桔梗紋を使ってはいけないという噂があるようですが、これは少し誤解があります。
ただ、織田信長の子孫が、桔梗紋の使用をしていないだけのことです。
明智光秀の家紋・桔梗紋の意味と読み方を解説いたします。
本能寺で織田信長を討ち果たし、わずか11日後に羽柴秀吉に敗北した明智光秀をご存知でしょうか?
彼の桔梗紋が、なぜ徳川家康の墓である日光東照宮に刻まれているのか、その理由とは?
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この記事を短く言うと
桔梗紋は、使ってはいけない家紋なのか?
桔梗紋は使ってはいけない家紋などではありません。
とても縁起の良い家紋なので、桔梗紋を用いる家は、さらに栄えることでしょう。
しかし一部ではあると思いますが、織田信長の子孫または織田家に関係する家系では、桔梗の花を使ってはいけないという習慣があるのだとか。
なぜなら、桔梗は織田信長を本能寺の変で討ち果たした明智光秀の家紋だからです。
くわしくはあとで解説いたしますが、桔梗紋はとても縁起が良く、美しい家紋です。
しかし、織田信長の子孫である織田信成さんや、信長の弟の子孫である織田宗裕さんのお家では、桔梗の花は禁止されているのだとか。
【桔梗紋を使ってはいけない】という噂は、【織田信長の子孫や親戚では、桔梗の花を禁止している】という話が、間違った形で広まったためなのでしょう。
ちなみに、筆者の友人や親戚にも桔梗紋を使用しておられるお家がいくつかありますが、とても平和に栄えておられます。
明智光秀の家紋・桔梗紋の意味と読み方
明智光秀の家紋は、桔梗紋と読み、桔梗の花を形取ったもので、更に吉しと読めるため縁起が良いといわれました。

明智光秀
引用元ウィキペディアより
明智光秀は
- 柴田勝家
- 滝川一益
- 羽柴秀吉
と並んで織田四天王とも呼ばれていました。
そんな光秀の家紋は、桔梗の華を形取った桔梗紋です

桔梗紋
引用元ウィキペディアより
明智光秀の部隊は、この桔梗紋を記した水色の旗を背負っていたといわれています。
その為、明智の旗は水色桔梗と呼ばれていたみたいです。
この桔梗紋は、何を意味しているのでしょうか?
桔梗という文字は、木偏を取り除くと【吉】と【更】という文字になります。
これを【更に吉し】という意味を見いだし、縁起が良いとされていたのです。
なぜ日光東照宮に桔梗紋が刻まれているのか?
日光東照宮に桔梗紋が刻まれているため、明智光秀が本能寺の変のあとも生き延びて、徳川家康につかえたと噂されています。
明智光秀の家紋・桔梗紋が、なぜか日光東照宮に無数に刻まれているのだとか。
織田信長と豊臣秀吉とは、深い因縁がある光秀ですが、徳川家康とは、どういう関係があるのでしょうか?

徳川家康
引用元ウィキペディアより
本能寺の変が発生した時、和泉国・堺の街を見物していた家康は、明智に兵に追いかけられて、のちに神君伊賀越えと呼ばれる家康最大の危機を迎えています。
家康は、明智光秀に殺されかけているのです。
そんな家康のお墓が、日光東照宮です。
その日光東照宮に、なぜか明智に家紋である桔梗紋が多数刻まれているのだとか。
桔梗紋は、織田信長の子孫でフィギュアスケート選手・織田信成さんの自宅では、桔梗の華を飾ることは禁止されていたのだそうです。
織田信長の弟・織田有楽斎の子孫で茶道・有楽流の家元・織田宗裕さんも、名古屋市の自宅では桔梗の華を、敵の華とみなして飾らない【しきたり】があるのだとか。
実際に、桔梗紋を家紋として使っていた武将・水野勝成は、本能寺の変のあとで桔梗紋が【裏切り者の家紋】とみなされた為、家紋を変えたそうです。
それほど嫌われていた桔梗紋を、家康の墓に彫り込んだのは、なぜなのでしょうか?
実は明智光秀が生存していて、家康に仕えたからだ、と言われているのです。
明智光秀は、生きていたのか?
羽柴秀吉に討たれた明智光秀には、現実的ではないものの、南光坊天海と名前を変えて生き延びたという逸話があります。
本能寺の変から11日後の山崎の戦いで戦死した明智光秀には、生存説があります。
家康の政策顧問で、徳川家の功臣・南光坊天海という人物をご存知でしょうか?

