石田三成『干し柿』の逸話と名言をご紹介!その性格を分析してみた

義将「石田三成」の逸話「干し柿」と名言について、わかりやすく解説いたします。

 

「大望を抱いているなら、どんなときでも命を惜しめ」

 

主君である「豊臣秀頼」を守るという志をもっていた石田三成は、最期まで自分の健康に気をつけていたのでした。

 

石田三成とは、どういう性格の持ち主だったのでしょうか。


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この記事を短く言うと

1,「石田三成」は処刑される直前、「柿はタンの毒だから食べない」と言い「大望を抱いているから命を惜しんでいる」と語った

 

2,三成の性格は、「清廉潔白」「正直すぎる」「堅物」「融通が利かない」などなど

 

3,1600年「関ヶ原の戦い」で石田三成は敗北。「京都・六条河原」で斬首された


石田三成「干し柿」の逸話と名言!

豊臣秀吉の奉行として活躍し、「関ヶ原の戦い」で家康に敗れて亡くなった武将「石田三成」。

《石田三成》
「引用元ウィキペディアより」

その三成の逸話でもっとも有名なのが「干し柿」のエピソードでしょう。

 

関ヶ原の戦いで敗北し、落ち武者狩りに捕まった「石田三成」。

 

東軍の総大将「徳川家康」は、三成を捕まえた武将「田中吉政」に、三成を処刑場のある「京都・六条河原」へ連れてくるように命令。

 

三成と幼馴染である「田中吉政」は、敗軍の将とはいえ可能な限り「三成」を大切にあつかいます。

 

三成が「お湯を飲みたい」と頼むと、警護を務めていたものが「お湯」がないと断ります。

 

ただ断ることに罪悪感を抱いた警護の武士は三成の好物が「柿」であることを思い出し、「干し柿」を差し出しました。

 

すると三成は柿を食べず

「柿はタンをからめる毒です。食べられません」

と断ったのでした。

 

明日、命を絶たれるにもかかわらず、健康の心配をするとは・・・。これを聞いた警護の武士は笑ってしまいます。

 

すると三成はそれに気が付き、警護の者にこう言ったのでした。

「大義を抱くものは、この首をはねられ亡くなる瞬間まで、命を大切にするべきだ。それほど私は本望を遂げたいと願っているのだよ」

この時、三成が本気で主君「豊臣秀頼」を守りたいと思っていることを悟った「警護の武士」は、笑ってしまった自らを恥じたのでした。


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石田三成の性格とは?正直すぎて融通が利かない!

石田三成・・・・史実によると三成は「七将」と呼ばれた7名の武将たち

  1. 福島正則
  2. 加藤清正
  3. 「黒田長政」
  4. 「加藤嘉明」
  5. 「池田輝政」
  6. 「細川忠興」
  7. 「浅野幸長」

彼らにいきなり襲撃され、殺されそうになるほど嫌われていました。

 

なぜ三成はそれほど嫌われていたのでしょうか?

 

その原因は三成の性格にあったようなのですが、三成はどういう性格の持ち主だったのでしょうか?

 

清廉潔白、正義感が強くて、正直すぎて、融通がきかない。

 

三成とは、そういう人だったのです。

 

石田三成は、豊臣秀吉の側近でした。

 

いつも秀吉のそばにいて、その頭脳を駆使し、戦争の後方支援をおもに担当していたのです。

 

最前線で戦う「加藤清正」「福島正則」たちからすると、苦労を知らない三成が偉そうにしていることが気に入らなかったようです。

 

あまりにも清廉潔白で、しかもそっけなくて可愛げがない、小賢しくて口うるさい官僚タイプ。

 

そのため石田三成は、体育会系からは嫌われて、「直江兼続」「小西行長」「大谷吉継」のような頭脳派と呼ばれる一部の人間からしか、支持を集められなかったようです。


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三成の最期!「関ヶ原の戦い」で敗北し処刑

三成は1600年に起こった「関ヶ原の戦い」で「徳川家康」に敗北して亡くなります。

 

関ヶ原の戦いで敗北した三成は、山の中へ逃亡。

 

しかし落ち武者狩りにあって捕縛され、最期は「京都・六条河原」で斬首されています。

 

三成は、どうして「関ヶ原の戦い」を起こしたのか?

 

この直前、徳川家康は「豊臣政権」のなかで、今は亡き「豊臣秀吉」がつくったルールを次々と破り、まるで自分が「天下人」のような傍若無人な振る舞いをみせたのです。

 

これは家康の「挑発」でした。

 

三成を怒らせて決起させ、自分に逆らう勢力を一網打尽にするつもりだったのです。

 

正義感が強く、主君「秀吉」の遺児「秀頼」を守るとかたく誓っていた「三成」は、その罠に見事に引っかかったというわけです。

 

三成は処刑される最期の最期まで、「秀頼」を守るという大望を捨てませんでした。

 

しかし、その願いも虚しく、三成の死から15年後の1615年、「大坂夏の陣」で「豊臣秀頼」は徳川家康の手によって、殺害されてしまうのです。


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【石田三成】について「ひとこと」言いたい!

正義感が強かったという石田三成。

 

彼にもう少し人望があったのなら、関ヶ原の戦いは、違う結果になっていたかもしれませんね。

 

それにしても三成は、なぜそこまで嫌われていたのでしょうか?

 

これは推測でしかありませんが、もしかすると三成は、何かしらのコミュニケーション能力の欠如というか、障害のようなものをもっていたのではないでしょうか。

 

そのため、相手の気持ちに配慮する事ができず、思ったことを次々と喋ってしまう・・・。

 

さらに「頭の回転が速い」ので、小賢しく見えて余計に憎らしく見えてしまう・・・。

 

石田三成・・・「官僚」としてとてつもない優秀さをみせ、秀吉の血縁でもないのに、秀吉の親族「福島正則」「加藤清正」と同じ速度で出世した天才。

 

それだけならまだ良かったのですが、三成は秀吉が亡くなる直前、「福島正則」や「加藤清正」を超える、「筑前37万石」という大きな領地を与えられるはずだったのです。

 

ところが、さすがにもらい過ぎだと、三成自身も思ったのでしょうか。

 

筑前37万石の領地を、三成は辞退しています。(この筑前37万石の領地は、元々は小早川秀秋の領地だったが、秀吉によって取り上げられていた。後日、徳川家康によって、この領地はさらに59万石へ加増した上で、小早川秀秋へ再び与えられた。このことに恩を感じた小早川秀秋は、関ヶ原の戦いで家康に味方したと考えられる)

 

出世が早すぎたことも、妬みをかってその身を滅ぼしてしまった原因の一つかもしれませんね。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「石田三成」は処刑される直前「柿はタンの毒だから」と言って干し柿の差し入れを断り、「大望を抱いているなら命を惜むべきだ」と語った
  2. 三成の性格は「正義感が強い」「清廉潔白」「正直すぎる」「融通が利かない」などなど
  3. 関ヶ原の戦いで敗北した三成は、落ち武者狩りに捕まり、京都で斬首された

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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