明智光秀の娘達の生涯!長女「りん」三女「ガラシャ」を襲った悲劇

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江戸時代に書かれた『明智軍記』によれば、「明智光秀」には正室・煕子との間に「34女」の子供がいました。

 

父「明智光秀」が起こしたとされる本能寺の変によって、娘たちは過酷な運命を辿ることになったのです。

 

この記事では、「明智光秀」の娘たちについて、あまり詳しくない人に向けて説明していきます。

 

これを読んで「そうだったのか、光秀の娘たち」と、疑問をスッキリと解消して下さいね。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,荒木村重の子「荒木村次」へ嫁いだ「明智光秀」の長女「りん」は、村重が織田「織田信長」に対して謀反を起こした際に離縁され、次に「明智秀満」」と再婚。「本能寺の変」の直後、坂本城で夫「明智秀満」とともに自害した

 

2,「明智光秀」の長女と次女は、本能寺の変の直後に夫の「明智秀満」「明智光忠」とともに坂本城で自害したと考えられている

 

3,「明智光秀」の三女「細川ガラシャ」は、「本能寺の変」の直後に夫「忠興」から幽閉され、「本能寺の変」の18年後の1600年関ヶ原の戦い」の直前に自害し、亡くなっている。

 

4,「明智光秀」の四女「京子」は「織田信長」の甥「津田信澄」に嫁いだ。津田信澄は「本能寺の変」の直後、「織田信長」の三男「織田(神戸)信孝」と「丹羽長秀」に討ち取られた。その後も「京子」は生き延び、子孫は幕末まで続いた。

 

5,「明智光秀」の従兄弟(いとこ)であると考えられている「明智光秀」の家来「明智左馬之助「明智秀満」は、「本能寺の変」「湖水渡り」「郷義弘の脇差」「入江長兵衛」など、数々の逸話が残る名将。


長女「りん」の悲劇!荒木村重の謀反で無理やり離婚

『明智軍記』によると「明智光秀」と煕子の間には、「3男4女」、合計7人の子供がいました。

《「明智光秀」》
「引用元ウィキペディアより」

1556年に美濃国の明智城が落城した時、「明智光秀」は身重の煕子を背負って落ち延びた、と言われています。

 

恐らく、この時に煕子のお腹の中にいた子供が長女・倫(りん)でしょう。

 

1556年1557年に生まれた倫(りん)は、摂津国の池田家につかえていた家臣「荒木村重」の息子「荒木村次」に嫁ぎました。

《荒木村重》
「引用元ウィキペディアより」

荒木村次は、尼崎城(兵庫県尼崎市)の若き城主でしたから、「明智光秀」と煕子は長女・倫(りん)について「良い縁談に恵まれた」と、安心していたかもしれません。

 

しかし1578年、荒木村次の父「荒木村重」が「織田信長」に反逆したのです。

 

驚いた「明智光秀」は、有岡城(村重の居城・兵庫県伊丹市)に出向いて村重と面会。

 

謀反を思いとどまるよう、荒木村重を説得しようとしました。

 

しかし村重は聞く耳を貸さず、「明智光秀」を有岡城から追い出し、倫(りん)は村次と離縁され、実家に戻されてしまったのです。(このとき、羽柴秀吉の参謀だった「黒田官兵衛」も「荒木村重」を説得するため有岡城を訪れたが、同じキリシタンであったためか処刑はせず、村重は「黒田官兵衛」を1年近く幽閉。官兵衛はこの過酷な幽閉生活で足が不自由になったという。)

 

「織田信長」の重臣である「明智光秀」の娘を、謀反人の正室にしておくわけにはいかない、という理由でした。


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当時は、離縁された女性は実家に戻るのが慣例だったのです。

《桔梗:七彩さんによる写真ACからの写真》

実家に戻された倫(りん)は、「明智秀満」と再婚しました。

 

