明智光秀ゆかりの城を一覧で紹介!幻の居城・坂本城の現在とは?

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前半生のはっきりしていない「明智光秀」は、「織田信長」の重臣として活躍し、畿内の重要な拠点の守りを任されていました。

 

そのため、光秀が一生の間に築城、あるいは居住した城は、各地にいくつも存在しています。

 

光秀が生まれたのは美濃国(岐阜県南部)ですが、生まれたといわれている城も複数存在し、いまだ定かでありません。

 

この記事では、「本能寺の変」を起こし、羽柴秀吉との「山崎の合戦」で敗れて亡くなった(と言われている)一生涯の間に、光秀が関わった城についてお伝えします。

 

これを読んで、「あの城も光秀に関わりがあったのか」と、疑問をスッキリと解消してくださいね。


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この記事を短く言うと

 

1,明智光秀は現在の「滋賀県大津市」にあった「坂本城」を拠点とし、「丹波国(京都府中部)」を支配。また「岐阜県」出身であるため、「京都府」「岐阜県」にゆかりの城が多数あった

 

2,「坂本城」は琵琶湖の水運を支配する重要な場所であり、当時としてはめずらしい天守閣を兼ね備えた城だった。「本能寺の変」「山崎の戦い」のあと、坂本城は「明智秀満」の手で火をつけられ、焼け落ちた。

 

3,「福知山城」「丹波亀山城」は、ともに「丹波国」を平定・統治するための重要拠点だった。現在「福知山城」は再建・公開され、「丹波亀山城」はある宗教団体の拠点となっているが、見学は可能。


明智光秀「ゆかりの城跡」を、一覧で全て紹介

美濃国(岐阜県南部)で生まれた「明智光秀」は、その生涯の間に複数の城を築城し居住しました。

 

そんな光秀にゆかりのある城のなかには、大きな歴史の転換点となった城もあります。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

光秀の生涯を追いながら、「光秀ゆかりの城」をご紹介していきますね。

 

多羅城

「岐阜県大垣市」にあった城で、現在は「西高木家陣屋」として有名。

光秀の出生地候補地の1つだが、現在の場所は1500年代のものとは異なる。

現在の建物は、「天正〜慶長年間(1573~1615年)」に高木氏が築城したものが基礎になっている。

光秀が多羅で生まれたとする史料が存在するが、多羅城が当時存在していたとしても、光秀が大垣市内のどこで生まれたというのかは、いまだ特定されていない。


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明知城

岐阜県恵那市にあった山城で、別名「白鷹城」。

1242年】に「遠山景重」が築城した。

光秀の出身である土岐氏と遠山氏は、縁戚関係にあると考えられており、この「明知城」は、光秀の出生地の候補の1つとして挙げられているが、その可能性は低い。

戦国時代、「明知城」は何度も戦の舞台となったが、江戸時代まで存続。

1615年】、「一国一城令」により廃城となった。

 

明智城

《「明智光秀」出生地と伝わる明智城跡:Wikipediaよりクリエイティブ・コモンズ3.0》

「岐阜県可児市」にあった山城で、別名「長山城」。

「明智光秀」生誕地、本命の城。

1342年】に「明智」と改名した「土岐頼兼」が築城し、それ以来、明智氏の居城になっている。

光秀もこの城で生まれたと考えられているが、出生地であることを裏付ける史料は現存しない。

1556年】、「斎藤道三」の息子「斉藤義龍」に攻撃されて落城。

それ以降は再建されなかった。


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一乗谷城

《一乗谷》
「引用元ウィキペディアより」

「井県福井市」にある戦国大名「朝倉義景」の居城。

一乗谷朝倉氏の遺跡として整備されて、現在では多くの観光客を集めている。

「斉藤義龍」が、自分の父親である「斉藤道三」を攻め滅ぼした後、光秀は越前の朝倉氏に仕えた。

光秀が居住した福井市東大味には、光秀を祀る「明智神社」がある。

「朝倉義景」を頼って身をよせた「足利義昭」が、光秀と面識を持った場所。

朝倉氏は、南北朝時代には一乗谷に住んでいたと考えられているが、築城は「15世紀前半」と考えられている。

朝倉氏が「織田信長」に攻め滅ぼされた後、一乗谷城は廃城となった。


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宇佐山城

「滋賀県大津市」にあった山城。

「朝倉義景」「浅井長政」連合軍の侵攻に備えるため、織田信長が重臣「森可成(もり よしなり)」に命じ、築城させた。(「森可成」は、「森蘭丸」の父)

