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加藤清正の虎退治は本当か?関ヶ原の戦いでは、どこで何していたのか

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戦国武将の名将「加藤清正」をご存知の方も多いのでは。

加藤清正といえば「虎退治」や、名城「熊本城」を建てたことで知られています。

清正は 豊臣秀吉につかえていた猛将ですが、「関ヶ原の戦い」では「徳川家康」に味方しています。

そんな清正ですが、本当に虎を退治したのでしょうか?そしてなぜ「関ヶ原の戦い」で家康についたのでしょうか?加藤清正はどのようにその生涯を終えたのでしょうか?

この記事ではそれらの謎をわかりやすく解明していきます。よろしければ、当記事をお役立てくださいませ。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 「加藤清正の虎退治」は、実際には「黒田長政」が行ったものであり、それがいつの間にか「加藤清正の虎退治」となって広まった
  2. 清正は「関ヶ原の戦い」には参加していないが、その理由は清正が「島津家の反乱」に介入して、家康から謹慎処分をくらっていたため
  3. 清正の死因には「暗殺説」と「病死説」がある。病死説のほうが可能性が高いと考えられる

加藤清正の虎退治は、本当に行われたのか?

結論から言えば、加藤清正が虎退治を行ったという逸話は、すこし事実と異なります。

《加藤清正》
「引用元ウィキペディアより」

虎退治が行われたのは、豊臣秀吉による朝鮮出兵(1592~1596年)の時のことです。

当時「加藤清正」は豊臣秀吉の家来。

「福島正則」「加藤嘉明」「片桐且元」ら「賤ヶ岳の7本槍」と呼ばれた7人の猛将の1人として、その名を轟かせていました。



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加藤清正は朝鮮出兵に参加。首都の「漢城(現在の韓国ソウル市)」まで攻め込み、現地に城郭を建設するなどして奮戦。

朝鮮出兵時、日本軍は「朝鮮軍」だけでなく、虎にも苦しめられて、多くの犠牲が出たと言われています。

そのために多くの武将が駆除のために、「虎退治」を行っていました。

「加藤清正の虎退治」・・・実は実際に虎退治を行ったのは「黒田長政」という武将なのですが、それがいつの間にやら「加藤清正」にすり替わっていたのです。

《加藤清正の虎退治》
「引用元ウィキペディアより」

とはいえ、複数の武将が虎退治を行ったと考えられるので、最前線で戦っていた「加藤清正」も「虎退治」に参加していたかもしれません。

退治した(退治させた)虎の皮は、戦利品として豊臣秀吉へ送られたそうです。

「清正は槍で虎の喉を一突きにして仕留めた」・・・・という伝説がありますが、これはすこし怪しいですよね。

当時は「鉄砲」がありますので、危険を犯して「槍」で戦うよりも、鉄砲で仕留める方が普通でしょう。

清正は身長「190センチ」の巨漢で、鬼のような武将だったと言われていますが、さすがに司令官レベルの武将が危険を犯して虎を退治するとは思えません。

ですので、加藤清正が虎退治を行ったのは間違いありませんが、「家臣にやらせた」または「鉄砲で退治した」というのが真相なのではないでしょうか。



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関ヶ原の戦いで、加藤清正はどこで何をしていたのか?

加藤清正は、「関ヶ原の戦い」には参戦していません。

「天下分け目」と称された「関ヶ原の戦い」において、加藤清正はどこで何をしていたのでしょうか?

実は清正、「関ヶ原の戦い」が行われた時期、徳川家康の怒りをかって領国の肥後で「謹慎」させられていたのです。

関ヶ原の戦い直前、清正が治める「肥後」の隣国「薩摩」の島津家で「伊集院忠真」という武将が反乱を起こしていました。

清正はこの「伊集院忠真」という人物の反乱を支援していたのです。

この「薩摩・島津家の反乱」は、徳川家康が担当して解決を目指していた事件。その事件に清正は関与していたのです。

激怒した家康は、加藤清正を謹慎処分とします。



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同時期に、家康は「会津」の「上杉景勝」を討伐するために出陣。

