【下関戦争とは】世界一わかりやすく解説!高杉晋作の賠償金交渉がズルい

西欧列強と長州藩の戦い「下関戦争(四か国艦隊下関砲撃事件)」を、世界一わかりやすく解説しました!
なぜ長州藩は、西欧列強と戦うことになったのか?そして、どうやって追い払ったのか?
外国船をいきなり襲った長州藩。反撃されて敗北した長州を救ったのは「高杉晋作」だった
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この記事を短く言うと
・「下関戦争」とは、長州藩が「西欧列強」と交戦した戦争のこと
・最強国「イギリス」を、長州藩家老「宍戸桂馬(ししど けいま)」が、交渉で追い払った
・敵国と講和交渉をした「高杉晋作」は、交渉の場で突然「古事記」語り始めて、「彦島の租借」を防いだ・・・らしい
目次
《下関戦争とは?どういう事件なのかわかりやすく解説》
「下関戦争」
1863年に起こった「下関事件」と、「下関事件」の結果として翌1864年に勃発した「四カ国艦隊下関砲撃事件(馬関戦争)」の総称が「下関戦争」。

≪下関戦争≫
「引用元ウィキペディアより」
1863年と1864年,二度発生した戦争(武力衝突)を、まとめて「下関戦争」と呼んでいるのです。
前半「下関事件」
幕末、日本はアメリカから来航した「ペリー提督」と黒船の圧力に押され、「日米修好通商条約」などの不平等条約を締結させられ、国益を損ねていました。「長州藩」は、その不平等条約を原因として日本全国で巻き起こっていた「外国人排斥運動(攘夷運動)」の急先鋒として、過激な活動を繰り返していました。
当時、日本を統治していたのは「江戸幕府」。日本国内では、外国勢力に対して弱腰な「幕府」に対し批判が集中。外国人嫌いで有名だった「孝明天皇」は、弱体化した幕府に対して「攘夷」を行うことを強く迫ったのです。
14代将軍「徳川家茂」・・・孝明天皇の義弟(孝明天皇の妹「和宮」は、徳川家茂の妻)
家茂は、孝明天皇と朝廷からの「攘夷」要求に抗えず、文久3年(1863年)旧暦5月10日を「攘夷決行の日」として要求を受けてしまうのでした。
幕府は直ちに全国諸藩に対して「5月10日」に、攘夷を決行せよと命令。しかし、その命令書には
「攘夷を決行せよ・・・ただし、戦ったら薩英戦争でボロ負けした薩摩藩の二の舞になるぞ」
と・・・暗に「攘夷をするな」という警告も書かれていました。
しかし、そんな命令など無視して、攘夷を結構したのが攘夷派の急先鋒で過激派「長州藩」
下関海峡を通過する外国船に対して、5月10日、いきなり砲撃を開始。これが「下関事件」・・・。つまり「下関戦争」の前半が始まったのです。
突然の攻撃を受けた諸外国は、当然激怒。フランスとアメリカの艦隊が、長州藩を攻撃。長州はその圧倒的な武力に敗北したのでした。
後半「四カ国艦隊下関砲撃事件」
フランス・アメリカに敗北したとはいえ、長州藩は重要な貿易海路である「下関海峡」を封鎖。
これに怒ったのが、日本との貿易利権を持つ西欧列強でした。
1863年、「下関」で外国船を砲撃した直後、長州藩は過激な行動を煙たがった孝明天皇から嫌われ、「八月十八日の政変」で京都から追放処分をくらいます。これをきっかけに、日本全国で「攘夷」派は一気に衰退していくのです。
直後に「新選組」による長州藩士襲撃事件「池田屋事件」が勃発。長州藩の秀才「吉田稔麿」などの逸材が失われ、長州は更に苦しい立場におかれます。
大英帝国・・・・当時世界最強国である「イギリス」は、圧倒的な武力と交渉力を持って、世界に君臨していました。その英国を中心とした「アメリカ」「フランス」「オランダ」の、合計4カ国連合艦隊が、長州藩への報復のため、横浜を出向。
1864年8月、長州藩は四カ国艦隊による攻撃を受けて大敗北。この直前に京都で勃発していた「禁門の変」でも敗北していた長州藩は、崖っぷちまで追い込まれる事となるのです。
この四か国による長州攻撃が、「下関戦争」の後半「四カ国艦隊下関砲撃事件(馬関戦争)」。
西欧列強の強さを目の当たりにした長州藩は、四か国との講和を模索することとなるのです。
「八月十八日の政変」「池田屋事件」「禁門の変」「下関戦争」・・・・長州はこれらの事件・戦争で「吉田稔麿」「久坂玄瑞」などの人材と貴重な兵力を失い、さらに「第一次長州征伐」という幕府軍の攻撃を受けることとなるわけです。
窮地に陥った長州藩でしたが、「坂本龍馬」の助力もあって、「薩長同盟」により「薩摩藩」という後ろ盾を獲得。「第二次長州征伐(四境戦争)」で幕府軍に勝利することとなります。
《世界最強・大英帝国を追っ払った男・・・「宍戸桂馬」って誰?》
下関戦争で大敗北した長州藩。講和して戦争を終わらせるため、一人の長州藩士が代表に選抜されました。
その男の名前は「宍戸桂馬(ししど けいま)」・・・・長州藩家老「宍戸備前守」さんの養子だそうです。
・・・・・。一体何者でしょうか?