《森可成》
「引用元ウィキペディアより」

1570年】、「浅井長政」「朝倉義景」連合軍が、宇佐山城を攻撃し、「森可成」は討死。

それでも落城せずに残存兵力のみで持ちこたえ、摂津国で石山本願寺と戦っていた「織田信長」が、宇佐山城に入城した。

信長は、浅井・朝倉連合軍と和議。

その後、宇佐山城に「明智光秀」が入り、居城としたが、「坂本城」を築城して移転したため、宇佐山城は廃城となった。

現在は本丸跡地に「NHKと民放のアンテナ施設」が建てられている。

 

坂本城

「滋賀県大津市」、【1571年】、明智光秀が信長の命令で琵琶湖畔に築城。

詳細は後述。

 

丹波亀山城

「京都府亀岡市」、【1578年】、信長の命令により光秀が築城した平山城。

詳細は後述。


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金山城

「兵庫県丹波篠山市」にあった山城。

1578年】、信長の命令で光秀が築城した丹波国を平定するための拠点の1つ。

丹波平定後、【1580年】頃に廃城されたと考えられている。

 

周山城

「京都府京都市右京区」にあった山城。

1580年】、光秀が丹波を平定した際、地元の豪族たちを抑え込む目的で築城し、「明智光忠」を城主とした。

「本能寺の変」で明智一族が滅亡した後、廃城。


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黒井城

「兵庫県丹波市」にあった山城。

1335年】、「赤松貞範」が丹波国春日部を所有した頃、築城が始まったと考えられている。(「赤松貞範」は、「足利尊氏」とともに鎌倉幕府後醍醐天皇を相手に戦った猛将「赤松円心」こと「赤松則村」の息子)

史料が不明確でその後の詳細は判明していないが、光秀の時代には「赤井直正」の居城だった。

信長に丹波国の平定を命じられた光秀は、猛将「赤井直正」に苦戦するも、「細川藤孝」「忠興」親子の協力を得て攻撃を続けた。

《天授庵所蔵の細川藤孝(幽斎)肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン》

直正が戦の途中で病死し、その嫡男がまだ幼かったため、弟「幸家」が赤井一族を統率し、戦い続ける。

しかし光秀は、丹波国の要衝であった「波多野秀治」の「八上城」を攻め落とすことに成功。

その直後、黒井城もついに陥落させる。

光秀は家臣「斎藤利三」を黒井城の城主とした。

「斎藤利三」の娘で、3代将軍「徳川家光」の乳母となった「春日局」は、この黒井城で生まれたと考えられている。

《春日局》
「引用元ウィキペディアより」

「本能寺の変」のあと、「羽柴秀吉」の家臣「堀尾吉晴」が黒井城の城主となったが、【1584年】、秀吉と「徳川家康」が「小牧・長久手の戦い」で激突した際、廃城となった模様。


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福知山城

「京都府福知山市」にあった平山城。

詳細は後述。

 

勝竜寺城

「京都府長岡京市」にあった平城で、京都守護「畠山義就」が軍事拠点として築城したと考えられている。

光秀の時代には、「松永久秀」と「三好三人衆」の拠点となっていたが、織田信長によって【1568年】に討伐される。

《松永久秀》
「引用元ウィキペディアより」

その後、「細川藤孝」が城主となり、【1578年】には藤孝の嫡男「忠興」と光秀の娘「珠(細川ガラシャ)」の祝言が行われ、生活していた場所としても知られる。

1581年】、藤孝は丹後へと移り、織田家の家臣「村井貞勝」の家臣が勝龍寺城の城主となっていたが、「本能寺の変」で光秀の城となり、「山崎の合戦」の際には本陣として利用された。

山崎で秀吉に敗れた光秀は、ここから坂本城へと撤退する途中、小栗栖で落武者刈りに襲われ、落命した。

 


