明智光秀の娘「細川ガラシャ」を徹底解説!子孫は天皇陛下と総理大臣

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明智光秀と正室・煕子の間に三女として生まれた明智珠は、成長して細川忠興の正室となり、夫に内緒でカトリックの洗礼を受けました。

 

「関ヶ原の戦い」の直前、石田三成に人質にとられそうになり、壮絶な最期を遂げた「細川ガラシャ」がその人です。

 

ところで、ガラシャの子孫は、今も活躍を続けていることをご存知ですか?

 

この記事では、ガラシャの生涯や子孫について、わかりやすく解説していきます。

 

これを読んで「そうだったのか、細川ガラシャ!」と、疑問をスッキリと解消して下さいね。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,現在の「天皇陛下」は、明智光秀の三女「細川ガラシャ」の子孫にあたる。ガラシャの夫「細川忠興」の末裔である元首相「細川護熙」氏は、ガラシャの子孫ではなく、細川忠興の側室の子孫

 

2,ガラシャの辞世の句は「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」。その意味は「花は散るときを知っているからこそ美しい、私もそのようにありたい」

 

3,ガラシャは気性の激しい人物だった。夫の忠興が家来を刺殺し、その刀をガラシャの袖でぬぐった際、抗議の意味を込めてなのか、ガラシャはその「血塗られた小袖」をいつまでも着替えなかった、という逸話が残っている

 

4,「ガラシャ」のお墓は現在「3つ」存在している。

  1. 「大阪市東淀川区の崇禅寺」
  2. 「京都市北区の大徳寺高桐院」
  3. 「熊本県熊本市の立田自然公園」

 

5,ガラシャは、2つの家紋を使っていた。実家である明智家の家紋「桔梗紋」と、嫁ぎ先である細川家で夫「忠興」が使っていた「九曜紋」。


【細川ガラシャ】の子孫は天皇陛下と元総理大臣?

1600年、細川ガラシャは「関ヶ原の戦い」の直前、石田三成のために壮絶な最期を遂げました。

 

夫・忠興との間には何人もの子供に恵まれ、その子孫は現在も続いています。

 

中には、皆さんが御存知のとても有名な方もいますよ。

《細川忠興とガラシャ像:松波庄九郎さんによる写真ACからの写真》

ガラシャの子孫についてお伝えする前に、その生涯を簡単に振り返ってみましょう。


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「細川ガラシャ」の生涯

1563年、明智光秀と正室・煕子の間に女の子が生まれました。

 

後の「細川ガラシャ」です。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

その娘は「珠(たま)」と名付けられすくすく育ち、1578年に父・光秀の主君である織田信長の命令により、細川藤孝の嫡男・忠興に嫁ぎます。

 

珠と忠興は勝龍寺城で新婚生活を過ごしましたが、この城は奇しくも「本能寺の変」を起こした父・光秀が「山崎の戦い」で羽柴秀吉に敗れ、逃げ込んだ城となりました。

 

1582年、父・光秀が「本能寺の変」を起こして主君「織田信長」を討ち果たしたために、謀反人の娘となった「珠」は、夫・忠興によって丹後国の味土野(みどの・京都府京丹後市)へと幽閉されます。

 

当時の慣習としては、離縁して実家に帰されるところですが、実家である明智家が「羽柴秀吉」によって滅ぼされてしまっていますから、帰せませんよね。

 

味土野には明智家の茶屋があったので、形式的に「実家に帰した」ことにしたわけです。

 

しかし、忠興は珠のことを大切に思っていたようで、珠は味土野に幽閉されていた時期に、何人もの子供を産んだのです。


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1584年、「豊臣秀吉」の取りなしで、珠は京都へと戻ることを許されますが、忠興は珠に常に監視をつけていました。

《細川忠興》
「引用元ウィキペディアより」

そんな生活の中、忠興が「高山右近」から聞いたカトリックの話を耳にして、珠は強く心を惹かれます。

 

1587年2月、忠興が九州征伐へと出陣した際、珠は侍女たちに紛れて屋敷を抜け出し、イエズス会の教会を訪れました。

 

その場で洗礼を望んだものの、身なりからして、かなり高い身分の女性と察した教会側は、その場での洗礼を見合わせます。

 