「明智秀満」は、「明智光秀」を育てた明智城の城代「明智光安」の息子であり、「明智光秀」の従兄弟(いとこ)にあたる人物です。

《「明智秀満」》
「引用元ウィキペディアより」

「明智秀満」は1536年頃の生まれだと考えられていますから、倫(りん)が1556年頃の生まれだとすると、20歳位年齢が離れていたはずです。

 

「明智光秀」は、離縁されて実家に戻された娘を、再び別の武将に嫁がせるよりも、気心の知れた「明智秀満」に預けた方がいいだろうと考えたのでしょう。

 

1578年、こうして今風に言うと年の差婚カップルとなった「明智秀満」と倫(りん)は、しばらくは幸せに穏やか暮らします。

 

しかし、その幸せは長くは続きませんでした。

 

倫(りん)は、父・「明智光秀」が起こした「本能寺の変」ののち、夫「明智秀満」と悲劇的な最期を遂げることになったのです。


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長女「りん」と次女は「本能寺の変」直後に亡くなった?

仮に長女・倫(りん)を1556年1557年の生まれとすると、3女の珠(細川ガラシャ)が1563年の生まれですから、1560年ごろの生まれだと考えられます。

 

「明智光秀」と煕子の次女は、「明智光忠」と結婚しました。

 

「明智光忠」は、「明智光秀」の父親「明智光綱」の弟「光久」の子で、1540年に生まれたと言われています。

 

つまり「光忠」は、「明智光秀」のいとこにあたるわけです。

 

おそらく、1556年の明智城が落城した時に、「明智光忠」は「明智光秀」や「明智秀満」たちとともに落ち延びたのでしょう。

 

「明智光秀」と煕子の次女を1560年ごろの生まれと考えると、光忠とは20歳くらい年の差があることになりますね。

 

もしかしたら、長女・倫(りん)同様に、次女にも「光忠」以前に夫がいたけれど、生別か死別で実家に戻ったのかも知れません。

 

1582年6月、「明智光秀」が「本能寺の変」を起こし、主君「織田信長」を討ち果たすという事件が起きます。

 

「本能寺の変」に参加した武士「本城宗右衛門」の覚書によると、「明智秀満」は先遣隊として本能寺に向かいました。


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「織田信長」に一番槍を食らわせたのは「斎藤利三」の家臣「安田国継」だと言われています。

《斎藤利三》
『引用元ウィキペディアより』

しかし、「本城宗右衛門」が本能寺に入った時、北の方角から入ったと思われる「明智秀満」に出くわしていますから、もしかしたら、最初に「織田信長」を攻撃したのは「明智秀満」だったのかもしれません。

 

「織田信長」を討ち果たした「明智光秀」と「明智秀満」は、二条城にいた「織田信長」の嫡男「織田信忠」も攻め滅ぼします。

 

二条城攻めの際、「明智光忠」は銃撃で重傷を負い、知恩院(京都市東山区)で療養生活を送ることになったのです。

 

「明智光秀」は対朝廷工作を行い、わずかの期間ですが天下人となりました。


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「明智秀満」は、「明智光秀」から「織田信長」の居城だった安土城の守備をまかされます。

 

しかし、「羽柴秀吉」が「中国大返し」と呼ばれる高速での帰還をおこない、「明智光秀」達の予想よりも早く畿内に戻ってきました。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」

さらに、アテにしていた織田家家臣たち「細川藤孝」「筒井順慶」「高山右近」「中川清秀」たちからの援軍も得られず、「明智光秀」は孤立無援状態に陥ったのです。

 

「明智光秀」は秀吉と「山崎の合戦」で戦いますが、あっけなく敗れ、勝龍寺城に撤退。

 

そこから坂本城(滋賀県大津市)へ落ちのびる途上にあった、小栗栖(おぐるす・京都市伏見区)の竹やぶで落武者がりに遭遇。亡くなりました。

 

「明智秀満」は「山崎の合戦」で「明智光秀」が敗北し、その直後に亡くなったことを知り、安土城から坂本城に移ります。

 

