MENU

明智光秀の家臣団を一覧紹介!山崎の戦いで敗北した最強明智軍の敗因

【m】

『天王山より山崎合戦地を望む:松波庄九郎さんによる写真ACからの写真』

「明智光秀」の家臣団は、「戦国最強の軍団」と言われていました。

ところが「本能寺の変」のあと、「山崎の合戦」で光秀の軍団は「羽柴秀吉」の軍勢に敗れ、大勢の武将が戦死したのです。

この記事では『なぜ戦国最強と言われた軍団が敗れたのか』を、明智軍団の家臣を紹介するとともに解説してきます。

この記事を読んで「そうだったのか、明智軍団!」と疑問をスッキリと解消してくださいね。


スポンサーリンク


歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 明智光秀の軍団は、当時日本最大の「織田信長軍」の中でも最強であったと考えられる。明智軍は「明智秀満」や「斎藤利三」らによって構成された最強軍団だった
  2. 信長からの信頼厚かった「明智光秀」には、多数の与力大名が付けられた。「細川藤孝」「高山右近」「中川清秀」「池田恒興」など
  3. 最強「明智光秀軍」が羽柴秀吉との「山崎の戦い」であっけなく敗北した理由は2つ。「与力大名に次々と見捨てられた」「秀吉の速すぎた帰還に迎撃体制が取れなかった」

明智光秀の家臣団一覧!戦国最強の軍団だった?

「明智光秀」の家臣団は、戦国最強の軍団だったと言われています。

本徳寺所蔵の明智光秀肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン

  • 美濃(岐阜)時代からの家臣
  • 室町幕府に仕えた時からの家臣
  • 明智光秀が「丹波」を収めるようになった時からの家臣

などなど、光秀の家臣団には色々な武将がいます。

どのような武将がいたのか、簡単にご紹介しましょう。



スポンサーリンク


明智秀満

「光秀」の娘婿、または叔父「明智光安」の子で光秀の従兄弟にあたる人物と言われています。光秀とともに「本能寺」へ攻め入り、「織田信長」を攻め滅ぼす。「本能寺の変」後、「山崎の合戦」で光秀が亡くなったと知り、居城の坂本城へ籠もり、光秀と自身の妻子とともに自害。

 

明智光忠

光秀の叔父「光久」の子で従兄弟、光秀・秀満とともに「本能寺」に攻め入る。二条城に信長の子「織田信忠」を攻め、信忠を討ち取ることに成功するが、鉄砲で打たれ重傷を負う。京都「知恩院」で療養中、山崎で光秀が亡くなったと知り、明智秀満とともに坂本城へ籠もり、自害。

 

妻木広忠

美濃国土岐郡「妻木城主」で、光秀の叔父の1人と言われる。また一説には、光秀の正室「煕子」の父とも言われる。山崎で光秀が亡くなり、近江の坂本城が落城したのを知った後、関係者の墓所を作り冥福を祈ったのち、墓の前で自害。

 

斎藤利三

美濃・斎藤氏出身で、光秀と同じく室町幕府・奉公衆の1人。明智家筆頭家老となり、丹波黒井城主となる。「本能寺の変」を光秀が計画した際、無謀さを諌めるが主君の命令に逆らえず、参加して「信長、信忠」らを討つ。「山崎の合戦」でも活躍したが敗れ、秀吉に捕縛され六条河原で斬首される。斎藤利三の娘『お福』は江戸幕府第3代将軍「徳川家光(徳川秀忠の嫡男)」の乳母(養育係)であり、のちに「春日局」と名乗り、江戸城に「大奥」を創設するなど、絶大な権勢を振るうこととなる。この「春日局」の夫は「関ヶ原の戦い」で「小早川秀秋」を寝返らせた小早川家家老「稲葉正成」。

《斎藤利三》
『引用元ウィキペディアより』

《春日局》
「引用元ウィキペディアより」



スポンサーリンク


進士貞連

一説には光秀の弟と言われる武将。

 

溝尾茂朝

通称「庄兵衛」。「山崎の合戦」で坂本城に逃れようとする光秀に同行、光秀が途中で落ち武者刈りの農民に致命傷を負わされたため、光秀の命令で、切腹の際の介錯をつとめる。光秀の首を持ち、坂本城を目指したが、再び落ち武者刈りに見つかり、光秀の首を竹やぶに隠して落ち延びる。最期は坂本城で自害。

