明智光秀と天海の同一人物説を検証!光秀は天海となり豊臣家へ復讐?

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2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公『明智光秀』。

 

一般的な学説によれば、明智光秀は「本能寺の変」で主君「織田信長」を討ったのち、「山崎の合戦」で「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」に破れ、敗走中に落武者がりに遭遇して亡くなった、と言われています。

 

しかし、『光秀は山崎の合戦のあとも生きのび、天台宗の僧侶「南光坊天海」僧正となって、徳川家康を補佐した』、という俗説が、根強く唱えられてもいるのです。

 

この記事では、「光秀と天海僧正の同一人物説」について、くわしく解説していきます。

 

これを読んで、明智光秀と天海僧正についての疑問を、スッキリと解消していってくださいね。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「明智光秀」とは、「織田信長」につかえた重臣で、「本能寺の変」を起こした人物。「南光坊天海」とは、「徳川家康」の参謀・軍師・ブレーンだった僧侶

 

2,光秀と天海が同一人物とされる根拠。それは、『光秀が生き延びていた俗説が各地に残っており、光秀が出家した直後に南光坊天海が表舞台に登場したため』。また、南光坊天海の行動には、光秀を思い起こさせるものが数多くある

 

3,童謡「かごめかごめ」は、『光秀とゆかりのある場所を暗示している』・・・という説があるが、この童謡の成立時期を調べてみると、光秀と関係している可能性はきわめて低い

 

4,光秀は家康と組んで、「本能寺の変」の黒幕であった「豊臣秀吉」と「豊臣家」に対し、「大坂の陣」で復讐した・・・のかもしれない


「明智光秀」と「南光坊天海」が何者かを解説

『明智光秀』と『南光坊天海』がどんな人生をたどったのか、順番に見ていきましょう。

「明智光秀」の生涯

明智光秀がいつ誕生したのか、そして「前半生」についてなのですが、実はあまりハッキリしていません。

本徳寺所蔵の明智光秀肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン

光秀が生まれた場所は、美濃国(現在の岐阜県南部)。

 

清和源氏の家系の一つである、美濃源氏の土岐氏支流「明智氏」の出身と言われています。

 

清和源氏は、清和天皇の流れをくんでいますから、光秀は「清和天皇の末裔の一人」ということになりますね。

《清和天皇》
「引用元ウィキペディアより」

また、「織田信長」の義父である戦国武将「斎藤道三」の夫人は、光秀の叔母にあたるといわれています。

 

つまり、「明智光秀」の父親の妹が、斎藤道三の妻なのです。

 

その斎藤道三と「光秀の叔母」のあいだには、「織田信長」の正室となった「帰蝶(きちょう・濃姫)」が誕生しています。

《斎藤道三》
「引用元ウィキペディアより」

光秀が織田信長に重く用いられるようになったのは、「いとこ」にあたる信長の正室「帰蝶」の仲介があったためである、と考えられています。


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前半生のはっきりしない光秀ですが、通説によれば、はじめは「斎藤道三」につかえています。

 

斎藤道三が息子の「斎藤義龍」に討たれたあとは、越前の大名「朝倉義景」につかえています。

 

光秀は朝倉氏が滅亡した際に、光秀ゆかりの者を助けてくれた、とある越前の武士にあてて、感謝状を出しています。

 

この感謝状をだしたことを理由に、「光秀が越前に住んでいた」という事実は、確実視されています。

 

史料のうえで初めて「明智光秀」の名が確認されるのは、【1566年】の「米田貞能による写本」で、室町幕府の第13代征夷大将軍「足利義輝」が暗殺されたころに、光秀が滋賀の田中城に籠城したことを語ったものです。

 

光秀が「朝倉義景」につかえていた頃、のちに室町幕府15代将軍となる「足利義昭」は、兄「足利義輝」が暗殺されたことで奈良から逃れ、若狭の武将「武田義統(たけだ よしむね)」のもとに身をよせます。

 

足利義昭は、各地の大名にたいして

「自分を将軍に擁立し、上洛(じょうらく)せよ」

(「じょうらく」とは、京都へ向かうこと)

と書状を書き送りますが、これに応えたのは細川藤孝(ほそかわ ふじたか)が仲介した「織田信長」だけでした。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

信長は「上洛」することを約束したものの、義父「斎藤道三」のかたきである美濃の武将「斎藤義龍」にたいして出兵したことで忙殺されてしまい、この話は一度流れてしまいます。

 

信長が当てにならないと考えた足利義昭は、朝倉義景をたより、越前国へ移動。

 

そこで義昭は、「朝倉義景」につかえていた明智光秀と面識を持ちました。

 