知恩院で療養生活を送っていた「明智光忠」も、「明智光秀」が亡くなったと知り坂本城に戻りました。

 

坂本城に入った「明智秀満」は、覚悟を決めると自分の妻子と「明智光秀」の妻子を殺害し、坂本城に火を放ち、自害したのです。

 

光忠も「明智秀満」にならい、自害して果てました。

 

「明智光秀」の長女・倫(りん)と次女(明智光忠の妻)は、坂本城落城の際に、他の明智一族と共に悲劇的な最期を迎え、短い生涯を閉じたのでした。


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三女「ガラシャ」の悲劇と壮絶な最期

「明智光秀」と煕子の三女「珠」は、1563年に越前国で生まれました。

 

成長後、1578年に「珠」は父「明智光秀」の僚友である「細川藤孝」の嫡男「細川忠興」に嫁ぎます。

《細川忠興》
「引用元ウィキペディアより」

同い年だった珠と忠興は、美男美女として知られた夫婦となりました。

 

1579年には長女を、1580年には長男を授かった「珠」でしたが、1582年に父「明智光秀」が「本能寺の変」を起こしたのち、その運命が暗転します。

 

舅「細川藤孝」と夫「忠興」は、「明智光秀」に味方せず、「明智光秀」は「羽柴秀吉」に攻め滅ぼされ、珠は謀反人の娘として幽閉されました。

 

通常であれば離縁されるはずですが、実家が滅亡したために実家へ戻すこともできなくなり、仕方なく幽閉されたのです。

 

しかし「忠興」の「珠」への愛情は深く、珠は幽閉生活中にも子供に恵まれました。


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1584年、秀吉の取りなしで幽閉生活から解放され、細川家屋敷に戻った珠は、夫「忠興」からキリシタン大名だった「高山右近」の話を聞かされ、キリスト教(カトリック)に心をひかれ始めます。

《高山右近》
「引用元ウィキペディアより」

遂には屋敷を抜け出して教会へとおもむき、洗礼を望みますが、その時は許されませんでした。

 

しかしイエズス会士の計らいで、夫に内緒で侍女「清原マリア」から洗礼を受け、「珠」は「ガラシャ」という洗礼名のクリスチャンとなったのです。

 

こうして歴史に名高い「細川ガラシャ」が誕生します。

 

勝手に洗礼を受けた「ガラシャ」に対して、夫「忠興」は烈火のごとく怒り狂い棄教を迫ります。

 

しかしガラシャは頑として聞き入れず、忠興は渋々ながらも黙認しました。


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1598年、豊臣秀吉が死去。

 

秀吉の死後、時代は大きな戦に向かい始めます。

 

1600年、「関ヶ原の戦い」です。

 

「徳川家康」と対立した「石田三成」は、戦いを有利に進めるために、家康に味方した大名の妻子を人質にとる計画を立てました。

《石田三成》
「引用元ウィキペディアより」

「関ヶ原の戦い」直前の1600年7月16日、忠興が徳川家康に従って、上杉征伐に向かって屋敷を開けた直後、三成はガラシャを人質にしようと細川家屋敷(大阪市中央区)を訪れましたが、ガラシャはこれを拒絶。

 

翌7月17日、武力でガラシャを捕らえようとした三成の軍に、細川家屋敷を囲まれ、最期を覚悟したガラシャは屋敷内の女性を外に逃がします。

 

キリスト教は自殺を禁じているため、細川家家臣・小笠原秀清に介錯を頼んで、ガラシャはその生涯を閉じました。

 

秀清はガラシャの遺体を三成方に渡さないよう、細川家屋敷に爆薬を仕掛けたのち、自刃。

 

こうして「明智光秀」と煕子の3女・珠(細川ガラシャ)は、凄絶な最期を遂げました。


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四女は「本能寺の変」のあとも生き延びた?

