福島正則の生涯年表と最期!大坂の陣で豊臣家が滅びた時、何をしていた?

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福島正則は、豊臣秀吉に仕えた武将です。

豊臣秀吉の親族であり、「賤ヶ岳七本槍」という「7人の猛将たち」の筆頭でした。

「天下分け目」と称される【1600年】の「関ヶ原の戦い」では、徳川家康に味方して活躍。

この記事では『福島正則とは何者か」「どのような功績を残したのか」「どのような生涯をおくったのか」「豊臣家が滅亡した『大坂の陣』の時には、何をしていたのか」を解説します。

戦国武将『福島正則』について、理解していただけましたら幸いです。


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この記事を短く言うと

  1. 「福島正則」は「豊臣秀吉」のいとこ。秀吉や「徳川家康」につかえ、彼らの天下統一に協力して功績を残した。
  2. 福島正則は【1561年】に尾張国で誕生。豊臣秀吉の家来として数々の武功をたて、【1624年】に「信濃・川中島」で亡くなった
  3. 「大坂の陣」に福島正則は参戦を許されなかった。正則は豊臣家を守ろうと奔走したが「豊臣秀頼」は亡くなり、豊臣家は滅亡する。

福島正則とは何者?その功績を簡単に解説

『福島正則』は戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将です。

その功績を簡単に言えば、以下の通り

  1. 豊臣秀吉の天下統一を助けた
  2. 秀吉の死後は徳川家康に協力し、その天下統一を後押しした

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正則は豊臣秀吉の家来であり、親戚でもありました。

正確にいえば、豊臣秀吉の母親の妹の息子が「福島正則」だったのです。

つまり秀吉から見ると、「福島正則」は「いとこ(従弟)」というわけです。

その縁があって、福島正則は幼い頃から豊臣秀吉に「小姓」として仕えていたのです。

《福島正則》
「引用元ウィキペディアより」

福島正則は秀吉に仕え、石田三成のような「文治派」とは違い、「武断派」つまり戦を主な仕事とする「武闘派」として活躍しました。

秀吉が「柴田勝家」や「お市の方」を滅ぼした【1583年】の「賤ヶ岳の戦い」において活躍。その功績から、正則の他に功績のあった6名の武将と並び「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれるようになったのです。特に正則の活躍はめざましく、賤ヶ岳七本槍の筆頭に数えられています。

ちなみに「賤ヶ岳七本槍」とは

  1. 「福島正則」
  2. 「加藤清正」
  3. 「加藤嘉明」
  4. 「脇坂安治」
  5. 「片桐且元」
  6. 「平野長泰」
  7. 「糟屋武則」

の7名のことです。

豊臣家の天下統一を助けた「福島正則」ですが、【1598年】に秀吉が亡くなると、「徳川家康」に接近。自分の息子と家康の養女を結婚させることで絆を深めたのでした。

1600年】の「関ヶ原の戦い」では、福島正則は率先して徳川家康に協力。「石田三成」を討伐して「広島50万石」の大領を与えられます。

福島正則の大いなる助力もあって、徳川家康は天下奪取を実現。

その家康は【1603年】に「征夷大将軍」に任命されて江戸幕府を開き、【1615年】には「大坂の陣」で秀吉の子「豊臣秀頼」を攻め滅ぼし、天下静謐を成し遂げることに成功しています。


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福島正則の生涯年表と最期

福島正則の生涯を、簡単な年表にまとめました。

1561年 1歳 尾張国で誕生。母親は「羽柴秀吉」の母の妹。父は「桶屋」を営んでいた「福島正信」
1578年 18歳 福島正則の初陣。羽柴秀吉の「播磨国・三木城攻撃」に参加。三木城主は「別所長治」
1582年 22歳 「本能寺の変」で「織田信長」が「明智光秀に討たれる。

本能寺の変から11日後、「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」が「明智光秀」を撃破。正則は「勝竜寺城」攻撃で戦功をあげる。

1583年 23歳 「賤ヶ岳の戦い」で「羽柴秀吉」が「柴田勝家」を撃破。越前・北ノ庄城で「柴田勝家」とその妻で信長の妹「お市の方」が自害。

福島正則はこの戦いで「拝郷家嘉」という武将を討ち取り、一番槍の戦功をあげる。この功績から正則は「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれることとなる。

1584年 24歳 「小牧・長久手の戦い」で「羽柴秀吉」と「徳川家康」が激突。秀吉の甥「豊臣秀次」ひきいる部隊が家康に壊滅させられた。

この戦いで秀吉軍の「池田恒興」とその娘婿「森長可」が戦死。父親とともに参戦していた「福島正則」も撤退戦で活躍。

1585年 25歳 「四国征伐」に参戦、「長宗我部元親」を屈服させる
【1587年 27歳 九州征伐。「島津義久」「島津義弘」兄弟を屈服させる。

正則もこの戦いに参戦し、戦後に伊予国・今治に「11万3千石」を与えられている。

1590年 30歳 小田原北条征伐。正則は「韮山城」を攻撃。

奥州の「伊達政宗」が秀吉に屈服し、「奥州仕置」も行って、豊臣秀吉による「全国統一」が完成。

1592年 32歳 朝鮮出兵「文禄の役」。福島正則も渡海し、朝鮮半島で各地を転戦。
1594年 34歳 再び朝鮮へ渡海。しかし正則に最前線での活躍はなく、補給を担当。現代でも英雄とされている「李舜臣」の攻撃を撃退するなどしている。

