【下関戦争とは】世界一わかりやすく解説!高杉晋作の賠償金交渉がズルい

皆様は【下関戦争】をご存知でしょうか?

実は下関戦争について、詳しく知っている人は、それほど多くないようです。

イギリス・フランス・アメリカ・オランダと長州藩が激突した事件が、【下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)】です。

今回は、その下関戦争を、世界一わかりやすくカンタンに解説してみました。

なぜ長州藩は、イギリス・フランス・アメリカ・オランダと戦うことになったのでしょうか?

そして、どうやって追い払ったのでしょうか?

外国船をいきなり襲うという無茶をやらかした長州藩でしたが、大敗北した長州藩を救ったのは、あの【高杉晋作】だったのです。

この記事で、下関戦争についての疑問を、スッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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この記事を短く言うと

下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)とは、長州藩がイギリス・フランス・アメリカ・オランダと交戦した戦争のこと

・当時の世界最強国だったイギリスを、長州藩家老・宍戸刑馬(ししど けいま)という人物が、交渉で追い払った

・敵国と講和交渉をした高杉晋作は、交渉の場で突然古事記を語り始めて、彦島の租借を防いだらしい

下関戦争とは?どういう事件なのかわかりやすく解説

下関戦争とは、いったいどんな戦争なのでしょうか?

  • 1863年】に起こった下関事件
  • 1864年】に起こった四国艦隊下関砲撃事件馬関戦争

この二つをまとめて下関戦争と呼んでいるのです。

≪下関戦争≫
「引用元ウィキペディアより」

1863年】と【1864年】の二度の戦争が、下関戦争なのです。


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前半【下関事件】

幕末の日本は、アメリカのペリー提督と黒船の圧力に押され、日米修好通商条約などの不平等条約を締結させられて、国益を損ねていました。

マシュー・ペリー
『引用元ウィキペディアより』

長州藩は、その不平等条約を原因として日本全国で巻き起こっていた攘夷運動(じょうい・外国人を力づくで追い出そうという運動のこと)の先頭に立って、過激な活動を繰り返していたのです。

当時の日本を統治していたのは、徳川家康が【1603年】に開いた臨時政府・江戸幕府です。

日本国内では、外国勢力に対してまるで弱腰でした。

不平等な条約を締結してしまう弱腰な江戸幕府に対して、日本全国から批判が集中します。

外国人嫌いで有名だった孝明天皇は、弱体化した幕府に対して攘夷を行うことを強く迫ったのです。

孝明天皇の義弟にあたる14代征夷大将軍徳川家茂は、孝明天皇朝廷からの攘夷の要求を断りきれずに、【文久3年(1863年)旧暦5月10日】に攘夷を決行するとして、攘夷しろという要求を受けてしまうのでした。(孝明天皇の妹・和宮は、徳川家茂の妻)

