豊臣秀吉が朝鮮出兵した理由を考察!結果は大失敗だったのか?

『m』

月岡芳年:『朝鮮征伐大評定ノ図』Wikipediaよりパブリックドメイン

「豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した理由はなにか」について、説明できる人は少ないかもしれません。

実は私も子供の頃は、「秀吉が年老いて耄碌し、世界制覇という野望に取りつかれたから」だと思っていました。

しかし、秀吉の「朝鮮出兵の理由」として様々な意見が出され、当時の国際情勢も考慮した説が、近年では提唱されています。

この記事では「秀吉の朝鮮出兵の理由」についてあまり詳しくない人に解説していきます。

これを読んで「そうだったのか、秀吉の朝鮮出兵」とスッキリしてくださいね。


スポンサーリンク

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 「豊臣秀吉」が「朝鮮出兵」を行った理由には、数々の説が存在している。「領土拡大」「名誉欲」「愛息・鶴松を亡くした憂さ晴らし」などなど。
  2. 「朝鮮出兵」は、「スペインによる日本侵略と植民地化を防ぐためだった」という説がある
  3. 「領土拡大」「名誉欲」を目的とするなら、「朝鮮出兵」は失敗といえる。しかし「スペインの侵略を防ぐため」だったのなら、スペインがイギリスに敗れたことが理由とはいえ、一応目的は達成できたといえる

豊臣秀吉は、なぜ朝鮮出兵したのか?諸説あり

豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った理由には、様々な説があります。

私が子供の頃に聞いた理由では、耄碌した秀吉が「誇大妄想」気味になり、世界統一を図る第一歩として朝鮮出兵した・・・・というものがありました。

それ以外にも、様々な理由が挙げられています。

秀吉の挑戦出兵の理由として挙げられている諸説の中から、代表的なものを見ていきましょう。


スポンサーリンク

1,愛児「鶴松」の急死による鬱憤晴らし

1591年正月】、「明国」に出兵する準備を始めた秀吉でしたが、その直後に弟「豊臣秀長」が病死。

さらに不幸なことに、53歳で初めて恵まれた愛児「鶴松」が、同年8月に病死したのです。

相次いだ不幸でたまった鬱憤を、朝鮮出兵で晴らそうとした・・・・という説があるのですが、弟「秀長」が亡くなったのは明に出兵する準備中のことでした。

つまり、すでに朝鮮半島と中国大陸に派兵準備をしていたので、この理由は「後世のこじつけ」であると考えられています。

2,秀吉の性格が好戦的であり、名誉欲が強かったため

秀吉が朝鮮に送った国書には、自分の名前を三国(当時の意味では全世界)に轟かせたい、と書かれていました。

本気で世界征服を狙っていたのかどうかは十分に議論を尽くさなければなりませんが、天竺(インド)まで制覇することを考えていたようですから、理由の中で一番支持者が多い理由となっています。


スポンサーリンク

3,日本国内の動乱を海外に転じ、日本国内を安定させるつもりだった

江戸末期の儒学者「賴山陽」は、出兵の理由を「日本国内の動乱を海外に転じるためだった」と唱えました。

また、明治時代初めに来日し、東大教授をしていた「マードック」(教え子に夏目漱石がいます)も、諸大名に朝鮮出兵の経済的負担を与え、豊臣家の支配を安定化させる目的だったと考えました。

しかし、彼らの考え方には、大きな矛盾点があるのです。

「徳川家康」です。

家康は、この朝鮮出兵に参加していません。

後年、豊臣家を滅ぼし、徳川幕府を開いた徳川家康は、豊臣家の五大老の1人。秀吉にとっては最も警戒すべき存在であったはずですよね。

実際、秀吉は家康を、彼にとって慣れ親しんだ「三河」や「駿府」から、当時不毛の地だった武蔵国「江戸」に追いやっているのです。

経済力を削るのであれば、真っ先に家康を朝鮮出兵に参加させないとおかしいですよね。

しかも、朝鮮出兵に参加した大名や武将は、秀吉にとって関係性の深い者が多かったのです。

「加藤清正」「小西行長」など、繋がりが深く、特に秀吉が信頼していた部下ばかりが「最前線」で戦っています。

「動乱を国外に転じ、警戒すべき大名の経済力を削るため」という理由は、私には的外れなものに思えます。


スポンサーリンク

4,領土を広げる目的だった

2の「名誉欲の強さ」という理由と相通ずるものがありますが、「織田信長」の死後、急激に成長を果たした豊臣家は、従った武将に「莫大な報酬」を与える必要に迫られていました。

