戦国武将「明智光秀」が、いつどこで何をした人なのか、正確にご存じの方は少ないのではないでしょうか。
実は筆者も光秀が「いつ亡くなったのか」は知っていても、「光秀がいつ生まれ、どこでどのように活躍したのか」を、正確には知りませんでした。
この記事では「光秀の生涯年表」を、わかりやすくまとめました。「光秀の生涯」がひと目で理解できるはずです。
「明智光秀について知りたいが、いつ生まれ、どのように活躍したのかが知りたい方」にとって、こちらの記事は非常に役立ちます。
この記事で「光秀の生涯」が、とても簡単に理解できます。
当記事をお役立ていただけましたら幸いです。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,明智光秀は【1582年6月13日】に「山崎の戦い」で敗北し亡くなっている。生年には「1528年説」と「1516年説」がある
2,光秀の生年は「1516年」のほうが可能性が高いのではないか。この「1516年説」は、「当代記」という1624~1644年頃に成立した資料による説である
3,明智光秀の前半生については、「細川藤孝に仕えていた」という説と、「斎藤道三に仕えていた」という説がある。「細川藤孝に仕えていた」という説のほうが可能性が高いのではないか
「明智光秀」の【生涯年表】をカンタン解説
「明智光秀」の一生を「生涯年表」で解説いたします。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」
詳しくは後述いたしますが、光秀には「1516年生誕説」と「1528年生誕説」があります。
以下の年表は、その両方に対応しております。
この年表がお役に立ちましたら、嬉しく存じます。
また、明智光秀の出身地には諸説ありますが、もっとも有名なのは「美濃国・明智城」でしょう。
明智光秀は、現在の「岐阜県南部」で誕生したと考えられています。
【1516年】 1歳(-)
「明智光秀」誕生・・・1516年説による
【1521年】6歳(-)
「武田信玄」誕生
【1528年】13歳(1歳)
「明智光秀」誕生・・・1528年説による
【1530年】15歳(3歳)
「上杉謙信」誕生
【1534年】19歳(7歳)
「織田信長」誕生
【1537年】22歳(10歳)
「豊臣秀吉」誕生
【1542年】27歳(15歳)
「斎藤道三」が美濃国守護「土岐頼芸(とき よりのり)」を追い出して美濃国を奪取
【1543年】28歳(16歳)
「徳川家康」誕生
【1548年】33歳(21歳)
「斎藤道三」の娘「帰蝶(濃姫)」が「織田信長」に嫁ぐ
【1552年】37歳(25歳)
「織田信秀」死去。息子の「織田信長」が織田家の家督継承
【1554年】39歳(27歳)
「斎藤道三」が家督を息子「斎藤義龍」へ譲る
【1555年】40歳(28歳)
「斎藤義龍」が父「道三」に対して挙兵
【1556年】41歳(29歳)
「斎藤道三」戦死。(道三に仕えていた「明智光秀」は、このとき美濃国から逃亡した・・・という説あり)
【1560年】45歳(33歳)
「桶狭間の戦い」・・・「今川義元」戦死
【1561年】46歳(34歳)
「斎藤義龍」死去
【1565年】50歳(38歳)
室町幕府13代将軍「足利義輝」が暗殺される。
同年、「織田信長」が「至治の世(しちのよ・天下がよく治まっている世であること)」に現れるという伝説の神獣「麒麟(きりん)」を意味する「麒」という文字の花押を使い始める
【1566年】51歳(39歳)
「足利義輝」の弟「足利義昭」が、越前の大名「朝倉義景」を頼って越前国へ。
これに「細川藤孝」や「明智光秀」も同行したと考えられる。
(斉藤道三の死とともに越前へ逃れて「朝倉義景」に仕えていた「明智光秀」が、足利義昭の越前行きによって「義昭」と接触、その後光秀は、朝倉義景から足利義昭に鞍替えして家臣となった・・・とも考えられる)
【1567年】52歳(40歳)
「織田信長」、稲葉山城を陥落させて美濃国を平定。稲葉山城を「岐阜城」と改名。
この頃から「天下布武」の朱印を使い始める
【1568年】53歳(41歳)
「織田信長」、「足利義昭」を奉じて上洛し、京都を支配下に置く
【1569年】54歳(42歳)
「本圀寺の変」・・・「三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)」と「斉藤義龍」の息子「斎藤龍興」が、本圀寺にいた「足利義昭」を襲撃。
