【本能寺の変】その後を解説!明智光秀が死ぬまでに何があったのか?

皆さんは「本能寺の変のその後に何が起こったのか」を、ご存知でしょうか?

 

実は「本能寺の後」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

 

この記事では「本能寺の変のあとに何が起こったのか」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

 

今は「その後何がおこったのか」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、「本能寺の変」に詳しくなれます。

 

この記事を読んで、「本能寺の変」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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この記事を短く言うと

 

1,【1568年】、明智光秀は、織田信長に対して「足利義昭」の上洛を要請。2人はこのときに出会い、14年後の【1582年】の「本能寺の変」まで共に戦う

 

2,【1582年6月2日】に「本能寺の変」が勃発してから、わずか【11日後】の【1582年6月13日】に、「明智光秀」は亡くなった

 

3,本能寺の変が起こった【1582年】から33年後の【1615年】、「大坂夏の陣」で「豊臣秀頼」が亡くなり、天下泰平となった。

「明智光秀と織田信長の出会い」から「本能寺の変」までを、年表で解説

「本能寺の変」の後に何があったのか、を知る前に、まずは「明智光秀」と「織田信長」の出会いから「本能寺の変」までの経緯を、年表でザッとおさらいしたいと思います。

 

1568年】(織田信長35歳)

越前の戦国大名「朝倉義景」の家臣「明智光秀」が、義昭に対して「朝倉義景は頼りにならないから織田信長を頼れ」と進言。

義昭、光秀を通じて信長に上洛と、自分を「征夷大将軍」にするよう要請。

9月、信長、「足利義昭」とともに上洛を開始。

10月18日、義昭、室町幕府第15代将軍に就任。

 

 

1569年】(信長36歳)

1月 三好三人衆と、信長に稲葉山城を追われた「斎藤龍興」が、義昭の御所「本圀寺(ほんこくじ)」を襲撃。

光秀の活躍により、三好三人衆らを撃退

 

 

1570年】(信長37歳)

4月、信長、越前「朝倉義景」を攻めるが、北近江の同盟者「浅井長政」が裏切り、「明智光秀」、「木下秀吉」の殿(しんがり)によって辛くも京都に逃れる。

6月、信長、「徳川家康」とともに「朝倉義景」「浅井長政」と近江国「姉川」で激突、勝利。(姉川の戦い)


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1571年】(信長38歳)

9月12日、信長、「比叡山焼き討ち」を開始。

光秀、比叡山の所領だった地「坂本」に築城開始。

 

 

1572年】(信長39歳)

3月、「三好義継」と「松永久秀」、信長に反旗を翻す。

12月、「家康」が「三方ヶ原の戦い」で「武田信玄」に敗北。

 

 

1573年】(信長40歳)

4月12日、「武田信玄」信州駒場で死去

8月、信長、「朝倉義景」「浅井長政」を攻め滅ぼす。

お市の方」、「茶々」「初」「江」ら3人の娘を連れ織田家に戻る。

 

 

1574年】(信長41歳)

7月~9月、信長、「長島一向一揆」を討伐。

 

 

1575年】(信長42歳)

5月、「織田・徳川連合軍」と「武田勝頼」、三河「長篠の戦い」で激突、「織田・徳川連合軍」が圧勝。

 

 

1576年】(信長43歳)

1月 「安土」に築城開始。

 

 

1577年】(信長44歳)

8月 「松永久秀」、信長に反旗を翻す。

10月10日、「松永久秀」、天守閣に火を放ち自害。

 


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1578年】(信長45歳)

3月13日、「上杉謙信」急死。享年49歳。

上杉家で謙信の2人の養子「上杉景勝」「上杉景虎」の間で後継者争いが勃発。

その混乱に乗じて、信長は「越中(富山県)」に侵攻。

 

 

1579年】(信長46歳)

6月 「明智光秀」、「丹波・丹後」を平定。

9月 信長の命令で家康が自らの正室「築山殿」殺害、嫡男「松平信康」切腹。(「築山事件」。しかしこの事件には異説あり。信長の命令ではなく、松平信康が謀反を企てたため、家康は信康を処分したというのが最近の定説)

 

 

1580年】(信長47歳)

3月 相模国(神奈川県)の大名「北条氏政」、信長に従属を申し出る。

4月 「正親町天皇」の勅命により、「本願寺」が織田家と和睦。(10年に及ぶ石山戦争が終結)

 

 

1581年】(信長48歳)

2月 1月から「明智光秀」に命じて準備をさせた「馬揃え(軍事パレード)」を京都で挙行。

 

 

1582年】(信長49歳)

3月 「甲州討伐」、「武田勝頼」と正室「北条夫人」、勝頼の嫡男「武田信勝」死去、武田家滅亡。(天目山の戦い)

4月 朝廷が信長を「太政大臣・関白・征夷大将軍」のいずれかにすると打診してきたため、話し合う。

5月 徳川家康が「安土城」を訪れ、「明智光秀」がその接待役を任される。

「備中高松城攻め」を行っている「羽柴秀吉」から援軍要請があり、信長は光秀に援軍を命じる。

5月29日 信長、「毛利輝元」攻めの出兵準備のため、安土城を出て上洛。「本能寺」へ入る。

6月2日 未明、「羽柴秀吉」の援軍に向かったはずの「明智光秀」が本能寺を急襲。(本能寺の変)

信長自らも反撃したが、圧倒的な数で勝る明智軍に為す術もなく、本能寺に火を放ち自害。【享年49歳】

6月13日 「山崎の戦い」で「明智光秀」と激突。

「明智光秀」敗走。

逃げる途中に「小栗栖(おぐるす)」付近で落ち武者狩りに襲われ負傷。その後自刃。


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「本能寺の変」のその後を、【年表】形式でわかりやすく解説!