朝倉義景はまったく上洛する気配を見せず、いらだった義昭にたいして光秀は一つの提案をします。

「尾張国の織田信長を頼りなさい」

この光秀からの勧めを聞き入れた足利義昭は、【1568年】に宿敵であった「斎藤家」を倒して「美濃国」を平定した「織田信長」に、ふたたび上洛を要請する書状を送ります。

 

この時、光秀は義昭に頼まれて、織田信長との仲介役をつとめました。

 

それ以来、織田信長からとてもふかく信用された明智光秀は、信長が天下統一を果たすための戦を助け、畿内の要所である所領を与えられ、重く用いられるようになっていきます。

 

しかし【1582年6月】、中国地方で「毛利家」と戦っていた「羽柴秀吉」への援軍を命じられたにも関わらず、光秀はその命令にはしたがわず、とつぜん京都の「本能寺」を攻撃。

 

わずか100名ほどの軍で「本能寺」に宿泊していた主君「織田信長」を討ち果たしてしまいました。

 

100年以上もつづく戦国の世で「最後の下剋上」とよばれている、「本能寺の変」を起こしたのです。

《本能寺の変》
「引用元ウィキペディアより」

その後、光秀は「朝廷工作」をおこない、わずかの期間ではあったものの「天下人」となったのです。

 

ところが、頼みの綱にしていた「細川藤孝」や「高山右近」「中川清秀」らの武将たちが光秀にまったく味方せず、「中国大返し」をおこなった「羽柴秀吉」に「山崎の合戦」で大敗。

 

逃亡の途中、京都の小栗栖(おぐるす)という場所で「落武者刈り」に遭遇し、光秀は亡くなったと言われています。


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「南光坊天海」の生涯

それでは、光秀と同一人物といわれている「南光坊天海」僧正の生涯を見てみましょう。

 

「天海」僧正の生年も、光秀と同じく、はっきりしていません。

 

しかし、【1643年】に数え「108歳」で没したと言われていることから、【1536年】頃の生まれではないか、と考えられています。

 

『東叡山開山慈眼大師縁起』という史料によれば

「南光坊天海」は「蘆名盛高」の一族で、陸奥国会津郡(現在の福島県会津市)の人

と記録されています。

《南光坊天海》
「引用元ウィキペディアより」

しかし、同じ史料に

「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」

(仏門に入る前のことを聞いたが、名前も年も忘れた)

と自分で弟子たちに話したことが記されています。

 

南光坊天海は、自分自身のことを弟子たちに何も語らなかった、ということです。

 

つまり、天海僧正はおよそ【1536年】頃の生まれだが、出身地や一族の情報は不明だ、ということですね。

 

前半生のはっきりしない天海僧正の足跡がハッキリするのは、【1588年】に埼玉県川越市にある寺院「北院(現在は喜多院)無量寿寺」の住持となってからです。

 

天海僧正は、「江戸崎不動院(茨城県稲敷市)」の住持も兼任していました。

 

「雷門」でお馴染みの浅草「浅草寺(せんそうじ)」に残された史料によれば、天海僧正は【1590年】の豊臣秀吉による「北条攻め」の際に、浅草寺の住職「忠郷」と一緒に、「徳川家康」の本陣にいた、と記録されています。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」

このことから、天海僧正は徳川家康からの依頼をうけて、関東におもむいたのではないか、と考えられているのです。

 

1599年】、無量寿寺の住職となった天海僧正は、徳川家康から依頼されてその参謀役となり、朝廷との交渉などを任されるようになります。


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また一説によれば、【1600年】の「関ヶ原の戦い」でも軍師として徳川家康に付き従った、とも言われているのです。

 

  • 武将の参謀となり
  • 朝廷との交渉役もつとめ
  • 戦場で軍師役を果たした

のであれば、「南光坊天海」は

  • 出家前に朝廷と繋がりを持ち
  • 戦経験のある武将だった

と考えるのが妥当ですよね。

 

しかも、出家前の武将だった頃、徳川家康とも面識があり、相当な信頼関係をつくりあげていた、と考えても無理はないでしょう。

 

1607年】、「関ヶ原の戦い」から7年後、天海僧正は「比叡山探題執行」という役を命じられ、「南光坊」に居住して、比叡山の復興に尽力します。

 

1612年】、無量寿寺の再興にも乗り出し、喜多院を関東の天台宗本山としました。

 

1616年】、徳川家康は神号と自身の葬儀にかかわる遺言を残し、亡くなります。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

その後も天海僧正は徳川家につかえ、【1632年】、数え「97歳」で日光東照宮での法華経供養の導師をつとめたのち、【1643年】に数え「108歳」で没しました。

 

さて、「明智光秀」と「南光坊天海」・・・・・なぜこの2人に「同一人物説」が唱えられているのでしょうか?


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光秀と天海僧正の同一人物説!その根拠とは?

