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明智光秀の墓所の本物はどこにある?京都・高野山の墓はニセモノ

「本能寺の変」で「織田信長」を殺害した「明智光秀」。そのお墓がどこにあるのか、ご存知でしょうか?

実は筆者も「明智光秀」が、どこの都道府県の、どこの市町村にあるのか、正確には知りませんでした。

この記事では「明智光秀のお墓」がどこにあるのかを、「地図付き」でご案内いたします。

実は光秀の墓所は、近畿地方を中心に複数存在しています。

たくさんある「光秀の墓」のうち、どれが本物で、どれが偽物なのかを解説いたします。

今回は「光秀のお墓がどこにあるのかについて知りたい方」ために、わかりやすく解説をいたします。

これを読めば、「どこの墓に光秀が眠っているのか」が簡単に理解できます。

当記事を皆様にお役立ていただければ幸いです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 明智光秀のお墓は、「京都の胴塚」「大津市・西教寺」「明智藪」「高野山」「京都の首塚」「亀岡市の谷性寺」「福知山市の御霊神社」など、各地に残っている
  2. 光秀のお墓が各地に存在している理由は、「光秀から恩義を受けた人々が、光秀への恩返しのため、各地にお墓を建立したから」ではないか
  3. 各地に存在している「光秀の墓」だが、実際に「光秀の遺骸」が埋葬されたお墓は存在しないと考えられる

各地にある明智光秀のお墓を地図で紹介

1582年6月2日】、「本能寺の変」で「織田信長」を討ち果たした「明智光秀」は、その12日後の【6月13日】に、「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」で敗北し、亡くなりました。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

そのお墓は各地にあるのですが、それら複数あるお墓を、地図付きで解説いたします。

「光秀の胴塚」・・・京都市山科区

「山崎の戦い」に敗北した光秀は、本拠地「坂本城」へ戻る最中に「落ち武者狩り」から致命傷を負わされます。

直後に自害した光秀の首は、家来の「溝尾庄兵衛」が坂本城へ持ち帰ったのですが、胴体はこの場所に埋葬された・・・と伝えられています。

 



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「西教寺」・・・滋賀県大津市

大津市「西教寺」には、光秀一族の墓や供養塔があります。

この「西教寺」は、「比叡山焼き討ち」の際に焼失。

その後「光秀」の援助で再興されています。

その縁で、明智一族のお墓が多数存在しているのです。

「明智藪」・・・光秀が亡くなった場所

お墓ではありませんが、京都市伏見区には、光秀が亡くなった「明智藪」と呼ばれる場所があります。

落ち武者狩りにあった光秀は、この地で自害したとされています。

 



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「高野山奥之院」・・・和歌山

高野山奥之院「光秀の墓」。

この「高野山奥之院」には、戦国時代を生きた武将の実に6割の墓があると言われています。

「武田信玄」「上杉謙信」「豊臣秀吉」「徳川家康」の墓もあるのです。

このお墓に、光秀の遺骸がおさめられているわけではありませんが、供養のために墓石が建立されたと考えられます。

「光秀の首塚」・・・京都市東山区

小栗栖(おぐるす)の近くで最期を遂げた光秀が、その首を家来に託した後、その家来が「知恩院」を目指したがたどり着けず、仕方なくこの地に首を埋めた・・・とされています。

 



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「谷性寺の首塚」・・・京都府亀岡市

光秀の首塚があります。

毎年光秀の命日にあたる「6月14日」には回向(えこう)が行われ、5月3日には「亀岡光秀まつり」が行われます。(明智光秀は実際には6月13日に亡くなった)

明智家の家紋「桔梗紋」に由来してか、桔梗の花が有名なお寺で、「桔梗寺」とも呼ばれています。また近くには「ききょうの里」というものも存在しています。

「御霊神社」・・・京都府福知山市

明智光秀を合祀した神社。

もともとは「ウカノミタマ」という女神をまつっていた神社。

その後、福知山で善政をおこなった「光秀」を合祀してまつっています。

 



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なぜ光秀のお墓は各地にあるのか?