幕府はただちに全国の藩に対して【文久3年(1863年)旧暦5月10日】に、攘夷を決行せよと命令します。

しかし、その命令書には

「全国の藩は、5月10日に攘夷を決行せよ。

ただし、外国と戦ったら薩英戦争でボロ負けした薩摩藩の二の舞になるぞ」

と記されていました。

つまり幕府は、全国の諸藩に対して、暗に「攘夷をするなよ」と警告をしたわけです。

しかしそんな命令など無視して、攘夷を実行したのが、攘夷派の先頭にたっていた過激派の長州藩です。

文久3年(1863年)旧暦5月10日】、長州藩は下関海峡を通過するフランス・アメリカ・オランダの船に対して、いきなり砲撃を開始します。

これが下関事件つまり下関戦争の前半です。

突然の攻撃を受けた外国は、当然激怒します。

フランスとアメリカの艦隊が、長州藩を攻撃。

長州はその圧倒的な武力に敗北してしまったのでした。


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後半「四国艦隊下関砲撃事件」

フランス・アメリカに敗北したにもかかわらず、長州藩は重要な貿易海路である下関海峡を封鎖します。

これに怒ったのが、日本との貿易利権を持つ外国勢力でした。

1863年】、下関で外国船を砲撃した直後に八月十八日の政変という事件が起こります。

過激な行動をくりかえしていた長州藩に怒った孝明天皇が、薩摩藩と会津藩に命じて、長州藩を京都から追い出した事件のことです。

≪孝明天皇≫
『引用元ウィキペディアより』

この八月十八日の政変をきっかけに、日本全国で攘夷派、つまり「外国人を力づくで日本から追い出せ」という主張は、一気に衰退していくのです。

しかも八月十八日の政変の直後に、新選組による池田屋事件が勃発します。

この池田屋事件で、長州藩は秀才・吉田稔麿など優秀な人材を失い、さらに苦しい立場においこまれてしまうのです。


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そして池田屋事件のあと、さらに長州藩をおいこむ事件が起こります。

四国艦隊下関砲撃事件馬関戦争)です

当時世界最強国であったイギリスは、圧倒的な武力と交渉力で、世界に君臨していました。

そのイギリスを中心としたフランス・アメリカ・オランダの、合計4カ国の艦隊が、長州藩への報復のため、横浜を出発します。

1864年8月】、長州藩は四国艦隊による攻撃を受けて大敗北します。

この直前に京都で勃発していた禁門の変(蛤御門の変)でも敗北していた長州藩は、さらに崖っぷちまで追い込まれる事となるのです。

《現在の京都御苑・蛤御門》

このイギリス・フランス・オランダ・アメリカによる長州攻撃が、下関戦争の後半にあたる四国艦隊下関砲撃事件馬関戦争)です。

四カ国の強さを目の当たりにした長州藩は、講和して戦いを終わらようとします。

長州はこれらの事件・戦争で吉田稔麿久坂玄瑞などの人材と兵力を失い、さらに第一次長州征伐という幕府軍の攻撃を受けることとなるわけです。

おいつめられた長州藩でしたが、坂本龍馬の助力もあって、薩長同盟を結びます。

坂本龍馬
『引用元ウィキペディアより』

薩長同盟の締結で長州藩は、薩摩藩という後ろ盾を獲得します。

その結果、長州藩第二次長州征伐で幕府軍に勝利するまでに復活したわけです。


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世界最強国イギリスを追っ払った男【宍戸刑馬】とは何者なのか?

下関戦争で大敗北した長州藩でしたが、講和して戦争を終わらせるために、一人の長州藩士を講和交渉に送り込みます。

その男の名前は、宍戸刑馬(名前の読み方について【けいま】なのか【ぎょうま】なのかは不明)

長州藩の家老・宍戸備前守さんの養子だそうです。

いったい何者でしょうか?

実はこの宍戸刑馬という人は、高杉晋作のことです。

高杉晋作
『引用元ウィキペディアより』

吉田松陰の愛弟子にして、久坂玄瑞と並び松下村塾の双璧と呼ばれた高杉晋作のことです。

又は吉田稔麿も含めて松下村塾三秀と呼ばれた天才・高杉晋作

その高杉晋作が、宍戸刑馬と改名し、講和交渉に挑んだのです。

通常、講和には賠償金、つまり謝罪のためのお金の支払いが必要不可欠です。

それに加えて、領土の租借(そしゃく・領地の占領)をさせることも必要でした。

しかし高杉晋作(宍戸刑馬)は、その意味不明な交渉力をつかってイギリスとの交渉を有利にすすめます。

そして最終的に彦島の租借賠償金の支払いも払いのけて、世界最強の覇権国イギリスを追い払うことに成功するのです。

余談ですが、憲政史家の倉山満先生が、宍戸刑馬の見事な交渉力を絶賛していました。



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いきなり古事記を暗唱!高杉晋作のズルい交渉術!