一方、侍女たちの帰りが遅いことで、珠が屋敷を抜け出したことに気付いた細川家の家臣は、教会に籠を差し向けて珠を連れ帰りました。

 

教会はこの籠を尾行し、珠が細川家の奥方だと知ったのです。

 

監視される生活で外出できる見込みのない珠は、侍女たちを通して教会とやり取りし、カトリックの教えにどんどん傾倒していきました。

 

遂にはイエズス会士の計らいで、侍女「清原マリア」から洗礼を受け、「Gratia」という洗礼名を与えられたのです。

 

珠のことを「細川ガラシャ」と呼ぶのは、洗礼名の「Gratia」を明治時代にカトリック信者が「ガラシャ」と読んだことによるもので、ラテン語の本来の発音では、「グラツィア」という読み方になります。

 

こうして歴史上に名高い「細川ガラシャ」が誕生しました。

 

さて、九州征伐を終えて帰ってきた忠興は、秀吉が「バテレン追放令」を出していたこともあり、自分に内緒で珠が洗礼を受けたことを知って烈火のごとく怒り狂い、棄教を迫ったのです。(秀吉は、九州でキリスト教が日本人を奴隷として売買していた事実を知り、バテレン追放を決めたという)

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」

しかし、ガラシャは頑として聞き入れず、忠興は渋々黙認することにします。

 

それだけ、忠興はガラシャのことを大切に思っていたのでしょう。

 

しかし、自分に内緒で洗礼を受けたことに相当腹が立ったのか「側室を5人もらう」などと言い出し、珠につらく当たり始めます。

 

ガラシャは忠興との離縁を望むようになりますが、カトリックの教義では、離婚は認められていません。

 

宣教師に諭されて離縁を思いとどまったガラシャは、波風のたった忠興との関係に、強い信仰心を持って立ち向かったのです。


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「ガラシャ」の子孫たち

さて、ガラシャと忠興は何人(成人したのは「3男2女」)も子供に恵まれました。その子孫には私達が良く知っている人物がいますよ。

 

まず、1人目は「今上天皇陛下」です。

 

皇室に「細川ガラシャ」の血が伝わっていることに、驚く方もいらっしゃるかも知れませんね。

 

幕末の第121代「孝明天皇」は、徳川幕府第14第将軍「徳川家茂」の妻である皇女「和宮親子内親王」の兄にあたり、第122代「明治天皇」の御父君にあたられます。

≪孝明天皇≫
『引用元ウィキペディアより』

孝明天皇の母親は、忠興とガラシャの長男「細川忠隆」の娘「徳」の末裔です。

 

忠隆は、父「細川忠興」の怒りを買い、廃嫡されて出家した後に正室との間に子供をもうけており、その1人である「徳」は、公家「西園寺実晴」に嫁ぎました。

 

徳は「西園寺公満」を生みましたが、この公満の子「実尚」は子供に恵まれず、西園寺家でのガラシャの血脈は途絶えます。

 

しかし「実尚」の妹が公家「久我通名」に嫁ぎ、「広幡豊忠」を生みました。

 

この豊忠の娘が「正親町実連」に嫁いでガラシャの血脈を繋ぎ、「孝明天皇」の母親「正親町雅子」に繋がっていったのです。

《ガラシャ家系図1》
「家系図の引用等はご遠慮くださいませ」

実は、今上陛下に流れているガラシャの血脈は、この一筋だけではありません。

 

忠興とガラシャの末娘「多羅」は、豊後臼杵藩第3代藩主「稲葉一通」に嫁ぎ、第4代藩主「信通」を産みました。

 

稲葉信通は正室に「織田信良(織田信長の次男「織田信雄」の四男)」の娘を迎えています。

《ガラシャ家系図2》
「家系図の引用等はご遠慮くださいませ」

ちょっとびっくりしますが、「明智光秀のひ孫」が、「織田信長のひ孫」をお嫁さんにもらったわけですね。

 

豊後臼杵藩は、こうしてガラシャの血をつなぎ、第7代藩主「稲葉恒通」の娘は公家「勧修寺顕道」に嫁ぎ、「経逸」を産みました。

 

