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足利尊氏と後醍醐天皇の争いの原因とは?年表で分かりやすく解説

「足利尊氏」とは、何をした人なのか?なぜ主君だった「後醍醐天皇」や盟友「楠木正成」と争ったのか、カンタンに解説いたします。

1333年、「鎌倉幕府」を裏切り、足利尊氏は「後醍醐天皇」の側に寝返って、鎌倉幕府を滅亡させます。

1335年、足利尊氏は「後醍醐天皇」を裏切り、「湊川の戦い」で楠木正成を討伐。

その後、尊氏は「室町幕府」を開いたのです。

「鎌倉幕府」を裏切り、「後醍醐天皇」を裏切った足利尊氏。

実は、物欲ゼロの「無欲」な人だった


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この記事を短く言うと

  1. 足利尊氏とは、「後醍醐天皇」と協力して、「鎌倉幕府」を倒し、「後醍醐天皇」に勝利して「室町幕府」を開いた武将
  2. 足利尊氏が「後醍醐天皇」と争った原因は、「後醍醐天皇」がおこなった政治「建武の新政」が、武士たちの利益を奪う独裁政治であったこと
  3. 名将「楠木正成」は、足利尊氏と協力して「鎌倉幕府」を滅ぼした名将だが、「湊川の戦い」で足利尊氏に敗れて戦死した

足利尊氏は何をした人?鎌倉幕府を倒し、室町幕府を開いた人

足利尊氏(あしかが たかうじ)、1305~1358年

《足利尊氏》
「引用元ウィキペディアより」

足利尊氏とは何をした人なのか・・・。

1333年に「鎌倉幕府」を倒し、1338年に「室町幕府」を開いた人です。

源頼朝」が開いた武士による政府「鎌倉幕府」は、執権「北条高時」の悪政によって腐りきっていました。

全国の武士たちは、「北条高時」の独裁に強い不満を抱き、「後醍醐天皇」による「倒幕」の呼びかけに応じて、「足利尊氏」とともに「鎌倉幕府」を討伐。

鎌倉幕府滅亡後、「後醍醐天皇」が「建武の新政」という新しい政治をはじめたのです。

ところが、この「建武の新政」が、鎌倉幕府以上の最悪な「悪政」でした。

これに怒った日本中の武士たちは、「足利尊氏」をリーダーに祭り上げて、「後醍醐天皇」に戦いを挑みます。

足利尊氏は、後醍醐天皇に勝利。

征夷大将軍」に任命されて、「室町幕府」を開き、新しく「武士の、武士による、武士のための政治」を開始したのでした。



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足利尊氏と後醍醐天皇の争いの原因は何?

もともと「後醍醐天皇」は、「足利尊氏」の主君でした。

《後醍醐天皇》
「引用元ウィキペディアより」

「鎌倉幕府」に戦いを挑んだ「後醍醐天皇」でしたが、当初「足利尊氏」は「鎌倉幕府」のトップ「北条高時」の部下の1人だったのです。

そんな足利尊氏は、「鎌倉幕府」の悪政を終わらせるため、後醍醐天皇に寝返り、鎌倉幕府を裏切ったのです。

鎌倉幕府が討伐されて、これで世の中は平和になる・・・・とおもいきや、後醍醐天皇の政治は、鎌倉幕府よりも遥かに悪いものでした。

後醍醐天皇は、実はもともと「武士が大嫌い」な人でした。

そのため、全国の土地を支配している「武士」たちの領地を、何の理由もなしに突然取り上げはじめたのです。

命よりも大切な「土地」を奪われた武士たちは、後醍醐天皇に激怒します。

激怒した武士たちは、武士たちのカリスマ「足利尊氏」をリーダーに祭り上げて、後醍醐天皇に戦いを挑みます。

「鎌倉幕府」に代わる、新たな「武士の世をつくる」ために。

もともと「足利尊氏」は、「後醍醐天皇」というカリスマを崇拝していました。

尊氏は、後醍醐天皇を、とてつもなく尊敬していたのです。

尊氏からすれば、後醍醐天皇とは戦いたくはなかったはずです。

ところが、時代がそれを許してくれませんでした。

尊氏は、尊崇する「後醍醐天皇」と、血で血を洗う死闘を演じることと成るのです。



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悲劇の名将「楠木正成」と、足利尊氏の戦い!

「楠木正成」・・・・足利尊氏とともに、「後醍醐天皇」に協力して、「鎌倉幕府」を倒した軍事の天才、名将の中の名将です。

《楠木正成》
「引用元ウィキペディアより」

鎌倉幕府を滅ぼした武将は、主に3人います。

「足利尊氏」「新田義貞」、そして「楠木正成」の3人です。

その中でも「楠木正成」は、特にすぐれた名将でした。

なんと500名の少人数で、数十万の「鎌倉幕府軍」と互角に戦ったのです。

楠木正成が、鎌倉幕府軍の主力を河内国「千早城」「赤坂城」でひきつけている間に、「足利尊氏」「新田義貞」が、それぞれ手薄となった「京都」「鎌倉」を攻め落としました。