 

肥田帯刀

「肥田玄蕃家澄」の子、明智家小姓。山崎で羽柴秀吉の軍を迎撃することに反対し、「勝竜寺城」で迎撃するように光秀へ進言。

 

肥田玄蕃家澄

明智家旗本、肥田帯刀の父。

 

藤田行政

明智家に光秀の父「光綱」の代から仕える。本能寺の変後、大和国の「筒井順慶」に助力を要請するが、説得に失敗、山崎の合戦後「勝龍寺城」陥落の報を聞き、自害。

 

猪飼昇貞

六角氏に仕えたあと、浅井家家臣、のち織田家家臣となる。その後は光秀の家臣となり、琵琶湖の漁業・水運などを統括する。「本能寺の変」後、消息不明となったため、戦死した模様。息子「秀貞」も光秀に仕えたが、本能寺の変には参加せず、近江に潜伏していた「斎藤利三」を捕縛し、のち徳川家康家臣となる。

 

伊勢貞興

室町幕府の幕臣からのち、光秀の家臣。光秀から深い信頼を寄せられ、一説には光秀の娘婿の1人。明智家中では「斎藤利三」と並ぶ戦上手の武将として知られる。「本能寺の変」では二条城にいた信長の子「信忠」を攻め、討ち取る貢献を果たす。「山崎の合戦」では、敗走を余儀なくされた光秀の殿(しんがり)をつとめるが戦死。

 

御牧兼顕

「伊勢貞興」と同様、旧室町幕府幕臣でのち光秀家臣。

 

阿閉貞征

はじめ浅井家の家臣、のちに織田家家臣となった近江山本山城主。本能寺の変後、光秀に協力し、秀吉の長浜城を占拠。その後「山崎の合戦」に参加。敗戦後、秀吉に捕らえられ、一族郎党とともに処刑。



スポンサーリンク


安田国継

「古川九兵衛」「箕浦大蔵丞」と並ぶ「明智三羽烏」の1人。「本能寺の変」では信長を槍で刺したと言われる。「森蘭丸」を返り討ちにするなどの活躍をしたが、「山崎の合戦」で光秀が敗れたと知ると、「天野源右衛門」と改名し浪人。本能寺の変から15年後の【1597年】に頬にできた出来物を苦にして自害、奇しくも命日は信長と同じ。

 

古川九兵衛

「安田国継」「箕浦大蔵丞」と並ぶ「明智三羽烏」の1人。

 

箕浦大蔵丞

「古川九兵衛」「安田国継」と並ぶ「明智三羽烏」の1人。

 

木村吉清

もともと「荒木村重」の家臣だったが、のち光秀の家臣となる。「山崎の合戦」後、亀山城の受け渡しで「秀吉」の母「大政所」に気に入られ、秀吉の家臣となり、のち「蒲生氏郷」の与力となる。一時所領を奪われたが、のち杉目城城主となり、杉目の地を「福島」と改名する。現在の「福島県」の地名の名付け親でもある。

 

松田政近

光秀家臣、「山崎の合戦」で羽柴秀吉軍の一角であった「中川清秀」と「高山右近」に奇襲をかけようとしたが戦死。

 

山崎長徳

元「朝倉義景」家臣。朝倉氏滅亡後、光秀の家臣となる。光秀が山崎で亡くなったのち、「柴田勝家」の家臣となり、勝家亡き後は「前田利家」に仕え、「徳川家康」死後の【1620年】まで生き永らえた。

 

並河易家

丹波国並河城主の一族。信長の丹波侵攻以来、光秀に「丹波衆」の1人として仕えるようになる。山崎の合戦後の消息は不明。

 

四王天政孝

光秀が丹波入りしたのち、弟「政実」とともに光秀の配下となる。四王天兄弟は光秀から福知山城城代を任されるほど深く信頼されていた。「本能寺の変」では、負傷した明智家重臣「明智光忠」にかわり、二条城攻めを指揮。「政孝」は山崎の合戦で光秀より先に戦死。弟「政実」は名を変えて逃げのび、のち「結城秀康(徳川家康の次男・初代越前松平家当主)」の家臣となった。



