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徳川家光の死因と性格がコワすぎる!弟や妻への仕打ちがひどい

3代将軍「徳川家光」の「性格」を、わかりやすく解説いたします。

「徳川家康」の孫「徳川家光」。

「女装」が趣味で男好き。政治には無関心だけど「キリスト教徒の弾圧」には熱心。

夜な夜な「江戸城」を抜け出して「辻斬り」をしてみたり、戦の話しが大好き。

妻「孝子」を生涯「軟禁」。

やっていることが無茶苦茶な、ある意味で真の「暴れん坊将軍」!


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 徳川幕府3代将軍「徳川家光」。その性格を一言でいえば「変わり者」。政治に無関心で、決して「名君」とは言い難い人物だった。
  2. 「島原の乱」などで、キリシタンには厳しい刑罰を加え、次々と処刑。かなり厳しい人だった
  3. 妻「鷹司孝子(たかつかさ たかこ)」を大奥から追い出して軟禁。家光が亡くなるその瞬間まで、極めて残酷な冷遇が続いた。
  4. 徳川家光の死因は「脳卒中」。突然倒れ、そのまま目覚めること無く亡くなった
  5. 家光には「徳川忠長」「保科正之」という弟がいた。忠長は暴君だったが、保科正之はかなりの名君だった

目次

徳川家光の性格が怖い!強気で怒りっぽい変わり者

徳川家光・・・・「徳川幕府」の「3代将軍」にして、「徳川家康」の孫。2代将軍「徳川秀忠」の息子です。

《徳川家光》
「引用元ウィキペディアより」

この3代「徳川家光」という人は、どういう人なのでしょうか?

一言でいってしまうと「変わり者」です。

その性格を簡単に言ってしまうと「怒りっぽくて強気・残虐な人物」・・・・であると考えられます、



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征夷大将軍となった「徳川家光」は、大名たちを集めて

「私は父・秀忠や、祖父・家康と異なり、生まれながらの将軍である。

もしも私に服従できないというのなら、国に帰って挙兵せよ。

相手になってやる」

と豪語したことは有名です。

また、「戦争のお話し」をたいへん好んでおり、「伊達政宗」や「立花宗茂」のような「歴戦の名将」をとても大切にしています。

活発な性格でもあり、夜な夜な江戸城を抜け出して町に繰り出し、「辻斬り」をやっていたという逸話もあります。

幼い頃は「女装」が趣味で、しかも同性愛者・・。

あまりにも「女性を嫌う」ため、乳母(養育係)の「春日局」が、女性の園「大奥」に美女を集めまくったほど。

しかし30代後半になって突然、坊主頭の男性的な尼さんに一目惚れ。

その尼さんを無理やりスカウトして「側室(お万の方)」にし、それ以降は「女性」も相手とするようになったのだとか。

怒りっぽい性格であったらしく、病気のときには「厚着して汗をかきながら眠る」という独自の療法を繰り返しています。医師から止められると激怒したと言われています。

政治にはあまり関心を示さなかったようで、作家の「海音寺潮五郎」さんは「家光」について、こんな評価をしています。

「家康は、全て自分で決めた。

秀忠は、半分は自分で決めた。

家光は、全て重臣まかせだった」

家光には、「土井利勝」や「松平信綱」のような優秀な重臣がたくさんいたため、自分で決めるよりも任せたほうが効率的だったのかもしれませんが・・・。

政治に関心のない人というと、なんだか「名君」とは呼びにくい気がします。



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祖父の「家康」をとても尊敬しており、亡くなったあとは家康が眠る日光東照宮の脇にある「輪王寺」に埋葬。

事あるごとに家康を崇拝していたため、「家康の息子では?」と疑われたこともあるほどでした。

また、弟想いなところもあり、弟「徳川忠長」が狂ったように部下を虐殺していた際、父「秀忠」が忠長を見捨てたにもかかわらず、家光は忠長に「行いを改めよ」と諭す優しさをみせたほど。