経逸の娘は御所にあがり、第119代「光格天皇」の典侍となって、第120代「仁孝天皇」の母となります。

《光格天皇》
「引用元ウィキペディアより」

仁孝天皇は孝明天皇の父親ですから、孝明天皇は「父方・母方双方に、女系でガラシャの血を引いている」というわけですね。

 

こうして、

孝明天皇

明治天皇

大正天皇

昭和天皇

上皇陛下

今上陛下

と続く皇統には、女系で「ガラシャの血」が流れているのです。


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2人目は、元内閣総理大臣です。

 

「関ヶ原の戦い」以後に、肥後熊本藩の藩主となった細川家は、明治維新後は華族になった名門ですよね。

 

その名門一族の出身に、上智大学を卒業後に朝日新聞記者を経て政界入りし、熊本県知事と衆参両院議員を経て「第79代内閣総理大臣」に就任した「細川護煕」氏がいます。

《細川護熙 元首相》
『引用元ウィキペディアより』

じゃあ、総理大臣だった細川さんも、肥後熊本藩主の末裔だし、ガラシャの末裔なの?と思われるかも知れませんが・・・実はそうではないのです。

 

忠興の3男「忠利」が細川家の家督を継ぎ、初代肥後熊本藩主となりました。

 

第7代肥後熊本藩主「細川治年(はるとし)」の代まで、藩主にガラシャの直系の血脈が流れていたのですが、残念なことに「治年」は実子に恵まれなかったのです。

 

実子に恵まれなかった「治年」は、忠興が側室「幾知(津田鎮乗の娘)」との間にもうけた4男「立孝」の子孫にあたる肥後宇土藩藩主「斉茲」を養子に迎え、家督を継がせました。

 

それ以来、肥後熊本藩藩主の細川家は、ガラシャの血統ではなく、側室の子の血統となったのです。

《ガラシャ家系図3》
「家系図の引用等はご遠慮くださいませ」

つまり「細川護煕」氏は、男系では「細川忠興」直系の子孫だけれど、「ガラシャの血は引いていない」ということになります。

 

しかし実は、「細川護煕」氏は女系で「ガラシャの血を引いている可能性がある」のです。

 

細川護煕氏の祖母「博子」さんは、池田家の出身ですが、その祖先をたどると仙台藩主「伊達吉村」の正室「長春院(久我貞子、通称は冬姫)」にたどり着きます。

 

この「長春院」の父は「久我通名」ですが・・・先程、皇室にガラシャの血が流れていると説明した中に、名前が出てきた公家ですね。

 

実はこの「長春院」の母親が、誰なのか・・・それがハッキリしていないのです。

 

「長春院」の母親は、「西園寺公満の娘」か、または「松向殿」であると考えられます。

 

長春院の母親が「西園寺公満」の娘であれば、「細川護煕」氏は「ガラシャ」の血を引いていることになります。

《ガラシャ家系図1》
「家系図の引用等はご遠慮くださいませ」

しかし「長春院」の母親が、側室の「松向殿」だった場合は、「細川ガラシャ」と「細川護煕」さんの間に、血縁関係がないことになります。

《ガラシャ家系図4》
「家系図の引用等はご遠慮くださいませ」

このように細川護煕氏は、忠興の直系ではあるけれども、ガラシャの血を引いているかどうかは定かではありません。

 

ガラシャの子孫として他に有名な方には、「細川忠興」から廃嫡された長男「忠隆」の子孫がいます。

 

衆議院議員から聖女評論家になった「細川隆元」氏、政治評論家の「細川隆一郎」とその娘でジャーナリストの「細川珠生」さん。

 

「細川珠生」さんはカトリック信者で、洗礼名は先祖と同じ「ガラシャ」ですよ。


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細川ガラシャの最期!「辞世の句」とその意味を紹介

1587年、細川邸で侍女の「清原マリア」から洗礼を受けたガラシャは、強い信仰心を抱いてカトリックの教義に基づき、夫「忠興」との離縁を思いとどまりました。

 

カトリックの洗礼を受ける前のガラシャは気位が高く、気性が激しかったのですが、洗礼後は穏やかで忍耐強い性格になったと言われています。

 

恐らく、宣教師から忠興との離縁を思いとどまるように説得され、忠興から辛くあたられることに耐えるうち、忍耐強さを身につけていったのでしょう。

 

