皆さんは「細川藤孝が、『本能寺の変』の直後に、明智光秀から送られた手紙の内容」を、ご存知でしょうか?
実は「光秀から藤孝へ送られた手紙」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。
この記事では「その手紙の内容」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。
今は「光秀から藤孝への手紙」について、まったく知らなかったとしても、これを読めば、誰かに説明できるほどに詳しくなれます。
この記事を読んで、「細川藤孝と明智光秀の手紙」や「本能寺の変の動機」について、その疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。
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この記事を短く言うと
1,細川藤孝は、「本能寺の変」で「織田信長」が亡くなった直後、犯人の「明智光秀」から、手紙を送られている。「自分の味方になってほしい」という内容だった。
2,手紙には「信長を討った動機」が記されていた。「藤孝の息子である『細川忠興』たち、若い武将をもっと出世させるため、織田信長を討った」とのこと
3,「細川藤孝」は、光秀の味方となることを拒絶した。これがきっかけで光秀は孤立。「山崎の戦い」で羽柴秀吉に、あっけなく敗北した。
「本能寺の変」直後に「細川藤孝」が受け取った、「明智光秀」からの手紙とは?
細川藤孝は、「本能寺の変」で「織田信長」が亡くなった直後、その犯人である「明智光秀」から、手紙を受け取っています。

《天授庵所蔵の細川藤孝(幽斎)肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン》
その内容は、「自分の味方になってほしい」というものです。
光秀は「織田信長」を討ち果たしたことで、「柴田勝家」「滝川一益」「織田信孝」「羽柴秀吉」たち、織田家の各軍団に攻撃される状況にありました。
そのため、光秀は「近畿地方」にいた「細川藤孝」「筒井順慶」「中川清秀」「高山右近」たち有力武将を、味方に引き入れる必要があったのです。
中でも「細川藤孝」は、光秀と付き合いが長く、さらに光秀の娘「玉」を嫁がせていました。
そのため、光秀にとって「藤孝」は、誰よりも頼りになる存在だったのです
手紙に記された「本能寺の変」の動機とは?
この手紙には、明智光秀が「本能寺の変」の動機が記されていました。
「細川忠興たち、若い武将をもっと出世させるため、織田信長を討った」
つまり自分の娘婿であり、細川藤孝の息子「細川忠興」を出世させるため、織田信長を討ち果たした、というのです。
しかも手紙には続けて、こう書かれています。
「私(明智光秀)は、50~100日以内に、近畿地方を制圧するだろう。
それが終わったら、私は引退し、自分の息子(明智光慶)や細川忠興に、すべてをゆずって引退するつもりだ」
つまり「近畿地方を制圧したら、自分は引退していなくなるから、好きにしてくれていい」ということです。
「摂津の国、または若狭の国を差し上げます」
とも書かれています。
おそらくですが光秀は、「細川藤孝」を味方に引き入れるために、ありもしないことを書きまくっているのでしょう。
「藤孝の息子『忠興』のために、織田信長を討った」
というのも、取ってつけたような理由です。
これが「本能寺の変」の真の動機であるとは思えません。
しかしこの時点で光秀がこんなことを言うとは、どれほど追い詰められているが、うかがい知れます。
やはり、「本能寺の変」の動機としては「四国説」がもっとも有力なのかもしれません。
手紙を受け取ったその後「細川藤孝」は、どう動いたのか?
光秀からの手紙を受け取った「細川藤孝」は、光秀の味方となることを拒絶します。
これにより「明智光秀」は、近畿地方で味方を増やせずに孤立。
「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に、あっけなく討たれてしまうこととなるのです。
細川藤孝がもしも、明智光秀に味方していたら、歴史は変わっていたのかもしれません。
少なくとも、「本能寺の変」から「11日後に戦死」という、光秀のあまりにあっけない死に方は、避けられたかもしれません。
もしも「本能寺の変」のあと、「細川藤孝」が光秀に味方していたら、歴史はどうなっていた?
もしも「本能寺の変」の直後に、「細川藤孝」が明智光秀に味方していたとしたら、可能性は低いですが、光秀にも勝機はあったかもしれません。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」
光秀が、羽柴秀吉や柴田勝家たち「織田軍団」に勝利するには、2つの条件が必要です。
- 「細川藤孝」「筒井順慶」「高山右近」「中川清秀」ら近畿地方の有力大名を、ことごとく味方にする
- 「上杉」「北条」「毛利」「長宗我部」、各地で織田家と敵対する大名を味方にする
この2つに成功しないと、光秀は「羽柴秀吉」「柴田勝家」「織田信孝」らに包囲され、一気に崩壊していたはず。
細川藤孝が持っていた兵力は、多く見積もっても「5~6000人」程度です。
これでは「羽柴秀吉」に勝利することはできません。
しかし「藤孝」が味方になっていたら、少なくとも「時間をかせぐ」ことはできたはずです。
明智光秀ともっとも親密な関係にあった「細川藤孝」が、光秀を見捨てたことは、周辺の武将の態度を大きく変えました。
「細川藤孝ですら明智光秀を見捨てた」
これを知った近畿地方の武将たち
- 「筒井順慶」
- 「中川清秀」
- 「高山右近」
彼らはことごとく「羽柴秀吉」に味方してしまうのです。
「藤孝」が味方になっていたら、彼らがまとめて敵に回ることもなかったかもしれません。
少なくとも「上杉」「北条」「毛利」「長宗我部」ら、織田軍団と敵対する大名たちと連携をとる時間くらいは、稼げたかもしれません。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,細川藤孝は、「本能寺の変」で「織田信長」が亡くなった直後に、「明智光秀」から、手紙を受け取っている。内容は「味方になってほしい」というもの。
2,手紙には「本能寺の変を起こした動機」が記されていた。「『細川忠興』をもっと出世させるため、織田信長を討った」らしい。
3,「細川藤孝」は、光秀の味方となることを拒絶。そのため光秀は孤立して味方が増えずに、「山崎の戦い」で羽柴秀吉に、あっけなく敗北した。
以上となります。
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