そのため、領土を日本国外にも広めることで、褒美として与えるための「領地」や「収入」を増やそうとしたのです。

また、秀吉は朝鮮半島のことを九州の島津氏同様、「当然自分に従うべき存在」とみなしていた・・・という説も出ています。

5,海外との貿易を振興するため

当時、明国との「勘合貿易」は中止されていました。

海外との貿易を盛んにするためには、明との勘合貿易を復活させる必要があったのです。

秀吉は朝鮮へ、明国との仲介を依頼しましたが、拒絶され激怒。それが出兵の理由と言われています。

しかし朝鮮出兵に関する当時の史料には、貿易について言及しているものがありません。この説を主張している人たちの想像によるものでしかないということです。

考えられている理由の中では、信憑性の低いものと言ってもよいと思います。


スポンサーリンク

6,豊臣家の権力を盤石のものにするため

豊臣秀吉が「五摂家」の1つ、「近衛家」の「近衛前久」の養子となることで「関白」に就任したとはいえ、その権力はまだまだ盤石なものではありませんでした。

そのため、関白となった秀吉は、「刀狩り」「人掃令」「身分統制令」を次々と打ち出し、新しい社会秩序を生み出そうともしています。

すべては、「豊臣家の安泰のため」だったのでしょう。

朝鮮出兵という共通した大きな目的を諸大名に持たせることで、豊臣家の家臣団としての一体感を持たせようとしたのだ、と言われています。

国の支配者が自身に不満を抱かせないため、他の国に対する自国民の反感を煽り、国民の一体感を図る方法をとることが、よくあります。

そうやって反感をもたせる国を「仮想敵国」と言いますよね。

秀吉は諸大名と武将に、一体感をもたせるために、朝鮮を仮想敵国(実際攻め込んでいるので仮想ではなくなっているのですが)にしたのだとも考えられます。

しかし、秀吉にとって最も警戒すべき「徳川家康」が朝鮮出兵に参加していないことを考えると、これを理由とするには、少し弱いでしょう。


スポンサーリンク

7,出兵は国内統一の延長だった

東北大学名誉教授の「藤木久志」氏が唱えた説です。

秀吉が大名同士の私闘を禁じた「惣無事令」というものがあります。

藤木氏は

「秀吉には朝鮮半島が国外という意識がなく、日本を統一した感覚で、朝鮮にも日本に従うように求めたものの、朝鮮が従わないので出兵した」

と主張したのです。

秀吉は朝鮮のことも、中国地方の「毛利氏」、四国の「長宗我部氏」、九州の「島津氏」のように、自分に従わせる存在として考えていたのかもしれませんね。


スポンサーリンク

8,日本統一を果たしたことで自尊心を高めた秀吉が、明国の「冊封体制」に反旗を翻したため

農民の子だった男が、「織田信長」の家臣としても武将としても頭角を現し、信長の死後に、主君・信長がなし得なかった天下統一(日本統一)を成し遂げ、関白にまで上り詰めました。

それまでの日本で政権を取ったのは、古代の天皇家、藤原氏など公家、平安時代末期から台頭した武士階級の出身者でした。

農民の子が天下人となったのは、「究極の下剋上」であり、それまでの日本ではなかったことだったのです。

秀吉自身が意図してそうなったわけではありませんが、結果として、農民出身の支配者が日本に誕生し、天下統一を果たしたことは、当時の東アジア情勢に大きな影響を与える結果となりました。

こうして天下人となった秀吉は、自尊心を高め、明国の「冊封体制」に反旗を翻すために、手始めとして朝鮮に出兵したのだ・・・・・という学説がアメリカ人の歴史学者によって提唱されています。