細川忠興は短気で嫉妬深い性格だったようで、「ガラシャの美しさに見とれた植木職人を手打ち(処刑)にした」、という怖い伝承も残っています。

 

「本能寺の変」後にガラシャを離縁しなかったことからもわかるように、忠興はガラシャを深く愛していました。

 

1592年朝鮮出兵「文禄の役」で朝鮮半島に進軍した忠興は、ガラシャに何度も

「秀吉の誘惑に乗るな」

と書状を書き送っています。

 

関白「豊臣秀吉」が極度の女好きで、家来の妻にまで手を出していたため、ガラシャが目を付けられないように心配し、忠興なりに気を配っていたのでしょう。

 

1598年、関白「豊臣秀吉」が亡くなり、忠興は「石田三成」と対立し、「徳川家康」に味方します。

 

1599年、忠興は「加藤清正」「福島正則」「池田輝政」ら「七将」とともに、「石田三成」を襲撃しました。

《加藤清正》
「引用元ウィキペディアより」

世の中がどんどん大きな戦に向かっていく流れの中、1600年、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」が起こります。

 

1600年7月16日、家康に味方することを早々に表明した忠興は、「上杉景勝」を倒すために、「会津征伐」に出陣しました。

 

忠興は戦に出陣する前に必ず

「自分が不在の時に、妻の名誉に危険が生じた場合は妻を殺し、妻に殉死するように」

と、家来たちに言い残していったのですが、この時も同様に言い残しました。

 

主君・忠興が出立した直後の大坂の細川屋敷に、ガラシャを人質に取ろうとした石田三成が訪れますが、ガラシャはその申し出をキッパリと拒絶しました。

 

ならば武力で、と考えた三成は、翌7月17日、細川屋敷を兵に囲ませます。

 

家臣から報告を受けたガラシャは、屋敷内の女性を全員集め、それぞれに任務をあたえる形で外へと逃がしました。

 

その上で

「夫の命令どおりに私だけが死ぬ」

と言い、カトリックの教義で自殺が禁じられているため、細川家家臣「小笠原秀清(別名・小笠原少斎)」に命じて自分を殺させたのです。(余談だが、このとき「稲富流砲術」の開祖である鉄砲の名人「稲富佑直(いなとみ すけなお)」は、一人だけ逃亡したという)

 

辞世の句は

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」

だったと『細川家記』には記されています。

 

この辞世の句は

「花は散るときを知っているからこそ美しい、私もそのようにありたい」

という意味で、人質となって夫の足を引っ張らない、という覚悟を謳っているのですね。

 

辞世の句として伝わっているものの中でも、かなり人気の高い句となっています。


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そんなガラシャの覚悟を知っていた小笠原秀清は、ガラシャの遺体が敵の手に渡らないよう、屋敷に爆薬を仕掛けてから火を点け、自刃しました。

 

ガラシャの壮絶な最期は、石田三成を驚かせ、諸大名の妻子を人質にとる西軍の作戦にマイナスの影響を与えたのです。

 

もしこの時、ガラシャが三成に人質にされていたら、「関ヶ原の戦い」は西軍が勝利していたかも知れませんね。

 

さて、ガラシャの壮絶な死から数時間後、イエズス会士「グネッキ・ソルディ・オルガンティノ」が、爆薬の威力で全焼した細川屋敷の焼け跡を訪れ、ガラシャの遺骨を拾い集めました。

 

「オルガンティノ」はガラシャの遺骨を、堺のキリシタン墓地に埋葬したのです。

 

1601年、「関ヶ原の戦い」が東軍の勝利に終わった後、世の中が落ち着きを取り戻し始めた頃、忠興はオルガンティノにガラシャの教会での葬儀を依頼し、自らも参列しました。

 

忠興はさらに、ガラシャの遺骨を大坂の崇禅寺に改葬します。

 

ガラシャが壮絶な最期を遂げる前に、外に逃がした女性の中には、忠興とガラシャの嫡男「忠隆」の正室「千世」(前田利家の娘)もいました。

 

千世の姉「豪姫」は、五大老のひとり「宇喜多秀家」の正室だったので、千世は細川屋敷の隣にあった宇喜多屋敷に逃げ込んだのですが、これを知った忠興は激怒し、忠隆に千世を離縁するように命令します。

