【明智光秀】と細川藤孝・足利義昭の関係!黒田官兵衛との因縁とは?

この記事では「明智光秀と細川藤孝・足利義昭・黒田官兵衛との関係」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「明智光秀の人間関係」を、カンタンに理解できます。

 

「光秀」と「藤孝」は「親戚であり盟友」、「足利義昭」は「光秀の主君」、「黒田官兵衛」は「光秀を死に追い込んだ張本人」なのです。


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この記事を短く言うと

 

1,明智光秀と「細川藤孝」は、親戚関係にあり、長年の盟友でもあった。一説によると、光秀は藤孝につかえた下級武士だったともいわれている

 

2,光秀はもともと「足利義昭」につかえた家来だったが、その後決別。「槇島城(まきしまじょう)の戦い」で敵味方になって戦い、【1573年】に足利義昭が京都から追放され、室町幕府は滅亡した

 

3,光秀と「黒田官兵衛」に、直接的な関係があるわけではないが、光秀は、黒田官兵衛の策略によって追いつめられ、「山崎の戦い」で敗北し亡くなった。

明智光秀と細川藤孝の関係

「明智光秀」と「細川藤孝」、二人は「盟友」であり、「親戚」でした。

 

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

 

「家来」と「主君」という関係でもあった可能性があります。

 

1556年】、明智光秀は故郷の「美濃国・明智城」から逃亡します。

 

「斎藤義龍(高政)」に、明智城を攻め落とされたためです。

 

その後「明智光秀」は、越前国へ逃亡しています。

 

光秀は「越前国」で、「寺子屋の先生」または「医師」として生計を立てていたと考えられています。


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1565年】、「永禄の変」と呼ばれる事件で、室町幕府13代将軍「足利義輝」が暗殺されます。

 

義輝の家来であった「細川藤孝」は、兄「三淵藤英」とともに、義輝の弟「覚慶」を守りながら越前国へ逃亡

 

越前国で、大名「朝倉義景」に仕えていた「光秀」と、朝倉家に匿われていた細川藤孝は出会うこととなるのです。

 

二人は「覚慶」を次の「征夷大将軍」とするために協力。

 

光秀は、いとこ「帰蝶」の夫である「織田信長」に協力を要請します。

 

これ以後、「明智光秀」と「細川藤孝」は、織田信長のもとで共に働く事となるのでした。


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織田信長の家来として、圧倒的な速度で出世を続ける明智光秀は、織田信長の命令で、細川藤孝の息子「細川忠興」に、三女「玉」を嫁がせることとなります。

 

これにより、明智光秀と細川藤孝は、親戚となります。

 

この三女「玉」が、絶世の美女と呼ばれ、「関ヶ原の戦い」直前に石田三成によって自害に追い込まれた「細川ガラシャ」です。

 

明智光秀と細川藤孝は、盟友関係に有りました。

 

しかし細川藤孝は、最期の最期で明智光秀を見捨てる決断を下しています。

 

1582年】、「明智光秀」は「本能寺の変」を起こし、主君の「織田信長」を殺害。

 

その直後、光秀は「細川藤孝」にたいして、「自分の味方となって、ともに羽柴秀吉や柴田勝家と戦ってほしい」と協力要請をしています。

 

ところが細川藤孝は、この協力要請を拒絶します。

 

それどころか、自分たちの主君「織田信長」を殺害した光秀を非難。

 

細川藤孝は、「織田信長」の死を悼むために出家し、「細川幽斎」と名乗るようになるのです。

 

長年の盟友であり親戚でもあった「細川藤孝」にまで見捨てられた明智光秀は、「高山右近」「中川清秀」「筒井順慶」のような、関係の深い武将たちからも見捨てられることになります。

 

盟友であり親戚でもある「細川藤孝」にすら見捨てられたことで、「光秀」は周辺の武将たちから一気に見放されます。

 

藤孝が離反したことで、光秀は味方を全く増やすことができませんでした。

 

その結果、「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」にあっけなく敗北。

 

名将「明智光秀」は、「細川藤孝」の決断が原因で、その生涯を閉じたのです。

 

また、一説によると、「明智光秀」は「細川藤孝」につかえる中間(ちゅうげん)。つまり足軽よりも下の身分に位置した、いわば「契約社員」だったとも言われています。

 