さて、「明智光秀」と煕子の4人いる娘たちのうち3人は、悲劇的な最期を遂げました。

 

長女・倫(「明智秀満」の妻)と次女(明智光忠の妻)は、父・「明智光秀」が本能寺の変を起こしたのちの1582年6月15日、それぞれの夫と明智一族とともに、坂本城で壮絶な最期を遂げたのです。

 

三女の珠(細川ガラシャ)は、関ヶ原の戦いの直前、1600年7月17日に石田三成に人質にされるのを拒み、家臣に介錯してもらい、やはり壮絶な最期を遂げました。

 

では、「明智光秀」と煕子の四女は、どのような生涯を送ったのでしょうか。

 

「明智光秀」と煕子の四女の名前は、一説には「京子」と言います。

 

1563年に珠が生まれ、長男の光慶が1569年の生まれだと言われていますから四女・京子はこの2人の間、恐らく1566年頃に生まれたのでしょう。


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四女・京子は成長後、「織田信長」」の弟「織田信勝(別名・信行)」の息子である「津田信澄(つだ のぶずみ)」と結婚しました。(つまり「津田信澄」は「織田信長」」の甥

 

ちなみに、信勝は何度も兄に対して謀反を起こした挙げ句、「織田信長」に殺されています。

 

しかし「織田信長」は、信勝の子どもたちの命を奪うことはせず、柴田勝家に養育させました。

《柴田勝家》
「引用元ウィキペディアより」

信勝の息子は、成長して津田氏の養子となり、津田信澄(つだ のぶずみ)と名乗ります。

 

1578年、「明智光秀」の四女・京子は「織田信長」の命令で、「織田信長」の甥であり、織田家中の出世株だった信澄と結婚しました。

 

「明智光秀」にとっても、主君の甥に娘を嫁がせたことは、明智家安泰のために重要な出来事だったでしょう。(このことからも、「織田信長」が「明智光秀」を信頼し、重要視していたことが伺えます)

 

四女・京子にとっても、1579年1581年と続けて男子に恵まれ、幸せな結婚生活だったと思います。

 

しかしその幸せは、長く続きませんでした。

 

1582年、土佐の大名「長宗我部元親」討伐に向かう予定だった信澄は、舅「明智光秀」が「本能寺の変」を起こしたため遠征が中止されたのです。

《長宗我部元親》
「引用元ウィキペディアより」

さらに謀反は「明智光秀」と信澄の共謀だという噂が世間に流れ、信澄は窮地に追い込まれます。


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その噂を信じた「織田信長」の三男・神戸信孝と「織田信長」の重臣・丹羽長秀によって信澄は襲撃され、防戦したものの丹羽長秀の家臣・上田重安に討ち取られてしまいました。

《織田信孝》
「引用元ウィキペディアより」

こうして四女・京子は、結婚からわずか4年で未亡人となってしまったのです。

 

その後、四女・京子がどうなったのかは詳しい史料が残っていないため、判然としません。

 

しかし、信澄と京子の間に生まれた長男「昌澄」が「藤堂高虎」の斡旋で秀吉に仕え、次男「元信」が織田信雄に仕えたのち、豊臣秀頼に仕えています。

 

恐らく京子は「謀反人の娘、妻」として処刑されたりはせず、出家して尼になるなどして生き延びたのではないかと思います。

 

昌澄は豊臣方として大坂夏の陣で戦ったのち、徳川家に刃向かったことの責任をとって自害しようとしたものの、徳川秀忠に考え直すよう説得され、江戸幕府の旗本となりました。

 

昌澄の子孫は幕末まで続いたと言われています。

 

「明智光秀」と煕子の間に生まれた娘4人のうち、子孫を残したのは三女・珠と四女・京子の2人だけだったということですね。

 

それにしても、姉妹4人とも悲劇的な生涯を送らなければならなかったのは、生まれたのが戦国時代だったことと、父・「明智光秀」が大きな事件を起こしたからでしょうか。


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「明智光秀」の娘婿・名将「明智秀満」」の逸話

「明智光秀」の家臣の中でも、とりわけ有名な武将である「明智秀満」は、どんな出自なのでしょうか?