《宇喜多秀家》
「引用元ウィキペディアより」

しかし忠隆が反発したため、忠興は「忠隆」を廃嫡しました。

 

ガラシャに殉死せずに逃げた「千世」に怒り猛ったとも、あるいは千世の実家「前田家」との関係を絶ちたかったからだとも言われています。

 

ガラシャにつらくあたった忠興でしたが、自分に内緒でカトリックの洗礼を受けたことに怒ってはいても、それでもガラシャを大切に思い、愛していたのでしょう。

 

ガラシャが壮絶な最期を遂げた大阪の細川家屋敷跡地には、大阪大司教区司教座(大司教がいる聖堂・現在の大阪大司教は「前田万葉」枢機卿)である「カトリック玉造教会」が建っています。

敷地内にはガラシャの辞世の句の句碑、「ガラシャ」と「高山右近」の石像もあります。

 

信者ではなくても見学は可能ですから、近くに行った際には見学させていただきましょう。


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細川ガラシャにまつわる逸話!「刀と血塗られた小袖」など

忠興とガラシャはともに美しく、美男美女の夫婦だったと言われています。

 

しかし先述したように、忠興は短気で激しやすく、また、ガラシャも洗礼を受ける前は気位が高く気性の激しい性格でした。

 

夫婦喧嘩したら・・・相当、激しかったでしょうね。

 

ガラシャが細川屋敷を抜け出して教会を訪れた際、対応した日本人宣教師は、洗礼を願い出たガラシャの印象を

「非常に聡明でこんなに賢い女性は初めて見た」

と書き残しています。

 

またある時は

「戦闘になって甲冑を着け馬に乗って敵に向かっても、私は男に劣るまい」

とガラシャは語ったとのことです。

 

ガラシャは優れた容姿の持ち主であり、聡明であり、いざ事が起これば甲冑を身にまとって戦場におもむく覚悟と豪胆さを持ち、ただし気位が高くて気性が激しい性格だったのですね。

 

聡明さ、豪胆さ、覚悟の強さは父「光秀」から受け継いだものでしょう。

 

さて、共に気性の激しかった忠興とガラシャには、様々な逸話が残っています。


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「鬼の妻には蛇がお似合い」

忠興とガラシャが食事中、ガラシャは食べ物に髪の毛が入っていることに気付きましたが、そっと隠しました。

 

忠興が気付いたら料理人が手打ちにされてしまうからです。

 

ところが、運悪く忠興がこれに気付いてしまい、案の定料理人は手打ちにされてしまいました。

 

忠興はその料理人の首をはね、あろうことかガラシャのお膳に据えたのです。

 

しかしガラシャは一切動揺せず、それを見た忠興が

「お前は蛇じゃ」

と言ったのに対し

「鬼の妻には蛇がお似合いでしょう」

と返しました。


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「血塗られた小袖」

ある時、ガラシャの元に赴こうとした下僕を忠興は手打ちにし、刀に付いた血をガラシャの小袖で拭き取ったのです。

 

しかしガラシャは一切動ぜず、血のついた小袖を着続けたため、遂に忠興が折れて謝罪。

 

ガラシャはやっと着替えた、という逸話も残っています。


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父「光秀」の仇「豊臣秀吉」への殺意

1584年、秀吉の取りなしで細川屋敷に戻ったガラシャに対し、秀吉は謁見を申し付けました。

 

しかし父「光秀」の仇である秀吉への恨みを、ガラシャは決して忘れておらず

「殺されても行くつもりはない」

「どうしてもと言うなら懐剣を忍ばせて、その場で秀吉を殺す」

と忠興に言います。

 

恐れおののいた忠興は秀吉に

「光秀の娘を登城させるのはいかがなものか」

と伝え、さすがの秀吉も恐れをなしたのか、それ以降は謁見を申し付けることはありませんでした。

 

このように、洗礼以前のガラシャは気性が激しい女性だったのです。

 

忠興も短気で激しやすい性格でしたから、ある意味似た者夫婦だったのでしょうね。


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「細川ガラシャ」のお墓はどこにある?

細川ガラシャのお墓は、一体どこにあるのでしょう?