スポンサーリンク

9,キリシタン大名を排斥するため

この説は、当時の日本でキリスト教の布教活動を行っていた「カトリック」の「イエズス会」の宣教師である「ルイス・フロイス」などが唱えていた説です。

朝鮮出兵が、「バテレン追放令」と時期的に重なったこともあり「キリスト教に改宗した大名を朝鮮出兵させることで排斥しようと秀吉が考えていた」とフロイスらはとらえたのかもしれません。

しかし、キリシタン大名である「小西行長」「黒田官兵衛」などは、追放されていません。

これも、理由としては整合性に欠けていると私は思います。


スポンサーリンク

10,元寇(蒙古襲来)に対する復讐

荒唐無稽な話としてとらえられていますが、1274年と1281年の「元寇・蒙古襲来(文永・弘安の役)」に対する報復として、秀吉が朝鮮出兵を行った、と考える人がいたようです。

11,従わない属国に派兵しただけという考え方も

『日本書紀』に登場する「神功皇后」は、古代天皇家の中で実在を疑われている1人ですが、神功皇后の時代から朝鮮は、日本の属国だったと主張する儒学者もいます。

秀吉が出した命令に従わない属国に派兵するのは当然・・・・・という考え方で、動機を「功名心」や「名誉欲の強さ」とするものに反発して生み出された説です。。

かなり、極端な考え方ですよね。

私自身は、秀吉の朝鮮出兵の理由は以下のようなものだったのだ、と思っていました。

⦁ 天下を取った豊臣家の、さらなる領土拡張のため
⦁ 秀吉自身が年を取ったため、朝鮮半島や中国大陸の実情を探ることなく、四国や九州の有力大名に派兵するのと同じような感覚で派兵してしまった
⦁ 大名家に生まれた「織田信長」や「徳川家康」と違い、農民の子として生まれた自分の出自にコンプレックスを抱いており、その分「出世欲」「名誉欲」「支配欲」が非常に強かったため、誰も到達できない偉業を成し遂げようと考えた

「お館さま」として仕えた「織田信長」でさえなし得なかった天下統一を果たした今、さらに朝鮮半島、中国大陸、果ては天竺(インド)にまで領土を拡大できれば、国内の諸大名も秀吉の実力を認め、心の底から従わざるを得なくなるでしょう。

秀吉の朝鮮出兵はそんな野望を持って行われたのではないか、と思いますが、近年「別の理由」が提唱されています。

次節で、近年提唱された「別の動機」について解説しますね。


スポンサーリンク

朝鮮出兵の諸説!世界最強国『スペイン』の侵略を防ぐためだった?

豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した理由として

『日本がスペインに侵略され、植民地化を防ぐためだった』

という考え方が、近年提唱されています。

16世紀当時、「スペイン王家」はカトリックの修道会「イエズス会」を世界各地に派遣。キリスト教を布教させるとともに、布教した地をスペインの植民地とする政策をとっていました。

南アメリカを見ると、「インカ帝国」がスペインに滅ぼされていますよね。

東アジアでもキリスト教の布教を足がかりとした植民地政策を行ったスペインは、【1521年】に「フィリピン」を植民地にしています。

さらにイエズス会は、布教活動を表の目的としながら、フィリピンから東アジアを北上。

1549年8月15日】、イエズス会士の「フランシスコ・ザビエル」が、鹿児島に上陸し、日本に「キリスト教」を布教し始めます。

その後、新しいものが好きな性格だった「織田信長」がキリスト教の布教を認め、各地に教会・セミナリオ・コレッジョが作られました。

しかし当時のイエズス会は、「キリスト教の伝道」という目的よりも、スペイン王家の植民地候補地を定め、その地に軍隊を招くことが重要な任務だったのです。

イエズス会の「ルイス・フロイス」は

「日本人はとても戦争がうまい。

しかもとても強いので、日本を植民地化するのは難しい」

とイエズス会に報告する手紙を送っています。


スポンサーリンク

「応仁の乱」から100年以上も戦乱続きの日本。

その日本武士たちの「戦上手ぶり」は、ヨーロッパ人には脅威だったでしょう。

刀や槍だけではなく、最新式の火縄銃をあつかう「鉄砲隊」までいたのですから。

しかも当時の東南アジア諸国には日本人が数多く移住し、フィリピン・マニラで暴動が起きた際には秀吉が派遣した武士が現地の日本人をまとめ、現地人の暴動を鎮圧する活躍さえみせています。