スポンサーリンク


光秀の配下である「丹波衆」には他に「荒木行重」「荒木重仲」「野々口清親」がいました。

山崎の合戦後、光秀と運命をともにした家臣もいれば、本能寺の変から18年後の【1600年】に勃発した「関ヶ原の戦い」後も生き抜いた家臣もいますね。

しかし戦国最強の軍団ではあっても「本能寺の変」の後に「羽柴秀吉」と正面衝突した「山崎の合戦」では勝てませんでした。

歴史に「たられば」は許されませんが、もし光秀が「山崎の合戦」で勝っていたら、秀吉が天下人へと飛躍することもなかったわけですから、その後の「賤ヶ岳の戦い」における「柴田勝家」と「お市の方」の悲劇はなかったかもしれません。



スポンサーリンク


明智光秀の与力大名(信長直属部隊)!これこそ信長からの信頼の証拠?

明智光秀には、「織田信長」から「与力大名」が与えられていました。

織田政権下での「与力大名」というのは、簡単に言うと『織田家家臣の中で『明智光秀』『羽柴秀吉』のような有力大名に他の大名をつけ、地方ごとの方面軍団を形成させ、地方武士の反乱を防ごうとしたもの』です。

信長の嫡男「信忠」には「河尻秀隆」と「森長可」。柴田勝家には「前田利家」と「佐々成政」がつけられていました。

織田信長が明智光秀に付けた与力大名は、以下の通り。

  • 摂津国の「池田恒興」「中川清秀」「高山右近」
  • 大和国から「筒井順慶」
  • 丹後国から「細川藤孝」「一色義有」

いずれも、摂津(大阪)、大和(奈良)、丹後(京都)と、近江(滋賀)の安土城に拠点を置く信長にとっては、守りのために重要な場所ばかりですよね。



スポンサーリンク


これだけ重要な場所の大名を与力として光秀につけたということは、信長がそれだけ光秀のことを深く信頼していたからです。

もし少しでも「こいつ(光秀)はいずれワシに歯向かうかもしれぬ」と信長が思っていたのなら、光秀には畿内より遠い場所に所領を与え、与力大名も与えなかったでしょう。

ただし、与力大名は「明智光秀」や「新発田勝家」の家臣・部下というわけではなく、あくまでも「光秀」や「勝家」と大名同士としては対等な関係です。

光秀や勝家が軍団長としての扱いで、戦の際には、軍団長である光秀や勝家が信長の代わりに「与力大名」にたいして命令を下し、彼らがそれに従う・・・という関係でした。

つまり光秀は信長にとって、「畿内の守りを固めるための軍団長」だったのです。



スポンサーリンク


信長が光秀に与えた与力大名のうち、丹後の「細川藤孝」と大和の「筒井順慶」は光秀の縁戚関係あり、親しい友人関係でもありました。

細川藤孝の嫡男「細川忠興」の正室は、光秀の娘「玉」です。

「玉」のことは「細川ガラシャ」と言ったほうが、皆さんおなじみかもしれませんね。

信長が光秀に畿内の大名を与力としてつけたのは、「安土城に住む自分を守らせるため」でもありました。

それだけ信長は、光秀に深く信頼を寄せていたのでしょう。



スポンサーリンク


戦国最強軍団が「山崎の戦い」であっけなく敗北した理由とは?

さて、光秀には美濃時代からの家臣だけではなく、数々の有力家臣がいました。光秀軍は「戦国最強」の名にふさわしい当時最先端の技能集団でもあったのです。

そんな「戦国最強」といわれた明智軍団は、なぜ「山崎の戦い」で羽柴秀吉の軍勢に負けてしまったのでしょう?



スポンサーリンク


「細川藤孝」「筒井順慶」ら与力大名すべてに見捨てられた

「本能寺の変」で信長と嫡男「信忠」を討ち取り、安土城へ入った光秀は、まず「朝廷工作」に時間を費やしました。

史料としての信頼性に疑問が持たれていますが、細川家には「光秀が征夷大将軍となった」という書状の写しが残されているのだとか。

光秀は主君を討ち果たした後、「天下静謐(てんかせいひつ)」のため、まず自分が「征夷大将軍」となって他の武将を納得させようとしたのでしょうか。

同時に、自身の与力大名だった「池田恒興」「高山右近」「細川藤孝」「筒井順慶」に対して、「自分に味方して、毛利攻めから畿内を目指し進軍する『羽柴秀吉』に対抗するように」と要請します。