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光秀にゆかりのある代表的な城をご紹介してきました。

 

これらの城のうち

  • 「多羅城」
  • 「一乗谷城」
  • 「丹波亀山城」
  • 「福知山城」
  • 「勝竜寺城」

は、街中からのアクセスが容易ですから、気軽に見学することが可能です。

 

「丹波亀山城」は、宗教団体「大本」の宗教施設でもありますが、受付で見学目的を述べ、係員の説明を受けて入場料を払えば見学可能です。

 

「大本」から入信の勧誘をされることもありません。

 

「福知山城」と「丹波亀山城」の城下町では、【2020年】の大河ドラマ『麒麟がくる』のゆかりの地として、街中が盛り上がっていますから、足を伸ばしてみてはいかがでしょうか

 

ただし、それ以外の山城の跡地は、一部例外もあるものの、標高500メートル以下とはいえ登山道が険しく、気軽に見学できる場所ではありません。

 

山城跡地の見学はトレッキングシューズや杖など、それなりの装備が必要です。

 

実際に見学した方の口コミを見たら

「帰りに道に迷って大変な思いをした」

という口コミもありましたので、ご注意を。


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光秀が城主を務めた居城「坂本城」の歴史と特徴と現在

信長の命令で光秀が築城した「坂本城」は、現存していません。

 

「滋賀県大津市・琵琶湖畔」の坂本に、信長の命令で光秀が築いた城「坂本城」の跡地があり、現在では公園になっています。

坂本城址公園:あけびさんによる写真ACからの写真

残念ながら、坂本城の発掘調査は【1979】になるまで1度も行われませんでした。

 

坂本城の跡地は、現在その多くが宅地化してしまっており、推定される坂本城の敷地の真ん中を国道が貫通しています。

 

1571】、「比叡山焼き討ち」のあと、宇佐山城に居住していた光秀に対して、信長が琵琶湖畔の「坂本」に新しい城を築くよう命じました。

 

山城国(京都市周辺)と近江国(滋賀県)にまたがる「比叡山」を背後に持つ「坂本」は、琵琶湖の水上輸送の拠点でした。

 

同時に、「坂本」は山城国と近江国をつなぐ道の交錯する、すなわち交通の要所だったのです。

 

吉田神社の神主「吉田兼見」の記録によれば、【157212】頃、坂本城はほぼ完成していました。

 

天守閣の構造は不明ですが、発掘調査によって、天守閣と小天守を連結し、琵琶湖に城の中から漕ぎ出せる「水城」としての性格も持った城だった、と推定されました。

 

小天守については、【1582】に坂本城を訪れた「吉田兼見」がそこで茶を飲んだという記録が残っています。

 

そのため、「坂本城には実際に小天守が存在していた」と考えられてきました。

 

文献記録が発掘調査によって裏付けられたのです。


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坂本城は、ルイス・フロイスの『日本史』によると「豪壮華麗な城で、信長の安土城と並んで有名な城だった」と記録されています。

 

さぞかし、豪華絢爛な城だったのでしょうね。

坂本城址公園明智光秀像:あけびさんによる写真ACからの写真

光秀の時代に改修された福知山城は、連立式で35(地上4階・地下1)の天守閣でした。

 

坂本城の築城は、福知山城の改修前に行われたので、福知山城は坂本城に似せて改修されたのかもしれませんね。

 

堺の商人「津田宗及」が坂本城の茶会に招かれた際、「城の中から船に乗って安土に向かった」と記録をのこしています。

 

地下1階といって良いのかわかりませんが、天守閣内に琵琶湖と直接繋がった船着き場を作っていたのでしょう。

 

完成後、坂本城は信長に抵抗する勢力を抑えるための重要な拠点となりました。

 

丹波亀山城が【1580】に完成した後も、光秀は最前線に近い丹波亀山城へ本拠地を移すことなく、坂本城の城主であり続けたのです。


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信長の命令で築城したとはいえ、初めて自分が建てた城でしたから、思い入れも強かったのでしょうね。

 

ところが【1582】、光秀は本能寺に信長を襲い、戦国最後と呼ばれる下剋上「本能寺の変」を起こします。

 

光秀は朝廷工作を行い、短い期間ではありましたが天下人となります。

 