イギリスは長州藩に対して賠償金の支払い彦島の租借を要求してきました。

高杉晋作はその両方を断ります。

賠償金については

「フランス・アメリカ・オランダの船への攻撃や下関海峡の封鎖は、幕府からの命令だった。

だから賠償金は、その命令を出した幕府に請求してくれ」

ということで、イギリスを納得させました。

そのとき高杉は、幕府からの攘夷命令書を、その証拠として提出したようです。

イギリスにとっても、お金を持っていない長州藩に無茶な賠償金を求めるよりも、幕府に求めたほうが都合が良かったのでしょう。

ところで、皆様は古事記をご存知でしょうか?

日本最古の歴史書のことです。

イギリスが彦島の租借を求めたとき、高杉晋作はいきなりその古事記を暗唱し始め、通訳で語学の達人だったアーネスト・サトウをびっくりさせたと、大河ドラマ【花神(かしん)】で描かれていました。

彦島とは、有名な壇ノ浦の戦いにおいて、平家が拠点としていた島のことです。

高杉晋作は、かつて清国上海を視察し、列強諸国に租借された土地が、どれほど悲惨な目にあうのかを知っていました。

そのため高杉は、【絶対に土地を租借させるわけにはいかない】と考えていたのです。


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実際には、古事記の暗唱でイギリスの外交官が納得したわけではありません。

「長州藩の民全員が、ゲリラ戦で徹底的に戦うぞ」

と、高杉晋作はイギリスを脅迫したのです。

イギリスは彦島の租借をあきらめ、そのかわりに

  • 下関海峡の通行権
  • 下関海峡を通るときに援助や救助をしてもらう

などを長州藩に約束させます。

そして賠償金は幕府へ求めることとします。

結局長州藩は、1円も賠償金を払わず、領地の租借もさせず、イギリスを追い払ったということです。

ちなみに賠償金は合計300万ドルです。

半分の150万ドルは、幕府がすぐに支払いました。

残り半分はのちに明治政府が支払っています。

このうち、アメリカが受け取ったのは78万5000ドルです。

実は、第21代アメリカ大統領チェスター・アーサーによって、その賠償金のほとんどが、日本へ返されているのです。(余談だが、チェスター・アーサー大統領は、映画「ダイハード3」でその名前が登場している)

実際の被害が1万ドルほどだったにも関わらず、賠償金額が多すぎた、というのが、アメリカがお金を返してくれた理由です。

この賠償金を返してくれた一件からもわかるとおり、アメリカは日本が開国して以来ずっと、日本の味方でいてくれた国なのです。

ところが、ある一人の異常なアメリカ大統領のせいで、日本とアメリカは大東亜戦争へと追い込まれることになります。

くわしくは、以下のリンク記事で解説させていただいております。

『【太平洋戦争とは】小学生向けにわかりやすく解説!開戦の原因は何?』 の記事はコチラ


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『下関戦争』についてひとこといいたい!