光秀の「首塚」は2つ。「胴塚」が1つ。その他にも「お墓」は複数存在しています。

なぜそれほどまでにたくさんのお墓が、各地に存在しているのか。

その理由は、おそらくですが「光秀から恩義を受けた人々が、その供養のため恩返しのため、お墓や塚をつくって御霊を慰めた」からではないでしょうか。

この記事でご紹介しただけでも、光秀ゆかりのお墓や神社・塚などの「ゆかりの地」は「7つ」あります。

首と胴体を「自害」の際の「介錯」によって斬られた「光秀」は、その後「首」と「胴体」を別々に埋葬されています。そのため「首塚」「胴塚」と、お墓は2つ存在しています。

当時は雨の多い蒸し暑い季節であったと考えられますので、腐敗が進みやすかったのでしょう。素早く埋葬する必要があったのです。

「桶狭間の戦い」で敗死した「今川義元」も、首塚胴塚にそれぞれ埋葬されています。

墓が各地にある理由・・・それは、「光秀を慕った人たちによる鎮魂」という理由と、「首と胴を別々に埋葬したから」という理由があったのです。



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大津や高野山のお墓は偽物?本物はどれ?

大津や高野山には光秀のお墓があります。

しかしこれらのお墓に光秀の遺体がおさめられているとは思えません。

なぜなら光秀の遺体が、丁重に埋葬されたとは思えないからです。

光秀は主君「織田信長」を裏切って討ってしまった大罪人。当時はとてつもない悪人として噂が広められた人物だったのです。

その光秀の遺体は、後に「羽柴秀吉」によって、首と胴体を無理やり繋がれて、京都で「さらしもの」となった・・・とも言われています。

大罪人「明智光秀」の遺体が、丁重に埋葬されたとは考えにくく、おそらくそのまま打ち捨てられたのではないでしょうか。

各地に存在する墓には、光秀の遺髪などが埋葬されている可能性はあります。

しかし、ご遺体や遺骨が埋葬されていると可能性は低いのではないでしょうか。

光秀の遺体が埋葬された「本物のお墓」は、どこにあるのか・・・。

「本物」と呼ぶべき「遺骨がおさめられたお墓」は、どこにも存在しないと考えられます。



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高野山の墓石は、いくら直してもヒビが入る

ヒビが入る「高野山」のお墓

高野山には、「明智光秀」のお墓・供養塔が存在するのですが、そこには不思議な噂があります。

「光秀の供養塔は、何度修復しても、何度でもヒビ割れてしまう。光秀に討たれた【織田信長の呪い】が、そうさせている」

確かに、現在のところ「高野山奥之院」にある「明智光秀の供養塔」には、縦に大きなヒビが入っています。

結論からいえば、「本当に何度でもヒビが入ってしまう」のかどうかはわかりませんでした。

現実的に考えれば、「そんなことあるはずがない」のですが、実はこの「何度でもヒビが入ってしまう」という逸話・・・・似たような逸話が存在しているのです。



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植え替えても枯れる「はりつけ松」

丹波八上城・・・・・・明智光秀を裏切り、織田信長に「はりつけ」で処刑された武将「波多野秀治」の居城。

「波多野秀治」は、光秀を裏切って織田軍と交戦した武将です。その後降伏し、織田信長に会いに安土城へ向かいます。

このとき、波多野秀治の身の安全を保証するため、光秀は自分の母を「丹波八上城」へと送ります。

信長は「光秀の母」が八上城へ人質となっていることを知りながら、降伏してきた「波多野秀治」を「はりつけ」にして処刑。

「光秀の母親」は無残にも、八上城の「松の木」に「はりつけ」にされて処刑されてしまうのでした。

今も残る「八上城」の「はりつけ松の跡」・・・。

そこに植えられた木は、なんど植え替えても枯れてしまうのだとか・・・。

 