ところが光秀は、自分の与力大名だった彼らから、加勢を断られてしまいました。

縁戚関係で親友でもあった「細川藤孝」や「筒井順慶」に拒絶された時の光秀の心境を思うと、胸が痛くなりますね。



スポンサーリンク


超高速Uターンでした「秀吉」の大軍団を迎撃しきれなかった

光秀の予想よりも遥かに速いスピードで畿内に戻ってきた秀吉の軍勢は、毛利攻めのために信長が派遣した「織田軍の主力軍団」でもありました。

こうして頼みの与力衆からの助力を得られないまま、少ない手勢で戦わなければならなくなった光秀は、山崎で秀吉が率いる信長主力軍の軍勢と激突。

この時、光秀の与力大名や織田四天王「丹羽長秀」、そして信長の三男「織田信孝」らの軍を吸収した「羽柴軍」は約3万。対する明智軍は1万3千ほどだったといわれています。

少数でも戦いようによっては勝利できるものです。

そうはいっても、信長が少ない手勢ながらも地の利と気象を知り尽くした「桶狭間の戦い」で「今川義元」に勝利したようにはいかず、『戦国最強の明智軍団』は無残に敗北してしまったのです。



スポンサーリンク


光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中で、落ち武者狩りの農民に致命傷を負わされ、もはやこれまでと悟り、自害しました。

光秀の妻子も坂本城で自害、あるいは殺害され、明智一族で生き残ったのは僧籍に入っていた男子や「細川忠興」の妻「細川ガラシャ」だけだったと言われています。

こうして明智一族は滅亡に追い込まれたのです。

光秀軍があっけなく敗北した理由。それは

  • 「秀吉の移動速度が予想を遥かに上回る短時間で行われたため、迎撃の体制が間に合わなかったこと」
  • 「味方してくれると期待していた『与力大名』全てに見はなされたこと」
  • 「羽柴軍は3万。対する明智軍は1万3千ほど。数に圧倒的な差があった」

ではないでしょうか



スポンサーリンク


『明智光秀』について「ひとこと」言いたい!

筆者が高校生の時でした。

物理で100点、化学で1問間違えて96点を取ったにも関わらず、数学の微積分で5点(100点満点でですよ)を取ってしまったのです。そのとき私は友人たちからしばらく「アケチ」とか「ミツヒデ」とか呼ばれたことがあります。

明智光秀といえば「3日天下」が有名ですが、実際には「本能寺の変」から「山崎の合戦」まで「11日」ほど時間がありました。(「本能寺の変」が6月2日。光秀が亡くなったのが6月13日)

光秀は前半生もはっきりしておらず、生年さえ定かではありません。

「山崎の合戦」での最期も、落ち武者刈りの槍に刺されてその場で絶命したとか。または落ち武者狩りの槍で致命傷を負い、もはやこれまでと自害、家臣に介錯を頼んだとか。いろいろ言われているため、はっきりしていないのです。



スポンサーリンク


光秀の首がさらされたという記録もあるのですが、損傷が激しかったために容貌がわからず、高いところに掲げられたこともあって、本当に光秀か?・・・という疑いもあったようですね。

山崎の合戦で「光秀」として亡くなったのは、実は家臣の1人で、光秀本人は落ち延びたとも言われています。

さて、比叡山に俗名が「光秀」といった僧侶がいたそうです。

比叡山といえば、天台宗の総本山。「徳川家康」のブレーンだった謎多き僧「南光坊天海」こと「天海僧正」の所属宗派ですね。

確たる史料はないので、これは私の妄想なのですが、「明智光秀」は「山崎の合戦」を落ち延び、天台宗の僧侶となって、のちに「天海僧正」となって家康に仕えたのではないかと思っています。



スポンサーリンク


天海僧正は数え歳【108歳】で亡くなったと言われ、没年から逆算すると生まれたのは【1536年】頃ということになります。

光秀の生年を【1530年】より前に考える人たちは、もし2人が同一人物なら天海が【116歳】まで生きたことになる、と否定しています。しかし光秀は生年が不明。諸説紛々ですから、否定する材料とはならないでしょう。

信長による「比叡山焼き討ち」からの復興に尽力したということで、天海僧正の墓所は「滋賀県大津市坂本の慈眼堂」にあります。慈眼堂は、光秀の居城だった坂本城から歩いて30分程度の距離にあるのです。

「天海僧正」は陸奥国出身と言われているのですが、不思議なことに、陸奥国には墓所がありません。

もし天海僧正が光秀だったら、坂本城の近くに墓所を作って欲しいと、弟子に遺言していたとしてもおかしくないと思うのですが・・・さて、どうでしょう?



