幕末に活躍した風雲児「高杉晋作」。
病におかされていなければ、自らが叩き壊したあとの世界を見ることができたかもしれません。
その高杉晋作の死因と、最期に残した辞世をご存知でしょうか?
死因は「肺結核」、辞世の意味は「恋人への愛を告げる歌」。
この記事では「高杉晋作」の死因や最期の様子。辞世のくわしい意味を解説いたします。
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この記事を短く言うと
・高杉晋作の死因は「結核」。「第二次長州征伐」に勝利したあと、体調をくずした
・高杉は結核に感染し、病気療養に徹したが、体調を回復させることが出来なかった
・「三千世界の鴉(からす)を殺し・・・」とは、恋人への愛を告げる歌
《高杉晋作の死因は、なに?》
高杉晋作は現代の山口県萩市で代々毛利家譜代の士、高杉家に生まれました。18歳の時に吉田松陰の私塾「松下村塾」へ入門。
のちに吉田松陰の教えを活かし武士、町民、農民など身分を問わずに能力があれば入隊可能な「奇兵隊」を結成。
尊王攘夷のため、様々な活躍をしてきましたが病魔によってその人生に幕を閉じることになります。
病魔に冒され亡くなった高杉晋作。
その死因は現在で言う「結核」です。
当時は不治の病と言われて治る確率は、極めて低い病気とされていました。
《高杉晋作の最期の様子》
第二次長州征伐のころには晋作の体はすでに病に冒されている状態でした。
しかしそんな体でも戦い続けようとしていたのですが、藩から療養の命が出されます。
晋作は藩の命どおり療養のために愛人を連れ、下関に移り住みます。
気分のよい日は恩師である吉田松陰のお墓の前でお酒を飲んだと言われています。
しかしこの療養のときには、すでに全ての力を出しきったあとでした。
晋作にとって療養は、迫りくる死期との戦いだったでしょう。
【1867年5月17日(慶應3年4月14日)】、大政奉還の半年ほど前に、高杉晋作は息を引き取りました。
享年29歳(満27歳8ヶ月)
病に冒されているにもかかわらず戦い続けようとしたのは、残りわずかな命でも燃え尽きるまで、この世の役に立ちたいという気持ちがあったからではないでしょうか。
目的のためなら自分の命を捧げてしまうことに恐れがない。これが「高杉晋作」のすごさです。
《辞世の句「三千世界の鴉を殺して主と朝寝がしてみたい」意味とは?》
この辞世の句は高杉晋作が遊女に宛てたものとされています。
「三千世界」とは古代インドの世界観を表したもので、この句では「この世の中すべて」という意味の方がわかりやすいかもしれません。
続いて「鴉を殺して主と朝寝がしてみたい」の部分ですが、鴉は朝になると鳴きます。
鴉が鳴き始めるころには遊女のところから帰らなければいけません。
「主」は男女関係において夫、または女から自分の男のことを『ぬし』と呼んでいました。
すべてつなげると
「朝を知らせるこの世のすべての鴉を殺して、おまえとゆっくり寝ていたい」
ずっと一緒にいたいという気持ちをあらわす句です。
他にも晋作には有名な辞世の句があります。
それは
「おもしろきこともない世を面白く すみなすものは心なりけり」
です。
これは
「世の中おもしろいことがなくても、自分次第でおもしろくできる」
という意味であり、その当時のことを表した句ではないでしょうか。
当時の幕府に不満を持っていた晋作。
何も行動しなければ世の中は変わらぬまま。
しかし何か行動することでこの世の中が変わり始めるのであれば行動を起こさねば後悔するという意味が込められているはずです。
晋作の行動とは、幕府を倒すこと。そして大政奉還へ導くこと。
この目標ができた時、彼の人生は面白いものに変わったのではないでしょうか。
《『高杉晋作』について、レビュー(評論)!》
「松下村塾の双璧」と呼ばれ、吉田松陰の義弟「久坂玄瑞」と並び讃えられた逸材「高杉晋作」
その才能はずば抜けており、同じく「松下村塾の三秀」と呼ばれた「吉田稔麿」曰く
「走り出したら誰も止められない。猛牛のような男」
と言われていました。
「功山寺決起(こうざんじけっき)」
回転義挙(かいてんぎきょ)とも呼ばれる長州藩のクーデターです。幕府による「第二次長州征伐」が近づくと、長州藩は幕府に降伏しようとしました。
それに異を唱えたのが倒幕を主張する「高杉晋作」。
藩の方針を「降伏」から「倒幕」へと転換させるために、数千の軍団を誇る長州藩相手に、伊藤博文・山県有朋ら「奇兵隊」数十名を率いて行ったこのクーデターが、奇跡的に成功し、倒幕を実現させた高杉晋作。
功山寺決起という、成功確率が極めて低い暴挙を成功させてしまったこの点を観ると、「行動すること」を何よりも大切にしていた師「吉田松陰」の教えに、高杉は最も忠実に従っていたのかもしれません。