「福島正則」「黒田長政」「池田輝政」「山内一豊」ら全国の大名を率いて「会津征伐」を行いましたが、加藤清正は出陣を許可されず、九州の肥後で謹慎していたのでした。

「会津征伐」に家康が出陣している最中、大坂城では「石田三成」が「毛利輝元」を総大将として家康に対して挙兵。九州の大名「小西行長」や「島津義弘」もこれに協力。

対して清正はというと、謹慎処分をくだされたものの、妻が家康の養女であった縁もあって、あくまでも「家康(東軍)」に付きました。

中央で家康と石田三成が戦っているとき、清正は「黒田官兵衛」と協力して、九州の「石田三成の側(西軍)」の大名たちを攻撃。「小西行長」や「立花宗茂」の領地奪取に成功します。

その頃、「関ヶ原の戦い」で徳川家康は石田三成に勝利。

三成は「小西行長」や「安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)」とともに処刑。

加藤清正は九州で戦った功績を家康に認められ、肥後24万石から、一気に倍の「52万石」を与えられることとなるのです。



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急死の真相とは?暗殺されたのか?

加藤清正は【1611年】に病死しています。享年50歳。

その死因は何なのでしょうか?

清正の死因については、「暗殺説」と「病死説」があります。

暗殺説

清正が「暗殺」を疑われている理由は、そのタイミングです。

実は加藤清正が亡くなったのは、京都「二条城」で「徳川家康」と「豊臣秀頼」が会見を行った直後でした。

この「二条城会見」は非情に重要な会見だったのです。

この時、それまで「秀頼」が主君で「家康」が家来だった関係が逆転。主従逆転の歴史的瞬間が「二条城会見」だったと考えられているのです。

しかもこの時、家康は秀頼のとてつもない実力を見抜き、孫婿であるにも関わらず「秀頼を殺さなくてはいけない」と堅く決意したと言われています。

この「二条城会見」から4年後の【1615年】、「大坂の陣」で「豊臣秀頼」は亡くなるのです。



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家康が「二条城会見」で「秀頼殺害」を決意したのだとしたら、邪魔になる人物が主に3人いました。

「二条城会見」の際に、秀頼の警護を担当していた三人の武将「加藤清正」「浅野幸長」「福島正則」です。

実はこの3名のうち、「福島正則」を除く2人が、不可解な死を遂げているのです。

清正は「二条城会見」が終わった直後に亡くなっています。

「浅野幸長」は2年後の【1613年】に死亡。

歴戦の猛者である「清正」と「浅野幸長」が亡くなったことで、豊臣秀頼は手足を失った状態に陥りました。

3人の武将のなかで、家康からすれば最も厄介だったのが「加藤清正」です。

理由は、「築城術に長けていた」ことでしょう。

「築城の名手」と呼ばれた清正が生きていると、難攻不落の厄介な城を次々とつくられる可能性があります。(実際「加藤清正」が築城した「熊本城」は、200年以上も後の【1877年】に起こった「西南戦争」で、薩摩軍の「西郷隆盛」や「桐野利秋」を苦しめることとなります)

清正は、秀吉の母のいとこの息子・・。つまり豊臣家の遠戚にあたる人物でもあります。

そんな清正が亡くなれば、家康にしてみると、これほど嬉しいことはなかったはずです。

「加藤清正が亡くなったタイミング」が、家康にとって都合が良すぎた・・・・。

「暗殺説」を疑われている理由は、その「タイミング」が原因であると考えられます。

余談ですが、豊臣秀頼とゆかりが深く「二条城会見」に同席した武将「池田輝政」も、【1613年】に病死しています。池田輝政は「小牧・長久手の戦い」で家康に父「池田恒興」を殺害されていますが、その後和解し、家康の娘「督姫」を妻としています。(督姫は北条氏直の妻だった女性)