「明智光秀」と「南光坊天海」僧正の生涯を簡単にですが、振り返ってみました。

 

「光秀と天海僧正が同一人物だ」という俗説があるのですが、果たしてそれは本当なのでしょうか?

 

2人の「同一人物説」とその「根拠」を、見ていきましょう。

 

まず、簡単にふり返ったこの2人の生涯から、読み取れることは以下のとおりです。

 

  1. 2人ともはっきりとした史料が残されていないため、「前半生」がはっきりしない
  2. 天海僧正が史料に姿をあらわしたのは、光秀が亡くなったと言われている時期のあとの時代である

 

つまり、前半生のはっきりしないこの2人は、史料の上では「同時期に歴史の表舞台に登場していない」のですね。

 

ほぼ同時代に生きた歴史に名高い人物でありながら、歴史の表舞台でこの2人は同時期に登場しておらず、光秀が姿を消したあとに天海僧正が登場するのです。

 

もちろん、2人が同一人物であるという根拠は、この2つばかりではありません。

 

くわしくはこの後で解説させていただきますが、「南光坊天海」やその周辺人物の言葉や行動には、「南光坊天海が明智光秀である」ことを匂わせるものが、いくつも存在しています。

 

こうしたことから、光秀は京都・小栗栖(おぐるす)で亡くならずに逃げ延び、のちに天海僧正となったと考える人が出てきました。


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では、いつ頃から2人の同一人物説が出てきたのでしょうか?

 

1916年(大正5年)】に新聞記者「須藤光暉」が、「天海僧正は蘆名盛高の一族の出身」とした伝記を発表しました。

 

その書物の中で須藤光暉は

「光秀が天海となり、豊臣氏を滅ぼして恨みを晴らした」という説を唱える者もいる

と記しています。

 

大正時代にはすでに、「光秀と天海僧正の同一人物説」は唱えられていたということですね。

 

この「光秀・天海・同一人物説」は、大正時代に突然となえられたのではなく、庶民の伝承(いわゆる口コミ)で長く伝え続けられたお話しが、世の中に広く知られるようになったためでしょう。

 

例えば、徳川家康に影武者説があるのは、「隆慶一郎」氏の小説『影武者徳川家康』によっておなじみですよね。

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筆者は子供の頃、静岡県浜松市近辺に住む年配の親戚から

「大御所様(徳川家康)は、『三方ヶ原の戦い』で『武田信玄』の手勢に殺され、その後の大御所様は影武者だ」

と聞かされたことがあります。

 

徳川家康の嫡男「信康」と正室「築山殿」が殺されたのも、大御所様が影武者に入れ替わったことに気付いたため、口封じされたのだ、とも言っていましたが・・・。

《築山殿》
「引用元ウィキペディアより」

当時、かなり高齢だったその親戚は

「幕末に生きた親戚から、このことを聞かされた」

と言っていました。

 

幕末に生きたその親戚は、さらにもっと前の祖先から聞かされたのでしょうから、「大御所様影武者説」は代々語り継がれてきたのでしょう。

 

筆者の親戚が語り継いだ伝承のように、「光秀と天海僧正の同一人物説」も、その伝承が生まれた地域に密かに語り継がれたものが、大正時代に広く知られるようになったと考えるのが自然です。


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では、光秀と天海僧正の同一人物説の根拠となっているものは、具体的にどのようなものなのでしょうか?

 

「大阪府岸和田市」に、日本で唯一現存する「明智光秀の肖像画」を所有する「本徳寺」という臨済宗のお寺があります。

 

ちなみに、本物は特別公開の時にしか観ることができませんが、「岸和田城天守閣」に「明智光秀の肖像画」のレプリカが展示されているので、興味のある方は一度ご覧になられてはいかがでしょうか。

 

「本徳寺」はもともと岸和田市ではなく、大阪府貝塚市にあった「海雲寺」という名前の寺でした。

 

海雲寺の開基(かいき・お寺を建立した僧侶のこと)は、明智光秀の嫡男「明智光慶(あけち みつよし)」だと言われています。

 

光慶は、「山崎の合戦」後に病死したとも言われていますが、言い伝えによると、合戦後に京都「妙心寺」で出家し、はじめは「玄琳(げんりん)」と名乗りました。

《京都・妙心寺》
「引用元ウィキペディアより」

妙心寺で修行した玄琳は、大阪・鳥羽(現在の貝塚市鳥羽)に移り、「大日庵」を開き、「南国梵桂(なんごく ぼんけい)」と名乗ります。

 

大日庵は後に、「海雲寺」と号しました。

 

ところが戦乱続きの世で海雲寺は焼けてしまい、現在の岸和田市に移転し、名前を「本徳寺」と改めたのです。

 

本徳寺に、「明智光秀の肖像画と位牌」が残されているのは、南国梵桂(光秀の嫡男・光慶)が亡き父「明智光秀」の供養のため、と考えるのが自然ですよね。

 

ところが、明智光秀の位牌の裏には「当寺開基慶長四己亥(このお寺が開かれた慶長4年、いぬ年い年)」と書かれています。

 

これはどういう意味なのでしょうか?