「高杉晋作」・・・・吉田松陰の愛弟子にして、「久坂玄瑞」と並び「松下村塾の双璧」。又は「吉田稔麿」も含めて「松下村塾三秀」と呼ばれた天才。高杉晋作は、「宍戸桂馬」と改名し、講和交渉に挑んだのです。
通常、講和には「賠償金」の支払いが必須です。それに加えて、領土の租借(領地の占領)も必要でした。
しかし「高杉晋作(宍戸桂馬)」は、その意味不明な交渉力をつかって英国との交渉を有利に進め、最終的に「彦島の租借」も「賠償金支払い」も全くせずに、世界最強・大英帝国を追い払うのです。
《いきなり「古事記」暗証!高杉晋作のズルい交渉術!》
英国は長州藩に対して「賠償金の支払い」と「彦島の租借」を迫りました。
高杉晋作はその両方を拒絶。
「賠償金」については、「攘夷は幕府からの命令だったため、賠償金請求は幕府にせよ」ということで英国を納得させました。その時、幕府からの「攘夷命令書」を証拠として提出。財力の乏しい長州藩に無茶な賠償金を求めるよりも、幕府に求めたほうが、英国にとっても都合が良かったのでしょう。
「古事記」・・・・日本最古の歴史書です。英国が「彦島の租借」を求めたとき、高杉はいきなり「古事記」を暗証し始め、通訳をびっくりさせた・・・・と・・・・とあるドラマで描かれていましたが・・・。
彦島・・・「壇ノ浦の戦い」において、平家が拠点としていた島ですが・・・・・高杉はかつて「上海」を視察し、西欧列強に租借された土地が、どのような悲惨な扱いを受けるか知っていました。
そのため、絶対に土地を租借されるわけにはいかないと考えていたのです。
実際には、古事記の暗証で英国の外交官が納得したわけではなく、「長州藩の民全員が、ゲリラ戦を行うぞ」・・・と英国を脅迫。
英国は「彦島の租借」を諦め、そのかわりに「下関海峡の通行権」と、それにともなう援助や救助の約束を取り付け、賠償金は幕府へ求めることとなります。
結局、長州藩は1円も賠償金を払わず、領地の租借もさせず、英国を追い払ったということです。
ちなみに賠償金は合計「300万ドル」。
半分の150万ドルは、幕府が即時支払い。
残り半分は「明治政府」が後に支払っていました。
このうち、アメリカが受け取ったのは「78万5000ドル」。
映画「ダイハード3」にその名前が登場した第21代アメリカ大統領「チェスター・アーサー大統領」により、その賠償金のほとんどが、日本へ返還されています。
実際の被害が「1万ドル」ほどだったにも関わらず、賠償金額が多すぎた・・・・・というのが、返還理由です。
余談ですが、この「賠償金変換」の一件からもからもわかるとおり、アメリカは「開国」からずっと、日本の友好国でいてくれた国です。
ところが、ある一人の「異常な大統領」のせいで、日本とアメリカは「大東亜戦争」へと追い込まれることになるのです。
詳しくは、以下のリンク記事で解説させていただいております。
《『下関戦争』について、レビュー(評論)!》
下関戦争でボロ負けした長州藩は、外国勢力が強すぎて、今の日本では攘夷(外国人排斥)が不可能であることを悟ります。
長州藩は、英国に接近し、近代的な軍を作り上げることに尽力することとなります。
下関戦争・・・・この戦争に敗北したことで、長州藩は「攘夷」から、「倒幕」へと方針転換。
古い「幕府」という統治機構を破壊し、新しい近代的な国家を作り上げ、力をつけて外国勢力に対抗する。
日本が「井の中の蛙」であるということを、思い知らされたのが「下関戦争」だったわけです。薩摩藩も、1863年に「薩英戦争」で英国に大敗北していたわけですが・・・
外国から強烈な喝を入れられた両藩が「薩長同盟」を締結するのは、「薩英戦争」「下関事件」が起こった3年後の「1866年」でした。
日本が西欧列強に比べると、弱小国であるということを思い知るために、「下関戦争」は、けっこう高い授業になったのではないでしょうか。
それにしても、高杉晋作はよくやってくれました。この後「功山寺挙兵」という、絶対不可能と思われたクーデターを成功させ、長州藩を「幕府への降伏」から「倒幕」へと大方針転換させるわけですが・・・。
「下関戦争の講和交渉」といい「功山寺挙兵」といい、高杉晋作は不可能を可能にする頼りになる男です
《まとめ》
本日の記事をまとめますと
・「下関戦争」とは1863年の「下関事件」と、1864年「四か国艦隊下関砲撃事件」の総称
・下関戦争の講和交渉を行った「宍戸桂馬」とは、「高杉晋作」のこと
・下関戦争でボロ負けした長州藩だったが、高杉晋作の交渉力により、賠償金支払いと、彦島租借を逃れた
・その後、長州藩は英国と接近し、近代的な軍隊を手にすることとなる。
以上となります。
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