南光坊天海
引用元ウィキペディアより
この南光坊天海が、明智光秀だと噂されているのです。
その根拠が幾つかあるようなのですが、天海は日光東照宮の近くにある平野に明智平という名をつけています。
なぜそんな名前をつけたのか?というと
「明智の名前を残すため」
という理由だそうです。
三代将軍・徳川家光の乳母・教育係だった春日局をご存知でしょうか?

春日局
引用元ウィキペディアより
この春日局は、明智光秀の重臣・斎藤利三の娘です。
彼女は南光坊天海に初めてあった時、初対面であるはずなのに
「お久しぶりです」
と言ったのだとか。
さらに徳川家光の名前にも、一つの謎が隠されています。

徳川家光
引用元ウィキペディアより
昔の人は、偏諱といって、偉い人から漢字一字をもらって成人したあとの名前とする習慣がありました。
例えば家光の父・徳川秀忠は、豊臣秀吉の【秀】の字と、家康の父・松平広忠の【忠】の字を取って、秀忠と名乗りました。
家光の弟である徳川忠長は、父・秀忠の【忠】と、母の伯父である織田信長の【長】の文字をもらったといわれています。
当時の徳川家には、【世継ぎは祖父から一字をもらう】という習慣があったようです。
徳川家康も、祖父・松平清康から【康】の字をもらっています。
家光の【家】の字は、祖父である徳川家康からの一字です。
しかし【光】の字がどこからきたのか謎なのです。
明智光秀の【光】なのではないかと噂されていますが、定かではありません。
その南光坊天海が明智光秀と同一人物だから、桔梗紋が日光東照宮に刻まれていると噂されているようです。
これらは、あくまでも噂です。
確たる根拠はありません。
実は、桔梗紋を家紋として使っている武将は、当時からたくさんいました。
南光坊天海も桔梗紋ですが、秀吉の側近だった猛将・加藤清正も、桔梗紋を使っていたといいます。

加藤清正
引用元ウィキペディアより
なので、南光坊天海が桔梗紋を使い、その紋を日光東照宮に刻んだのは、なんてことはない、ただの偶然だったのではないでしょうか
南光坊天海といえば、家康の死後の称号を【大明神】とすることに大反対し、【大権現】を推した人物です。
【豊国大明神】と呼ばれて崇められた豊臣秀吉の家・豊臣家は滅びたため縁起が悪いとして、大権現を推し、家康は【東照大権現】と呼ばれたのだとか。
現実的に考えて、光秀が生きていた可能性は、低いと思います。
実は南光坊天海と明智光秀の筆跡を、某テレビ番組で鑑定してみたところ、別人だという結果がでたのだとか。
日光東照宮に刻まれた桔梗紋も、南光坊天海が使っていた桔梗紋が刻まれただけのことなのでしょう。
桔梗紋と明智光秀の関係・ルーツとは?
桔梗紋と光秀の関係
明智光秀は、土岐氏という一族の出身で、その土岐氏が桔梗紋を使っていたのです。
光秀は、土岐氏の支族つまり分家の人間でした。
そのため、本家である土岐氏の家紋である桔梗紋を使ったのです。
光秀は土岐氏が使用したのと同じように、この家紋を水色の旗にして、自分の軍団に使用しました。
光秀の旗は【水色桔梗】と呼ばれていたのです。
桔梗紋のルーツ
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 明智光秀の家紋は、桔梗紋
- その意味は、【さらによし】と読めるという演技を担いだものだった
- 日光東照宮に、【桔梗紋】が刻まれているのは、おそらく偶然
以上となります。
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