そうした日本の実情は、フロイスの報告を受けたイエズス会から、スペイン王家に伝えられたはずです。

そのためスペインは、東アジアの植民地化のため、まず「明国」を攻めることを考え始めたのです。

「明」をおさえれば、朝鮮半島も遠からず支配することができます。

そうして、植民地化した「明」や「朝鮮半島」の現地人を徴兵し、日本を攻めさせ、自分たちの手を汚さずに日本を植民地化しようとスペインは考えました。

まさに「南宋」や「高麗」の兵士を使って「元寇」、すなわち日本侵略を行った「元」の「フビライ・ハーン」と同じ戦略です。

そのスペインの考えを事前に予測していたのか、秀吉はフィリピン・マニラのスペイン総督府に「日本に従え」と要求。

しかし「無敵艦隊」と呼ばれる強大な「アルマダ艦隊」を誇るスペインが、日本の要求に応じるはずもありませんよね。

だからといって、秀吉がマニラに攻め込むのは不可能。

フィリピンのような遠隔地に出兵したら、日本国内の守りが手薄になり、もしかしたら「明」や「朝鮮」に攻め込まれるかもしれません。

それならばいっそ、朝鮮と明をスペインより先に抑えてしまおう・・・・・というのが、「秀吉の朝鮮出兵の新たな理由」として提唱されているものです。


スポンサーリンク

ところが、ここで予想外のことが起こります。

スペインの艦隊が壊滅させられたのです。

スペイン王家が明国を攻めようと考え始めた頃、世界最強国「スペイン」は、「イギリス」と戦うことになりました。

当時、スペインの海軍は「無敵艦隊」と恐れられ、世界最強の海軍だったのです。

【1588年】、スペインとイギリスは「アルマダの海戦」で激突。

海上戦ではイギリスに全く勝ち目はないと考えられていたのですが、この海上戦はイギリス側の大勝利に終わります。

イギリスの「エリザベス1世」は、国と国民をスペインから守るため、海賊に頭を下げ、彼らに「イギリス海軍」として「無敵艦隊」と戦ってもらったのです。

海流や海岸線など、スペイン海軍よりも海を熟知し、海上戦に慣れていた海賊をイギリス海軍として戦わせるなど、スペイン側は予測もしていなかったでしょう。

こうして、イギリスに負けたスペインは大航海時代の覇権を失い始めました。

「日本植民地化計画」の第一歩としての「明」に攻め込む計画も、無敵艦隊を失ってしまっては継続できません。

こうして最強国スペインは、日本から手を引くこととなったのです。

しかし秀吉からすると、だからといって朝鮮に出兵した日本軍をあっさり引き上げてしまっては、「日本、破れたり」という印象を与えてしまいますよね。

そのため、秀吉は朝鮮出兵を続け、それは秀吉が亡くなるまで続けられたのです。

秀吉が亡くなってすぐに朝鮮から兵を引き上げさせていることから、「スペインによる侵略と植民地化政策を防ぐためという目的」は、これまで考えられていた「秀吉が耄碌したから」というものより、当時の世界情勢を考慮に入れた、非常に理にかなったものではないか、と思います。


スポンサーリンク

朝鮮出兵は、失敗だったのか?実は「戦争目的」を達成できていた

豊臣秀吉の朝鮮出兵は失敗だったのでしょうか?

秀吉の目的が、「朝鮮半島を領土化すること」にあったのだとしたら、その目的は果たせていないので失敗ですよね。

しかし「スペインによる日本侵略・植民地化」を防ぐことを目的としていたのだとしたら、朝鮮出兵の目的は成功していた、と言えます。

アジア諸国でヨーロッパの列強に植民地にされなかったのは、日本だけですから。

スペイン王家の目的は、カトリックの修道会・イエズス会に日本でキリスト教を布教させ、いずれ植民地とすることでした。

しかし、ルイス・フロイスが「日本の植民地化は難しい」と手紙に書いているように、【1467年】の「応仁の乱」から戦乱続きの日本の武士は、スペインが思っていたより強く、戦争に慣れている「武闘集団」だったのです。