 

この「慶長四己亥」とは「慶長4年」のこと。「慶長4年」とは「1599年」。しかも光秀の位牌の裏に書かれているということは、本徳寺の開基が南国梵桂ではなく、位牌の主である「明智光秀」という意味になるのです。

 

1582年】に光秀は亡くなったはずですから、【1599年】にお寺を開基しているのは、おかしな話ですよね。

 

また、有名な光秀の肖像画の上部には「放下般舟三昧去」と書かれています。

 

この文言は「仏門に入って去っていった」という意味ですから、光秀が出家してこの地を去っていった、と解釈することができますよね。

 

さらに、この大日庵(のちの海雲寺・本徳寺)のあった鳥羽近辺には、摩訶不思議な俗謡が残されています。

「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」

(とばへやるまいおんなのいのち

つまのかみうるじゅうべがすみやる

みっかてんかのわびずまい)

光秀の正室「煕子(ひろこ)」は、光秀が越前国の大名「朝倉義景」につかえていたときに、連歌会の準備で金の工面にこまっていた夫を助けるため、黒髪を切って売っているのです。

《朝倉義景》
「引用元ウィキペディアより」

また、「十兵衛(じゅうべえ)」は光秀の別名ですから

「大日庵には息子をたよって、妻の髪を売った三日天下の光秀が隠れ住んでいた」

と、この俗謡はうたっているのですね。

 

光秀が、京都の小栗栖で命を落とさずに生きのびた、という伝承は、妙に具体的です。

 

伝承によれば

「光秀は京都の宇治(うじ)でかくまわれたあと、妙心寺(光秀の嫡男『明智光慶』が出家した寺)を訪れて、そのあと和泉(大阪)に向かった」

とあります。

 

また比叡山には

俗名を「光秀」という僧侶がいた

という記録が残り、そのうえ光秀が亡くなったはずの【1582年】以降に「光秀」の名前で寄進された石碑が残されています。

 

光秀が生きのびたのだとしたら、嫡男の「光慶」をたよって妙心寺に現れたのも納得がいきますし、大阪府貝塚市鳥羽の「大日庵」を訪ねていき、そこで得度(とくど)して僧侶となり、潜伏生活を送ったと考えても、無理はありませんよね。

 

そのあと比叡山へ移り、僧侶としての修行にはげんだのかもしれません。


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さて、ここで『比叡山(ひえいざん)』という地名が出てきました。

《比叡山延暦寺》
「引用元ウィキペディアより」

「南光坊天海」は、比叡山を本山とする「天台宗」の僧侶です。

 

ここにきて、「明智光秀」の伝承と「南光坊天海」僧正が、比叡山という地で交わりましたね。

 

天海僧正が史料のうえで初めて登場したのは、さきほどお話したように、【1588年】に武蔵国川越にあった「北院」の住持となったときのことです。

 

1582年6月13日】、「本能寺の変」から12日後、「明智光秀」が京都・小栗栖で亡くなったその6年後、【1588年】に天海僧正が初登場するのですが、「比叡山」という場所を介して2人の人生が交差するのは、果たして偶然なのでしょうか?

 

光秀の肖像画に「仏門に入って去った」とあり、位牌に「1599年に本徳寺を開基した」と書かれていることを、そのまま素直に考えれば

「光秀は生き延び、仏門に入った」

と読み解くのが自然です。

 

1599年】という年号に注目していただきたいのですが、この年は、「天海」僧正が「喜多院無量寿寺」の住職となり、徳川家康の参謀をつとめ、朝廷との調整役をまかされた年でもあります。

 

ちなみに「明智光秀」は、朝廷との交渉役をつとめることができる人材として「織田信長」から重く用いられた人材です。

 

もしも「南光坊天海」が「明智光秀」と同一人物なら、家康から任されていた「朝廷との調整役」は、とてつもなく得意だったはず。

《川越市・喜多院無量寿寺》
「引用元ウィキペディアより」

肖像画の

「仏門に入って去った」

位牌の

「1599年に本徳寺を開基した」

という2つの記述は、家康から光秀(天海僧正)が大きな役目をまかされて、畿内をさって関東へと移住するために、もう親子で生きて対面することはかなわないと、覚悟を決めた南国梵桂(嫡男・光慶)が、父「光秀」のことをしのんで書いたのかもしれません。