これにより、鎌倉幕府は滅亡したのです。

 

楠木正成は、「足利尊氏」が「後醍醐天皇」を袂を分かつこととなったとき、足利尊氏には味方せずに、後醍醐天皇の味方をします。

後醍醐天皇には、自分を引き立ててくれた恩があったからです。

後醍醐天皇の恩に報いるため楠木正成は、「絶対に勝ち目のない戦い」とわかりきっていた「湊川の戦い」で「足利尊氏」と激突。

明治維新」の後、名将として再評価されることとなる「楠木正成」は、この「湊川の戦い」で壮絶な戦死を遂げるのです。



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足利尊氏と後醍醐天皇の争いを『年表』で解説

1305年

足利尊氏・誕生

 

1319年

元服(成人)。この時、主君「北条高時」から一字をもらい「足利高氏」と名乗る。

 

1331年

後醍醐天皇が、「鎌倉幕府」打倒を計画(「元弘の乱」)。楠木正成も同時に挙兵するが、足利尊氏ら「鎌倉軍」に鎮圧される。

 

1332年

後醍醐天皇が「隠岐の島」へ幽閉される。

 

1333年

後醍醐天皇が「隠岐の島」を脱出。伯耆国「船上山」に籠城し、武将「名和長年」とともに鎌倉幕府軍と交戦。

足利尊氏が出撃。後醍醐天皇を撃破するはずが、裏切って「鎌倉幕府軍」から京都を攻め落とす。

新田義貞が、鎌倉を攻め落とす。鎌倉幕府滅亡。

後醍醐天皇「尊治」の名前から一字「尊」をもらい「足利尊氏」と改名。

後醍醐天皇の新しい政治「建武の新政」が始まる。

 

1335年

「北条高時」の息子「北条時行」が後醍醐天皇に対して挙兵。「中先代の乱」が勃発。

中先代の乱の鎮圧のため、足利尊氏が「後醍醐天皇」の命令に背いて、鎌倉へ向けて出撃。

足利尊氏が反乱軍に勝利。鎌倉の奪還に成功

尊氏はその後、鎌倉で独立する気配をみせる



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1336年

1月後醍醐天皇が、「新田義貞」に対して、「足利尊氏」の討伐を命令。足利尊氏がこれを撃破。

このときから、「後醍醐天皇」と「足利尊氏」の戦いが始まる。

3月足利尊氏が京都を攻撃。しかし「北畠顕家」「楠木正成」「新田義貞」に敗北。九州へ逃亡。

7月、九州から足利尊氏が再び京都へ進軍。「湊川の戦い」で「楠木正成」「新田義貞」を撃破。「楠木正成」戦死。

8月、後醍醐天皇が京都から比叡山へ逃亡。足利尊氏が京都を占領。

足利尊氏と後醍醐天皇が和睦。後醍醐天皇が比叡山を下りて、足利尊氏と面会。

足利尊氏が「室町幕府」を開く。

直後、京都に幽閉されていた「後醍醐天皇」が、奈良「吉野」へ逃亡。「南朝」を開く。

「南北朝時代」が始まる。

 

1338年

新田義貞が戦死。足利尊氏が征夷大将軍に就任。

 

1339年

後醍醐天皇・崩御

 

1392年

室町幕府3代将軍「足利義満」によって「南北朝合一」がなされ、『南北朝時代』が終わる。



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「足利尊氏」について「ひとこと」いいたい

足利尊氏・・・・・主君であった「鎌倉幕府」を裏切って滅ぼし、「後醍醐天皇」を裏切って「室町幕府」を開いた人物。

しかしその性格は、決して「ずる賢い」ものではなかったようです。

むしろ、「無欲」な人だったと言われています。

手に入れた戦利品や贈り物は、その全てを家来に分け与えてしまうという、気前の良い人物だったのだとか。

そんな足利尊氏・・・なぜ「鎌倉幕府」も「後醍醐天皇」も裏切ったのか?

もともと足利尊氏は、鎌倉幕府を倒した後、後醍醐天皇についていくつもりでした。

しかし、全国の武士が後醍醐天皇の悪政に激怒。

足利尊氏を無理やり祭り上げて、後醍醐天皇と戦わざるを得なくなったのです。

その証拠に、後醍醐天皇が亡くなった時、足利尊氏は「天龍寺」というお寺を、後醍醐天皇のために建立しています。

足利尊氏・・・無欲で執着心がなかったため、何事にも執着できず、途中で投げ出してしまう性格だったようです。

尊氏の優柔不断な性格が原因で、「南北朝の動乱」「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」など、室町幕府は発足から次々と起こる内乱に苦しめられる事となるのです。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 足利尊氏は、「後醍醐天皇」とともに「鎌倉幕府」を滅ぼし、「後醍醐天皇」を倒して「室町幕府」を開いた人物。
  2. 足利尊氏は、「後醍醐天皇」の悪政「建武の新政」により激怒した武士たちに祭り上げられて、後醍醐天皇と戦った
  3. 尊氏は、盟友であった「楠木正成」を「湊川の戦い」で倒し、室町幕府を開いた。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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