光秀、「足利義昭」を守り「三好三人衆」らと交戦。
【1570年】55歳(43歳)
「金ヶ崎の退き口」・・・光秀、「木下秀吉」「徳川家康」とともに朝倉・浅井連合軍を相手に殿(しんがり)を務め奮戦。
6月、「姉川の戦い」
8月、「野田城・福島城の戦い」
9月、「志賀の陣」「長島一向一揆」
(同年3月、信長は朝廷から「天下静謐執行権(てんかせいひつしっこうけん)」を与えられている。)
【1571年】56歳(44歳)
「比叡山焼き討ち」・・・明智光秀が先陣をつとめる。
同年、明智光秀が「近江国・志賀郡」に5万石を与えられ、「坂本城」を築城。
この頃から光秀は正式に「足利義昭」の家臣でなくなり、信長の家臣になったと考えられる
【1572年】57歳(45歳)
「三方ヶ原の戦い」・・・「徳川家康」が「武田信玄」に大敗
【1573年】58歳(46歳)
「武田信玄」、信濃・駒場で死去。
「足利義昭」が信長に対して挙兵(槇島城の戦い)。足利義昭が敗北し京都から追放(室町幕府滅亡)。
「朝倉義景」「浅井長政」が信長に滅ぼされる。
【1574年】59歳(47歳)
信長が「長島一向一揆」を壊滅させる
【1575年】60歳(48歳)
「長篠の戦い」・・・「武田勝頼」が織田・徳川連合軍に大敗。
同年、「明智光秀」が「惟任(これとう)」という姓と「日向守」という官位を与えられる。
同年、光秀「丹波攻略」を命じられる。
同年、「長宗我部元親」が光秀の仲介により「織田信長」と同盟締結
【1576年】61歳(49歳)
「天王寺の戦い」・・・明智光秀が本願寺軍に包囲されるも、「3千」の兵を率いた織田信長が自ら先陣をきって「1万5千」の本願寺軍に突撃。信長は足を負傷しながらも光秀救出に成功。
同年、光秀、過労で倒れ養生を開始。
同年、明智光秀の正室「煕子(ひろこ)」が坂本城で病死。
同年「安土城」の築城開始。
【1577年】62歳(50歳)
「紀州・雑賀攻め」「信貴山城の戦い」に明智光秀・参戦。
信貴山城で「松永久秀」自刃。
同年、「手取川の戦い」で「柴田勝家」が「上杉謙信」に大敗。
【1578年】63歳(51歳)
「上杉謙信」死去。上杉謙信の後継者争い「御館の乱」勃発。
光秀、播磨国を攻撃していた「羽柴秀吉」に援軍として派遣される。
光秀と婚姻関係を結んでいた「荒木村重」が信長を裏切る。光秀、荒木村重の居城「有岡城」を攻撃(有岡城の戦い)。
光秀の娘「玉」が、細川忠興に嫁ぐ。
【1579年】64歳(52歳)
「安土城」完成。
「信康事件」により、徳川家康の正室「築山殿」と嫡男「信康」が死去。
光秀、「丹波国・丹後国」を平定。
【1580年】65歳(53歳)
「本願寺顕如」が「石山本願寺」を退去。10年に及んだ「石山戦争」終結。
光秀、「丹波29万石」を与えられ、「坂本城5万石」と合わせて「34万石」を領することとなる。丹波亀山城を築城。福知山城を修築。
同年「佐久間信盛」「林通勝」が織田家から追放されるが、その際「丹波国での光秀の働きは天下に面目を施した」と信長から絶賛される。
この頃から「細川藤孝」「筒井順慶」らを寄騎として与えられた光秀は実質的に「240万石」を支配する身分となる。
同年「北条氏政」から信長へ臣従の申入れあり。
【1581年】66歳(54歳)
光秀「京都馬揃え」の責任者に任命される。
【1582年】67歳(55歳)
3月、「甲州征伐」開始。「武田勝頼」が「天目山の戦い」で自刃。武田家滅亡。
同年6月2日、「本能寺の変」勃発。「織田信長」死去。
同年6月3日~4日未明、「羽柴秀吉」が茶匠「長谷川宗仁」からの手紙で「織田信長」討死を知る。
同年6月4日、備中高松城において城主「清水宗治」切腹。毛利家と秀吉の間で講和成立。「中国大返し」開始。
同年6月7日、羽柴秀吉「播磨・姫路城」に帰還。秀吉、「6月9日朝」まで兵を休息させる。
同日、光秀、「中国大返し」によって羽柴秀吉が「姫路城」へ帰還したことを知る。
同年6月9日、光秀、秀吉迎撃のために出陣。
同年6月10日、「徳川家康」が西に向けて出陣。
同年6月12日、光秀、「山崎」へ向けて出撃。
同年6月13日、「山崎の戦い」・・・「明智光秀」敗北。逃走の途中、落ち武者狩りに襲われて、京都「小栗栖(おぐるす)」のあたりで負傷。直後に自刃。「明智光秀」死去。
光秀の生年「1516年説」と「1528年説」どちらが正しい?