もしかすると池田輝政も家康から暗殺されたのかもしれません。



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病死説

実は「加藤清正」と「浅野幸長」は、「梅毒」で亡くなったという説があります。

2人は遊女と関係をもっていたらしく、それが原因で「梅毒」に感染したと噂されています。

先程名前をあげた「3人の武将」のうち「福島正則」だけは、豊臣秀頼が亡くなったあとの【1624年】まで生き残っています。

なぜ福島正則だけが生き残ることができたのか・・・・。実は「福島正則」は「恐妻家」として有名な人物なのです。

もしかすると正則は「妻」を恐れて女性関係が清廉潔白だったので、生き残ったのかもしれません。

当時は「梅毒」という病気への理解が乏しく、治療法がまったく不明でした。原因だけは「女性関係」だと、ある程度特定されていたようですが・・・。

そんな中でも徳川家康は原因不明の「梅毒」を警戒していたらしく、「出産した経験のある女性」を好んで側室としていました。

恐妻家だった「福島正則」や、警戒心の強い「徳川家康」・・・この2人だけが生き残った・・・。

そう考えると、遊女を好んだ「加藤清正」や「浅野幸長」が急死した理由が「梅毒」であるという説は、かなり信ぴょう性があると思います。

ちなみに女好きとして有名な「豊臣秀吉」も、梅毒に似た症状で亡くなっています。



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加藤清正の死因が「暗殺」なのか「病死」なのか、今もってハッキリとはしていません。

ただ、清正の盟友「福島正則」が「豊臣秀頼」や「徳川家康」が亡くなったあとも生き残っていたことを考えると、「暗殺」ではなくて「病死」なのかもしれません。

もしも「暗殺」ならば、家康にとって清正と同じくらい目障りな猛将「福島正則」は、真っ先に始末しておきたいはずですからね。

福島正則は、広島50万石の領地を「徳川秀忠」に没収されたのち、【1624年】に亡くなっています。



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加藤清正の逸話・・・福島正則を叱り飛ばした

余談ですが、名古屋城に「加藤清正」公の銅像があります。

《加藤清正像・名古屋城》
「引用元フォト蔵より」

徳川家康の九男「徳川義直」の城である名古屋城に、なぜ加藤清正の像があるのか?

名古屋城は、福島正則や加藤清正のような、豊臣家の大名に建築が命じられました。

その築城に大きく貢献したのが「加藤清正」公なのです。

福島正則は名古屋城築城の負担が大きすぎることについて、「池田輝政」や幼馴染の「加藤清正」に愚痴をこぼしました。これを聞いた清正は

「文句があるなら広島へ帰国して、家康公を相手に戦の準備をしろ。

それが出来ないなら、黙って仕事しろ。」

と一喝したのだとか。感情的な福島正則に対して、冷静沈着な加藤清正らしいエピソードです。



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『加藤清正』について「ひとこと」言いたい!

加藤清正。実は家康から「豊臣秀頼」を守るために、居城「熊本城」のなかに「秘密の部屋」を造ったと言われています。

「昭君(しょうくん)の間」・・・・・壁面に古代中国の美女「王昭君(おうしょうくん)」の絵が描かれた部屋です。

王昭君とは古代中国の皇帝によって、和睦のためモンゴルへと無理やり嫁に出された美女のこと。失意のうちに亡くなった悲劇の女性。(有名な「三国志」時代の150年ほど前、紀元前1世紀「前漢」時代の人物です)

「昭君の間」・・・・これはすなわち「招君の間」と言いかえることもできるでしょう。

つまり「主(豊臣秀頼)をくための部屋」であったと考えられているのです。

しかし清正は【1611年】に急死。あとを継いだ三男「加藤忠広」は豊臣家に味方することはなく、失政を江戸幕府にとがめられて改易されてしまいます。

もしも清正が「大坂の陣」が起こる【1615年】まで生きていたら、秀頼を熊本城へかくまっていたかもしれません。そうなれば「豊臣秀頼」が亡くなることもなかったのではないでしょうか。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 加藤清正の虎退治は「黒田長政の虎退治」が、なぜか加藤清正の功績となってしまったもの。
    実際には槍ではなく鉄砲で退治したと思われます。
  2. 加藤清正は「関ヶ原の戦い」には参加していません。
    家康から謹慎を命じられていたからです。
    しかしその後に大活躍し、52万石の大名になることができました。
  3. 加藤清正の死の原因は不明です。
    病死か毒殺説があります。
    病死説のほうが可能性が高いと考えられます。

以上となります。

加藤清正は、豊臣・徳川の両家のために活躍した名武将です。

何より、地元の「熊本」では農民も大切にする大名でした。

そんな加藤清正が建てた熊本城の復興を願うばかりです。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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