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徳川家康の参謀となった天海僧正は、家康を助け、「関ヶ原の戦い」では軍師を務めたとも言われていますが、その戦後の処理で「不可解な処遇」があります。

 

「羽柴秀吉」との「山崎の合戦」で明智光秀に味方したものの、「関ヶ原の戦い」では「石田三成」ひきいた西軍に降伏した「京極高次」の「京極家」は、戦後に領地を加増されています。

 

その一方で、光秀と親しかったにも関わらず、「山崎の合戦」で光秀に敵対した「筒井順慶」の筒井家は、戦後に改易(領地没収)されてしまったのです。

 

また、天海僧正は、栃木県日光市の近くにある日本有数の絶景ポイントを「明智平(あけちだいら)」と命名しているとの逸話が残っています。

 

なぜ「明智平」と名付けたのかと家来が尋ねると

「明智の名前を残すため」

と応えたのだとか。

 

それだけではありません。

 

家康の孫で、徳川幕府3代将軍「徳川家光」の乳母だった「春日局(かすがのつぼね)」は、光秀の家臣「斎藤利三」の娘です。

 

その「春日局」が、「南光坊天海」と初めて対面した席で、なぜか「お久しぶりです」と言ったと伝えられています。

《春日局》
「引用元ウィキペディアより」

さらに、徳川家光の息子である第4代将軍「徳川家綱」の乳母にも、光秀の家臣であり「明智五宿老」のひとりに数えられている「溝尾庄兵衛茂朝(みぞおしょおべえしげとも・別名「三沢秀次」)」の孫「三沢局(みさわのつぼね)」が選ばれました。

 

このように、家康の孫「家光」、ひ孫「家綱」の乳母に、光秀の家臣の娘や孫が選ばれているのは、「裏切り者を厳しく罰していた家康」にしては、似合わない行動のように思えます。

 

宣教師「ルイス・フロイス」が

「2人は兄弟のように仲がよい」

と記録に書きのこしたほど、「徳川家康」は「織田信長」と親しかったのですから、信長を討った光秀の家臣の子孫を、家康が重く用いるのは、きわめて不可解でしょう。

 

むしろ、信長の仇の家臣の子孫など、遠ざけそうなものですよね。

 

ところが家康は登用していますから、その理由に「本能寺の変の真相」が潜んでいるのかもしれません。

 

確たる史料が残っているわけではありませんが、これらのことから、筆者自身は「光秀と天海僧正は同一人物」だと考えています。


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童謡「かごめかごめ」に隠された暗号の謎

童謡「かごめかごめ」を歌いながら、丸く輪になって真ん中の子の周りをぐるぐる周り、「後ろの正面だれ?」と、子供の頃に遊んだ記憶のある方も多いのではないでしょうか?

 

もっとも、最近となると子供たちはゲーム機で遊ぶことが多いためなのか、歌っている様子を見かけた記憶はありませんが・・・。

「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀がすべった 後ろの正面だれ?」

この童謡が、明智光秀に関わっているという俗説があります。

 

まず、「かごめかごめ」とは「籠の目」、つまりは「六芒星」を表すもの。

 

「籠の中の鳥」は、実際には「籠の中の土岐(とき)」で、光秀の出身氏族である土岐氏(ときし)のこと。

 

「夜明けの晩」は夜明けの終わりを意味し、「鶴と亀がすべった」は「敦賀(つるが)と亀岡(かめおか)を統(す)べた」という意味で、光秀が領主として支配した土地のことを意味しています。

 

「後ろの正面だれ?」は、光秀の出身地「岐阜県」を起点にして栃木県にある「日光東照宮」を見ると、ちょうど背中側が「大阪府岸和田市」にある「本徳寺」になることを意味しているのです。

《日光東照宮》
「引用元ウィキペディアより」


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このような解釈がネット上にまことしやかにアップされ、「かごめ」が意味する「籠の目」つまり「六芒星」の位置するところはそれぞれ

  • 「佐渡金山」
  • 「日光東照宮」
  • 江戸城
  • 「駿府城」
  • 「岐阜県土岐市」
  • 「福井県・明智神社」

だと解釈されています。

 

その「6つの地点」に印をつけた地図をご用意いたしました。

 

「赤い星の印」が、上から時計回りに

  • 「佐渡金山」
  • 「日光東照宮」
  • 「江戸城」
  • 「駿府城」
  • 「岐阜県土岐市」
  • 「福井県・明智神社」

 

そして「青色の印」が、「大阪府岸和田市・本徳寺」です。

光秀ゆかりの地が「六芒星」を表している・・・。

 

本当に、そんなことがあり得るのでしょうか?


