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細川藤孝のすべてを徹底解説!子孫・家系図や明智光秀との関係も紹介

皆さんは「細川藤孝(ほそかわ ふじたか)」を、ご存知でしょうか?

実は「細川藤孝」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

この記事では「細川藤孝」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

今は「細川藤孝」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、「藤孝」に詳しくなれます。

この記事を読んで、「細川藤孝」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「細川藤孝(ほそかわ ふじたか)」とは、室町幕府征夷大将軍「足利義輝」「足利義昭」に仕えた戦国武将。のちに「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」にも仕え、現代まで子孫が続く「細川家」の基礎を作り上げた

 

2,「細川藤孝」と「明智光秀」は、室町幕府に仕えた同僚であり、親戚。「細川藤孝」の息子「忠興」と、「明智光秀」の娘「珠(細川ガラシャ)」が結婚している

 

3,「細川藤孝」の子孫は、現在も続いている。代表的な人が2人いる。1人は「天皇陛下」。もう1人が元内閣総理大臣「細川護熙(ほそかわ もりひろ)」。

「細川藤孝」とは、いったい何者なのか?

「細川藤孝(ほそかわ ふじたか)」

1534~1610年

戦国時代・室町時代・江戸時代に活躍した「戦国武将」です。

室町幕府の名門「三管領家(さんかんれいけ)」の一つ「細川家」ゆかりの人物。

あの「足利尊氏」の庶流である「細川家」を継承し、「肥後細川家」の基礎をつくった人です。

《天授庵所蔵の細川藤孝(幽斎)肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン》

細川藤孝は、征夷大将軍「足利義輝」「足利義昭」兄弟に仕えていました。

のちに「織田信長」に仕えて「足利義昭」と敵対。

「本能寺の変」で信長が亡くなると、「豊臣秀吉」「徳川家康」に仕えています。

細川藤孝は、超一流の知識人であり、しかも剣豪「塚原卜伝(つかはら ぼくでん)」から「剣術」を学んだ、剣の達人でもありました。

「本能寺の変」の際、「細川藤孝」の決断が、戦国時代の運命を大きく決めることとなるのです。



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「細川藤孝」と「明智光秀」の関係

「細川藤孝」と「明智光秀」は、ともに「足利将軍家」に仕えた、いわば同僚です。

それだけではなく、2人は親戚関係にあります。

「細川藤孝」の息子「細川忠興」と、「明智光秀」の娘「玉(のちの細川ガラシャ)」が、結婚しているのです。

2人は元々、「足利義昭」に仕えた同僚でした。

明智光秀は、織田信長に仕えるまでの前半生が不明です。

そのため、「光秀」と「細川藤孝」の2人がどこでどのように出会ったのか、ハッキリとはわかっていないのです。

一説によると、「足利義輝」が暗殺された際に、細川藤孝はその弟「足利義昭」を連れて越前国「朝倉義景」のもとへ逃亡。

そのころ、朝倉義景の家来に「明智光秀」がいたため、2人はそこで出会ったと言われています。

2人はそれ以降、「足利義昭」を征夷大将軍にするために協力。

ついには「光秀」のいとこ「帰蝶(濃姫)」の夫「織田信長」に協力してもらって、「足利義昭」を15代将軍に就任させることに成功。

2人はその後、「織田信長」「足利義昭」それぞれの家来として活動し、信長と義昭が敵同士となった際には、ともに「信長」に味方しています。

詳しくはのちほど解説しますが、「本能寺の変」が起こったとき、「明智光秀」は「細川藤孝」に、何度も何度も「自分に味方してほしい」と協力を要請しつづけています。

光秀が滅びたあと、細川藤孝は、「豊臣秀吉」と「徳川家康」に仕えています。

明智光秀の子孫「明智憲三郎」氏が言うには、「細川藤孝は明智光秀を恨んでいた可能性がある」とのことです。

実は筆者もそう思っています。

藤孝は光秀を恨んでいたため、「本能寺の変」で光秀を見捨てたのでしょう。

「藤孝」への「光秀」からの「協力要請」の手紙には、「本能寺の変」の動機が記されている、と言われています


細川藤孝と明智光秀の関係」または「手紙に書かれた本能寺の変の動機」について、以下のリンク記事で解説しております。



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細川藤孝の「子孫」と「家系図」

「細川藤孝」の子孫は「天皇陛下」と「元首相」

細川藤孝の子孫について解説をいたします。

藤孝の子孫は、現代まで続いております。

代表的な人物は2人。

一人が現在の「天皇陛下」

もう一人が、元内閣総理大臣「細川護熙(ほそかわ もりひろ)」氏

「天皇陛下」は、細川藤孝の孫「細川忠隆」を通じた末裔です。

細川忠隆は、明智光秀の三女「細川ガラシャ」の息子ですので、「天皇陛下」は「明智光秀」の子孫でもありますね。

そして「細川護煕」さんはというと、同じく「藤孝」の孫である「細川忠利」を通じた末裔です。

しかし「細川護熙」さんは、養子を挟んだ末裔であるため「細川藤孝」の子孫ではあるものの、「細川ガラシャ」の血はついでいないのです。



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細川藤孝の系図

細川藤孝の出自には、一つの逸話が残されています。

実は「細川藤孝」は、12代将軍「足利義晴」の子であるという噂があるのです。

12代将軍「足利義晴」は、名門の公家「近衛家」の娘「慶寿院」を妻としました。

そのとき、「足利義晴」には、子供を身ごもった妻「清原宣賢の娘」がいたのですが、「慶寿院」を妻とすることが決まったため離縁。

その「清原宣賢の娘」は、「三淵晴員」という人物へ、妊娠したまま嫁いだのです。

その後、「清原宣賢の娘」は「藤孝」を出産。

その2年後、「足利義晴」と「慶寿院」の間には、「足利義輝」が誕生したのでした。

