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『明智光秀』と聞くと【1582年】の「本能寺の変」で、主君「織田信長」を滅ぼした裏切り者、というイメージが強いですよね。
私も大学で日本史を勉強するまでは、そう思っていました。
しかし明智光秀は、優しく誠実な性格で領民から『名君』として慕われる武将だったのです。
この記事では、名君『明智光秀』の「優しくて誠実な性格」について、詳しく解説していきます。
これを読んで「明智光秀のイメージ」を、ぜひぜひ一新させてくださいね。
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この記事を短く言うと
- 「明智光秀」は、「織田信長」を裏切り「本能寺の変」をおこした武将ではあるが、教養の深いとても優秀な武将だった。
- 光秀にはその優しさや誠実さを表すエピソードが数多くある。妻「煕子」との結婚のとき、病気で顔にアザが残った「煕子」を愛し続け、生涯にわたって側室をもたなかった
- 現在でも明智光秀が崇拝される理由とは、「領民」を第一に思った政治を行い、民衆から愛されていたから
明智光秀のエピソードを紹介!愛妻家で理想の上司だった
『本能寺の変」で主君「織田信長」を討ち滅ぼし、裏切り者・逆賊としてのイメージが強い「明智光秀」。
しかし本当は、どんな人だったのでしょう?
実際の明智光秀は、性格が優しく、誠実で、領民から名君として慕われる、そんな武将だったのです。
さらに「宮中の有職故実(天皇のお住まいにおける制度や決まり)」にも詳しく、茶の湯や和歌、俳諧にも詳しい、教養の深い武将でもありました。
主君「織田信長」が「明智光秀」を重用したのは、信長が将軍「足利義昭」と決別し、宮中(天皇や五摂家など)を後ろ盾として「天下統一」を図る上で、「宮中の有職故実」に詳しい光秀のサポートが必要不可欠だったからです。
性格が優しく、誠実で、領民から慕われ、「茶の湯」や「和歌」にも造詣(ぞうけい)の深い文化人だった「明智光秀」
そんな光秀のエピソードを、次の項で見てみましょう。
明智光秀のエピソードを紹介!愛妻家で理想の上司だった
明智光秀の出自・・・つまり生まれについては、現代の研究でもいまだに判然としておらず、「いつ生まれたのか」についても、謎に包まれたままです。
岐阜県で生活していた、清和源氏(清和天皇を発祥とする源氏)の子孫「土岐氏の末裔」だと言われ、「美濃国明智庄」で生まれたという説があります。
おそらくですが光秀が18歳のころ、「山岸光信」の娘「千草」と最初の結婚したのではないか・・・・と言われていますが、妻「千草」とは結婚後わずか数年で死別したようです。
その後26歳ごろに、「妻木範熙」の娘「熙子(ひろこ)」と結婚。この「煕子」との結婚には、光秀の心優しい性格が現れているエピソードが伝わっています。
「熙子(ひろこ)」は花嫁修業に励んでいた頃、不幸なことに疱瘡(ほうそう)という病気にかかり、顔にひどい傷跡が残ってしまったのです。
父「妻木範熙」はそれを恥じ、熙子(ひろこ)の身代わりに、彼女の妹を「光秀」と結婚させようとしました。
しかし光秀は相手が熙子(ひろこ)ではないことを見破り、一言
「わしが嫁に迎えるのは熙子(ひろこ)のみ」
と、あくまでも熙子(ひろこ)を嫁に迎えたのです。
そんな光秀の愛情に、煕子も精一杯こたえます。
光秀の仕官先・・・つまり仕事がなかなか決まらず、生活が苦しかった時期、熙子(ひろこ)は自らの美しい髪を売って金銭的に光秀を支えました。(この頃は髪を「ロープ」「かつら」などに使うため、とても貴重だった)
健気な熙子(ひろこ)を深く愛した光秀は、側室を迎えず、生涯「熙子(ひろこ)」だけを愛し続けました。
2人の間には、3人の男子と、4人の女子が生まれた、と言われています。
その生まれた女子の1人が、細川家「細川忠興」に嫁いだ、歴史に名高い「細川ガラシャ」です。
光秀はまた、家柄や出身にはとらわれず、能力によって家臣を登用し、公平に扱いました。
光秀の部下が戦死した際には、家臣の名前を列記した書状と寄進米を近江の西国寺に納め、さらには戦で負傷した家臣には見舞いの書状を送っています。
福知山城主だった時には、「明智光秀軍法」を制定。明智家家中の武士が守るべき規範を細かく決め、守らせました。それまで織田家中には軍法がなかったので、他の織田家臣も光秀をお手本にしたとか。
家臣想いの光秀は、領民だけでなく、家臣からも深く慕われていたことでしょう。
妻を深く愛し、家臣から深く慕われた武将、それが裏切りの武将「明智光秀」の実像なのです。
今も慕われている明智光秀!崇拝されている理由とは?