ここでは「三日天下」と呼ばれた「明智光秀」の、「本能寺の変」から「山崎の戦い」までの11日間を、解説いたします。

《本能寺の変》
「引用元ウィキペディアより」

 

1582年6月2日

「本能寺の変」勃発

「織田信長」死去

 

1582年6月3日

「羽柴秀吉」が「信長の死」を知り、「毛利家」と和睦

 

1582年6月4日

「羽柴秀吉」が撤退開始

「徳川家康」が「伊賀越え」を成功させて三河国へ帰還

 

1582年6月5日

光秀が「安土城」へ入城

 

1582年6月6日

秀吉が姫路城へ帰還


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1582年6月7日

光秀が「秀吉軍が急接近している」という報告を受ける

 

1582年6月9日

光秀、秀吉軍迎撃のため「鳥羽」へ出撃

光秀が「細川藤孝」に対して、協力要請の手紙を送るが、「細川藤孝」はこれを拒絶

 

1582年6月12日

光秀軍、鳥羽から「山崎」へ出撃

 

1582年6月13日

「山崎の戦い」

明智光秀が敗北し、坂本城へ落ち延びる途中で、京都「小栗栖(おぐるす)」で落ち武者狩りに襲われ落命。

 

「明智光秀」について、以下のリンク記事で、完全解説しております。よろしければお役立てくださいませ。

『明智光秀の全てを徹底解説!年表からエピソードや性格まで完全網羅』の記事はコチラ

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「明智光秀」の死から、「徳川家康」が死ぬまでを、年表で解説

ここでは、「織田信長」「明智光秀」の死から、「徳川家康」の死までを年表でご紹介いたします。

 

1582年

「本能寺の変」で「織田信長」死去

「山崎の戦い」で「明智光秀」死去

 

1583年

「賤ヶ岳の戦い」

「柴田勝家」と信長の妹「お市の方」が、「羽柴秀吉」によって敗死

 

1584年

「小牧・長久手の戦い」

「秀吉」と「家康」が激突

 

1586年

「徳川家康」が「秀吉」に臣従

 

1590年

「小田原征伐」

「北条氏政」「北条氏直」「伊達政宗」を屈服させて、「豊臣秀吉」が天下統一

 

1592年

朝鮮出兵・文禄の役」

 

1597年

「朝鮮出兵・慶長の役」

 

1598年

「豊臣秀吉」死去


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1600年

関ヶ原の戦い

石田三成」が敗北し、処刑

 

1603年

「徳川家康」が「征夷大将軍」に就任

「江戸幕府」を開く

 

1605年

「徳川家康」が「征夷大将軍」の職を、「徳川秀忠」にゆずる

「徳川秀忠」が二代将軍に就任


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1611年

「徳川家康」が「豊臣秀頼」と「二条城」で会見

一説によると、このときから「秀頼」と「家康」の主従関係が逆転し、「秀頼」が「家康」に臣従したと考えられています

 

1614年

方広寺鐘銘事件」をきっかけに「大坂・冬の陣」勃発

大坂城」の堀を埋めることを条件に、和睦が成立

 

1615年

「大坂・夏の陣」

「豊臣秀頼」と「淀殿(茶々)」が自刃

「豊臣家」滅亡

 

1616年

「徳川家康」死去(享年75歳)

『本能寺の変』について「ひとこと」いいたい

「本能寺の変」で織田信長が亡くなり、「豊臣秀吉」「徳川家康」と、天下の支配者が入れ替わりました。

 

結果として、「徳川家康」が天下を制圧したわけですが、「信長」「秀吉」に比べると、「家康」が最後の天下人となって、本当によかったと思います。

 

もしも信長が天下を制圧していたら、おそらく「秀吉の朝鮮出兵」より遥かに大きな「海外遠征」が行われていたでしょう。

 

「豊臣秀頼」を頂点とする「豊臣家」による天下が続いていたら、その「政治力と軍事的圧力の無さ」と「支配体制の未熟さ」から、内乱が頻発していたと思います。

 

家康だからこそ、264年もの平和が実現したのではないでしょうか。

 

天下は、「徳川家康のためにあった」のかもしれないと、筆者は思うのです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,【1568年】、光秀は、信長に対して「足利義昭」の上洛を要請。2人はこの14年後【1582年】、「本能寺の変」まで共に戦う

 

2,【1582年6月2日】に「本能寺の変」が勃発してから、【11日後】の【1582年6月13日】、「明智光秀」は亡くなった

 

3,本能寺の変が起こった【1582年】から33年後の【1615年】、「大坂夏の陣」で「秀頼」が亡くなり、天下静謐(てんかせいひつ)が実現した。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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