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まず「鶴と亀がすべった」という言葉で暗示されている「敦賀」という地についてですが、光秀は越前の「朝倉義景」につかえていたので、福井県にゆかりはあります。

 

しかし、光秀にゆかりがあるのは「越前国」であって「福井県敦賀市」ではないのです。

 

「敦賀」という地は「福井県」ですが、光秀の時代は「若狭国」に属する地域ですから、「越前」とは異なる地域ですし、光秀が統治していたという歴史もありません。

 

そして福井県の「明智神社」についてですが、神社とはいえ、鳥居と小さな祠(ほこら)から成り立っている、こじんまりとした神社です。

 

光秀は朝倉義景につかえていた頃、現在の「明智神社」がある「福井県福井市東大味」に住んでいました。

 

朝倉氏が織田信長の攻撃によって滅亡したあと、光秀は自分が住んでいた地域の人を戦乱に巻き込まないようと、織田家の重臣である「柴田勝家」にたいして

「あの地域を戦禍から守ってほしい」

と書状を出します。

《柴田勝家》
「引用元ウィキペディアより」

光秀に守られた東大味の人たちは深く感謝し、「本能寺の変」のあと逆賊と呼ばれた光秀を慕い、密かに祭り続けました。

 

明智神社が創建されたのは、明治維新から18年後の【1886年】になってからのことです。


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また「かごめかごめ」について、現在よく知られている歌詞は、昭和初期に作曲家の「山中直治」氏が、千葉県野田市の近辺で採録した歌詞が基礎となっており、それまでは全国各地で異なった歌詞で歌われていました。

 

いつ頃からこの童謡が歌われていたのかも定かではないのですが、文献で確認できる最も古いものは、江戸時代【1813年】のものです。

 

それ以外にも、江戸時代の文献でその歌詞を確認すると、それらには

  • 「鶴と亀がすべった」
  • 「後ろの正面」

という言葉は確認できません。

 

「かごめかごめ」は、光秀に関わりがあるのではないか、というだけではなく「徳川の埋蔵金の隠し場所を示しているのではないか」などなど、色々な説があります。

 

しかし、江戸時代の文献に「鶴と亀がすべった」「後ろの正面」という言葉がないということは、それよりも時代がさかのぼる明智光秀とは、関わりが薄いと判断すべきでしょう。

 

ただし、光秀の出身地である「岐阜県」から「日光東照宮」を見た場合に、背中側(後ろの正面)に「大阪府岸和田市の本徳寺」が来ることは事実であり、非常に面白く、興味深い指摘だと思います。

 

江戸時代の文献では確認できない言葉が、いつ加えられたのかはわかりません。

 

しかしもしも「幕末」にこれらの言葉が加わったのだとしたら、「徳川の埋蔵金の隠し場所」には、関わりがあるかもしれませんね。

 

ちなみに徳川家の18代当主「徳川恒孝」氏の息子「徳川家広」氏は

「徳川埋蔵金など存在しない」

と、あるテレビ番組に出演した際に発言しておられました。


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光秀は天海となって豊臣家へ復讐したのか?

童謡「かごめかごめ」は恐らく光秀とは関連が薄いと思いますが、筆者自身は「光秀」と「天海僧正」は同一人物だと思っています。

 

しかし、それを証明する史料は存在しませんから、あくまでも傍証からの推論でしかありませんが・・・。

 

さて、光秀が天海僧正だったとして、家康の参謀となったあと、どのような働きをしたのでしょう?

 

天海僧正は【1600年】の「関ヶ原の戦い」では軍師をつとめ、家康を天下人とし、幕府を開くのをサポートしました。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

天海は家康にたいして、「江戸」が幕府を開くのに最適な場所だとアドバイスし、「風水」を駆使し、江戸の町を「強力な護り」で固めたと言われています。

 

さらに、天海は「関ヶ原の戦い」以後、一大名家となっていた「豊臣家」を滅亡させる方向で動きました。

 

1614】、「方広寺鐘銘事件」が起きます。

 

この年、豊臣家が再建していた「京都・方広寺大仏殿」が完成し、梵鐘(ぼんしょう)も完成しました。

 

「大仏の開眼供養」と「大仏殿供養」をめぐり、「天台宗」と「真言宗」の間で対立が生じたのです。

 

さらに南禅寺の僧侶が選定した鐘銘の碑文に「国(こっかあんこう)」という文字があり、この文字が「家康」という名前を2つに割った「呪詛(じゅそ・呪い)」だとして、家康が「方広寺の開眼供養」と「大仏殿供養」の延期を命令したのです。

《京都・方広寺の鐘銘》
「引用元ウィキペディアより」

家康はこの件を執拗に追求し、事態は「大坂冬の陣」に発展。

 

「大坂冬の陣」は、徳川幕府と豊臣家の和睦によって終息するものの、「大坂城」の堀の埋め立てをめぐって「大坂夏の陣」が勃発。

 

この「大坂夏の陣」により、豊臣秀吉の息子「豊臣秀頼」とその母「淀殿」が亡くなり、豊臣家は滅亡します。


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家康がしつこく「国家安康」を追求した裏では、家康のブレーンであった「南光坊天海」が暗躍し、アドバイスを与え続けていた、と言われているのです。

 

おそらく、家康と天海僧正は「豊臣家」を滅亡に追い込む口実を求めていたのでしょう。

 

光秀が天海僧正だったとして、なぜ家康とともにここまで執拗に「豊臣家の失態」を追求したのでしょうか?

