『は』
豊臣秀吉につかえた「石田三成」の「旗」と言われれば、思い浮かぶのは「大一大万大吉」という、とてもインパクトのある旗印。
「旗印」にこの文字を記されると、右から読むのか左から読むのか…わかりづらいですね。
読み方は上・左・右の順で「だいいち・だいまん・だいきち」です。
「一人はみんなのために、みんなは一人のために」といった意味を持っています。
ただ、これはあくまでも「旗印」であって、石田三成の「家紋」ではありません。
石田家の家紋は「九曜紋」(くようもん)と呼ばれる家紋です。
「九曜紋」の意味は・・・・月曜・火曜・水曜・木曜・金曜・土曜・日曜・計都(けいと)・羅?(らごう)・・・という9つの星を表すものです。
中国やインドで信仰されていた「9つの星」が意味として込められています。
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この記事を短く言うと
- 石田三成の家紋「九曜紋」とは、「くようもん」と読み、「9つの星」を意味しているもの
- 三成の旗印「大一大万大吉」とは、「だいいちだいまんだいきち」と読み、「一人は万人のために、万人は一人のために尽くせば、みんなが幸せになれる」という意味
- 三成には「三献茶」「盟友・大谷吉継との逸話」「忠臣・島左近との逸話」など、数々の逸話が残されている
石田三成の家紋「九曜紋」の意味と読み方

《九曜紋(くようもん)》
「引用元ウィキペディアより」
上の画像は、石田三成の家紋「九曜紋」です。「くようもん」と読みます。
月曜・火曜・水曜・木曜・金曜・土曜・日曜・計都(けいと)・羅?(らごう)・・・・という「9つの星」を表しています。
それぞれが表すものがいったいなんなのか、探っていきましょう。
- 「月曜」・・・月「勢至菩薩」
- 「火曜」・・・火星「虚空蔵菩薩」
- 「水曜」・・・水星「弥勒菩薩」
- 「木曜」・・・木星「薬師如来」
- 「金曜」・・・金星「阿弥陀如来」
- 「土曜」・・・土星「聖観音菩薩」
- 「日曜」・・・太陽「千手観音菩薩」
- 「計都」・・・月の降交点「釈迦如来」
- 「羅?」・・・月の昇交点「不動明王」
これら9つの星は、天体を表しています。これらは「インド天文学」や「インド占星術」によるものです。
中央の大きな星は「太陽」を示していて、その周りを囲むように他の惑星が配置されています。
インドからの教えを中国がアレンジしたのが、それぞれの星があらわす「仏様の名前」ですね。
その後、この「九曜」が日本に伝わり、徐々に広まっていきました。
石田三成の他にも「九曜紋」を使用していた戦国武将はいます。あの明智光秀の娘婿「細川忠興」や、独眼竜「伊達政宗」の参謀「片倉小十郎」が有名です。
旗印「大一大万大吉」の意味と読み方

《大一大万大吉》
「引用元ウィキペディアより」
「石田三成」が使用した「旗印」の「大一大万大吉」は、「だいいち・だいまん・だいきち」と読みます。
当時の旗印は絵柄によるものだけではなく、文字を連ねた印もありました。文字を連ねたものは「文字紋」(もじもん)とも呼びます。
そもそも「旗印」って、なんのために使っていたのでしょうか。
これは陣の所在をアピールしたり、士気をあげたりするために使用していました。
この「大一大万大吉」の旗印には、いったいどういった意味が込められているのか、調べていきましょう。
一は「かつ」(勝つ)とも読みます。
万は「よろず」という意味を持っています。
大は「大きい」「すべて」などといった意味があります。
「一人が万民のために、万民は一人のため尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」
という願いが込められている・・・・・・・と伝わっています。
しかし、この旗印は石田三成が初めて使ったわけではないのです。
元々は「木曽義仲(鎌倉時代)」を討った「石田次郎為久」という人が使っていたものだそうです。
苗字が「石田三成」と同じですが、血縁関係は今のところはっきりとわかっていません。
「石田次郎為久」以外にも、「山内家」や土佐山内家の分家「五味家」にも伝わっていることから、石田家だけのオリジナルという訳ではなさそうです。
最期まで周りの人達のために尽力した石田三成。
その人柄が表れているインパクトの強い旗印だと思います。
「大一大万大吉」のスローガンを表すエピソード
インターネットで検索すると「石田三成」の人柄を伝えるエピソードは色々と出てきます。
トップ3は以下の通りです。
- 三献茶
