明智光秀の「死因」や「最後の様子」について、誰かに尋ねられても、ハッキリと答えられる方は、少ないかもしれません
実は筆者自身も、「明智光秀」については知っていたものの、自分の手で調査してみるまで、「明智光秀の死因・最後」については答えられませんでした
この記事では「明智光秀」の「死因」「最後の様子」について、ひと目で分かるようにまとめました
「明智光秀」の「最後」について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです
これを読んで、明智光秀についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,明智光秀の『死因』は?
「槍で刺されて致命傷を負ったため、切腹」
2,明智光秀の『没年月日』は?
旧暦・天正10年6月13日
新暦・1582年7月2日
享年55歳(67歳という説もある)
3,明智光秀の『最後の様子』は?
「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」に敗北した光秀は、坂本城へと落ちのびる途中で、「小栗栖(おぐるす)」という場所で「落ち武者狩りの百姓たち」に襲撃された。(または信長の家臣だった小栗栖館の武士団)
竹槍(またはサビた槍)で刺されて深手を負ったため自害したという。
光秀終焉の地は「明智藪」と呼ばれて、現在は「碑」が建てられている。
4,明智光秀の『辞世の句』は?
- 「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」
- 「心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ」
- 「土岐(とき)は今 天(あめ)が下知(したし)る 五月(さつき)かな」
明智光秀の『死因』は何?
光秀の死因
明智光秀の死因は、「槍で刺されて致命傷を負ったため、切腹した」と言われています。
「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」に破れた「明智光秀」は、坂本城へと落ちのびる途中、「落ち武者狩りの百姓たち」に「竹槍で刺されて深手を負ったため自害」
家臣「溝尾茂朝」に介錯(かいしゃく)させ、その首をちかくの竹やぶの溝にかくした。
【6月14日】、明智光秀の首は、それを発見した百姓により、「村井清三」をつうじて織田信長の三男「織田信孝」の元に届き、まずは「織田信長」終焉の地である「本能寺」でさらしものにされた。
【6月17日】、光秀と同じく、捕まって斬首された光秀の家来「斎藤利三」の屍とともに、京都の粟田口に、首と胴をつないだ形で、さらしものとされた。
【同年6月24日】、「光秀」と「斎藤利三」の首塚が、粟田口の東の路地の北側に築かれた。
信長の側近「大田牛一」が書き残した『太田牛一旧記』によれば、明智光秀たちは小栗栖(おぐるす)という場所で、落ち武者がよく通る田のうえの細道を進んでいるときに、藪のなかから繰り出された百姓の「サビた槍で、腰骨を突き刺された」を受けたとのこと。
別の説よによれば、光秀は「落ち武者狩り」ではなく、「信長の家来だった小栗栖館の武士たち」から襲撃されて亡くなった、とも言われている。
そのとき、これで最期とさとった光秀は、自らの首を「知恩院に届けてくれ」と、周囲の者に言いのこした(つまり、この直後に光秀は切腹して、介錯され、みずからの首を討たせたということ)
光秀の首のゆくえについて、信長の息子「織田信孝」に届けられた、と解説したが、その他にも諸説あり。
別の説によれば、光秀の首は、本人の遺言にしたがって「知恩院」へ運ばれたが、敵軍によって道をふさがれて届けられず、知恩院への道の途中で埋められ、現在では「知恩院」の近く、地下鉄東西線「東山駅」の南に、明智光秀の「首塚」がある。
光秀・終焉の地「明智藪」
光秀が「落ち武者狩り」または「小栗栖館の武士団」から襲撃され、亡くなった場所は「明智藪(あけちやぶ)」と呼ばれ、現在は「碑」が建てられている。
この場所は、「本経寺」の境内に位置している。
「明智藪」という名前だが、現在は「藪(やぶ)」があるわけではない。
明智光秀の『没年月日』と『最後の様子』
「没年月日」と「享年」
旧暦・天正10年6月13日
新暦・1582年7月2日
享年55歳(67歳という説もある)
「最後の様子」
【天正10年6月13日(1582年7月2日)】、「本能寺の変」からわずか12日後、「明智光秀」は京都と大坂のあいだにあった「山崎」という地で、「羽柴秀吉」の軍を迎撃することになった。
兵力は
羽柴軍2万7千(4万人という説もある)
明智軍1万7千人(1万人余りとする説もある)