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1595年 35歳 「秀次事件」勃発。

豊臣秀吉の甥「豊臣秀次」が謀反の疑いで切腹。

福島正則はこの時、秀次に豊臣秀吉からの「切腹」の命令を伝えたと言われています。

1598年 38歳 「豊臣秀吉」死去。
1599年 39歳 「前田利家」死去。「福島正則」「加藤清正」たち「七将」による「石田三成」襲撃事件。
1600年 40歳 「会津征伐」。徳川家康による「上杉景勝」討伐戦に正則も6000人の軍を率いて参加。

途中で「石田三成挙兵」の報を受けて、豊臣家に仕える武将たちのなかで真っ先に家康支持を表明。(小山評定)

即座に会津から清洲城へと撤退した「福島正則」ら徳川軍は、美濃国「関ヶ原」で三成の軍と対陣。

「関ヶ原の戦い」で、福島正則は五大老の一人「宇喜多秀家」とその部下「明石全登」の軍と激突。苦戦はしたものの、徳川家康の勝利に貢献した。

戦後、福島正則は「尾張清州城24万石」から「安芸広島城50万石」へ加増。

1603年 43歳 「徳川家康」が「征夷大将軍・源氏長者」に任命され、「江戸幕府」を開く
1611年 51歳 「徳川家康」と「豊臣秀頼」の二条城会見が実現。

この会見で、それまで家康の主君だった「豊臣秀頼」と部下「徳川家康」の主従関係が逆転した・・・という説もある。

正則の盟友「加藤清正」は会見に同席したが、福島正則は秀頼を守るため、不測の事態が起こった場合に備えて「1万」の軍団を率いて待機

1614年 54歳 「大坂冬の陣」勃発。

方広寺鐘銘事件」をきっかけに、「徳川家康」と「豊臣秀頼」が激突。

「真田幸村」の砦「真田丸」などの活躍により、徳川軍苦戦。

福島正則は参戦せず。

この戦いは「大坂城の堀を埋め立てる」ことを条件にして、徳川・豊臣の両家が和睦して終了。

1615年 55歳 「大坂夏の陣」勃発。

福島正則またしても参戦せず。

「真田幸村」が「天王寺の戦い」で戦死。

「豊臣秀頼」と「淀殿」、籾蔵の中で自害。

翌【1616年】、徳川家康が死去。

1619年 59歳 福島正則、改易。広島50万石から、信州川中島「4万5千石」へ転封。

雨漏りがひどい、という理由で居城「広島城」の修復を江戸幕府に申し出たが、正式な許可が出ないうちに修復を行ったことで、二代将軍「徳川秀忠」の怒りに触れ、改易された。

1624年 64歳 福島正則、「信州川中島」で死去。

死後、川中島の領地は全て没収された。

川中島が没収された後は、正則の息子「福島正利」が旗本として3000石を拝領して家名を存続。

この「正利」には嫡子がいなかったので、福島家は一時的に断絶するが、福島正則の孫「福島正勝」が福島家の再興に成功しています。


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恩がある豊臣家が滅びた「大坂の陣」の時、福島正則は何をしてた?

主家であったはずの「豊臣家」が滅びた時、福島正則はいったい何をしていたのでしょうか?

結論からいえば、福島正則は血縁と主従関係のある「豊臣家」に味方することはなく、見捨てています。

とはいえ、豊臣家と血縁関係にあることを「徳川家康」から警戒され、福島正則は「大坂城攻撃」に徳川軍としても参加を許されていません。

単純に正則が「豊臣家を裏切った」ともいえないようです。

実は正則、こっそりと豊臣家を支援しています。

大坂城内に保管されていた、福島正則の「備蓄米8万石(20万俵)」が豊臣軍によって奪取されているのですが、福島正則はこれを黙認。

ただ、単純に豊臣家の見方をしたわけでもなく、開戦直前におくられてきた「豊臣秀頼からの援軍要請」に対して、使者を追い返して断ったとされています。

また別の説によると、正則は戦争を回避して豊臣家を守るために「秀頼を説得するので大坂城へ行かせてほしい」と幕府へ頼み込んだらしいですね。しかし結局はその試みも却下されてしまうのでした。


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家康は「福島正則」の忠誠心と戦闘能力をとても警戒していました。