 

「明智光秀」の前半生が謎に満ちているように、「明智秀満」の前半生も謎に満ちており、「明智秀満」の出自については、3つの説が提唱されています。

 

1つ目は、「明智秀満」自身が「三宅弥平次」と名乗っていることから、三宅氏出身で、「明智光秀」の長女・倫と結婚して明智姓を名乗るようになったというもの。

 

2つ目は、『明智軍記』によるもので、「明智秀満」は明智城の城代だった明智光安の子で、「明智光秀」とは従兄弟同士というもの。

 

3つ目は、明智光安が美濃国明知城主・遠山景行と同一人物で、その子・遠山景玄が「明智秀満」と同一人物だとするもの。

 

ただし3つ目の説だと、1572年に遠山景玄は戦死しているので、1582年に坂本城で亡くなった「明智秀満」と同一人物とするのは、無理がありますよね。

 

現在は「1」の「三宅氏出身説」が有力になってきていますが、決定的な証拠は出ていません。

 

また、明智光継の息子で明智光簾(「明智光秀」の叔父)が三宅氏を名乗った、とも言われています。

 

もし「明智秀満」が光簾の子、あるいは光安から光簾に養子に出されていたら、三宅姓であっても「明智光秀」の従兄弟という可能性は残りますよね。

 

『明智軍記』は、「本能寺の変」から100年以上が経過した江戸時代に書かれた著者不明の軍記物で、史料価値は低いと考えられています。

 

しかし、『明智軍記』でしか知ることのできない情報があり、現在では、「失われた情報を知ることができた明智家に詳しい者が編纂に関わった」と考えられているため、史料価値が全く評価できないというものではありません。

 

この記事では、『明智軍記』に則って、「明智秀満」は「明智光秀」と従兄弟同士として書いています。

 

さて、土岐氏の支流である明智氏が、歴史上の史料にその名を現し始めるのは明智光継(1468〜1538年)の時代からです。


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光継にはたくさんの子供がいました

  1. 光綱(「明智光秀」の父)
  2. 山岸光信(「明智光秀」が最初に愛した女性・千草の父)
  3. 光安(「明智秀満」の父)
  4. 光久(光忠の父)
  5. 光簾(三宅氏を名乗ったとされる)
  6. 原光広
  7. 小見の方(斎藤道三の妻であり、「織田信長」の正室・帰蝶の母)

 

光継は嫡男・光綱に家督を継がせ、明智城城主としましたが、光綱は1535年に戦死します。

 

光継はまだ幼少だった光綱の嫡男「明智光秀」の養育を、「明智光秀」の叔父(おじ)に当たる明智光安に命じたと言われています。

 

1536年、「明智秀満」が誕生し、「明智光秀」と「明智秀満」は兄弟のように育ちました。

 

しかし1556年、斎藤義龍が明智城を攻め、もはやこれまでと覚悟した光安は「明智秀満」に「光秀」を守るよう言いつけ、また明智家再興を「明智光秀」に託して彼らを逃し、自刃したのです。

《斎藤義龍》
「引用元ウィキペディアより」

その後の「明智秀満」の消息ははっきりしませんが、恐らく越前に「明智光秀」とともに落ち延びたのち、朝倉義景に仕えたのでしょう。

 

その後も「明智光秀」に従って行動を共にし続け、1578年に村木家を離縁された「明智光秀」の長女・倫と結婚します。

 

1581年に福知山城の城代を任された「明智秀満」は、茶匠「津田宗及」の饗応役を務めるなど、「明智光秀」と同じく教養に溢れた武将でした。

 

1582年、「明智光秀」から「織田信長」を討つことを相談された「明智秀満」は翻意を促します。

 

しかし「明智光秀」が斎藤利三など他の家臣にも「謀反すること」について相談したことを知ると、「情報がもれて、謀反の計画が「織田信長」に知られるのも時間の問題」として、「明智光秀」に「織田信長」を討つように強く勧めました。

 