 

実は、細川ガラシャのお墓は3つあるのです。

「崇禅寺」

1つ目は、堺のキリシタン墓地から改葬された「崇禅寺(大阪市東淀川区)」のお墓です。

《崇禅寺の細川ガラシャ墓所:WikipediaよりKENPEIによる撮影》

このお墓には、オルガンティノが拾い集めた遺骨が埋葬されています。


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「大徳寺高桐院」

2つ目のお墓は京都の細川家菩提寺である、「大徳寺高桐院(京都市北区)」にあります。

《大徳寺》
「引用元ウィキペディアより」

大徳寺高桐院は、忠興が父「細川藤孝(幽斎)」のために建立したお寺で、本堂西側の庭園の奥に細川家墓所の中に、春日灯籠を利用した忠興とガラシャの墓塔があるのです。

この春日灯籠は、「忠興」が師である「千利休」から譲られ、非常に気に入っていたもので、生前に墓標にすると決めていました。

 

1600年のガラシャの死から45年後、1645年に忠興は亡くなり、遺言で忠興の歯が、大徳寺高桐院に埋葬されたのです。


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「立田自然公園」

3つ目のお墓は、立田自然公園(熊本県熊本市)の中にあります。

元々この場所には、龍田山泰勝寺という熊本での細川家の菩提寺がありました。

 

泰勝寺は、明治維新後の廃仏毀釈で廃寺とされ、建物は細川家の別邸となります。

 

現在の立田自然公園は、細川家屋敷、庭園、細川家墓地の3つの部分からなり、墓地にガラシャのお墓があります。

 

忠興の死の翌年・1646年にガラシャの墓所の隣に忠興の墓所が作られました。

 

残念ながら、2016年の熊本地震の影響で、立田自然公園の庭園などは、2020年1月現在、まだ見学できないようです。

 

しかし、細川藤孝(幽斎)夫妻と忠興夫妻の墓所が、4つまとまってあるため「四つ御廟」と呼ばれるこの一角は、見学可能だそうですよ。

 

熊本を旅行する際に、ガラシャと忠興を偲んで、拝観してみてはいかがでしょう?


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家紋は「桔梗」と「九曜紋」!

ガラシャが使っていた家紋は、明智家の「桔梗紋」と細川家の「九曜紋」です。

 

現代でも、お嫁に行くと旦那さんの家の家紋を使うようになりますよね?

 

ガラシャも同様で、嫁いだ時から細川家の家紋「九曜紋」を使うことになりました。

 

この九曜紋は、実は忠興の代から使い始めたものなのです。

 

忠興は幼少の頃から織田信長と面識があり、信長の前で踊りを披露することもあったそうです。

 

信長は忠興を非常に気に入って、可愛がっていました。

 

1577年、信長に反旗を翻した「松永久秀」を、父・藤孝や明智光秀とともに攻めた際に、忠興は勇敢に戦い、落城に貢献しています。

《松永久秀》
「引用元ウィキペディアより」

この時、信長は右筆(ゆうひつ・偉い人に仕える書紀)には任せず、自ら筆をとって忠興に書状を送ったほどでした。

 

忠興は終生、この信長からの書状を大切にしていたと言います。

 

1578年、忠興は元服し、信長の命令で「ガラシャ」と結婚しました。

 

信長の小刀の柄に入っていた「九曜」を忠興が気に入っていたことを覚えていた信長は、結婚に際して、この九曜を紋に使うようにと、忠興に命じます。

 

これ以来、細川家の家紋は「九曜紋」となりました。

《九曜紋(くようもん)》
「引用元ウィキペディアより」

嫁いだ先の家紋ですから、ガラシャはこの九曜紋を家紋として用います。

 

しかし、実家・明智家の家紋「桔梗紋」も用いていました。

《桔梗紋》
「引用元ウィキペディアより」

明智家の桔紋は、黒ではなく水色が使われており、信長がそれをみて羨ましがったという逸話が残っていますよ。


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さて、カトリックには、ロザリオ(コンタツとも呼ばれています)という、聖母マリアに祈りを捧げる道具があります。

《現代のロザリオ:lcbによるPixabayからの画像
*中央にローマ教皇・フランシスコのセンターメダイがある。ガラシャはここに桔梗紋を使ったと考えられる》

ロザリオは、十字架とセンターメダイ(メダルのこと)を持った、数珠に似た形状をしており、珠を1つずつ繰りながら、聖母マリアへの祈りを唱えていくものです。

 

