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近衛前久の全てを徹底解説![明智光秀]や[本能寺の変]との関係とは

皆さんは「近衛前久(このえ さきひさ)」を、ご存知でしょうか?

 

実は「近衛前久」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

 

この記事では「近衛前久について、『本能寺の変・黒幕説』や明智光秀との関係」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

 

今は「近衛前久」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、「近衛前久」に詳しくなれます。

 

この記事を読んで、「近衛前久」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,『近衛前久』とは戦国時代に、「関白」という「天皇の臣下の中でも、最高の位」についていた人物で、「織田信長」や「上杉謙信」と交流のあった人物

 

2,近衛前久と「明智光秀」は、極めて親しい関係だったと考えられる。近衛前久と親しかった「足利義輝」「朝倉義景」「織田信長」の三名に家来として仕えていたのが「明智光秀」

 

3,「本能寺の変」において、「近衛前久・黒幕説」が当時から噂されていたが、筆者は、その可能性は低いと思う

「近衛前久(このえ さきひさ)」とは何者なのか?

『近衛前久』とは戦国時代に、「関白」という「天皇の臣下の中でも、最高の位」についていた人物です。

《近衛牡丹・近衛家の家紋》
「引用元ウィキペディアより」

 

「織田信長」や「上杉謙信」と同じ戦国時代に活躍した人物です。

 

「信長」や「謙信」とは、かなり親密な関係にあったようですね。

 

「近衛家」とは、「五摂家」または「摂関家」と呼ばれる名家。

 

「五摂家」とは、「近衛家」を筆頭に、「鷹司家」「一条家」「二条家」「九条家」の5つの家のこと。

 

「五摂家」は「藤原北家」という、「中臣鎌足(藤原鎌足)」や「藤原道長」の末裔の家柄です。

 

つまり「近衛前久」も、「中臣鎌足」「藤原道長」の末裔ということです。

《藤原道長》
「引用元ウィキペディアより」

 

お公家さんといえば、「お歯黒」に「お公家言葉」など、軟弱なイメージが付きものです。

 

お公家さんは、「武芸」を「下賤の者の技」と見下していたらしいですが、「近衛前久」は違いました。

 

「馬術」や「鷹狩」を得意とした人物で、「上杉謙信」とともに戦場へおもむいたこともあるという、「戦いも出来るお公家さん」だったようです。



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近衛前久と「明智光秀」の関係

近衛前久と「明智光秀」は、複雑な関係にありましたが、ひとことで簡単に言えば「近衛前久の義弟の部下」が「明智光秀」なのです

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

 

「近衛前久」の姉の夫、すなわち義兄「足利義輝」は、「室町幕府」の「征夷大将軍」でした。(前久と義輝は、親同士が兄妹なので「いとこ」でもある)

 

その「足利義輝」に仕えていたとされるのが「明智光秀」です。

 

ですので、「明智光秀」にとって「近衛前久」は、「主君の義兄」というわけです。

 

ちなみに、「近衛前久」の妹は、越前国の戦国大名「朝倉義景」の妻でした。

 

つまり「前久」は、「朝倉義景」の義兄というわけです。

 

「明智光秀」は「朝倉義景」に仕えていた家来だったので、この縁も、「光秀」と「前久」をつないだものだったのかもしれません。

 

しかも「織田信長」と「近衛前久」も親密な関係でしたので、『信長』が最も信頼した家来「明智光秀」とも、親しい付き合いがあったと考えられます。



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近衛前久と「本能寺の変」の関係を解説

「近衛前久」は、「本能寺の変」に関わっていたと、当時から疑われていました。

 

なんと「織田信長の殺害」に、「近衛前久」が協力していたというのです。

 

近衛前久は、織田信長と極めて親しくしていました。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

 

そんな「織田信長」が、【1582年】に「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれます。

 

このとき、明智軍が「近衛前久の邸宅」から、本能寺へ鉄砲を撃ったのでした。

 

このことから、近衛前久は「明智光秀に協力して、織田信長を討った」と疑われたのです。

 

信長の三男「織田信孝」は、「山崎の戦い」で「明智光秀」を討ったあと、「近衛前久」を血眼になって捜索。

 

しかし「近衛前久」は、「徳川家康」の居城「浜松城」へ逃亡しています。

近衛前久が「本能寺の変」の「黒幕」だったのか?

「本能寺の変」には、「近衛前久・黒幕説」というものがあります。

 

「近衛前久が、朝廷を貶めようとする織田信長を討ち果たしたのではないか」という説です。

 

この説は、作家「安部龍太郎」さんが、著書「信長燃ゆ」や「家康」などで採用しておられる説です。

 

本当に「近衛前久」は、織田信長を討ったのでしょうか?

 

筆者の個人的な意見ですが、「近衛前久・黒幕説」は、可能性が低いと思います。

 

「近衛前久」が「本能寺の変」の直後に逃亡しているなど、怪しい点はあるものの、「四国説」など他にもっと有力な説があるため、この説は可能性が低いと思います。



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『本能寺の変』のその後、「近衛前久」の運命

「本能寺の変」の直後から、「近衛前久」の運命は悪い方へと動き始めます。

 

「近衛家」を始めとする「五摂家」は、あの「中臣鎌足」の末裔です。

 

彼らは「関白」「摂政」という極めて高い朝廷の役職を独占して、権力を維持していました。

 

数百年も守り続けた「関白」の位を、「近衛前久」は「豊臣秀吉」に奪われているのです

羽柴秀吉(豊臣秀吉)
「引用元ウィキペディアより」

 

正確に言えば、「関白」という役職を奪われたのは、「近衛前久」の息子「近衛信尹(のぶただ)」の失敗によるものです。

 

しかし「近衛前久」は、「豊臣秀吉」を養子として、関白職を秀吉にゆずります(騙し取られたと言って良い)

 

この後「近衛前久」は引退して「銀閣寺・慈照寺」で生活。

 

1612年】に亡くなっています。享年77歳。

 

前久の死から3年後、「豊臣家」は「大坂の陣」で「徳川家康」に滅ぼされています。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,『近衛前久』は戦国時代、「関白」という「天皇の臣下の中でも、最高の位」についていた人物。「織田信長」や「上杉謙信」と親しく付き合っていたお公家さん

 

2,近衛前久と「明智光秀」は、とても親しい関係だった。近衛前久の義兄「足利義輝」や義弟「朝倉義景」、または「織田信長」の三名に家来として仕えていたのが「明智光秀」

 

3,「本能寺の変」では、「近衛前久・黒幕説」が当時から噂されていたが、その可能性は低いのではないか

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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