一度は謀反に反対したものの、「裏切ろう」という気持ちを抱いた事実が「織田信長」に伝われば、「明智光秀」の命はありません。

 

複数の重臣たちに相談してしまった以上、もはや情報漏えいは避けられないと、秀満は考えたのです。


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父・光安から言い渡された「光秀を守れ」という言いつけを守り、「明智秀満」は「織田信長」を討つと腹をくくり覚悟を決めたのです。

 

1582年6月1日、亀山城を出立した「明智秀満」は、斎藤利三とともに本能寺への先遣隊を率いました。

 

首尾よく「織田信長」を討ち果たした「明智秀満」は、その勢いで二条城にいた「織田信長」の嫡男・信忠を攻め滅ぼします。

《織田信忠》
「引用元ウィキペディアより」

その後、「明智秀満」は「明智光秀」から安土城を任されましたが、中国大返しで畿内に猛スピードで戻った秀吉に「光秀」が敗れて、小栗栖で亡くなったことを知らされ、坂本城に帰還。

 

その途上、「明智秀満」は秀吉の家臣・堀秀政と出くわしますが、戦闘を回避して坂本城に入城しました。

 

「明智秀満」は堀秀政と出くわした際、愛馬にまたがったまま琵琶湖を渡り、坂本城に入城したと言われています。

 

この出来事は「明智左馬之助の湖水渡り」として、今も語り継がれているのです。

《明智秀満・・・左馬之助の湖水渡り》
「引用元ウィキペディアより」

伝説の真偽は不明ですが、馬は泳げるので、本当に乗馬したまま渡ったのかもしれませんね。

 

夢のない解釈では、「明智秀満」自身は船で渡って、その横を馬が泳いで渡ったのではないかとも言われていますが・・・。

 

堀秀政は「明智秀満」を追い、坂本城を囲みます。

《堀秀政》
「引用元ウィキペディアより」

「秀満」は、もはやこれまでと覚悟を決め、「明智光秀」所蔵の宝物が四散することを恐れて目録を作り、堀秀政に渡しました。

 

目録を受け取り、品物を確認した堀秀政が

「郷義弘の脇差がない」

と問いかけると、「明智秀満」は

「これは光秀さま秘蔵の品だから、あの世で光秀様に渡すためにわしが指してゆく」

と答えたのです。


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さらに、一番槍をつけようと坂本城に侵入した「入江長兵衛」という武士と出くわした「明智秀満」は

「入江殿、わしはこれまで武功を上げようと若い頃から努力してきたが、この有様だ」

と話しかけました。

 

「貴殿を鉄砲で撃つことはたやすいが、止めておく。

それよりも、わしのようにならぬよう、貴殿は武士を辞めよ」

と「明智秀満」は入江長兵衛に声をかけ、黄金300両を渡したのです。

 

入江長兵衛は武士を辞め、その黄金を元に商売を始め大成功したと言われています。

 

その後、「明智秀満」は「明智光秀」の妻子と自分の妻子を殺害し、坂本城に火を放ち自害しました。

 

最期の覚悟を決めた「明智秀満」の胸中に去来したのは、武士として武功を上げることに邁進して生きてきたものの、このような悲劇的な最期を迎えたことへの無念だったのでしょうか。

 

もしかしたら、武士ではない別の生き方を選ぶこともできたかもしれない、と思ったのかも知れません。

 

だからこそ、せめて入江長兵衛には、別の生き方をしてほしいと願ったのかもしれませんね。


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『光秀の娘たち』について「ひとこと」言いたい!