 

私はここに、「本能寺の変の真相」が隠れているのだと考えています。

 

家康と織田信長は、宣教師「ルイス・フロイス」から

「2人はまるで兄弟のようだ」

と記録されるほどに親しい間柄でした。

 

そんな家康は、「本能寺の変」が勃発したとき、京都の南にあった街「堺(さかい)」に滞在しており、命からがら「伊賀国」を越えて、本拠地の三河国へと逃げのびています。

 

兄のように慕った信長を殺し、自分の命も危険にさらした「明智光秀」を、裏切り者にたいして厳しい処罰をする家康が、果たして許すものでしょうか?

 

その答えは、否、ですよね。

 

戦国武将の「価値観・倫理観」を、現代の我々の「価値観・倫理観」をベースにして判断することは、避けるべきですが・・・。

 

嫡男「明智光慶」の庵(いおり)に潜伏し、光秀が出家して比叡山で修行していると知ったら、徳川家康としてはなんとしてでも「光秀」を捕まえて、信長の仇(かたき)をとろうとするのではないでしょうか?

 

そうしていないということは・・・家康こそが、「本能寺の変」の黒幕で、光秀は実行犯だった・・・・という可能性もあるのでは?

 

しかし、後の豊臣家に対する家康の厳しい態度を見ると「家康が本能寺の変の黒幕」と解釈するのは、無理がありますよね。

 

それよりも、「信長が亡くなったことで一番得をした人物」を疑うべきでしょう。

 

それが誰なのかといえば、のちに「関白」「太閤(たいこう)」にまで上りつめた「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」ですよね。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」

歴史学者「磯田道史(いそだ みちふみ)」先生も、あるテレビ番組でおっしゃっておられましたが、筆者も「本能寺の変の黒幕は秀吉」だと思っています。


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中国地方で「毛利攻め」を行っていた「羽柴秀吉」は、援軍が必要な状況ではなかったのにもかかわらず、信長にたいして援軍を要請。

 

そのため光秀が「中国地方」へ向けて出陣することになりました。

 

そのとき、徳川家康も畿内「堺」に滞在しています。

 

光秀にたいして

「徳川家康が、織田信長様の命を狙っている」

とニセ情報を伝えて本能寺に向かわせ、さらに「光秀の軍」にも、「本能寺に滞在している信長の軍」にも、自分の息がかかった兵をまぎれ込ませておく。

 

戦闘状態になれば、畿内は混乱します。

 

光秀が朝廷工作をして天下人となり、混乱状態おさめようとしても、光秀と親しい武将たちが秀吉に寝返るように上手に立ち回ることができれば、光秀に味方するものもいなくなるでしょう。

 

あとは、「中国大返し」によって猛スピードで畿内にもどって、孤立無援な状態となっている光秀をたおしてしまえば、「羽柴秀吉」は「お館さま(織田信長)の仇をうったヒーロー」になることができます。

 

そのうえで、三河へ逃走する途中で「徳川家康」も命を落としてくれれば、「光秀」「家康」と、邪魔者を2人同時に排除できますよね。

 

「光秀」が「天海」僧正と同一人物だったとして、参謀として自分を家康につかってもらうためには、必要不可欠なものがあります。

 

「光秀が本能寺の変を起こした理由」を家康を納得させて、盟友であった「織田信長」を殺害したことについて家康の怒りをしずめるだけの「それ相応の物証・証拠」が必要だったはずなのです。

 

「本能寺の変の黒幕が羽柴秀吉」で、それを証明する「書状など」を証拠を明智光秀(南光坊天海)が持っていたのだとしたら、家康を納得させることは可能だったでしょう。

 

天下静謐(てんかせいひつ・平和)を目指した「織田信長」の仇をうつため、光秀と家康が手を結んで豊臣家を倒し、さらにその先に、信長の目指した「平和な世の中」を作ったと考えるのは、そう荒唐無稽なことではありません。

 

豊臣家に復讐したというよりも、「織田信長」の仇をうち、その意志を継ぎ、家康とともに天下静謐を目指すことが、領地で善政をおこなった武将「明智光秀」の、天海僧正となってからの願いだったのではないでしょうか?


