豊臣秀吉の天下統一までの道のりを、簡単に解説いたします。
なぜ「農民」だった秀吉は、「天下統一」という大出世を果たすことが出来たのでしょうか?
その理由は、戦い方・主君選び・冷酷さにあったのではないでしょうか。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
・秀吉は17歳で「織田信長」の家臣となり、45歳で「本能寺の変」により信長が亡くなり、53歳で「天下統一」を達成した
・秀吉が天下統一できた理由は「戦い方」「主君選び」「冷酷さ」の3つ
・晩年の秀吉が、おかしくなったのは、弟・豊臣秀長を失ったため
豊臣秀吉の天下統一までの道のり
豊臣秀吉の天下統一までの道のりを「年表」で解説いたします。
・1537年、尾張国(現在の愛知県西部)中村で生誕。父「木下弥右衛門」・母「なか」
・1550年、家出して遠江国へ・・・・今川家家臣「松下之綱」に仕え、後に出奔(夜逃げ)
・1554年、織田信長に小者(今で言う契約社員)として仕え始める
・1560年、信長、「桶狭間の戦い」で、「今川義元」を討伐
・1561年、「おね」と結婚
・1562年、信長が徳川家康と「清洲同盟」を締結
・1566年、墨俣一夜城を完成させる
・1567年、信長、美濃国を制圧(この頃、名軍師「竹中重治」を与力【協力者】とする)
・1568年、信長、京都を制圧し、近畿一体に勢力を伸ばす
・1570年、「金ヶ崎の退き口」で、秀吉は殿軍を務め、武功を上げる
・同年、浅井・朝倉連合軍を相手にした「姉川の戦い」後、横山城の城代を命じられる
・1573年、(羽柴秀吉を名乗る)・・・浅井滅亡の功績から、北近江三郡を治め、長浜城を本拠地とする
・1575年、「長篠の戦い」に参戦
・1576年、秀吉の長男「石松丸秀勝」が死去
・1577年、越前で上杉謙信との戦いに従軍・・しかし大将「柴田勝家」と大喧嘩して、勝手に撤退!信長に処刑されかけるが、「松永久秀」討伐に功を挙げ処分保留
・同年10月、秀吉、播磨国・但馬国の攻略開始・・・秀吉が中国地方・方面軍司令官に(この頃、名軍師「黒田孝高」を傘下に加える)
・1579年、備前国・美作国の大名「宇喜多直家」を傘下に加える
・1580年、播磨国・三木城を陥落させる
・1581年、毛利家の支配地域・鳥取城を陥落させる
・1582年、備中高松城で、水攻めを開始
・同年6月2日、「本能寺の変」・・・主君・織田信長が、本能寺で秀吉のライバル「明智光秀」に殺害される
・同年6月13日、「山崎の戦い」で明智光秀を討伐
・同年6月27日、「清州会議」で主導権を握り、実質的な信長の後継者となる
・1583年、「賤ヶ岳の戦い」で、織田家の筆頭家老「柴田勝家」に勝利
・同年、大坂城築城
・1584年、「小牧・長久手の戦い」で「徳川家康」に敗北。
・1585年、「四国制圧」・・・後に「関白」に就任(関白とは、天皇の第一臣下)
・1586年、「九州制圧」
・1587年、バテレン追放令
・1588年、刀狩り令
・1589年、側室「茶々(淀殿)」が次男「鶴松」を出産
・1590年、「小田原征伐」・・・「伊達政宗」が降伏・・・奥羽仕置を経て天下統一を完了
・1591年、関白を辞職(弟・大納言「豊臣秀長」死去)(鶴松・死去)
・1592年、朝鮮出兵を開始(文禄の役)
・1593年、三男・秀頼が誕生
・1597年、二度目の朝鮮出兵(慶長の役)
・1598年8月18日、京都・伏見城で死去(享年62歳)
「本能寺の変の真相」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。よろしければご利用下さいませ。
秀吉が天下統一出来た「3つの理由」
農民であった秀吉が天下統一できた理由は、以下の「3つ」があるのではないでしょうか。
- 「戦い方」
- 「主君の選び方」
- 「冷酷さ」
最初に「戦い方」
秀吉の戦い方・・・それは「人たらし」と呼ばれる人心掌握術
秀吉は、交渉によって敵の中で「裏切り者」を発生させ、自分に取り込むという方法を好みました。
更に、「兵糧攻め」を駆使して、自分の損害を最小限に留める方法も、よく使っていたのです。
「裏切らせる」ことと「兵糧攻め」・・・これら「自軍の被害を最小限とする戦い方」が、秀吉の軍を肥大化させ、強力な軍団を形成させたのではないでしょうか。
次に「主君の選び方」
秀吉は、当時まだ弱小だった「織田家」を就職先に選んでいます。
特に信長は、当時「うつけ」と呼ばれて、評判の悪い主君でした。
しかし秀吉は、その将来性を見抜き、信長に仕官します。
急拡大する織田家で、秀吉は明智光秀と並び、メキメキと頭角を現したのです。
そのため信長が亡くなり、唯一秀吉と比肩できた明智光秀を討ち果たしてしまうと、実質的に秀吉に比肩できる勢力は・・・数えるほどしかありませんでした。
最後に「冷酷さ」
人殺しを好まなかった、といわれている秀吉。
しかしそれは全くのデタラメです。
特に信長の後継者となった後は、命令に従わない者を次々と殺害しています。
老若男女を問わずに殺害しているのです。
この「冷酷さ」こそが、秀吉の快進撃を支えたのかもしれません。
秀吉が農民ながら天下統一を果たせたのは、こういう理由があったのでしょう。
とはいえ、秀吉の父「木下弥右衛門」は織田家の「足軽組頭」・・・数十人の部下を持つ、今で言う「課長クラス」であったと考えられます。
当時は「半農半兵」が当たり前の時代・・・「足軽組頭」の息子となると、秀吉は立派な武士と言えるのではないでしょうか?