主を失った安土城には娘婿「明智秀満」を入れ、中国大返しで畿内に取って返した「羽柴秀吉」と、光秀は「山崎の合戦」で激突しました。

 

しかし光秀はあっけなく敗れ、一旦は「勝竜寺城」に逃れ、そこから「坂本城」を目指しました。

《明智秀満》
「引用元ウィキペディアより」

しかし小栗栖で落武者刈りに遭い、命を落としたと言われています。

 

安土城にいた「明智秀満」は、「山崎の合戦」で光秀が敗れ、そのあと小栗栖で亡くなったと知らされました。


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安土城から坂本城に戻った秀満でしたが、羽柴秀吉の軍勢が城を包囲。

 

覚悟を決めた秀満は、光秀の妻子と自分の妻子を殺し、坂本城に火を放ち自害。

 

光秀の建てた坂本城は、この時に焼け落ちてしまいます。

 

秀吉は「丹羽長秀」に命じて坂本城を再建。

 

1583】、「柴田勝家」と「賤ヶ岳の戦い」で激突した際に、秀吉は坂本城を軍事拠点として利用しています。

《柴田勝家》
「引用元ウィキペディアより」

その後、「杉原家次」→「浅野長政」と城主が交代しましたが、【1586】に秀吉の命令で、長政が大津城を築いて移転した時に、坂本城は廃城とされたのです。

 

長秀が再建した時に使用されたお城の建材は、大津城の築城にふたたび使用されました。

 

坂本城が廃城とされたのは、【1584】に秀吉が比叡山の山門復興を許可し、坂本から比叡山の動向を監視する必要がなくなったからだと考えられています。


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光秀ゆかりの城・丹波国「福知山城」「亀山城」の歴史と特徴

光秀は、丹波統治時代に福知山城を改修し、また丹波亀山城を築き、領地に善政を行い、それぞれの城下町を整理・発展させました。

 

現在の亀山市と福知山市の原型は、光秀の時代に築かれたもので、光秀は現在も、この2つの市民から慕われ、ゆかりの祭りも行われています。

 

それでは、「福知山城」と「丹波亀山城」がどんな城だったのか、順番に見ていきましょう。


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福知山城

福知山城は、「京都府福知山市」にあった平山城です。

 

「あった」というのは、福知山城は明治時代に破壊されてしまったため、現在見ることができるものは、そのあと復元されたものだからなのです。

《福知山城》
「引用元ウィキペディアより」

さて、福知山城の起源は、室町時代に遡ります。

 

福知山地方の領主「塩見頼勝」が築城した「掻上城(かきあげじょう)」がその始まりだと言われているのです。

 

「頼勝」の息子「信房」が城の名前を「横山城」とし、それ以降、塩見氏の居城となりました。

 

1579】、光秀は丹波国の赤井・波多野連合軍を攻撃。

 

そのあと光秀は、赤井・波多野に味方した者たちも合わせて平定。

 

見事に丹波平定を成し遂げます。

 

その際、光秀は塩見氏の居城だった横山城に入り、これを「福知山城」と改名したのです。

 

さらに、その当時の近代城郭に改修し、娘婿の「明智秀満」を城代にしました。

 

小高い丘の上にあり、福知山城は城下町を見渡すことができる、見晴らしのよい場所です。

 

城下町の人々からも、いつも光秀や秀満に見守られているようで、安心できたでしょう。

 

石垣は、自然石をそのまま積み上げる野面積みで積み上げられています。

 

光秀の時代の天守閣は、連立式で35(地上4階・地下1)の構造だったと考えられており、さぞかし豪勢な天守閣だったのでしょうね。

 

現在の復元天守閣は、江戸時代・松平氏時代の平面図を基に再建されたものです。


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「本能寺の変」の際は、秀満の父が福知山城の留守居役を務めていましたが、秀吉に捕らえられ、京都の粟田口で処刑されました。

 

山崎の合戦後、秀吉の甥「羽柴秀勝」が城主となりましたが、「関ヶ原の戦い」以後は「有馬豊氏」が城主となったのです。

 

「有馬豊氏」は、福知山の城下町を現在の形に整備し、福知山城を大改修しました。

 