長女・倫は嫁ぎ先を離縁され、父の従兄弟「明智秀満」と再婚したものの、1582年に夫と坂本城で死亡。

 

次女は、父の従兄弟「光忠」と結婚したものの、1582年に姉「倫」と同様、夫と坂本城で死亡。

 

三女・珠は同い年の「細川忠興」に嫁ぎ、子供にも恵まれたものの、「本能寺の変」で幽閉生活を余儀なくされ、許されて屋敷に戻ったのちも監視付きの生活を送ることに。

 

夫・忠興から聞いたキリスト教に心惹かれて洗礼を受けました。

 

心の平安を得たものの、1600年の関ヶ原の戦いの直前、「石田三成」に人質に取られそうになります。

 

ガラシャは家臣に自らを介錯させ、屋敷を爆破するという壮絶な最期を遂げます。

《細川忠興》
「引用元ウィキペディアより」


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四女・京子は1578年に「織田信長」の甥・津田信澄と結婚。

 

2人の男子に恵まれましたが、1582年の「本能寺の変」は父「明智光秀」と夫「津田信澄」が共謀して行ったものだと疑われてしまいました。

 

信澄は攻め滅ぼされ、京子は結婚からわずか4年で未亡人となってしまったのです。

 

夫に殉じたという記録はなく、息子もその時には殺されてはいないので、京子は恐らく出家して生きながらえたのでしょう。

 

「ヨーロッパの王族のように優美だ」、と書き残された4人の明智家の姉妹は、いずれも悲劇的な生涯を送っています。

 

それは、戦国時代という過酷な世の中に生きた人の運命として、仕方のないことだったのかもしれませんね。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「明智光秀」の長女「りん」は、摂津国の武将「荒木村重」の子「荒木村次」へ嫁いだ。しかし村重が「織田信長」に謀反を起こしたため離縁され、次に「明智秀満」と再婚。「本能寺の変」の直後、坂本城で夫とともに自害した

 

2,「明智光秀」の長女・次女は、「本能寺の変」の直後に「明智秀満」「明智光忠」とともに坂本城で自害したという説が有力。

 

3,「明智光秀」の三女「細川ガラシャ」は、「本能寺の変」のあと夫「忠興」から幽閉され、1600年の「関ヶ原の戦い」の直前に自害して、亡くなっている。

 

4,「明智光秀」の四女「京子」の夫は「津田信澄」。信澄は「織田信長」に殺害された「織田信長」の弟「織田信勝(信行)」の子。津田信澄は「本能寺の変」の直後、「織田信長」の三男「信孝」らに討ち取られた。その後も「京子」は生き延び、子孫は幕末まで続いたという。

 

5,「明智光秀」の従兄弟(いとこ)で家臣「明智秀満」は、「本能寺の変」「湖水渡り」「郷義弘の脇差」「入江長兵衛」など、数々の逸話が残る名将で、後世にもその名が知れわたっている。

「明智光秀」と煕子の間には4人の娘がいました。

 

  • 長女・倫(明智秀満の妻)
  • 次女(明智光忠の妻)
  • 三女・珠(細川忠興の妻・ガラシャ)
  • 四女・京子(津田信澄の妻)

の4人です。

 

ルイス・フロイスに「ヨーロッパの王族のように優美」と称された姉妹は、その優美さとは真逆の過酷な人生を歩んだのです。

 

  • 夫に離縁され、再婚後の夫とともに坂本城落城時に死亡
  • 幽閉され、その後人質にされそうになり家臣に介錯を頼み壮絶な最期を遂げる
  • 結婚後わずか4年で夫と死別

 

いずれも自分の身に起きたらと想像すると、全力で回避したい過酷な出来事ばかりです。

 

戦国時代に生きた人々の価値観を、現代に生きる私達のそれで推し量ることはできませんが、「明智光秀」の4人の娘たちは、最期を迎えた時に、自分たちの過酷な人生をどう思ったのでしょう。

 

坂本城落城時、「明智光秀」の正室・煕子の実家である妻木城城主・妻木広忠は、明智一族の亡くなったのを見届けたあと、西教寺に彼らを埋葬・供養し、煕子の墓の前で自刃しました。

 

「明智光秀」の長女・倫と次女は、それぞれの夫である「明智秀満」、「光忠」、その他の明智一族とともに、妻木広忠の設けた西教寺の明智一族墓所で、静かに永遠の眠りについています。

《フォト蔵より:西教寺27 「明智光秀」一族の墓 posted by (C)Hide

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