スポンサーリンク


まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 明智光秀の軍団は、当時最大最強の「織田信長」軍の中でも最強だった。「明智秀満」や「斎藤利三」らによって構成されていた最先端軍団だったと考えられる。
  2. 明智光秀には、信長から多数の与力大名(信長直属部隊)が応援として付けられていた。光秀に付けられた与力大名としては「細川藤孝」「高山右近」「中川清秀」「池田恒興」などが有名
  3. 「明智光秀」の軍が「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」であっけなく敗北した理由は、「細川藤孝ら与力大名がことごとく敵に回った」「秀吉の中国大返しが速すぎて迎撃体制が取れなかった」などがあげられる

以上となります。



スポンサーリンク


この記事を短くまとめると、以下の通り

明智光秀は織田信長からの信頼が厚く、畿内(大阪、京都、奈良)の有力大名を与力として与えられていました。

光秀の軍団は当時最新最強の軍備を持ち、「戦国最強」と言われていたのです。

「本能寺の変」で「信長」と嫡男「信忠」を討ち取ったものの、「羽柴秀吉」に対抗すべく加勢を要請した与力大名に断られ、特に縁戚関係で親友でもあった「細川藤孝」と「筒井順慶」の助力を得られなかったのが痛手となりました。

毛利攻めのため信長から主力軍を預けられていた「羽柴秀吉」の軍勢と「山崎」で激突しますが、羽柴軍は約3万。対して光秀軍は「13000」。少ない手勢での戦いは戦国最強軍団をもってしても、勝利を得ることはできなかったのです。