功績を上げた「有馬豊氏」は、久留米へと加増・転封となり、その後、福知山城の城主は、「岡部長盛」→「稲葉紀通」→「松平忠房」→「朽木稙昌」と変遷したのです。

 

朽木稙昌が【1669に城主となってから、【1869】までの200年間、朽木家が城主を世襲し、福知山地方を統治しました。

 

しかし、明治維新後の【1871】に福知山城は廃城となり、【1873に解体されてしまったのです。

 

解体された福知山城の瓦や建材は、市内の民家やお寺で使われ、城門はお寺の山門として移築されました。

 

太平洋戦争終戦後、福知山市では福知山城の再建が望まれるようになったのです。

 

1973】、再建天守閣の図面も描かれ、地質調査まで行われたものの、オイルショックで再建計画は実現しませんでした。

 

しかし【1982】、当時の福知山市長「塩見精太郎」(もしかしたら、横山城だった頃の城主の末裔でしょうか?)が、再建の意向を発表。

 

市民による福知山城再建の運動が実を結び、【1986】に再建が完成しました。

 

福知山市は【2019年夏】に「一日城主」を公募するイベントを開催。

 

イベント発表時には、福知山市長と光秀の子孫の1人である「クリス・ペプラー」氏が登場して話題を呼びました。


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丹波亀山城

丹波亀山城は、京都府亀岡市にある、【1578年】に信長の命令で光秀が築城した平山城です。

 

山陰道の入口に位置し、豊臣秀吉と徳川家康も丹波亀山城を重要拠点として認識していました。

 

「本能寺の変」の際、光秀が出陣したのは、この城からだったのです。

《本能寺の変》
「引用元ウィキペディアより」

丹波を平定した後、光秀は丹波亀山城を拠点とし、丹波の統治を開始します。

 

また、光秀は亀山の城下町を整備し、人々の暮らしが豊かになるよう、善政を行いました。

 

しかし1582年、光秀は本能寺で信長を討ち果たします。

 

一時は天下人となった光秀でしたが、山崎の合戦で秀吉に敗れ、小栗栖(おぐるす)という場所で落武者刈りに遭い、亡くなりました。

 

明智一族が滅亡した後は、丹波亀山城は、天下統一を狙う「羽柴秀吉」の重要拠点となります。

 

秀吉の時代は、「羽柴秀勝」「豊臣秀勝」「豊臣秀俊(小早川秀秋)」「前田玄以」が城主となりました。

《小早川秀秋》
「引用元ウィキペディアより」

関ヶ原の戦い」で勝利し、江戸に幕府を開いた「徳川家康」も、この丹波亀山城を重視し、【1609年】に「岡部長盛」を城主にして丹波亀山藩を運営させました。

 

その後、【1748年】に「形原松平氏」が城主となり、【1871年】に廃藩となるまで統治します。

 

光秀の時代、丹波亀山城の天守閣は3重3層でしたが、【1593年】に「小早川秀秋」によって5重5層に改修されました。

 

この天守閣がどうなったのかは、記録が残っていないのでわかりません。

 

明治時代初期に撮影された5重5層の複合天守閣は、【1609年】に建てられたものなのです。

1862年に撮影された丹波亀山城天守閣:Wikipediaよりパブリックドメイン

明治維新後も残されていた丹波亀山城ですが、【1873年】に陸軍省によって建物の一部が払い下げられ、【1877年】に廃城となりました。

 

さらに、【1899年】に市町村に払い下げられ、転売されてしまいます。

 

1919年】、荒廃した丹波亀山城を「大本教」の教祖「出口王仁三郎」が買い取りました。

 

それ以後、丹波亀山城は「大本教」の本部となったのです。

 

荒れ果てた城を改修して宗教施設とした「大本教」に【1935〜36年】にかけて厳しい弾圧が加えられ、神殿に改修された城の遺構は、政府によって破壊されてしまいました。

 

太平洋戦争終戦後、破壊された丹波亀山城は大本教によって修復され、長屋門は「亀岡市立千代川小学校」に移築されます。

 

丹波亀山城は「大本」の宗教施設となっていますが、受付で見学目的を述べ、係員の説明を受けて入場料を払えば見学可能で、入信の勧誘をされることもありません。

 

天守閣跡地など、立ち入り禁止区域もありますので、係員の注意を守って節度をもって見学しましょう。


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『光秀の城』について「ひとこと」言いたい!