- 大谷吉継との茶会での出来事
- 島左近を部下に迎え入れる
「三献茶」
石田三成こと「佐吉(さきち)」は、幼い頃「近江国」の「観音寺」という寺で修行していました。

《石田三成》
「引用元ウィキペディアより」
ある日その「観音寺」へ、のちの「豊臣秀吉」が訪れます。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)
「引用元ウィキペディアより」
喉が乾いていた秀吉は、幼い「佐吉」へお茶がほしいと頼みます。
佐吉は「ぬる目のお茶を大きな茶碗に一杯」に持ってきて、秀吉へ差し出しました。
秀吉がもう一杯、お茶を頼むと、今度は「少し熱いお茶を、中くらいの茶碗」に入れて持ってきました。
三度お茶を頼んだ秀吉・・・。佐吉は「熱々のお茶を、小さな茶碗」に入れて持ってきます。
佐吉は、秀吉の喉の乾き具合を考えて、「ぬる目でたくさんのお茶」でまず喉の乾きをうるおし、次に「少し熱めのお茶で、茶の味を楽しませ」、最後に「熱々の濃茶」を味わわせたのです。
この賢さを喜んだ秀吉は、佐吉を城へと連れ帰り、側近として育て上げます。
佐吉は「石田三成」と名乗り、秀吉の「豊臣政権」において、「五奉行」という重役にまで出世。
秀吉から与えられた領地も、秀吉の親族「福島正則」「加藤清正」と同程度、またはそれ以上の大きな領地を与えられる程でした。与えられた領地が多すぎて、辞退を申し出たほどです。
【1600年】、石田三成は秀吉と出会った寺「観音寺」から東へ数キロに位置する「関ヶ原」で「徳川家康」と対峙。
家康に敗北した三成は、その後「京都」で斬首され、41年の生涯を終えることになります。
個人的な見解ですが、この「三献茶」のエピソードは、秀吉が織田信長に仕えた際の「草履をふところで温めたエピソード」にも通じるものがある気がします。
「自分の仕事にわずかでも付加価値をつける」という発想がふくまれているのでしょう。
もしかすると後世の創作かもしれませんが、史実通りであるならば、秀吉は幼い「佐吉」の中に、若い頃その頭をつかって必死に「織田信長」に仕えた自分の面影を見たのかもしれません。
「『大谷吉継』との茶会」
秀吉が家来たちを集めて茶会を催した際の話です。
茶の飲み回しが行われたときに、石田三成の同僚「大谷吉継」に茶碗が回されました。
大谷吉継は「ハンセン病」を患っており、顔から一滴のウミが茶に落ちます。
これを見た武将たちは、茶を飲むことを嫌がり、口をつけたふりをして茶碗を回すのみ。
ところが三成は構わず茶を飲み干し、大谷吉継のメンツを守ったのです。
これ以後、2人は友情によって結ばれ、「関ヶ原の戦い」で大谷吉継は石田三成に味方することとなったのです。
「徳川家康と戦っても勝ち目はない」と主張した「大谷吉継」でしたが、三成の居城「佐和山城」に呼び出され3日に及ぶ説得の末、友「三成」のために勝ち目のない戦いで「一緒に死ぬ」ことを選んだのでした。
この「お茶を飲み干した」という逸話は後世の創作・・・という説もあります。また、「そのお茶を飲み干したのは石田三成ではなく、秀吉だった」という説もあるのだとか
「猛将『島左近』を部下に迎え入れる」
三成は秀吉に仕えて順調に出世を重ねます。
それにより、若くして「4万石」という大きな領地を与えられる事となるのでした。
しかし三成には、一つ弱点がありました。
それは「政治」や戦争の「補給・後方支援」は得意だったが、実戦は苦手であったということです。
三成の同僚たち「福島正則」「加藤清正」「黒田長政」「浅野幸長」「田中吉政」らは、歴戦の猛者。幼い頃から父親や主君から戦闘訓練をほどこされていたため、戦に慣れていたのです。
三成はその弱点を「歴戦の猛者」を家臣とすることで補おうとします。
目をつけたのが、当時「名将」として有名だった「島左近」という武将でした。
しかし「島左近」は、数々の武将たちからの勧誘には目もくれず、断り続けていました。
三成は「島左近」に力を貸してもらえるように説得。
自身の領地であった「4万石」の半分、「2万石」を与える・・・・・・と提案したのです。
これは「三成」と「島左近」の領地が対等であることを意味しました。破格の提案です。
左近は「2万石」以上の勧誘をいくつも受けていたものの、自領の半分を差し出すという三成の心意気に感激。
三成の家臣となることを承諾します。
左近は数々の作戦を立案し、三成を支えます。
そして【1600年】の「関ヶ原の戦い」で、「島左近」は壮絶に戦死。
三成に取り立てられた恩義に対して、命を捧げて尽くしたのでした。