「秀吉の性格」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。よろしければご利用下さいませ。
晩年の秀吉が常軌を逸した理由
晩年の秀吉が暴走していった理由は、弟・豊臣秀長を失ったからではないでしょうか。
秀吉は天下統一の後、敵対勢力を次々と殺害していきます。
特に甥・豊臣秀次を、有りもしない濡れ衣で切腹させています。
挙句の果てには朝鮮出兵を強行。(とはいえ、この朝鮮出兵は対外勢力への対抗措置だったという説もあります)
朝鮮出兵に、部下たちは乗り気ではありませんでした。
それが、朝鮮出兵が失敗した一因だったわけですが、秀吉がそのことに気が付かないはずがありません。
にも関わらず、朝鮮出兵を強行。
なぜこれほどまでに常軌を逸したのでしょうか?
おそらくですが、弟・豊臣秀長が亡くなったことが原因なのではないでしょうか。
豊臣秀長は、とてつもない調整能力を持つ人物でした。
組織の上下で発生した軋轢を調整する「橋渡し役」であり、秀吉になんでも物をいうことができる相談役でもありました。
部下の不満を上司に届け、上司の心を部下に伝える・・・その過程で起こる矛盾や差異を調整する役目、それが豊臣秀長だったのでしょう。
この「橋渡し役」は、信長には存在せず、家康には必要のないものだったのではないでしょうか。
独裁者・織田信長は、常に命令するトップダウン方式だったので、調整など不要。
忍耐強い徳川家康は、常に部下の声に耳を傾けたため、自らが家臣団の調整役でした。
豊臣秀長を亡くし、誇り高かった秀吉は、真の意味で独裁者となったのではないでしょうか。
秀長は、秀吉にとって数少ない相談役でもありました。
相談相手を失った秀吉は、目的達成のためにどうすればいいのかわからず、やることなすこと失敗だらけになってしまったのではないでしょうか。
人間が暴走するときというのは、目的達成のために、何をすれば良いのかがわからなくなったときだと思います。
ちょうど平清盛が調整役だった息子の平重盛を失って暴走した例と似ている気がします。
秀長という相談役・調整役を失ったことが、秀吉が常軌を逸した原因なのではないでしょうか。
「秀吉の子孫」については、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。よろしければご利用下さいませ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・秀吉は1554年・17歳で「織田信長」に仕官、1582年・45歳で「信長」が亡くなり、1590年・53歳で「天下統一」を達成した
・農民だった秀吉が天下統一できた理由は「戦い方」「主君選び」「冷酷さ」の3つだろう
・晩年の秀吉が常軌を逸したのは、優れた調整役だった弟「秀長」が亡くなったため
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
「豊臣秀吉」関連記事
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
コメント
コメント一覧 (4件)
いつものように最初はざっと読読みました。そして、一語一句に拘って読み返しました。
①秀吉が天下統一出来た「3つの理由」。私は、このような説明がとても気に入っています。
しかし、文章の中に誤字があります。次に「主君」の選び方3行目しかし秀吉は、、、、、士官。とありますが、仕官です。
②まとめの2行目も17歳で「織田信長」に士官も仕官です。
③文中に秀吉が狂ったのは、、など何点かありますが、狂ったという表現を検討してみてください。時代が時代なので常軌を逸する(した)といった表現法が無難ではありませんか。
お言葉をありがとうございます
早速確認して修正いたします
また「常軌を逸した」という表現についても検討してみます
ありがとうございました
書き忘れていました。
秀吉が天下統一出来た「3つの理由」最期に「冷酷さ」は、最後に「冷酷さ」の方が良いと思います。
いつもありがとうございます
検討してみます