「福島正則が豊臣秀頼の味方については厄介だ」

と家康もわかっていたのでしょう。

そこで家康は「福島正則」を「大坂の陣」には参戦させず、江戸にて待機するように命じたのです。

結果として豊臣家は滅亡。

「徳川家康ならば、豊臣秀頼さまを守ってくれる」

そう信じて「関ヶ原の戦い」で家康に協力した福島正則・・・。その目論見は完全に外れたというわけです。


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福島正則は秀頼の死をとても悔しがったとされています。

おそらく正則は、いとこであり主君でもある「豊臣秀吉」から「秀頼を頼む」「秀頼を守ってくれ」と、何度も何度も頼まれたはず。

とはいえ、【1615年】の時点で、「徳川家」と「豊臣家」の戦力差は歴然としていました。正則がもしも豊臣家を助けるために「大坂の陣」に参戦していたら、福島正則は死んでいたでしょう。

豊臣秀頼を守りきれなかった福島正則の無念は、察するに余りあります。


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『福島正則』について「ひとこと」言いたい!

福島正則といえば、ドラマや映画で「傍若無人な乱暴者」として描かれることが多い猛将です。

「暴言」や「暴挙」は当たり前。気に入らない相手に対しては、容赦なく口汚く罵る・・・。

大河ドラマ「徳川葵三代」では「池田輝政」に対して容赦なく暴言を吐き、大河ドラマ「伊達政宗」では、政宗に対して

「お前なんか、『鳥なき里の蝙蝠こうもり』だ」

(たいした武将もいない奥州を制覇したくらいで、いい気になるな・・・という意味)

と真っ向から喧嘩をふっかけたりするシーンがありました。


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そんな福島正則ですが加藤清正と同じく、「秀吉の親戚」という理由で、腕っぷしで叩き出した功績を超える速度で出世していきます。

そんな「出世頭」の福島正則・加藤清正よりも、遥かに凄まじい速度で出世を繰り返すライバルがいました。

「石田三成」です。

1600年】の時点で、福島正則の領地は「24万石」。対して「石田三成」の領地は「19万石」でした。

福島正則は秀吉の親戚・・・そういった人は功績以上に巨大な領地を与えられるものですが、石田三成は秀吉と血縁関係にない普通の家臣です。


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そんな石田三成ですが、実は当初の予定では「筑前37万石」という巨大な領地を秀吉から与えられる予定でした。これを三成は辞退しているのです。

正則は常に最前線で命をかけて戦う「武闘派」でした。対して「石田三成」は「政治」や「後方支援」を得意とする「頭脳派」。

どうやら正則は、命をかけて戦わないくせに自分よりも出世をする三成を嫌っていたみたいですね。こういった例は結構たくさんあります。

古代中国、ちょうという国の猛将「廉頗れんぱ」は、宰相「藺相如りんしょうじょ」が交渉や外交など口先だけで自分より出世をすることに憤慨していたらしいですしね。(のちに2人は「刎頸の交わりふんけいのまじわり(互いに命がけで相手を守る関係)」と呼ばれるほどの親友となります。)

廉頗と藺相如はその後、協力して最強国「秦」の侵略を阻止し続けています。

正則と三成も、廉頗と藺相如のようになれたら、猛将「福島正則」と智将「石田三成」のコンビで、「徳川家康」から豊臣家を守ることができたかもしれません。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 福島正則は、豊臣秀吉に幼い頃から仕えた武将です。
    多くの戦で活躍し、「賤ヶ岳の7本槍」と呼ばれる猛者でした。
  2. 福島正則は、豊臣秀吉のもとで持ち前の腕っぷしにより大活躍。
    その後、朝鮮出兵などで「石田三成」と対立、「関ヶ原の戦い」では徳川家康に味方する形で参加をします。
    関ヶ原の戦いでも活躍をしたのですが、その後は徳川家から厄介者扱いをされてしまい、広島から川中島へ改易させられました。
  3. 「大坂の陣」で福島正則が豊臣家につくことを防ぐために、徳川家康は、正則を江戸で留守番させ、戦いに参加させませんでした。
    その後も正則は冷遇され、広島から転封された「信濃・川中島」で生涯を終えます。

以上となります。


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正則は、正直で忠義あふれる武士だったのでしょう。それが災いし、徳川に騙され失意の中、生涯を終えたと思わざるを得ません。

死因は自殺ではないかと言われているほどです。

だまし合いは、戦国の時代には珍しいことでは無いですが、正則の最期は少しかわいそうですね。

もし正則が「石田三成」の側について「関ヶ原」を戦っていたら、歴史は変わっていたのかもしれません。

《福島正則・生誕地》
「引用元ウィキペディアより」

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「石田三成『干し柿』の逸話と名言をご紹介!その性格を分析してみた」の記事はコチラ
「【関ヶ原の戦い】簡単にわかりやすく解説!いつ誰と誰が戦ったの?」の記事はコチラ
「豊臣秀吉の天下統一までの道を解説!農民が偉業達成できた3つの理由」の記事はコチラ

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