筆者個人の意見ですが、明智光秀の生年は「1516年」のほうが可能性が高いと思います。
明智光秀がいつ生まれたのかについては、「2通りの説」があります。
「当代記」という資料によると、光秀は「1516年」生まれ。
対して「明智軍記」によれば、「1528年」生まれなのです。
享年・・・・・光秀は「1582年6月13日」に亡くなっていますが、「1516年生まれ」だとすると「享年67歳」。
「1528年生まれ」だとすると「享年55歳」。
この「当代記」と「明智軍記」という資料は、書かれた時期が異なります。
- 「当代記」は、「1624~1644年頃」に記された物。
- 「明智軍記」は「1688~1702年頃」に記された物。
つまり「当代記」のほうが、成立した時代が「光秀が生きた時代」と近いということです。
おそらくですが、「明智軍記の1528年説」よりも「当代記の1516年説」のほうが、信ぴょう性が高いのではないでしょうか。
しかも「明智軍記」は軍記物であり、「資料価値は低い」と言われています。
「明智光秀は1516年生まれで、67歳で亡くなった」
と、筆者は考えています。
67歳・・・・・「豊臣秀吉」は「62歳」で亡くなっており、「伊達政宗」は「70歳」で亡くなっています。
つまり当時の平均寿命としては、明智光秀が「本能寺の変」を起こした時、すでにかなりの高齢であったことがわかります。
歴史学者「磯田道史」さんは、とあるテレビ番組で
「明智光秀はおじいちゃんだった」
とおっしゃっておられましたので、「光秀は高齢だった」ことは間違いないでしょう。
光秀・ナゾの前半生を考察
光秀が「織田信長」に仕えるまでの前半生に何をしていたのか。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」
考えられる説は2つあります。
- 室町幕府13代征夷大将軍「足利義輝」の部下「細川藤孝」に仕え、出世して義輝の弟「足利義昭」に直接仕えるようになった
- 信長の姑である美濃国主「斎藤道三」に仕えており、「道三」が息子「斎藤義龍」に討たれたあと美濃から逃亡し、越前の大名「朝倉義景」に仕えた
どちらが真実なのか、はっきりとはしていません。
「細川藤孝に仕えていた説」を採用して「光秀はいつ、足利義昭と出会ったのか」を考えてみると、「光秀は主君だった『細川藤孝』を通じて、足利義輝が暗殺された【1565年】には義昭と出会っていた」ということになります。
対して「斎藤道三に仕えていて、のちに『朝倉義景』に仕えた説」を史実として採用してみると、「光秀は、足利義昭が朝倉義景を頼って越前国へ来た【1566年】に義昭と出会った」ことになります。
どちらにしても、明智光秀が信長と出会ったのは「1565~1566年頃」・・・・足利義昭が「織田信長」に「上洛を要請した頃」であると考えられます。
「明智光秀は、信長の妻「帰蝶(濃姫)」と「いとこ同士」だったという説があります。
斎藤道三の妻で「帰蝶」の母が、光秀の叔母なのだとか。
光秀が「斎藤道三に仕えていた」のなら、「帰蝶」と「光秀」が「いとこ同士」であることも納得できる気がします。
明智光秀の子孫である「明智憲三郎」さんは、著書「本能寺の変 431年目の真実」で、「光秀は細川藤孝に仕えていた」という説を採用しています。
|
一般的にドラマや映画では、「光秀は斎藤道三に仕えていた」という説を採用している場合が多いですね。
筆者個人の意見としては、「光秀は前半生で、細川藤孝に仕えていた」という説のほうが、信ぴょう性が高いと思います。
「興福寺多聞院」の院主「英俊(えいしゅん)」が記した「多聞院日記」のなかで、光秀が亡くなった4日後【1582年6月17日】の記述には
「光秀は細川藤孝の中間(ちゅうげん・足軽より低い身分の兵士)だったのを、織田信長に引き立てられた」
と記されています。