明智光秀の末裔である作家「明智憲三郎」氏は、この「光秀は藤孝の中間だった」という説を主張しています。

 

一方で、歴史家「小和田哲男」氏は、「光秀は、越前国で藤孝とともに働いていた際に、藤孝の中間であると勘違いされた」と主張しています。


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光秀と足利義昭の関係

光秀と「足利義昭」は最初、「家来」と「主君」という関係でした。

 

1565年】、「永禄の変」で13代将軍「足利義輝」が「三好三人衆」と「松永久通」に暗殺されると、「細川藤孝」は義輝の弟「覚慶」を連れて逃亡。

 

その後「覚慶」は、還俗(げんぞく)・・・つまり僧侶をやめて「足利義秋」と改名します。

 

さらに「義秋」から「足利義昭」と改名。

 

1568年】、「義昭」は、明智光秀や織田信長の協力を得て、「室町幕府15代征夷大将軍」に就任することに成功するのです。

 

義昭はその後、政治において失敗を連発し、織田信長と対立することになります。

 

1571年】、明智光秀は「比叡山焼き討ち」の先陣をつとめた功績により、近江国・坂本の地に築城し、「5万石」の城持ち大名となります。

 

この頃から、光秀は「織田信長」直属の家来になったと考えられています。

 

1573年】、足利義昭は織田信長によって京都から追放されることとなります。

 

これにより、「237年」続いた「室町幕府」は滅亡。

 

この「足利義昭」が追放される直前に行われた「槇島城の戦い」で、光秀は足利義昭と戦い、完全に決別することとなるのです。


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明智光秀と黒田官兵衛の因縁

明智光秀と、羽柴秀吉の天才軍師「黒田官兵衛」。

 

直接的な関係はありませんが、二人には間接的に因縁があります。

 

明智光秀は、黒田官兵衛の天才的な戦術・戦略によって追いつめられ亡くなったといっていいでしょう。

 

また、二人は「荒木村重」という武将を介して、ちょっとした関わりもあったようです。

 

1582年】、明智光秀が「本能寺の変」で「織田信長」を殺害すると、備中高松城にいた「羽柴秀吉」にも、その知らせが届けられます。

 

このとき「羽柴秀吉」は、あまりのことに呆然としたそうですが、「黒田官兵衛」は冷静に、こう言ったそうです

「運がひらけました」

信長が亡くなったので、「明智光秀」の天下となる・・・。

 

その「明智光秀」を討てば、天下を奪い取れる。

 

つまり「運が開けた」という言葉は、「光秀を倒して天下を取れ」という意味です。

 

その後、黒田官兵衛は「中国大返し」と呼ばれる猛スピードでの進軍を実現させ、明智光秀を追いつめます。

 

その他にも、宿敵「毛利家との停戦」「毛利家の協力」などを取り付け、明智軍を圧倒。

 

「山崎の戦い」を勝利に導き、明智光秀を死へ追いやったのでした。


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実は「黒田官兵衛」と「明智光秀」には、「荒木村重」という武将を通じて、間接的な関係がありました。

 

「荒木村重」とは、織田信長に気に入られていた武将です。

 

光秀の長女は、荒木村重の長男「荒木村次」の妻。

 

そして「荒木村重」と「黒田官兵衛」は、ともに「キリスト教徒」であり、古くから付き合いがあった友人同士だったのです。

 

1578年】、荒木村重は突然「織田信長」を裏切ります。

 

このとき「明智光秀」と「黒田官兵衛」は、それぞれに「荒木村重」を説得するために居城「有岡城」を訪れています。

 

「明智光秀」は荒木村重の説得に失敗。

 

「黒田官兵衛」はというと、荒木村重に捕らえられて、有岡城の地下牢に1年も幽閉されることになります。

 

荒木村重はその後、逃亡。有岡城を落とされて一族を全員処刑されました。

 

このあと、「黒田官兵衛」は救出され、「羽柴秀吉」の軍師として、「明智光秀」をその謀略で討ち果たすことになるのです。

 

ちなみに「荒木村次」に嫁いでいた「光秀」の長女は、その後「村次」と離婚して、「明智秀満」と再婚。

 