ちなみにこの「島左近」の孫が、尾張徳川家につかえた「尾張柳生家」の剣豪「柳生厳包(やぎゅう としかね)」こと通称「柳生連也斎(やぎゅう れんやさい)」であるといわれています。
「石田三成の人柄を表す逸話・エピソード」
石田三成の人柄も伝わりつつ、「大一大万大吉」の旗印に掲げた意思を感じるエピソードがありますので、まとめてご紹介します。
- 佐和山城主になった石田三成は豊臣秀吉の名により、キリシタン弾圧を命じられていました。
しかし、三成はこの時に捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、豊臣秀吉の怒りを宥めてキリシタン信徒達が処刑されないよう奔走していたそうです。 - 凶作の年に年貢を免除しました。
- 年貢を免除した上で、村人たちを救うために米百石を分け与えたと言われています。
- 領民から慕われていた石田三成は関ヶ原の合戦後、6日間領民たちに匿われていたそうです。
いかがでしょうか。
これぞ「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という旗印に込められた、その意思が伝わるエピソードではないでしょうか。
『石田三成』について「ひとこと」言いたい!
石田三成・・・江戸時代は三成のことを「悪」であるとして、相当な悪評が広められたと言われています。
最近では「石田三成は豊臣家に忠誠を尽くした忠臣だった」との説が一般的になっています。
でも本当にそうなのでしょうか?
三成を主人公に描かれている映画やドラマは、そのほとんどが三成に同情するような視点から描かれています。
たとえば「司馬遼太郎」の作品を基礎とした映画「関ヶ原」では、三成は「徳川家康」の天下奪取という野望を阻止しようとした忠臣とされています。
近年「関ヶ原の戦いは後世の創作である」という説が話題を集めています。
それによると「『関ヶ原の戦い』という大合戦は存在せず、関ヶ原の西にあった『山中』という地で小規模合戦があっただけ」だというのです。
当時の一次資料(伝聞ではなく、実際に見聞きした者による記録)には、そのように記されているのだとか。
両軍あわせて20万近い軍団がぶつかった戦いにしては、亡くなった大将格は「大谷吉継」のみ。
副将格の「島左近」「島津豊久」も戦死してはいるものの、それほどの激戦が行われたにしては、戦死した大将が少なすぎるのです。
もう一つ気になることがあります。
「石田三成を『関ヶ原の戦い』の主犯」であると考えるなら、戦後における三成の家族にたいする処罰が軽すぎるのです。
三成自身は「小西行長」や「安国寺恵瓊」とともに斬首刑となっていますが、三成の子供たちは寛大な処置が取られています。
- 長男「石田重家」は戦後、家康によって命を助けられて出家。重家の息子は家康の孫「松平忠直」の越後高田藩に仕えています。
- 次男「石田重成」は津軽藩主「津軽信建」に救われて津軽へ脱出。津軽藩家老として「忍者集団」の棟梁として活躍。「杉山」家として現代まで子孫が続いています。
- 三男「佐吉」も家康によって助命されて出家しています。
- 長女は名前不明ながら、夫が家康の六男「松平忠輝」に仕えたのちに津軽藩へ仕えたことで、平穏無事に過ごしたと考えられます。
- 次女「小石殿」は、蒲生家の家来「岡重政」に嫁ぎ、夫が亡くなったあとは若狭へ移住して亡くなっています。彼女の孫が「徳川家光」の側室「お振の方」で、長女「千代姫」は「尾張徳川家」へ嫁入り。その末裔には「徳川吉宗」の宿敵である尾張藩主「徳川宗春」らがいます。また、五摂家から「大正天皇」の皇后であらせられる「貞明皇后」を通じて、皇室にも「小石殿」の血が受け継がれているため、「今上天皇陛下」は「石田三成の末裔」ということになります。
- 三女「辰姫」は、津軽藩二代藩主「津軽信枚」の側室。三代藩主「津軽信義」を産んでいます。
家康の宿敵とされている「石田三成」ですが、実は家康と親密な関係だったという説もあります。
三成の長男は、「家康」の諱を与えられて「重家」と名乗ったとも噂されているのです。
「家康と良好な関係にあった三成は、家康と戦うことに反対していた」というのです。
もしもこれが本当なら、三成の子供たちがことごとく助けられている説明がつきます。
また「三成が親友の『大谷吉継』を、居城の佐和山城に呼び出し、家康打倒に協力してくれるよう3日間にわたって説得しした」という話の説明もつくのです。
普通に考えると、説得される側が呼び出される・・・なんてことがあるでしょうか?