また、宣教師「ルイス・フロイス」が記した「日本史」にも
「(明智光秀は)初め、細川藤孝に仕えていた」
と記しています。
光秀はもともと「細川藤孝」の「足軽」として仕え、50歳を過ぎた頃に「織田信長」に仕えるようになったのではないでしょうか。
細川藤孝は、「本能寺の変」のあと「明智光秀」に味方せず、光秀を滅ぼす手伝いをしています。
藤孝の息子「忠興」は、織田信長の命令により光秀の娘「玉(細川ガラシャ)」を妻としています。
室町幕府の名門「三管領」の一つ「細川家」の「細川藤孝」・・・。もしかすると、自らの足軽だった「明智光秀」と姻戚関係を結ばされたことを、「屈辱である」と考えていたのかもしれません。
ちなみに歴史学者「小和田哲男」さんはこう言っています。
「光秀は斎藤道三に仕えたのち、越前国・朝倉義景に仕え、その朝倉家を頼って足利義昭・細川藤孝が越前国へ来た際に、織田信長と足利義昭の間を光秀が取り持った。
細川藤孝のために東奔西走していた光秀を見て、『光秀は細川藤孝の家来。それも身分の低い家来だった』と勘違いしたのではないか」
もしかすると「光秀が細川フジタカの中間だった、という説は、勘違いが原因だった」という可能性も、なくはないですよね。
『光秀の前半生』について「ひとこと」言いたい!
先ほども解説いたしましたが、光秀には「斎藤道三に仕えていた」という説があります。
この説は、どうやら「細川藤孝」の「細川家」に伝わる資料「細川家記」によるものであると考えられます。
しかしこの説に、筆者は疑問を持っています。
なぜなら斎藤道三は、「明智光秀の同族である美濃国守護『土岐頼芸』を追い出して美濃国を奪い取った人物」だからです。

《斎藤道三》
「引用元ウィキペディアより」
美濃国は室町幕府から任命された「土岐頼芸」が支配していた地域でした。明智光秀は「土岐氏」の一族であり、「土岐氏明智家」の出身なのです。
「日本三大梟雄(きょうゆう)」・・・・「斎藤道三」は、「北条早雲」「松永久秀」と並ぶ下剋上を成功させた「悪者の親玉」と考えられているのです。
光秀は一族の有力者である「土岐頼芸」が斎藤道三に追い出されたことで、道三と敵対関係にあったのではないでしょうか。
細川藤孝が「明智光秀は斎藤道三に仕えていた」と記したのは、もしかすると、「明智光秀という自分の元家来と、婚姻関係を結ばされたという一族の汚点」を隠すために、「明智光秀の経歴を詐称した」のかもしれません。
「明智光秀はもともと、細川藤孝の足軽だった」と記してしまうと、「細川藤孝は、自分の足軽に出世レースで追い越され、婚姻関係を結ばされた」ということになってしまいますからね。
名門「細川家」からすると、足軽「光秀」に先を越されたことは、屈辱だったのでしょう。
ちなみに「細川藤孝」の子孫には、元内閣総理大臣「細川護熙」さんがいます。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,明智光秀は人生の後半に「織田信長」に仕えて大出世し、【1582年6月13日】に「山崎の戦い」の直後に戦死している。
2,光秀の生年は「1516年説」と「1528年説」があるが、「1516年説」のほうが可能性が高いのではないだろうか。「1516年説」は、「当代記」という資料による説。
3,明智光秀の前半生は、「細川藤孝に仕えていた」説と、「斎藤道三に仕えていた」説がある。「細川藤孝に仕えていた」と説のほうが可能性が高いと、筆者は考えている
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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ありがとうございました
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