明智光秀の築いた城の天守閣などは、現存していません。

 

福知山城で見ることができるのは、江戸時代の図面を基に復元された天守閣です。

 

それでも、この場所に光秀がいたのだと、思いを馳せることはできますよね。

 

織田信長の建てた安土城も現存していませんが、それでも安土城がどのような姿をしていたのかを知る手がかりは、文献史料が残されています。

《安土城》
「引用元ウィキペディアより」

また、未だ発見されていませんが、ローマ・教皇庁に「狩野永徳」が描いた金箔の安土城の屏風が保管されているという記録があり、発見されれば世紀の大発見となるでしょう。

 

しかし、ルイス・フロイスが「豪壮華麗な城で、信長の安土城と並んで有名な城だった」と記録している坂本城は、そのような絵画作品で当時の姿を偲ぶことも叶いません。

 

当時、屏風絵などに描かれていたとしても、信長を討ち果たして逆賊と呼ばれるようになった光秀にまつわるものは、破却されてしまったでしょうから。

 

坂本城の姿が描かれたものが、今後もしも発見されたら、光秀が城主として一番長く過ごした城の姿を偲ぶことができるのですが・・・。

 

どこかの旧家の蔵にひっそりと保管されていないものでしょうか。

 

現在、私達が見ることのできる光秀の時代の面影を伝えるものは、おそらく石垣くらいのものです。

 

しかし、【2020】の大河ドラマは「明智光秀」を主人公とした『麒麟がくる』ですから、気候の良い時期に光秀の城跡をめぐってしのぶのも良いのではないでしょうか。

 

ただし、山城跡地の見学は、装備を整えるのを忘れずに。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,光秀は「滋賀県大津市」にあった「坂本城」を居城としていた。「丹波国」を統治していた縁から「福知山城」「丹波亀山城」を支配し、「岐阜県」出身であることから「明智城」などと縁がある

 

2,「坂本城」は琵琶湖の水運を支配する重要拠点。大天守と小天守を兼ね備えた最新式の城だった。坂本城は「山崎の戦い」の直後、「明智 左馬之助 秀満」の放火により焼け落ちた。

 

3,「福知山城」「丹波亀山城」は、光秀が平定・統治した「丹波国」の重要拠点拠点。現在「福知山城」は公開されており、「丹波亀山城」は、とある宗教団体の拠点となっているものの、見学は可能。

美濃国で生まれ、はじめ「斉藤道三」に仕えた「明智光秀」は、道三が息子「斉藤義龍」に殺されたのち、越前で「朝倉義景」に仕えました。

 

越前にいた頃に、第15室町幕府将軍「足利義昭」と出会い、光秀は義昭と「織田信長」のあいだを仲介をします。

《足利義昭》
「引用元ウィキペディアより」

その後、信長に重用されるようになった光秀は、【1571】、滋賀県大津市の琵琶湖畔に坂本城を建てました。

 

坂本城は、光秀が城主として一番長く過ごした城です。

 

信長の居城「安土城」と並ぶと言われるほど豪華絢爛な城でしたが、「本能寺の変」の後、娘婿「明智秀満」が火を放ち自害したため、現存しません。

 

丹波平定を行った光秀は、「福知山城」「丹波亀山城」も築城しました。

 

これら以外にも、戦闘の拠点に使った山城など、光秀にゆかりのある城は複数あります。

 

しかし戦に使われた山城は、光秀の存命時に廃城されました。

 

また、光秀が亡くなった後に改修され、【1868年】の明治維新まで残った「福知山城」「丹波亀山城」は破壊されてしまったのです。

 

当時の姿を留めているのは、石垣くらいのものでしょう。

 

2020】、大河ドラマは光秀が主人公の作品『麒麟がくる』です。

 

光秀をしのんで、気候の良い時に「ゆかりの城」を巡るのは、楽しそうですね。

 

ただし、山城跡地を見学するときは、装備を整えるのを忘れずに。

勝龍寺城:松波庄九郎さんによる写真ACからの写真

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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