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『南光坊天海』について「ひとこと」言いたい!

1643年】、上野・寛永寺で天海僧正は入寂(亡くなった)しました。

 

数え【108歳】まで生きたといわれる天海僧正の墓所は、3箇所あります。

 

1つ目は日光・輪王寺で、遺言によって実際に遺体が埋葬された墓所です。

《日光山輪王寺天海僧正墓所:Wikipedeiaより、Stanislaus による撮影、パブリックドメイン》

2つ目は川越市「喜多院」で、【1645年】に3代将軍「徳川家光」の命令で建立され、天海僧正の木像が安置されました。

 

そして3つ目は、滋賀県大津市坂本にある「慈眼堂」で、【1646年】に建立され、「喜多院」と同様に天海僧正の木像が安置されているのです。

 

天海が生まれた場所であるはずの陸奥国には、なぜか墓所が築かれていません。

 

大津市坂本の「慈眼堂」は、比叡山の中腹にあり、光秀の居城だった「坂本城」の跡地までは、徒歩30分ほどで行くことができる距離です。

 

「本能寺の変」ののち、光秀の重臣「明智秀満(一説には娘婿とも言われる)」が、安土城を守っていました。

《明智秀満》
「引用元ウィキペディアより」

しかし、「山崎の合戦」で光秀が秀吉に敗れ、さらに敗走する光秀自身も「小栗栖」で命を落としたと知った秀満は、坂本城にもどって光秀の妻子を殺し、城に放火して自害したといわれています。

 

その際に、脱出した子供がいたとも伝えられており、その子供の子孫が「明智光秀の末裔」と名乗っているのですが、いずれにせよ、坂本城は光秀の妻子が悲劇的な最期を遂げた場所であることは間違いありません。

 

「天海僧正」となった「光秀」・・・・・その遺体は「日光・輪王寺」に眠っていても、魂は「坂本の慈眼堂」に宿り、「光秀の妻子が最期をむかえた地」を、今も見守り続けているのではないでしょうか。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「明智光秀」は、「織田信長」に仕えた重臣であり、「本能寺の変」を起こした武将。「南光坊天海」は徳川家康の参謀・ブレーンをつとめた僧

 

2,「光秀と天海が同一人物」といわれる根拠は、光秀生存説が各地に残っており、比叡山・延暦寺で「光秀」と「天海」の存在が交差しているため

 

3,童謡「かごめかごめ」は光秀とゆかりある地を暗示する暗号である・・・という説があるが、その可能性は極めて低い

 

4,明智光秀は、徳川家康と協力して「本能寺の変」の黒幕であった「豊臣秀吉」に対し、「大坂夏の陣」で「豊臣家を滅ぼす」という形で復讐したのかもしれない

「明智光秀」と「南光坊天海」には、「同一人物」ではないかという俗説があります。

 

童謡「かごめかごめ」が、「明智光秀」と「南光坊天海」僧正が同一人物だということを暗示している、という説がありますが、根拠となっている「かごめかごめ」の歌詞が、江戸時代の文献では確認できないので、あくまでも俗説でしかないのでしょう。

 

光秀と天海僧正に共通しているのは、「前半生がはっきりしていないこと」ですが、ほぼ同時代に生きた2人が「文献資料上で同時に存在したことを確認できる史料」はありません。

 

光秀が亡くなったとされるのは【1582年】、一方で、天海僧正の名前が史料のうえで確認できるのは、【1588年】になってからです。

 

光秀が姿を消したあとで、天海僧正が歴史の表舞台に姿をあらわすことや、その他に複数ある逸話から、「2人は同一人物なのではないか」と考えられてきました。

 

また、同一人物説を補強する傍証が、大阪府岸和田市の「本徳寺」と、その周辺地域に残されているのです。

 

筆者自身は、「光秀と天海僧正は同一人物」であり、裏切り者に厳しい家康が、光秀にゆかりのある「春日局」を孫「徳川家光」の養育係にしていることなどから、「本能寺の変」の黒幕は「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」だったと考えています。

 

もっとも、それを証明する史料は存在しませんので、傍証からの推論でしかないのですが。

 

ともに秀吉に窮地に追いやられた光秀と家康が、信長の仇を討ち、その理想を実現するために2人で協力して「江戸幕府」を築き、264年もの天下静謐をもたらしたのだ、と考えても良いのではないでしょうか?

 

天海僧正の墓所は「3つ」あり、その1つは、明智光秀の妻子が悲劇的な最期をむかえた「坂本城」跡地に近い、「比叡山」の中腹に位置している「慈眼堂」にあります。

 

まるで天海僧正となった光秀の魂が、今もそこから妻子の最期の地を見守り続けているかのようです。

《坂本城址:あけびさんによる写真ACからの写真》

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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