下関戦争でボロ負けした長州藩は、外国勢力の強さを思い知ります。

そして、今の日本では攘夷(外国人を力で追い出すこと)が、不可能であることを知るのです。

実はこのときまで、当時の日本人は、日本が世界で一番強い国だと、本気で思っていたのです。

しかし実際には日本は、最強のイギリスはもちろんですが、オランダ一国にすら勝てません。

この戦争をきっかけに長州藩は、自分たちを倒したイギリスに接近します。

そして長州藩はイギリスの協力を得て、近代的な軍を作り上げることに力を尽くすこととなるのです。

下関戦争に敗北したことで、長州藩は攘夷から、倒幕へと方針を変えます。

日本を支配している幕府という古くて弱い組織を破壊し、新しく近代的な国家を作り上げ、日本を強くしようとしたのです。

力をつけて外国勢力に対抗し、日本を守ることが、長州藩の目的です。

日本が世界でもかなり弱い国であるという事実を思い知らされたのが、この下関戦争だったわけです。

薩摩藩も、【1863年】に薩英戦争でイギリスに大敗北したときに、自分たちと外国との圧倒的な力の差を思い知っています。

外国の力を思い知った薩摩長州の両藩が、坂本龍馬の仲介で薩長同盟を締結するのは、薩英戦争下関事件から3年後の【1866年】のことでした。

日本が弱小国であるということを思い知るために、下関戦争は重要な分岐点になったわけです。

それにしても、高杉晋作はよくやってくれました。

このあと高杉は功山寺決起という、絶対不可能と思われたクーデターを成功させて、長州藩の方針を幕府への降伏から倒幕へと大転換させるわけです。

下関戦争の講和交渉といい功山寺決起といい、高杉晋作は不可能を可能にする頼りになる男なのです。

その後、高杉晋作は第二次長州征伐で、幕府軍を撃破することに成功しますが、1867年5月17日】に病死してしまうのです。

高杉晋作が亡くなった翌年の【1868年】、明治維新が成立することとなります。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  • 下関戦争とは【1863年】の下関事件と、【1864年】の四国艦隊下関砲撃事件のこと
  • 下関戦争の講和交渉を行った宍戸刑馬とは、高杉晋作の別名。
  • 下関戦争でボロ負けした長州藩だったが、高杉晋作の交渉により、賠償金支払いと、彦島の租借をせずに済んだ
  • このあと長州藩は、イギリスと仲良くなり、近代的な軍隊を手に入れて、幕府と戦うことになる

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「【吉田松陰】松下村塾の門下生・塾生一覧!松陰の教えは超過激だった」の記事はコチラ
「吉田松陰と坂本龍馬の知られざる接点とは?龍馬は松陰の弟弟子だった!」の記事はコチラ
「高杉晋作に子孫がいるかどうか家系図を調査!現在有名人として活動中」の記事はコチラ

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コメント

    • BIG-BIRD
    • 2021年 5月 07日

    書き出しをどうしようか迷った。投稿した意見で取り上げてもらえなかった理由や説明を聞きたいのであるが、残念ながら、ここはそのような場ではない。いつものように書いていくことにした。

    異議あり
    ①1行目に西欧列強とあるが、西欧とは西ヨーロッパのことである。これではアメリカが抜けてしまう。欧米列強と書くべきだと思う。しかし、教科書で確認すると、欧米と書かれたり、単に列強と書かれたりしていて、欧米列強という用語はなかった。西欧列強という用語は、「19世紀中ごろ、欧米の圧力によって開国を余儀なくされた日本は、西欧列強を目標に」という表記があったので、あながち誤りであるとは断定できない。
    ②同じく1行目「下関戦争(四ケ国艦隊下関砲撃事件)」とあるが、四か国艦隊下関砲撃事件という表記は誤りである。四国艦隊下関砲撃事件が正しい表記である。持っている教科書を見ると、イギリスを先頭にフランス・アメリカ・オランダの四国の連合艦隊と書いている。普通ならば、四か国と書きそうだが、あえて四国と書いて四か国艦隊と表記しないように配慮されている。
    私が、受験生のころに買った参考書には安政の五か国条約の五か国を青い風呂(ア=アメリカ、オ=オランダ、イ=イギリス、フ=フランス、ロ=ロシア)と覚えるのが良いと書いてあったことを懐かしく思い出す。
    ③この記事を短く言うとの2行目に宍戸桂馬とあるが、宍戸刑馬の誤りであると思う。Wikipediaを見ると、高杉晋作が使った変名には宍戸刑馬とだけあり、説明は書いていない。調べてみると、長州藩の一番家老宍戸備前の養子である宍戸刑馬(ししどぎょうま)をけいまと読み間違えて桂馬と後世の人が表記したようだ。驚いたことに歴史家を名乗る人も宍戸桂馬と書いている人が多いのに驚いた。

    ②と③は採用してほしい。

    誤字ではありませんか
    ①前半「下関戦争」の説明部15行目しかし、、、攘夷を結構したのがとあるが、決行である。
    ②後半「四ケ国艦隊下関砲撃事件」の説明文11行目長州藩への報復のため横浜を出向とあるが、出港である。
    ③いきなり「古事記」暗証とあるが、暗唱である。

    誤字は訂正してほしい。

      • rekishiru
      • 2021年 5月 07日

      ご意見ありがとうございます
      採用できるかどうか検討させていただきます
      いつもありがとうございます

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