この場合、「説得される側の大谷吉継を、説得する側の三成が訪れる」のが普通でしょう。ここに違和感を覚える人も多いはず。
しかし「三成が家康打倒の挙兵に反対していた」とするなら、この違和感にも説明が付きます。
つまりこういうことです。
「三成が大谷吉継に挙兵するよう説得していたのではなく、大谷吉継が三成に家康打倒のために挙兵するよう説得していた」
となると、石田三成は「関ヶ原の戦い」の戦いの首謀者ではなかったことになります。
では誰が「関ヶ原の戦い」の首謀者なのか?
残念ながら、誰が首謀者なのかは今のところ不明となっています。とある歴史家によれば「首謀者はおらず、家康に反感をいだく大名が一気に挙兵した」という、なんとも納得のいかないことをおっしゃっていました。
おそらく「関ヶ原の戦い」の首謀者は、西軍の中でも特に身分の高い五大老の三名「毛利輝元」「上杉景勝」「宇喜多秀家」ら三名のうちの誰か・・・または三人が共同で家康に対して挙兵したのでしょう。
「関ヶ原の戦い」の直前、五大老の一人「前田利長」が家康から謀反の疑いをかけられて討伐されかけています。
これに恐れを抱いた前田利長は、母「お松」を江戸へ人質に出し、家康に屈服。
これをみていた三大老は「明日は我が身」と考え、「やられる前にやってしまえ」・・・と思ったとしても不思議ではありません。
この「関ヶ原の戦いは後世の創作である」という説を信じるならば、「石田三成が筋金入りの豊臣家忠臣」という説もあやしくなります。
「源義経」「明智光秀」「真田幸村」「石田三成」など、日本人は敗北した者に同情的で、その功績をたたえる習性がありますが、あまりに同情が過ぎると、真実を見誤る危険性があるのかもしれません。
「三成が関ヶ原の戦いの首謀者ではない」としたら、上で説明しました三成の逸話も、どこまで真実なのかわからなくなります。
漫画家「ヤマザキマリ」さんがおっしゃっておられた言葉を思い出します。
「歴史を描く場合、ほとんどの話は盛られている(大げさに書かれている)」
真実の「石田三成」も、実は大げさに騒がれているだけかもしれません。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 石田三成の家紋は「九曜紋」(くようもん)といいます。
- 石田三成の旗印は「大一大万大吉」(だいいちだいまんだいきち)と読みます。
- 三成は、領民から慕われていた「領民想い」の優しい領主でした。
徳川家康の天下となってから、「関ヶ原の戦い」の西軍(豊臣方)の事を調べるのは、ご法度だったそうです。
現代でも一部で残っている『石田三成は悪』であるという印象操作は、徳川家によるものかもしれません。
いい事であれ、悪い事であれ、それが真実ならばきちんと伝える事も、歴史を守ることに繋がると思います。
長い年月がかかったとしても、当事者達の正当な評価というのは、ぜひとも真っ当にやって欲しいものですね。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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