に就任した人物。

 

2,「徳川慶喜」は、何をした人なのか?

徳川慶喜は、大政奉還江戸城無血開城を実行して、江戸幕府を終わらせた、最後の征夷大将軍。

慶喜は、鳥羽・伏見の戦いで薩摩長州軍に敗北し、部下を置き去りにして敵前逃亡した。

 

3,徳川慶喜の最期とは?

1913年(大正2年)】、慶喜は76歳で亡くなった。

死因は、風邪と肺炎の併発による

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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