その行動力、吉田稔麿が言うように、誰にも止められない「猛牛」のような男だったのです。
《まとめ》
本日の記事をまとめますと
・高杉晋作の死因は「結核」
・四境戦争(第二次長州征伐)の後、療養に徹したが、回復すること無く亡くなった
・「三千世界の鴉を殺し・・」というのは、恋人へ当てた言葉
以上となります。
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コメント
コメント一覧 (4件)
「勝海舟」から「近藤勇」に進み、幕末の三文字の人物、最後は誰にしょうかと迷った。名前は知っているが、その前半生については、まったく知識がないので「前島密」に決めたが、残念ながら「元・落ち武者」さんの記事がないので、吉田松陰について学んだ時に気になった「村塾の三秀人」に的を絞り、高杉晋作から学習することにした。
「高杉晋作」に関しては、「えっ?」から始まった。ウィキペディアによると、満27歳没と書いてあるが、他を調べると、享年27才に始まり、満28歳、29年という短い生涯、享年29、27歳8ケ月、28才にまだ4ケ月たりない若さなど様々である。私は、満27歳、享年29(歳)が正しく、少なくとも享年27才は誤りだと思う。才の漢字も気に入らない。
⑴異議あり
①「元・落ち武者」さんの記事に戻ると、3行目最後に残した「辞世の歌」とあるが、辞世の句(辞世)で統一とてほしい。確かにウィキペディアにも辞世の歌と書いてあるものあるが、辞世とは、人がこの世を去る時やまもなく死のうとする時に詠まれる漢詩や和歌などを言うので歌と書いても問題はないのかもしれないが、辞世の歌という言い方は一般に馴染まないと思う。
②4行目に辞世の意味は「恋人への愛を告げる歌」と書かれているが、かなり乱暴な定義である。確かに、残された人に恋人が含まれる場合もあるが、身近な人や世の中の人に対して詠むこともあるので、恋人と限定することは間違っていると思う。
③《辞世の句「三千世界の鴉、、、」に関して、意義があります。これは、高杉晋作もしくは木戸孝允が品川遊郭の土蔵相模で詠んだといわれる都々逸であると考えられている。都々逸は、七、七、七、五の4句で、有名なものに「人の恋路を邪魔する奴は犬に喰われて死ぬがい々」とある。辞世の句に意義があります。
⑵《高杉晋作、、、最期の様子》三行下に愛人とある。辞世の句「三千世界の鴉、、、」の下には、遊女と書かれている。恋人・愛人・遊女と表記されているが、統一してほしい。木戸孝允の妻である木戸松子を調べると、芸妓時代は恋人と書かれている。恋人でも良いとは思うが、私は、高杉晋作を最後まで看護した女性であり、野村望東尼の陰に隠れているので、愛妾・おうのと名前を書いてもらいたい。
⑶説明文の10行下に、他にも晋作には有名な辞世の句があります。(ここでは、辞世の句となっている)
それは「おもしろきこともない世を面白く。すみなすものは心なりけり」に反応した。
①どうして途中で。があるのかを調べてみた。辞世に。などはないことが分かった。→消去が望ましい。
②文末の。は何という調べた。読点ではなく句点というらしい。
③「おもしろきこともなき世を」と「おもしろきこともなき世に」と二つの説があるということが分かった。最近の説では死の前年に詠まれているので辞世の句ではないという説が有力らしい。
しかし、2年前に詠んだものは辞世の句ではないという説には反対である。根拠は、戦国大名や戦前の軍人の中には生前から辞世の句を準備していたこと。秀吉の辞世とされる「露と落ち、、」の句は、10年前から準備していたと聞く。2年前は辞世の句にならない。直前ないし数日前と定義すれば、数日とはいつからを言うのか、突っ込み所はたくさんだ。
高杉晋作は調べると興味深い人物である。1回の投稿では終わりそうにない。私は、「元・落ち武者」さんは男性と思い込んでいたが、間違っているようだ。どうも女性のようだ。しかも複数名いらっしゃると思われる。
こんにちは。
いつもお言葉をありがとうございます。
今回も大変たくさんの意見をいただき、感謝いたします。
早速調査して検討してみます。
ありがとうございます。
申し訳ありません。
人の振り見て何とやらと言います。慌てて投稿して見直すという作業を怠りました。
辞世の句(辞世)で統一とてほしいは、統一してほしいですの誤りです。
③にある意義がありますは、異議かありますの誤りです。今後は、投稿する前に読み返して投稿します。
ありがとうございます。
またぜひご意見を送ってくださいませ。
ご期待に応えられないこともあるかとは思いますが、どうかよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
失礼します。