15世紀に現在の形式になり、日本には16世紀にキリスト教が伝えられた時に伝わりました。

 

戦国時代のキリシタン大名として知られる「高山右近」の本拠地であった大阪府高槻市のキリシタン墓地からは、恐らく日本最古と考えられるロザリオが出土しています。

 

死者の手首に巻かれて発見されたロザリオ、それを復元した写真が高槻市のホームページに掲載されています。

 

「高槻市のホームページ」はこちら

 

数珠のようにも見えますが、先端に十字架が付いていることがわかりますね。

 

ガラシャもカトリックの信者として、ロザリオを用いて聖母マリアに祈りを捧げていたはずです。

 

ガラシャが愛用していたロザリオには、明智家の家紋である桔梗紋が用いられていたと言われています。

 

あくまでも私の想像ですが、センターメダイに桔梗紋が用いられたのでしょう。

 

このロザリオは、ガラシャが壮絶な最期を遂げた時に、その手に握られていたのではないでしょうか。

 

細川屋敷内にはガラシャと運命をともにした小笠原秀清もいたのに、なぜ「オルガンティノ」はガラシャの遺骨を拾い集めることができたのか。

 

恐らくですが、遺骨の周辺に、「ロザリオの珠が散らばっていた」からでしょう。


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「細川ガラシャ」について「ひとこと」いいたい

舅・細川藤孝に従い、禅宗を信仰していたガラシャなのですが、カトリックに改宗した理由について、実ははっきりとはわかっていません。

《天授庵所蔵の細川藤孝(幽斎)肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン》

あくまでも私個人の見解ですが、ガラシャが改宗に至ったのは、舅「藤孝」と夫「忠興」に対する憎しみの気持ちを和らげ、神に救いを求めたからではないでしょうか。

 

1582年、「本能寺の変」を起こした明智光秀は、細川藤孝と娘婿の忠興に対して、「自分に味方してくれるように」と依頼しますが、彼らは拒絶しました。

 

なぜ藤孝と忠興は、光秀を助けなかったのでしょうか?

 

光秀は朝倉義景に仕えていた頃に、足利義昭を通じて細川藤孝と知り合い、親交を深めました。

《足利義昭》
「引用元ウィキペディアより」

出会った当初、光秀と藤孝の間には、その身分に上下関係があったのではないか、と考えられています。

 

細川家は、「足利尊氏」ら「足利氏」の庶流、つまり分家。

 

「室町幕府」では、「三管領家」と呼ばれた細川家は、「畠山家」「斯波家」と並ぶ名門だったのです。

 

しかし、ともに織田信長の家臣となった後、信長から深い信頼を得て家臣団の中で出世したのは、細川藤孝ではなく、明智光秀でした。

 

私個人の考えですが、親しくしつつも自分より身分が下だった「光秀」の出世に対して、藤孝は鬱屈とした思いを抱いていたのではないかと思います。

 

藤孝は光秀の協力要請に対して

「自分は出家して、家督は息子の忠興に譲ったから、頼むなら私であhなく、忠興に頼んでくれ」

などと、のらりくらりとかわし続けました。

 

その忠興は、信長に非常に可愛がられていましたから、信長を死に追いやった義理の父親「明智光秀」に味方する気には、到底なれなかったでしょう。

 

こうして細川父子から見放された光秀は、「山崎の合戦」で「羽柴秀吉」にあっけなく敗れてしまいます。

 

ガラシャは、舅と夫が父「光秀」を見捨てたことが、父「光秀」が敗死した原因だと思ったことでしょう。

 

表には出さないようにしていたでしょうけれど、細川父子に対して恨む気持ちは抱いたはずです。

 

そんな時、「高山右近」の信仰しているカトリックの教えを夫「忠興」から聞かされ、強く関心を抱きました。

《高山右近》
「引用元ウィキペディアより」

キリスト教の教えを簡単に言うと

「神を愛すること」

「自分を愛するように隣人を愛すること」

「人を許すこと」

です。

 

舅と夫に対する憎しみの炎を抑えるために、ガラシャはカトリックに改宗したのでしょう。

 

