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明智光秀の肖像画に秘められた逸話とは?光秀の銅像についてもご紹介

この記事では「明智光秀の肖像画」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「光秀の肖像画に秘められた謎」を、カンタンに理解できます。

 

言い伝えによると、「明智光秀の肖像画」は、光秀の息子「明智光慶」が今に伝えたと考えられるのです。


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この記事を短く言うと

 

1,「明智光秀」の肖像画は、大阪府岸和田市の「本徳寺」に所蔵されている

 

2,本徳寺は、明智光秀の息子「明智光慶(あけち みつよし)」が開いたと伝わっている

 

3,光秀の像は、「滋賀県大津市」「京都府亀岡市・丹波亀山城」「亀岡市・ききょうの里」「岐阜県瑞浪市」にある

光秀の「肖像画」はどこにあるのか?実は「光秀」ではないかもしれない!

明智光秀の肖像画は、「大阪府岸和田市」にある「本徳寺」というお寺に所蔵されています。

 

岸和田市にある「岸和田城」では、この肖像画のレプリカが展示されています。

 

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

 

明智光秀であると伝えられている肖像画には、「雲道禅定門肖像賛」と記されています。

 

この中の「輝」という字には「光」、「琇」という字には「秀」という字が隠れているのです。

 

普通に考えれば、この肖像画は、「輝雲道琇禅定門」という人物の肖像であるということになります。

 

光秀の肖像画である可能性は、高いとはいえません。

 

もしかしたら別人の肖像画かもしれないのです。

 

ところが、この肖像画は「光秀」のものであると、長く伝えられてきました。

 

なぜこの肖像画が「光秀」であると言いきれるのかというと、この「本徳寺」と「明智光秀」の関係に理由があります。

本徳寺所蔵の明智光秀肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン

 

「大阪府岸和田市」の「本徳寺」を開いたのが、「明智光秀の息子」だと言われているのです。



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明智光秀の肖像画と「明智光慶」の逸話

本徳寺は、「南国梵桂(なんごく ぼんけい)」という人物が開いたものだと言われています。

 

この「南国梵桂」が、光秀の息子「明智光慶」なのだとか。

 

「明智光慶」は、「山崎の戦い」のあと「坂本城」または「亀山城」が落城した際に亡くなったと考えられていました。

 

しかし、京都にあるお寺「妙心寺」に出家し、「玄琳(げんりん)」と名乗ったとも言われています。

 

その「玄琳」が、「南国梵桂」と名乗って、「本徳寺」を開いたというのです。

 

この「南国梵桂」が、「明智光慶」なのであれば、亡き父「明智光秀」の肖像画を密かに描かせて、後世に伝えたとしても、不思議ではありません。

  • 「肖像画に隠れた《光秀》という文字」
  • 「本徳寺を開いた南国梵桂が明智光慶だという逸話」

これらのことから、本徳寺に伝わっている肖像画は「明智光秀」のものであると考えられているのです。



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本徳寺に伝わる「明智光秀・生存説」

本徳寺には、「明智光秀」ものと伝えられている「肖像画」と「位牌」が納められています

 

そこには、不思議な記述があるのです。

「位牌」の裏には「(この位牌の人物は)1599年に本徳寺を開いた」

と書かれています。

 

また、肖像画には

「(この肖像画の人物は)仏門に入って去っていった」

との記述が残されています。

 

明智光秀は、【天正10年(1582年)6月13日】に亡くなっています

 

ところが、「光秀の位牌」には【1599年】に寺を開いたとあるので、明らかに矛盾しています。

 

そして肖像画には、「仏門に入って去った」とあるので、「実は明智光秀は、山崎の戦いで死なず、息子の明智光慶がとともに出家したのではないか」と言われているのです。

 

これが、「明智光秀は生き延びて、徳川家康の参謀・南光坊天海になったのではないか」という伝説のもととなった逸話です。

 

しかし、近年の研究によると、「南光坊天海」と「明智光秀」の筆跡は、まったく別人のものであることがハッキリしています。

 

また「千葉県市原市」の「不入斗」という場所には、「明智光秀の側室」のものと伝えられているお墓があり、そこには「明智光慶」の通称「十五郎」という名前が刻まれています。

 

現実的に考えて、「明智光秀」が生きていたという説には、無理があると思います。

 

ただ、「光秀」の肖像画・位牌に書かれた内容を真実と仮定すれば、明らかに史実とは異なる事態となるのです。



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光秀の銅像はどこにある?坂本・谷性寺・亀岡・瑞浪

主君「織田信長」を殺害したとはいえ、領地では「名君」として領民からの尊敬を集めた武将「明智光秀」。

 

その遺徳は今も慕われており、各地に「像」が建てられています。

 

「明智光秀」の銅像または石像が、どこにあるのかを、一覧でご紹介いたします。

  • 滋賀県大津市「坂本城址公園」
  • 京都府亀岡市「丹波亀山城」
  • 京都府亀岡市「谷性寺」近くの「ききょうの里」
  • 岐阜県瑞浪市「一日市場館跡・一日市場八幡神社」

坂本城址公園は、明智光秀の居城「坂本城」の跡地。

 

「丹波亀山城」の像は、【2019年(令和元年)5月3日】に設置されたもので、最も新しいです。

 

「谷性寺」は、「明智光秀」の「首塚」が残されています。

 

「一日市場館跡」は、光秀の先祖「土岐氏」の本拠地であり、光秀にゆかりの地です。



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『明智光秀・生存説』について「ひとこと」いいたい

明智光秀は、「南光坊天海」となって「徳川家康」に協力し、「大坂夏の陣」で「豊臣家」に復讐した・・・。

 

そんな噂があります。

 

光秀は「織田信長」を討ち果たし、そのあと「豊臣秀吉」に討たれているわけですが、【33年後】の「1615年」に、その仕返しをしたというわけです。

 

現実的に考えて、「明智光秀」が「南光坊天海」と同一人物である可能性は、極めて低いでしょう。

 

農民出身で、心優しい「豊臣秀吉」が、主君を殺した悪の権化「明智光秀」を討ち果たし、天下を統一した。

 

「豊臣秀吉」のサクセスストーリー・ヒーローストーリーとしては、よくできています。

 

しかし出来すぎた感じがしないでもありません。

 

秀吉は、自分を引き立ててくれた恩のある主君「織田信長」の三男「織田信孝」を死に追いやり、次男「信雄」を窓際に追いやっています。

 

挙句の果てには信長の娘や姪を側室としているのです。

 

これらのことから、太閤記などで語られている「英雄・豊臣秀吉」とは程遠い、秀吉の真の姿が垣間見えます。

 

織田家から天下を奪い取った豊臣秀吉。

 

それを徳川家康と「南光坊天海」こと「明智光秀」が協力して滅ぼし、天下を「江戸時代265年」の永き平和へと導いた・・・。

 

そんな「サクセスストーリー」のほうが良いような気が、しないでもありません。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「明智光秀」の肖像画は、大阪府岸和田市「本徳寺」にある

 

2,本徳寺は、光秀の子「光慶」が開いたと伝わっている

 

3,光秀像は、「大津市・坂本城」「亀岡市・丹波亀山城」「亀岡市・谷性寺」「瑞浪市・一日市場館跡」にある

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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