南アメリカの「インカ帝国」を滅ぼして植民地化したように、日本を同様に植民地化しようと考えていたとしても、思い通りに行かないと悟ったスペインは、東アジア植民地化政策の見直しを図りました。

しかしその矢先、スペインは自慢の無敵艦隊をイギリスに撃破され、東アジア植民地化の計画そのものさえ見直しをしなくてはいけない事態に陥ったのです。


スポンサーリンク

スペインがイギリスに負ける・・・・という、まさに天の配剤もあったのですが、秀吉の朝鮮出兵の目的が「スペインによる侵略と植民地化を防ぐため」であったとしたら、戦果はあったと言えるでしょう。

しかしその後、秀吉が亡くなり朝鮮から撤退した豊臣政権は、有力な武将も失い、経済的に打撃を受けてしまいました。

その豊臣政権の五大老の1人だった「徳川家康」は、朝鮮出兵を決める評議に呼ばれませんでした。

朝鮮に派兵を求められなかった家康は、「前田利家」と共に豊臣政権の五大老の中で、経済的な打撃を受けることがありませんでした。

家康はこの間に、「三河」「駿府」から移された関東の所領を豊かにする政策を着々と実行。密かに天下を取る計画を練っていたのでしょう。

そうして【1600年】、「関ヶ原の戦い」を経て天下人となった家康は、「大坂冬の陣」と「夏の陣」で豊臣家を滅亡に追い込みます。

最も警戒すべき徳川家康に、朝鮮出兵の負担を負わせず、経済力に打撃を与えられなかった秀吉は、【1615年】「大坂夏の陣」で側室「淀君」と嫡男「豊臣秀頼」を家康に滅ぼされてしまいました。


スポンサーリンク

豊臣秀吉の朝鮮出兵の目的、動機は諸説入り乱れ、確定していません。

「領土拡大」「名誉欲を満たす」という目的だったとすれば、朝鮮出兵は大失敗です。

しかし「スペインによる日本侵略、植民地化を防ぐこと」が目的だったのだとすれば、ヨーロッパの列強に日本は植民地にされていませんから、大成功だったと言えます。

ところが朝鮮出兵は、「豊臣政権における優秀な武将を失う」という人的な被害だけではなく、経済的な大打撃をも与えました。

結果として【1598年】の「豊臣秀吉の死」から、わずか2年後の「関ヶ原の戦い」で徳川家康に天下を奪われ、17年後には豊臣家を滅亡してしまったのです。

秀吉の朝鮮出兵がどんな理由だったにせよ、豊臣政権を疲弊させ、朝鮮出兵に参加せずにすんだ徳川家康が天下人となったことから考えると、秀吉の朝鮮出兵は失敗だったと言えるでしょう。

物事にはプラスの側面とマイナスの側面が必ずあり、秀吉が良かれと思って行った朝鮮出兵も、ある面から見れば成功していても、別の面から見れば失敗だったと言えます。

歴史上の出来事は、単純に考えてはいけないということを、秀吉の朝鮮出兵は私達に伝えているのです。


スポンサーリンク

『朝鮮出兵』について「ひとこと」言いたい!

日本の歴史学はこれまで、国内情勢から論じられることが多いものでした。

しかし「秀吉の朝鮮出兵の理由」として、「スペインによる侵略と植民地化を防ぐ目的だった」というのは、非常に良い着眼点だと思います。

例えば、飛鳥時代に「聖徳太子」は、「十七条憲法」を制定し、「冠位十二階制」などを次々と打ち出しました。

聖徳太子の実在を疑い、厩戸皇子という有力な古代天皇家の人間はいたが、『日本書紀』に書かれた聖徳太子の功績を、「後世の創作だ」と考える人がいます。

そう考える人たちは、「1人の人間が矢継ぎ早にそんな政策を打ち出せるはずがない」・・・・ということを「後世の創作である」という説の根拠としているのです。

しかし、聖徳太子が最初に送った遣隋使に相対した随の皇帝は、悪名高い暴君「煬帝」ではなく、その父「文帝」でした。

文帝は中国で初めて「官僚の登用(採用)試験」の「科挙(かきょ)」を実施し、「開皇律令(法律)」を制定した皇帝です。つまり「優秀な人材を、試験によって選び出す」という現在でも行われている制度を、中国大陸で初めて実施した名君なのです。


スポンサーリンク

最初の遣隋使で「政治のやり方がなっていない、直しなさい」と文帝から怒られた聖徳太子が、文帝の施策を模倣し、当時の日本の実情に合わせたものを実施したと考えるとどうでしょう?