しかし忠興は、キリシタンだった侍女の耳や鼻を削いで屋敷から追い出すなど、残忍なことをしてガラシャに棄教を迫ります。

 

離縁も考えたものの、離婚は禁じられているため思いとどまり、その代わりに愛用するロザリオに明智家の家紋「桔梗紋」を用いました。

 

桔梗紋を用いたのは、ガラシャは心の奥底で、夫と離縁した気持ちになっていたのか、あるいは父「光秀」のために祈るためだったのかはわかりません。

 

ガラシャの死後、忠興は「キリスト教禁教令」が出ていたにも関わらず、領地内での信仰を黙認しました。

 

それほど、忠興はガラシャを愛していたのでしょう。

 

余談ですが、ガラシャが「キリスト教」を信仰した理由について、歴史学者「磯田道史」先生は、とあるテレビ番組で

「謀反人であった父『明智光秀』は、『仏教』では地獄へ落ちてしまうが、『キリスト教』の教えによれば天国へ行ける。

ガラシャは父を天国へと行かせるために、キリスト教へ改宗したのではないか」

とおっしゃっておられました。

 

父「光秀」が「謀反人」であったため、ガラシャはその一生のどこかで「父とは正反対のことをしなくてはいけない」と思っていたのでしょう。

 

もしも「石田三成」に降伏を迫られた際に「逃亡」していたら、ガラシャは「明智光秀の娘だから、逃げ出して当然」と、あざけられていたはずです。

 

「逃げずに、夫の細川忠興の命令に従い、亡くなった」

 

夫の命令に最期まで従った彼女の胸には、おそらく父「明智光秀」の汚名を挽回したいという、強い想いがあったのでしょう。

 

そしてガラシャは、なんとしてでも父「光秀」の名誉を取り戻したいという思いを強く抱かせるほどに、光秀から愛情を注がれていたのだと思います。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,明智光秀の三女「細川ガラシャ」の子孫には現在の「天皇陛下」がおられる。元内閣総理大臣「細川護熙」氏も細川家の末裔だが、ガラシャの子孫ではなく、細川忠興の側室の子孫。

 

2,辞世の句は「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」。その意味は「花は散るときを知っているからこそ美しい、私もそのようにありたい」。

 

3,ガラシャの夫・忠興が家来を刺殺し、その刀をガラシャの袖でぬぐった際、彼女は夫を戒める意味を込めてか、その血塗られた小袖をいつまでも着替えなかった、という逸話が残っている

 

4,「ガラシャ」のお墓は「3つ」ある。「大阪市東淀川区・崇禅寺」「京都市北区・大徳寺高桐院」「熊本県熊本市・立田自然公園」

 

5,ガラシャは明智家の家紋「桔梗紋」と、嫁ぎ先である細川家で夫「忠興」が使っていた「九曜紋」、この2つを家紋として用いていた

明智光秀と煕子の三女として生まれた「明智珠」は細川忠興に嫁ぎ、幸せに暮らしていましたが、父が「本能寺の変」を起こしたことで謀反人の娘となり、幽閉生活を送りました。

 

3男2女の子供に恵まれた忠興とガラシャの子孫には、今上天皇陛下、細川護煕元総理などがいます。

 

許されて細川家屋敷に戻ったのちも、夫・忠興による監視が続きますが、キリスト教と出会い、内緒で改宗し、ガラシャという洗礼名を与えられます。

 

ガラシャは忠興が棄教を迫っても聞き入れず、忠興も渋々黙認しました。

 

「関ヶ原の戦い」の直前、石田三成に人質にされそうになったガラシャは、人質になることを拒み、家臣に自分を殺させたのです。

 

忠興は「関ヶ原の戦い」の翌年にあたる「1601年」、キリスト教形式でガラシャの葬儀を執り行いました。

 

ガラシャが壮絶な最期を遂げた大坂の細川家屋敷跡の一角には、現在、カトリック玉造教会が建てられています。

《越中井(細川家屋敷井戸跡)聖石対戦ぷぅぷぅの撮影:Wikipediaより
*カトリック玉造教会近くにある、ガラシャ最期の地・細川家屋敷井戸の跡地。忠興が越中守だったので越中井と呼ばれている。》

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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