光秀が「山崎の戦い」に敗れると、光秀の居城「坂本城」で、夫「明智秀満」とともに自害しています。


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「明智光秀」が亡くなったその後、「細川藤孝」「足利義昭」「黒田官兵衛」がどうなったのか

「細川藤孝」のその後

1582年】、「山崎の戦い」で「明智光秀」が亡くなると、「細川藤孝」は息子「細川忠興」とともに「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」によって重く用いられるようになります。

 

1598年】、「豊臣秀吉」が亡くなると、「藤孝」は「徳川家康」に接近。

 

1600年】、「関ヶ原の戦い」で「藤孝・忠興」親子は、「徳川家康」ひきいる東軍に味方します。

 

「関ヶ原の戦い」の前哨戦である「丹後・田辺城の戦い」で、「細川藤孝」は善戦。

 

「関ヶ原の戦い」本線で、「細川忠興」は石田三成の部隊と激戦し、勝利に貢献。

 

忠興は妻「細川ガラシャ」を失うものの、家康からの信頼を得て、厚遇されます。

 

その後、徳川幕府からの新任を得た「細川家」は、「肥後熊本」を与えられて「明治維新」をむかえます。

 

「細川藤孝」の子孫として、「天皇陛下」と、元内閣総理大臣「細川護熙(もりひろ)」氏が有名です。


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「足利義昭」のその後

足利義昭は、京都から追放されたあと、中国地方の「毛利家」を頼って、現在の「広島県」にある備後「鞆の浦」という場所に移り住みます。

 

1582年】、明智光秀が亡くなったあとは、「豊臣秀吉」の話し相手として召し抱えられ、1万石をもらっています。

 

「足利尊氏」の末裔という、その由緒正しい家柄から、義昭は「征夷大将軍」の位を失ったあとも、各地から重んじられます。

 

秀吉の朝鮮出兵が始まると、義昭は秀吉に頼まれて、高齢でありながらも九州「名護屋城」へ出陣。

 

この「高齢にも関わらず出陣した」ことが災いしたのか、義昭はその後【1597年】に亡くなっています。


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「黒田官兵衛」のその後

黒田官兵衛は、「明智光秀」を討ち果たしたあとも「秀吉」の参謀として仕え続けます。

  • 「清須会議」
  • 「賤ヶ岳の戦い」
  • 「四国征伐」
  • 「小田原征伐」

などで活躍し、秀吉を天下人へと押し上げるのでした。

 

しかしあまりにも切れ者すぎたために、秀吉から警戒され、引退を余儀なくされます。

 

1598年】に「秀吉」が亡くなると、官兵衛は「天下を取る」ために行動を開始。

 

1600年】、「関ヶ原の戦い」で「家康」と「石田三成」が戦っている間に、九州を制圧して「徳川家康」を倒し天下を取るつもりだったのだとか。

 

ところがその「黒田官兵衛の作戦」は、なんと息子である「黒田長政」によって失敗に終わります。

 

黒田長政が、その手腕を発揮して「関ヶ原の戦い」を短期間で「徳川家康の勝利」という形で終わらせたのです。

 

これにより「黒田官兵衛」の目論見は終わります。

「徳川家康がその右手を取って喜んだとき、その左手は何をしていた!」

長政が「家康から右手を強く握られてほめられた」ことを報告したとき、官兵衛はそう言って激怒したと伝えられています。

 

息子の黒田長政は、こんな言葉を残したと言います。

「我が黒田家には、鍛え上げられた2万の軍団がある。

総大将となって、この2万の軍団を、縦横無尽に戦わせてみたかった」

もしかすると長政にも、父「官兵衛」のような「天下への野心」があったのかもしれません。

2万の軍団で天下を目指したい

そう言いたかったのかもしれません。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,明智光秀と「細川藤孝」は、親戚であり盟友。一説によると、光秀は藤孝の部下だったともいわれている

 

2,光秀は「足利義昭」につかえた家来だったが、「槇島城の戦い」で敵味方になって戦い、決別。この戦いの直後に、義昭は京都から追放され、室町幕府は滅亡した

 

3,光秀と黒田官兵衛に、直接的な関係はない。しかし光秀は、黒田官兵衛の策略によって、「山崎の戦い」で敗北し亡くなった。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

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ありがとうございました。


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