坂本城に落ち延びる途中、落ち武者狩りにあった光秀は、その場で絶命したとも、致命傷を負いながらも自害し、家臣に介錯を任せたとも言われています。

『明智光秀像と坂本城跡:松波庄九郎さんによる写真ACからの写真』

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

『明智光秀』関連記事

よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。


明智光秀の子孫を家系図でわかりやすく解説!現在の天皇は光秀の末裔」の記事はコチラ

【明智光秀とは】何した人なの?世界一わかりやすく解説してみた」の記事はコチラ

明智光秀の生涯年表を簡単に紹介!謎に満ちた光秀の前半生を考察」の記事はコチラ

明智光秀はなぜ織田信長を裏切った?最新説『徳川家康の陰謀』を考察」の記事はコチラ

明智光秀の墓所を地図付きでご案内!京都・高野山の墓はニセモノ?」の記事はコチラ

明智光秀の家臣団を一覧紹介!山崎の戦いで敗北した最強明智軍の敗因」の記事はコチラ

明智光秀の性格は優しくて誠実?どんな人かをエピソードつきで解説』の記事はコチラ

明智光秀と織田信長・豊臣秀吉の関係を解説!実は互いを憎んでいた?」の記事はコチラ

明智光秀にまつわる四字熟語と辞世の句!意味を分かりやすく解説!」の記事はコチラ

明智光秀の最後の地と日付!人質となり死んだ母親の命日に信長殺害?」の記事はコチラ

本能寺の変は新暦の日にちでいつ?明智光秀がこの日にした理由に驚愕」の記事はコチラ

明智光秀の死因は何?本能寺の変を起こした動機・理由や真実を解説!」の記事はコチラ

明智光秀の家紋・桔梗紋の意味と読み方とは?日光東照宮に刻まれた理由」の記事はコチラ

明智光秀と天海の同一人物説を検証!光秀は天海となり豊臣家へ復讐?』 の記事はコチラ

明智光秀ゆかりの城を一覧で紹介!幻の居城・坂本城の現在とは?』 の記事はコチラ

『明智光秀』ゆかりの地を一気に紹介!京都・岐阜周辺の地まとめ』 の記事はコチラ

明智光秀と妻・煕子の生涯!「あばた顔」と「髪」の逸話がカッコいい』 の記事はコチラ

明智光秀の娘「細川ガラシャ」を徹底解説!子孫は天皇陛下と総理大臣』 の記事はコチラ

明智光秀の娘達の生涯!長女「りん」三女「ガラシャ」を襲った悲劇』 の記事はコチラ

明智光秀の子供達を一覧解説!本能寺の変の後子供達はどうなった?』 の記事はコチラ

坂本龍馬が明智光秀の子孫説を検証!2人は似たような業績を残してる」の記事はコチラ

『クリス・ペプラー』が明智光秀の子孫?本当に末裔なのかを調査してみた』 の記事はコチラ

 明智光秀と濃姫はどういう関係?細川藤孝や長宗我部元親との関係も解説』 の記事はコチラ

明智光秀の肖像画に秘められた逸話とは?光秀の銅像についてもご紹介』の記事はコチラ

明智光秀が使った名前をすべて解説!本名は明智ではなく土岐だった?』の記事はコチラ

明智光秀の刀・甲冑を紹介!愛刀「備前長船近景」は今どこにあるの?』の記事はコチラ

【明智光秀】と細川藤孝・足利義昭の関係!黒田官兵衛との因縁とは?』の記事はコチラ

明智光秀が天下統一できなかった理由とは?織田信長が最期にしかけた罠』の記事はコチラ

明智光秀の戦い一覧ですべて解説!長良川の戦いから山崎の戦いまで』の記事はコチラ

明智光秀の領地と石高をカンタン解説!動員兵力は2万人で重税だった』の記事はコチラ

明智光秀と細川藤孝の関係をカンタンに説明!藤孝は光秀を恨んでいた』の記事はコチラ

【細川藤孝】本能寺の変で明智光秀を見捨てた理由!実は秘策があった』の記事はコチラ

【細川藤孝】明智光秀からの手紙に【本能寺の変】の動機が書かれていた』の記事はコチラ

明智光秀の生い立ちや経歴・プロフィールを解説!若い頃は何してた?』の記事はコチラ

【本能寺の変】その後を解説!明智光秀が死ぬまでに何があったのか?』の記事はコチラ

明智光秀の死因と最後の様子とは?最後の言葉と終焉の地を地図で紹介』の記事はコチラ

本能寺の変は新暦の日にちでいつ?明智光秀がこの日にした理由に驚愕』の記事はコチラ

斎藤義龍(高政)と明智光秀はどういう関係?2人は親友同士だったのか』の記事はコチラ

明智光安の全てを徹底解説!明智光秀との関係や逸話・最期を完全網羅』の記事はコチラ

明智秀満のすべてを徹底解説!子孫・家系図や甲冑の行方まで完全網羅』の記事はコチラ

足利義昭の全てを徹底解説!織田信長・明智光秀との関係や子孫も網羅』の記事はコチラ

足利義輝のすべてを徹底解説!剣豪将軍の最期や愛刀・名刀を完全網羅』の記事はコチラ

朝倉義景のすべてを徹底解説!子孫や家紋・明智光秀との関係をご紹介』の記事はコチラ

近衛前久の全てを徹底解説![明智光秀]や[本能寺の変]との関係とは』の記事はコチラ

細川藤孝のすべてを徹底解説!子孫・家系図や明智光秀との関係も紹介』の記事はコチラ

斎藤義龍(高政)の全て!生涯年表に家紋、明智光秀との関係までを解説』の記事はコチラ

松永久秀のすべてを徹底解説!子孫・家系図や家紋に茶器まで完全網羅』の記事はコチラ

斎藤利三の全てを徹底解説!子孫・家系図や春日局との関係も完全網羅』の記事はコチラ

藤田伝五の全てを徹底解説!別名・伝五郎行政の逸話や最期を完全網羅』の記事はコチラ

三淵藤英の全てを徹底解説!なぜ自害したのかその理由などを完全網羅』の記事はコチラ

お市の方のすべてを徹底解説!家系図や[織田信長]との関係を完全網羅』の記事はコチラ

【本能寺の変】謎や真相をすべて解説!黒幕や動機について完全網羅』の記事はコチラ

本能寺の変とは何かについてその概要を世界一詳しくわかりやすく説明』 の記事はコチラ


スポンサーリンク
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次