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千利休という名前を聞いたことがあると思います。
「お茶の世界の偉い人」とか、「豊臣秀吉と仲が悪くなって殺された人」などの知識は、すでにお持ちかもしれませんね。
この記事では『千利休とはどんなことをしてどんな功績がある人物なのか』、そして『その生涯と最期はどんなものだったのか』を、わかりやすくまとめました。
最近では『利休がキリスト教徒であった』と噂されているようですね。
「千利休の生涯と最期」そして「キリスト教徒であったか否か」について解説・考察させていただきます。よろしければこの記事をお役立てくださいませ。
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この記事を短く言うと
- 千利休の功績とは、現代にも伝わる「茶道」の「侘び茶」という形を完成させたこと。
- 利休は【1522年】に摂津国「堺」で生まれ、「織田信長」「豊臣秀吉」に仕えた後、秀吉の命令により【1591年】に切腹した。
- 利休が切腹を命じられた理由は諸説ありますが、「利休がキリスト教徒であったために切腹させられた」という説がある。
千利休の死因と最後とは?
千利休の死因は、切腹です。
【1591年】、千利休は突然、豊臣秀吉からの命令により、切腹して亡くなります。
享年70歳
切腹を命じられた利休の最後の様子は、とてもおちついたものだったとのことです
何が理由で、豊臣秀吉が千利休に切腹を命じたのかは、今も謎とされています。
現在のところ、千利休が切腹させられた理由として、【安い茶碗に法外な値段をつけて暴利を得たため】といわれています。
つまり、私腹を肥やしたためだというのです。
ところが、もともと商人である千利休が私腹を肥やすなど、当然のことです。
その為、秀吉が突然、千利休に切腹を命じた理由が、今も謎とされているのです。
秀吉が千利休に切腹を命じた理由については、このあとで詳細を解説いたします。
千利休とは何をした人?その功績を解説
千利休はおもに「室町時代」に活躍した「茶道家」「芸術家」です。
その功績を「ひとこと」で言ってしまうと
- 「侘び茶」という茶道の形を完成させた
- 芸術家として「織田信長」「豊臣秀吉」などに仕え、とくに豊臣政権では政治にも大きな影響力を発揮した
ということでしょう。
もともと千利休は、摂津国「堺」の商人でした。
当時、堺の商人たちの間では「茶道」が流行。
「人に聞かれてはいけない秘密の商談」をするには、こじんまりとした「茶室」はとても都合の良い空間だったのです。
そんな茶道の世界で、利休は「わびしさ」や「寂しさ」を大切にして、極限まで無駄を省いた「侘び茶」という茶道の形を完成させます。
この侘び茶という茶道の形は、利休の「ひ孫」たちによって開かれた3つの流派「三千家」によって現代まで引き継がれています。
千利休の生涯と最期
【1522年】(1歳)
「千利休」こと「千宗易」は、摂津「堺」の商人の子として誕生しました。
若くして父と祖父を亡くし、相当に苦労をしたと言われています。
「千利休」は若い頃「田中与四郎」と名乗っており、後に「千宗易」と名乗るようになったのだとか。
【17歳】で「茶の湯」を学び始め、堺の商人たちを相手に「茶会」を開いていたことがわかっています。
【1569年】(48歳)
「足利義昭」を征夷大将軍とするために上洛した「織田信長」が、「千利休」のいた商人の街「堺」を支配。
このとき利休は「今井宗久」「津田宗及」と三人で信長に仕えています。
【1582年】(61歳)
「織田信長」が「明智光秀」に討たれる「本能寺の変」が勃発。利休はこの後「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」に仕えるようになります。
その後、秀吉お抱えの茶道・芸術家となった利休は、秀吉の茶室を造ったり、政策ブレーンとして活躍していきます。
【1585年】(64歳)
正親町天皇にお茶を献じることとなります。利休は当時、無位無官の身でした。それでは天皇へお茶を献じることができないので、それまでの名前「千宗易」から「千利休」という号を与えられます。
その後、利休は秀吉の命令で大坂城内に「黄金の茶室」を設計。
【1587年】(66歳)
「北野大茶会」を開催。
【1590年】(69歳)
「豊臣秀吉」の「小田原征伐」によって小田原北条氏が滅亡。「伊達政宗」も秀吉に屈したため、天下統一が成る。
【1591年】(70歳)
理由は今もって明らかになっていないが、利休は突然「豊臣秀吉」の逆鱗に触れて切腹を命じられます。
亡くなった利休は、晒し首にされたと言われています。
享年70歳。
その後、利休の孫「千宗旦」の三人の息子たち・・・つまり利休の「ひ孫」たちが
- 「表千家」
- 「裏千家」
- 「武者小路千家」
という3つの家を起こました。
千利休から始まった「3つ」の「千」家は、「三千家」と呼ばれ、今もそれぞれに千利休の茶道を継承し続けています。
切腹した理由最新説!実はキリスト教徒だった?