異母弟「保科正之」に対しても優しさをみせ、高い身分に引き立てています。

この恩に報いるため「保科正之」は後に「大老」となって家光の子「家綱」を全力で補佐しています。

一言でいってしまうと「家光」は、「変わり者」であったと思います。

「女装」が趣味で男好き。女性には大人になってから興味をもち、家康を尊敬して弟も大切に。戦争談話が好きで、辻斬りの経験も・・・。

政治には無関心で、重臣任せ・・。

正直にいってしまうと、「暗君」という感じがしてしまうのですが・・。まぁ、気のせいではありませんよね



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家光の残酷な弾圧!キリスト教徒を次々と処刑

家光は、非常に残酷な「刑罰」を与える人としても有名です。

特にキリスト教徒には厳しくて、「火刑・溺死・のこぎりびき・餓死」などなど、ありとあらゆる処刑方法で弾圧しています。

この弾圧は全国規模で行なわれていたと言われています。

家光が将軍であった時代に、九州で「天草四郎時貞」が「島原の乱」を起こしています。

この「島原の乱」に激怒した「家光」は、ポルトガルとの関係を断絶し、「鎖国」を開始。

辻斬りをしていたという逸話もあわせて考えると、「残酷」な性格の持ち主だったのかもしれません。



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妻を冷遇して軟禁!最期まで「仮面夫婦」で終わった

家光の妻は「五摂家」という名門中の名門の一つである「鷹司(たかつかさ)」家のお姫様「孝子(たかこ)」姫。

この「妻」に対しても、家光はかなりひどい仕打ちをしています。

1623年に「孝子」と「家光」は結婚。

しかし、夫婦としての生活など皆無。いきなり別居して事実上の離婚。まさに「仮面夫婦」な生活が始まります。

その後、大奥から追い出されて、江戸城内の邸宅に「軟禁」。

1651年、結婚から28年で「家光」が死亡。このとき妻「孝子」へはわずか「50両」というお金が相続されたのみだったとか。

その後は、家光の息子「4代将軍・徳川家綱」が、孝子を「実母に次ぐ」扱いで厚遇。

1674年、美女として有名だった「鷹司孝子」姫は、73歳の生涯を終えるのでした。

なぜこれほどまでに冷遇されたのか・・。

家光はもともと「お公家さん」が嫌いだったとも言われていますが、それにしてもこの徹底的な冷遇ぶりは恐ろしいです。

罪もない「孝子」姫・・・・かわいそうですね。



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家光の『死因』は何?「脳卒中」による突然死だった

徳川家光は「1651年6月8日(慶安4年4月20日)」に、亡くなっています。

享年48歳。

その死因は何だったのか?