科挙を見習って「冠位十二階」、律令を見習って「十七条憲法」の実施をした・・・・このように、「見習うべきお手本」があったのならば、たとえ1人の人間であったとしても、聖徳太子のように矢継ぎ早に優れた政策を打ち出すことは、十分に可能であると思います。

1人の人間が矢継ぎ早にそんな政策を打ち出せるはずがないという考えは、当時の東アジア情勢を考慮しない、日本国内だけに目が向いたものだと言えるでしょう。

つまり、歴史というのは日本単体だけで考えるのではなく、日本を取り巻き、影響を与えている「海外の情勢」も考慮して考えなければならないのです。

秀吉の朝鮮出兵も、当時の国際情勢を考えに入れ、「スペインによる侵略と植民地化を防ぐ目的があった」と考えたほうが良いのでしょう。

そんな秀吉の後に天下人となった徳川家康と徳川政権は、キリスト教の中でも「カトリック国」である「スペイン」「ポルトガル」とは断交し、「プロテスタント国」の「オランダ」と通商を行っています。

徳川政権がカトリック勢力を排除したことを考えると、秀吉の朝鮮出兵の理由は、「スペイン排除」の目的が大きかったと考えるのは、妥当なことだと私は思います。


スポンサーリンク

まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 秀吉のよる「朝鮮出兵」の理由には諸説ある。「領土拡大」「名誉欲」「息子を亡くした憂さ晴らし」などなど。
  2. 「朝鮮出兵」の目的は、「スペインからの侵略を防ぐため」という説もある
  3. 「領土拡大」「名誉欲」が目的だったとしたら「朝鮮出兵」は失敗。しかし「スペインからの国土防衛」が目的だったとしたら、それは成功だったと言えるだろう。

この記事を短くまとめると、以下のとおり

豊臣秀吉の朝鮮出兵には、秀吉が耄碌したからという説以外にも、様々なものが提唱されています。

近年、当時の国際情勢を考慮し、「スペインによる日本侵略と植民地化を防ぐために、秀吉は朝鮮出兵した」という説が提唱されました。

ルイス・フロイスが「日本の植民地化は難しい」という手紙を送っていることや、豊臣家の後に天下人となった徳川家が「カトリック信仰国」と断交し、代わりに「プロテスタント国」のオランダと通商していることから考えると、「カトリック信仰国」であるスペインを排除するためという説は妥当だと思います。

領土拡大や名誉欲を満たすことが朝鮮出兵の目的だったのであれば、それは失敗です。

しかし、スペインの侵略を防ぐためだったのであれば、それは大成功です。


スポンサーリンク

東アジアで、ヨーロッパ列強に植民地化されていないのは日本だけですから。

歴史上の出来事には必ずプラスとマイナスの側面があり、一面だけ見て価値を決めることはできません。

また、日本の歴史はこれまで、日本国内単体で考えられることが多かったのですが、人間の歴史(国の歴史)は決して、単体で考えるものもないのです。

歴史の研究は、日本を取り巻く諸外国の状況や世界情勢を考え、それらからどのような影響を受けているかを考えなければなりません。

豊臣秀吉の朝鮮出兵は、そうしたことを今日我々に伝えているのです。

肥前名護屋城跡地:sunny onさんによる写真ACからの写真

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「豊臣秀吉の天下統一までの道を解説!農民が偉業達成できた3つの理由」の記事はコチラ
「豊臣秀吉の末裔・子孫は現在タレント?茶々の血を引く有名人って誰だ」の記事はコチラ
「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の関係や人柄・性格をエピソードで簡単解説」の記事はコチラ

スポンサーリンク

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

2019年12月
« 9月    
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031  
ページ上部へ戻る