千利休が秀吉に切腹を命じられた理由ですが、理由が明らかになっていません。
諸説あるものの、どれが正しいのかはっきりしないのです。
- 利休が安物の茶碗を高値で売って私腹を肥やした
- 茶道において、秀吉の派手好きを批判した
- 二条天皇陵から、利休が石を持っていって、庭石に使ったため
- 秀吉が嫌いな「黒茶碗」を、秀吉に対して使ったため
- 秀吉が利休の娘を妾に望んだが断られて恨んだ
- 堺の既得権益を利休が守ろうとしたため、秀吉の怒りを買った
- 毒の入った茶で秀吉を暗殺しようとした
- 利休が茶室の中で、秀吉に対してお茶をこぼした
- 秀吉の弟「秀長」が亡くなったことで、利休は最大の理解者を失った。その後の政争で利休が敗北したため
などなど、諸説あるものの、明確な切腹理由が不明なのです。
一説によると、「利休がキリスト教徒であったため、秀吉は利休を生かしておくわけにはいかなくなった」とも言われているのです。
千利休が完成させた「侘び茶」という茶の湯の作法のなかに、「一杯の茶を複数人で回し飲みする」という飲み方があります。
こんな逸話があります。
秀吉がある日、茶会を開いたときのことです。
複数の戦国武将たちが参加したこの茶会に武将「大谷吉継」や「石田三成」が参加していました。
「大谷吉継」は、ハンセン病を患っており、顔から一滴のウミが茶碗に落ちたのです。
これをみた武将たちは、口をつけるふりをして茶を飲まずに次々回したといいます。
ところが「石田三成」はそれに構わず茶を飲み干し、これに感謝した大谷吉継は、のちの「関ヶ原の戦い」で三成とともに死ぬまで戦ったというのです。
つまり秀吉の時代には、すでに「回し飲み」の作法が行われていたということ。
この「回し飲み」ですが、「キリスト教」の作法を茶の湯に取り入れたものだと噂されているのです。
実は秀吉、「九州征伐」を行った際、九州でキリスト教が流行し、日本人が奴隷として売買されている現実を目の当たりにし激怒。【1587年】に「キリシタン禁止令」「バテレン追放令」を出してキリスト教を禁止としていました。
【1597年】、秀吉は26人のキリスト教徒を長崎で処刑。(日本二十六聖人)
それほどキリスト教に対して厳しかった秀吉ですが、そんな秀吉の迫害をよそに、利休はキリスト教にのめり込んでいったのだとか。
「キリスト教徒であったこと」
これが利休切腹の原因・・・・そういう説があるのです。
とはいえ、たとえば「明智光秀」の娘「細川ガラシャ」のように、秀吉の死後も「キリスト教徒」として信仰を捨てなかった人物もいたため、利休だけが切腹となった原因が不明です。
秀吉・・・・じつは利休を死なせた直後、利休の茶を懐かしんでいた・・・とも言われています。
「自分で死なせておいて懐かしむ」
なんとも自分勝手な気がしますが、見方を変えると「それだけやむを得ない事情により、利休を切腹させるしかなかった」とも言えると思います。
千利休・・・・・・彼が本当に「キリスト教徒」であったか否か。真相は明らかにされていません。
ただ、かなり興味深い説であると思います。
バチカンには茶とキリスト教に関連する資料があるとも言われていますしね。
『千利休』について「ひとこと」言いたい!
千利休・・・愛用の甲冑から、「180cm」程度あったと言われています。
当時としては相当な大柄で、記録にも「利休はとても大きい人だった」と記されています
巨体であった利休ですが、とても繊細な芸術的センスをもつ人だったのでしょう。
そして自らの「芸術的センス」に、絶対的な自信を持っていたと考えられます。
「利休が選ぶものは必ず美しい。
利休には絶対音感のような、『絶対美感』とでもいうような能力がある」
そんなことを言った方がおられました。
利休は「美しいか否かは私が選ぶ」と考えていたのではないでしょうか。
おごり高ぶった感じもしますが、それでも利休には、そう言うことが許されるほどの能力があったと思います。
「赤は雑なる心なり。黒は古の心なり」
利休が豊臣秀吉に対して言ったとされている言葉です。
利休が秀吉の命令で大坂城に仕立てた赤と金の「黄金の茶室」でもわかると思いますが、派手好みな秀吉は「赤い茶碗」を好んでおり、利休がすすめる「黒い茶碗」を嫌っていたのだそうです。
対して利休は「黒」こそがもっとも美しい色だと考えており、2人の芸術性は見事に対立していたのです。
赤を好む秀吉を、利休はこの言葉で批判したのでしょう。
「赤は雑。黒こそ美しい」と・・・。
これは筆者の個人的な意見なのですが、利休は「秀吉を嫌っており、バカにしていた」のではないでしょうか。
そして利休には、「自分こそが当代随一の芸術家である」という自信と自負があったのでしょう。
そんな千利休と、「天下人である」という自信と自負をもつ豊臣秀吉とが相容れるはずがありません。
秀吉からすると、絶対的な地位にある自分に対して、自信満々に自らの「芸術的センス」をひけらかす利休に怒りを覚えていたでしょう。
豊臣秀吉が千利休に切腹を命じた理由・・・確かにキリスト教徒であったという理由もあるかもしれません。しかしそれはただの「口実」にすぎず、秀吉は利休を死に追いやる機会を虎視眈々と狙っていたのではないでしょうか。
利休と秀吉。
決して相容れない2人が、「天下」と「芸術」のトップに君臨し、互いに認め合うのではなくぶつかってしまったこと。
これが「利休切腹」という悲劇につながった気がしてならないのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 千利休は、戦国時代から安土桃山時代に活躍した茶人。
現在まで続いている千家(三千家)流の開祖であり、わび茶を大成しました。 - 利休は織田信長、豊臣秀吉に仕えました。
秀吉のもと、天下一の茶人として重宝されます。 - 利休の切腹の理由として、利休がキリシタンだだったため、秀吉の怒りにふれたという説が出てきました。
理由として、利休の高弟がキリシタンだったり、「茶の作法」と「キリスト教のミサの作法」が似ているところがあるためです。
以上となります。
利休がキリシタンだったという確かな資料はまだ出ていません。
利休の死因には謎が多く、今後の研究結果が待たれますね。
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