兵数は秀吉軍が勝っていたが、天王山と淀川の間はとても狭かったため、両軍とも「3千人程度」しか軍を配置することができなかった。
合戦が長引いてしまうと、「にわか連合軍」である羽柴軍の混乱や、周辺勢力の光秀への増援が予想されていた。
そのため、羽柴軍にとっては、決して楽観できる状況ではなかった。
羽柴軍の主力は「備中高松城の戦い」から「中国大返し」を行ったために疲れきっており、「高山右近」や「中川清秀」たち、現地で合流した武将とその軍団の活躍に期待するしかなかった。
秀吉側「3万5千人」に対し、明智光秀はというと、各城にも兵を残したため実数「1万人」程度で劣勢であり、戦いが始まると最大勢力の「斎藤利三」の軍団「3千人」が包囲されたことによりあっという間に敗走。
これにより早くも勝敗が決まった、との見解もある。
同日深夜、すなわち【天正10年6月13日(1582年7月2日)深夜】、光秀は坂本城を目指して落ちのびる途中で、「落ち武者狩り」に深手を負わされ、自害した。
明智光秀の『辞世の句』と意味
光秀の辞世とされる詩や句が残っているが、いずれも後世の編纂物によるものであり、創作の可能性がある。
「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」
じゅんぎゃくにもんなし たいどうしんげんにてっす ごじゅうごねんのゆめさめきたれば いちげんにきす
【たとえ信長は討つとも、主君と家臣の順序について、文句を言われる筋合いはない
彼も我も、同じ「武士」である。
武士たるものが主君とするお方は、ただ一方(天皇)のほかに誰があるだろう。
その大道は、私の心の中にあること。
それを知るものは、やがて知るだろう。
とはいえ五十五年の夢が醒めれば、我も世俗の毀誉褒貶(きよほうへん)にさらされるだろう(毀誉褒貶・褒めるものも、けなす者も多いということ)
しかしその毀誉褒貶をする者もまた、一元に帰せざるを得ないだろう。】
心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ
【主君である「織田信長」公を倒せば、私は謀反人の汚名を着せられるだろう。
しかし、私の心は誰にもわからないのだから、なんと言われても構わない。
命も名誉も惜しくはない】
時は今 雨がしたしる 五月かな
「土岐は今 天が下知る 五月かな」
【季節は今、冷たい雨が降りしきる5月。これを耐え忍べば、きっと暖かい日が差すだろう。】
または、以下のような解釈も可能であるとされています。
【明智家の本家である土岐氏は機会が巡ってきた5月の今こそ、天下にその名を知らしめて支配するときだ。】
ただ、光秀が作った俳句は、本当は
時は今 雨がしたなる 五月かな
だったという説もあります。
これならば、ただの「季節を歌った句」になるので、「天下を取ろう」という野心は見えません。
明智光秀の子孫「明智憲三郎」氏は、「豊臣秀吉」が「明智光秀」の信長殺害の動機を「天下に野心によるもの」とするため、「雨がしたなる」を「天が下知る」に捏造した・・・と主張しておられます。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,明智光秀の『死因』は?
「槍で刺されて致命傷を負ったため、切腹」
2,明智光秀の『没年月日』は?
旧暦・天正10年6月13日
新暦・1582年7月2日
享年55歳(67歳という説もある)
3,明智光秀の『最後の様子』は?
「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」に敗北した光秀は、坂本城へと落ちのびる途中で、「小栗栖(おぐるす)」という場所で「落ち武者狩りの百姓たち」に襲撃された。(または信長の家臣だった小栗栖館の武士団に襲われて亡くなった)。
竹槍(またはサビた槍)で刺されて深手を負ったため自害したという。
光秀終焉の地は「明智藪」と呼ばれて、現在は「碑」が建てられている。
4,明智光秀の『辞世の句』は?
- 「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」
- 「心しらぬ人は 何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ」
- 「土岐(とき)は今 天(あめ)が下知(したし)る 五月(さつき)かな」
以上となります。
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ありがとうございました
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