家光は、亡くなる前日、献上された「お茶碗」を見ていたところ、突然「身体が震えだした」のだとか。

倒れた家光は、意識を失ってしまい、翌日、そのまま亡くなったと伝えられています。

この状況から、家光の死因は『脳卒中』の可能性が高いと考えられています。

「突然死」であるものの、亡くなる前に「歩くことが困難」な症状も出ていたらしいので、「脳卒中」で間違いないでしょう。

家光が亡くなると、そのご遺体は、崇拝していた祖父「徳川家康」の墓所である「日光東照宮」のそば、「輪王寺」に葬られます。

あとを継いだ4代将軍「徳川家綱」は、家光の弟「保科正之」や、名臣「松平信綱」に補佐されることとなります。



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家光の2人の弟!暴君「忠長」と名君「保科正之」

徳川家光には「2人」の弟がいました。

次弟「徳川忠長」と、三弟「保科正之」です。

暴君「徳川忠長とくがわただなが

徳川忠長は、徳川家光と同じく「お江の方」を母に持つ、「徳川秀忠」の息子です。

徳川忠長
引用元ウィキペディアより

その容姿はとても美しく、大伯父にあたる「織田信長」に似ていたのだとか。

しかし忠長は、その性格に、大きな問題があった人でした。

一言でいってしまうと「徳川忠長」は「狂った人」だったのです。

忠長は、意味もなく家来たちを斬り殺すなどの「暴挙」を繰り返す人物でした。

これらの行いを知った父「秀忠」は激怒。すぐさま忠長を「勘当」しています。

ところが、将軍であった兄「家光」は寛大でした。

「兄弟なのだから、ともに力をあわせて生きていきたい。やり直せ」

と言い聞かせ、一時は忠長もおとなしくしていたらしいです。

それでも、おとなしくしていた期間は、ごくごく短期間だけだったようで、またすぐに狂いはじめてしまったのだとか。

駿河の領地を没収され、謹慎処分とされた「忠長」はその後、現在の群馬県高崎市の「大信寺」という寺で自刃。

28歳で亡くなるのでした。

家光は弟の死にショックを受け、数日寝込んだと言われています。

ただ、異説もあり、忠長は兄「家光」の罠にハマり殺害された・・・という噂もあります。

まぁ・・・自分の政敵である「弟」を処分するなんて、歴史ではよくあることです。

「信長」も弟「信行」を暗殺していますし、「伊達政宗」も弟「伊達小次郎」を死なせています。

残酷な家光のことですから、「忠長」の死についても、ちょっと疑ってしまいます・・。



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名君「保科正之ほしなまさゆき

家光には、もうひとり弟がいました。

異母弟「保科正之(ほしなまさゆき)」です。

保科正之
引用元ウィキペディアより

とても優秀な弟で、「歴史上屈指の名君」と呼ばれるほどの偉人。

二代将軍・徳川秀忠は、「お静」という侍女に男の子を産ませます。

「幸松(こうまつ)」と名付けられたこの子は、妻「お江の方」を恐れた秀忠によって、「武田信玄」の娘「見性院」に預けられます。

その後、「幸松」は「信濃国高遠」の「保科正光」という武将に預けられ、養子として育てられる事となるのです。

成長した「幸松」は、「保科正之」と改名して父「秀忠」、兄「家光」「忠長」と対面。

兄「家光」と「忠長」は、この弟「正之」を大変かわいがったと言われています。

その後、「正之」は「会津藩」を与えられ、家光が亡くなったあと、その息子で4代将軍「徳川家綱」を補佐。

「保科正之」は、すぐれた政治手腕を発揮し、「名君」と呼ばれるようになります。

1672年、保科正之は江戸の会津藩邸で亡くなります。

享年63歳。

保科正之は、自分がおさめた領地「会津」に、「会津家訓十五箇条」という「家訓」を残しています。

そこにはこんなことが記されているのです。

「会津藩は、徳川将軍家を主人とし、決して裏切ってはいけない。」

これを命をかけて守り通したのが、「新選組」などをひきいた幕末の若き会津藩主「松平容保(まつだいらかたもり)」。

「容保」は、「孝明天皇」と「徳川将軍家」に忠誠を誓い、「会津戦争」という壮絶な戦いを、新政府軍と繰り広げることとなるのです。



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ちなみに・・・なぜ秀忠は、生まれたばかりの「保科正之」を隠したのでしょうか?

一節によると、恐妻家だった「秀忠」は、姉さん女房の「お江」を恐れて、隠し子の「保科正之」を隠したと言われています。

筆者の勝手な想像なのですが、秀忠は「保科正之」が、お江に殺害されると思ったのではないでしょうか?

実は、秀忠には「家光」「忠長」「保科正之」の他に、もうひとり息子がいたのです。

長男「長丸(ちょうまる)」です。

父「秀忠」と同じ幼名をもらったこの長男「長丸」は、生まれて間もなく亡くなります。

名もなき女性に産ませた「長丸」・・・病死ということになっていますが、本当に病死なのか・・・。

お江に殺害されたかどうかはわかりませんが、少なくとも秀忠は「お江による毒殺」を疑ったのではないでしょうか。

そのため、生まれた「保科正之」を、お江から遠ざけようとしたのではないかと、筆者は考えます。

まぁ、なんの根拠もないことですが。



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『徳川家光の性格』について「ひとこと」言いたい!

徳川家光・・・・正直な所、イメージしづらい「よくわからない人」です。

父「秀忠」は、真面目でおだやか、心優しい面があるものの、真面目で公平な政治をした仕事人間。

祖父「家康」は、短期で独裁的。何でも自分で決めたリーダーだった、と言われています。

たいして「家光」は、「辻斬り」や「妻への冷遇」「厳しい弾圧」などなど・・・。

確かに家光の時代に、江戸幕府の基礎がつくられたのは事実です。

「鎖国」が始まり、「参勤交代」が定められ、この慣習が「幕末」まで続くこととなるのです。

しかしそれは「家光」の功績ではなく、あくまでも有能な家臣たちの仕事でしょう。

家光・・・・「名君」という説もあるようですが、とてもではありませんが、やってることが無茶苦茶すぎて、お世辞にも「名君」とは言えない気がします。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 徳川家光・・・・一言でいえば「変わり者」。「辻斬り」やら「女装」やらが趣味で、政治には関心なし。名君とは言い難い人物。
  2. キリスト教徒にはとても厳しい刑罰を行い、弾圧。多数のキリスト教徒を処刑している。
  3. 妻「鷹司孝子」と結婚当初から別居。大奥から追い出して軟禁。家光が亡くなるまで、冷遇は続いた。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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