  • 「高野山奥之院の、ヒビが入ってしまう光秀の墓」
  • 「なんど植え替えても枯れてしまう、はりつけ松の跡」

不気味な逸話ですよね・・・。

しかし、「明智光秀の母」が「信長のせいで処刑された」というのは、後世の創作。

実際には、光秀の兵糧攻めに音を上げた「波多野秀治」が、八上城を開城して降伏。

「はりつけ」とされて処刑された・・・というだけの話なのです。

おそらく「墓のヒビ」も「はりつけ松」も、ただの作り話でしょう。

そう信じたいものです・・・。



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『光秀の墓』について「ひとこと」言いたい!

「明智光秀・・・・。

るく、でたることのごとし」

大河ドラマ「功名が辻」で、俳優「舘ひろし」さんが演じた「織田信長」のセリフです。

織田信長が光秀をとても高く評価していたことを表すワンシーンです。

明智光秀は「織田信長」を裏切り殺害した逆臣。

しかし、光秀が支配した地域の民衆からは「善政をおこなった名君」として、今でも慕われています。

日本人には、志半ばで破れた武将に対して同情的な評価をし、「彼らは実は生存していて、のちに幸せになった」という逸話を創り出す習性があります。

「源義経」や「真田幸村」も、光秀と同じように、民衆から同情を集め、「生存説」や「チンギス・ハーン説」などが存在しています。

さて・・・・光秀が「名君であった」という説ですが、筆者は「本当に名君だったのか?」と、少し懐疑的です。

理由は簡単です。

偉人の逸話は、時間が経過するとともに、少しずつ盛られて大げさになっていくもの、だからです。

「明智光秀」が、現在の日本で言われているほど、「名君」で「仁君」で、心優しい人物であったかどうか、筆者は「大げさに脚色された部分が多分にある」と考えて・・・いました。

筆者はそう考えていたのですが・・・・「明智光秀」が当時の人々から相当に慕われていたことは、疑いようのない事実・・・・のようです。

そう言える根拠は、先程解説した「お墓・供養塔がたくさん現存している」こと。

光秀の死を悼んだ人たちが、その御霊を慰めるために、各地に「供養塔」「碑」「墓」を建立しています。

この「墓」や「供養塔」が、このサイトで紹介しただけでも「7つ」もあるということは、それだけ光秀が、当時の人達から慕われていたことを意味するのでしょう。

光秀のライバル「豊臣秀吉」は、天下を統一したにも関わらず、そのお墓はそれほど多くありません。

調査してみたところ、秀吉の墓は以下の通り。

  1. 「京都・豊国神社」
  2. 「広島市・不動院」
  3. 「広島市・国泰寺」
  4. 「高野山奥之院」
  5. 「山口市・俊龍寺」

天下人の割には5つだけです。

「謀反人」として処刑された「光秀」が、天下人「秀吉」にも負けない数のお墓を残していることを見ても、光秀がどれほど民衆から慕われていたかが、うかがえるのではないでしょうか。

脳機能学者「中野信子」さんが「明智光秀」について、こんなことを言ってました。

「武には向かない人だった」

「武士・武将には不向きな人」だった明智光秀は、もしかすると本当に「心優しい人」だったのかもしれません。

織田信長に仕えるには、光秀は「まともすぎた」または「優しすぎた」、ということなのではないでしょうか。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 明智光秀の墓や塚は、「胴塚」「西教寺」「明智藪」「高野山」「首塚」「谷性寺」「御霊神社」など、複数残っている
  2. 光秀の墓がいくつも存在している理由は、「光秀から恩を受けた人々が、その恩返しのため、各地に墓を建立したから」なのだと考えられる
  3. 各地にある「光秀の墓」。実際に「光秀の遺骨」が埋葬された墓は、存在しないだろう

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



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