「藤孝」を気の毒だと考えた父「足利義晴」は、「三淵家」で育てられていた「藤孝」を、名門『細川家』の養子とします。

こうして「藤孝」は、「細川藤孝」と名乗ることになったのです。

この説が正しいとすれば、「細川藤孝」は、征夷大将軍「足利義輝」「義昭」兄弟の兄ということになります。

ちなみに足利義輝の妻「里子」は、関白「近衛前久」の妹なので、「近衛前久」と「足利義輝」は義兄弟。

この縁もあってか、「近衛前久」と「細川藤孝」も、とても親しい間柄なのです。

 

「細川藤孝の子孫と家系図」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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細川藤孝がつかっていた「家紋」

細川家は「松笠菱(まつかさひし)」、通称「細川向かい松」という家紋を、代々つかっていました。

しかし「細川藤孝」の息子「細川忠興」が、「織田信長」から「九曜紋」という家紋の使用を許されたため、忠興は「九曜紋」を使い始めています。

細川家は元々、室町幕府初代将軍「足利尊氏」に仕えた家。

「室町幕府」で、「斯波家」「畠山家」と並んで「三管領家」と呼ばれる名門なのです。

《細川九曜紋》
「引用元ウィキペディアより」

上の画像は、細川家の家紋「細川九曜紋」

実はこの家紋、通常の「九曜紋」とは異なり、周囲の「丸」が若干小さいのです。

どうやらこの「丸」のせいで、ある事件がおこったため、細川家は「丸」を小さく書き直したのだそうです。

 

「細川藤孝の家紋」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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明智光秀が細川藤孝におくった「手紙」に「本能寺の変」の動機が書かれていた

光秀が「本能寺の変」を起こしたあと、細川藤孝を味方にするために送った『勧誘の手紙』には、「本能寺の変」を起こした理由が書かれていました。

「私が織田信長公を討ったのは、あなたのご子息《細川忠興》を、もっと大きな大名に取り立ててあげたいと思ったからです。

あと50~100日くらいで、近畿周辺は支配できるでしょう。

それが済んだら、私の息子や忠興殿に、天下のことをお任せしたいと思っています。」

つまり「本能寺の変」を起こした理由は

「細川忠興を、もっと重い地位に出世させるため」

だというのです。

現実的に考えて、これは「細川藤孝」を味方にするための「口からデマカセ」でしょう。

手紙には、「味方になってほしい」という光秀の願いが、心を込めて記されています。

ところが、細川藤孝は光秀に味方することはなく、「光秀」は「山崎の戦い」で、「羽柴秀吉」にあっけなく敗北してしまうのです。

 

「細川藤孝の手紙」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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細川藤孝は「本能寺の変」に、どのように関係していたのか?

細川藤孝は、「本能寺の変」が起きると、即座に剃髪して出家し「幽斎」と名乗ります。

そして、主君だった「織田信長」の死を弔ったのでした。

さらには隠居して、細川家の家督を息子「細川忠興」に譲ってしまいます。

そして、味方になれという「明智光秀」の誘いを、徹底的に拒絶。

直後に「明智光秀」は、「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に敗れて戦死。

藤孝は、結局最期まで、光秀・秀吉どちらにも味方しませんでした。

 

「細川藤孝と本能寺の変」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。



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細川藤孝の【刀】は、今どこにあるのか?

細川藤孝の刀が、現存していると言われています。

藤孝の刀は2つあります

「古今伝授の太刀」と「幽斎三大原」です

「古今伝授の太刀」は現在、東京都の「永青文庫」に保管されています。

「幽斎三大原」は、熊本の「熊本県立美術館」に保管されています。



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『細川藤孝』について「ひとこと」いいたい

細川藤孝は、「本能寺の変」が起こった際に、明智光秀からの「味方になれ」という要請を拒絶しています。

しかし、「羽柴秀吉」の味方をしたという形跡もありません。

そして細川藤孝は、息子「忠興」の妻で光秀の娘「珠(ガラシャ)」を、生かしているのです。

通常こういったときには、「明智家」へ返すか、処刑するはず。

そうしていないということは、おそらく「細川藤孝」は、「光秀」と「秀吉」、どちらが勝利してもよいようにしたのでしょう。

もしも「光秀」が勝利したら、光秀の娘「珠」の協力を得て、光秀に取り入ろうとしたのでしょう。

とても器用な外交手腕です。

細川藤孝

剣の達人であり、和歌などの諸芸にも通じる傑物。

おまけに「したたか」とは、想像を絶する人物だったのでしょう。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「細川藤孝」とは、室町幕府の将軍「足利義輝」「義昭」兄弟に仕えた武将。足利義昭と決別したあとは、「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」に仕えている。

 

2,「細川藤孝」と「明智光秀」は、ともに室町幕府に仕えた同僚かつ親戚。「細川藤孝」の息子「忠興」と、「明智光秀」の娘「珠(たま・細川ガラシャ)」は夫婦

 

3,「細川藤孝」の子孫は、現在も続いている。代表的なお方は「天皇陛下」と、元内閣総理大臣「細川護熙(ほそかわ もりひろ)」氏。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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