幕末の天才兵学者「大村益次郎(おおむらますじろう)」について、「功績」や「子孫のゆくえ」「おでこの真実「靖国神社との関係」などを、わかりやすく解説いたします。
「長州征伐や上野戦争など、幕府との戦争で大活躍」
「子孫は皇族と結婚」
かなり「おでこ」が広い人だった!
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この記事を短く言うと
・大村益次郎とは、「四境戦争(第二次長州征伐)」や「上野戦争」で活躍した兵学者(軍事の専門家)
・子孫には「大村和敏」さんらがいる
・長州藩士・山田顕義たちにより、その功績を称えるため東京「靖国神社」に銅像が建てられた
大村益次郎の功績とは?
幕末・・・長州藩の兵学者「大村益次郎」
靖国神社に銅像が建っているおでこが広いお方。
その大村益次郎とは、いったいどんな功績を残した人物なのでしょうか?
『大村益次郎』の功績
大村益次郎の功績を短く解説いたします。
・兵学者として、講武所・長州明倫館などで後進を育成
・長州藩において、高杉晋作が創設した「奇兵隊」などの軍制改革を行う
・四境戦争(第二次長州征討)で、長州の一部隊を率い、幕府軍を撃破した
・上野戦争で指揮を執り、日本最強の「肥前藩」の軍をつかい、わずか1日で旧幕臣・彰義隊3000人を撃破
・明治維新後、西郷隆盛を全く評価せず、「西で起こる反乱に注意すべき」と予言し、西南戦争を予想していた
・吉田松陰の弟子「山田顕義」とともに、日本の軍隊を近代化するために、さまざまな改革を実施
日本の軍制改革を行った天才兵学者・・・それが「大村益次郎」。
元々大村益次郎は、医師の息子であり、自身も優秀なお医者様だったのですが、愛想笑いが出来なかったため、医師よりも兵学のほうが得意だったのだとか・・・
大村益次郎の子孫の現在と家系図
大村益次郎と、妻「琴子」の間に子供はおらず、「松二郎」という男児を養子に迎えています。
その「松二郎」の息子で、大村益次郎の孫「大村寛人」が、祖父「大村益次郎」の功績により、子爵の爵位を当たられています。
大村寛人にも子供はいなかったらしく、長州藩最後の藩主「毛利元徳」の息子を養子にもらっています。
平成の現在、大村益次郎の血を引く子孫は残っていません。
しかし、系図上で大村益次郎と繋がっている末裔は、「大村和敏」さんが残っておられます。
「大村和敏」さんは、皇室の「東久邇文子女王」とご結婚しておられます。
靖国神社に銅像がある理由
東京の「靖国神社」に、大村益次郎の銅像が建てられています。なぜ大村益次郎の銅像が建てられているのでしょうか?
元々靖国神社は、幕末から明治維新に功績があった志士や、戦争などで国のために亡くなった軍人を祭るための神社です。
英霊・・・・・・・・・・靖国神社に祭られている方々のことを、「英霊」と呼ぶようになったのは「日露戦争」以後。
大村益次郎は、日本の軍隊を近代的なものとするために奔走した、日本陸軍創設の祖と言ってもよい人物なのです。
明治政府・兵部省の事実上トップだった大村益次郎がまとめた軍制は、吉田松陰の弟子「山田顕義」や「山県有朋」によって「徴兵制」として形になっています。
1882年(明治15年)、山田顕義たちにより、大村益次郎の銅像を靖国神社へ建立することが計画されています。
「日本陸軍の祖」・・・・・それが大村益次郎の銅像が靖国神社に建立されている理由なのです。
大村益次郎は、「おでこ」が広かったの?
大村益次郎の肖像画・・・以下の代物が有名ですよね。
この肖像画は、西郷隆盛の肖像画を描いたことで有名な画家「キヨッソーネ」が書いた物。
本人の写真は、一つもありません。
一見するとわかりますが、おでこが異常に広く、頭が大きいです。ドラマなどでも、大村益次郎を演じる方々は、カツラなどを駆使して、頭を大きくしておられます。
本当にこんなにおでこが広い人だったのでしょうか?
大村益次郎を知る人たちは、その容貌について「大頭」「広額」と証言しています。つまり「頭が大きく、額が広い」ということ。
高杉晋作は、大村益次郎に「火吹きだるま」とあだ名をつけたと言われています。「火吹きだるま」とは、水を入れて火バチの中に入れておくと、蒸気を吐いて火を起こす、ダルマで形作られた銅器のことです。そんなあだ名をつけられたということは、かなり特殊な要望をしていたことがわかります。
ただ、人相学によると、「おでこが広い」「頭が大きい」人物は、深く広い「知性」の持ち主であるのだとか・・・しかも、額が広いと育ちがいいと言われています。
大村益次郎は、緒方洪庵の「適塾」に入門し、福沢諭吉たちとともに勉強した秀才。そして医者の子ですし、若い頃から何年も留学できているところから考えても、育ちが良いのは間違いないでしょう。
額が広い人は、社会のリーダーになる可能性が高いのだとか・・・。大村の半生を知れば、彼が不世出のリーダーだったことは明らかです。
大村益次郎・・・・その容貌は、上記の肖像画と、ほぼ同じであったと考えて間違いないのではないでしょうか。
つまり、本当におでこが広かった・・・ということです。
余談ですが、「火吹きだるま」と呼ばれた「大村益次郎」ですが、後任者である「山田顕義」は、幼い頃「鼻垂れダルマ」と呼ばれていました。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・大村益次郎は、兵学者として軍を率い「第二次長州征討」「上野戦争」で勝利を収め、明治政府で近代的な軍制改革の礎をつくった
・靖国神社に銅像があるのは、近代陸軍の基礎をつくった人物だから
・大村のおでこが広いことは、当時から有名だった
以上となります。
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