妻や家臣からだけではなく、光秀は名君として領民からも慕われる存在でした。
光秀が生きていた室町・戦国時代、領民たちは鎌倉時代から続いていた「国人衆」と「領主」から、二重の支配を受けていました。
領民たちをそんな状態から解放するため、光秀は国人衆を家臣として召し抱えます。
それにより国人衆による民衆からの税金徴収を終わらせました。民衆の負担を軽減したのです。
福知山では、氾濫を繰り返していた河川「由良川」に治水工事を施し、河川の氾濫を抑えることに成功。
また、光秀は領内で地場産業を奨励。長引く戦乱で疲弊した農民の年貢を軽くし、商業地では税金を免除。楽市楽座を取り入れ、自由で公正な商業政策を実行しました。
城下町の造営にあたっては、戦闘に備えた城造りをするのではなく、「領民の暮らし」に沿った「領民第一」の街づくりを行いました。
光秀のつくった城は、「山頂」ではなく、街中に平城(京都の二条城をイメージしてみてください)で、「戦闘の拠点」としてではなく、「行政府」としての機能を有する性質のものだったのです。
領民からすれば、山の上から自分たちを見下ろす城主より、街中の自分たちの目線にあったお城に住んでいるお殿様の方が、親しみを持てますよね。
しかもそのお殿様は、生活が苦しい時には税金や年貢を軽減してくれて、氾濫する河川に治水工事も行ってくれる。地場産業を奨励してくれて、自分たちを大切にしてくれるお殿様なのです。
領民から慕われるのは、当然ですよね。
領民たちの光秀を慕う気持ちは、「光秀の善政」が先祖から子孫へと口で言い伝えられ続けたことによって、現代にも引き継がれているのです。
光秀が初代領主だった「丹波亀山城」の城下町「京都府亀岡市」では、毎年5月3日に「亀岡光秀祭り」が行われています。
光秀の生誕の候補地の一つである「岐阜県恵那市」でも、毎年5月3日に「光秀祭り」が行われいます。
ゆかりの地では、今も「明智光秀」が愛され続けている証だと言えるでしょう。
光秀が城主だった「福知山城」は今年(2019年)、「1日城主募集(現在は募集終了)」という面白いイベントをやっていました。福知山城にはもう一つ、光秀にまつわる面白いものがありますよ。
福知山城の本丸広場には、福知山限定の『明智光秀が話す自動販売機』が設置されています。
戦国武将画の絵師として有名な「諏訪原寛幸」さんが手がけた、光秀公のイラストでラッピングされた自動販売機は、お金を入れたり、ボタンを押したりすると、「光秀公のおしゃべり」が聞ける仕様になっているのです。
ちなみに投入するお金が少ないと
「のぶながぁぁぁ!!!」
と叫ぶのだそうですよ。
光秀公の声を吹き込んだ声優さんが誰なのかは、残念ながら契約上の理由で明かされていないのだとか。
自動販売機に使われるほど、現代の領民にも光秀が愛されている、ということでしょう。
それにしても、自らの存在が現代でそんな事になっているとは、草葉の陰で光秀公もびっくりしていそうですね。
『明智光秀』について「ひとこと」言いたい!
明智光秀が「本能寺の変」で「織田信長」を討ち果たした後、光秀自身が天下を収めたのは、わずか10日程度のことでした。
「三日天下」と言われていますね。
私は子供の頃、「本能寺の変」を知った豊臣秀吉が、なぜあれほどまでに早く「中国大返し」を行い、畿内に戻ってくることができたのか、不思議でなりませんでした。
子供心に
「光秀をそそのかして信長を討たせた黒幕は『羽柴秀吉』。
秀吉は光秀クーデター起こしたら、畿内(京都)に戻る準備を事前に整えていたのではないか・・・」
と思ったほどです。
近年、歴史学者の「磯田道史」さんが、「本能寺の変」の黒幕を「秀吉」と考えている・・・とテレビ番組で話していらっしゃったのを聞きました。
磯田さんが私と同じようなことを考えていたことに驚くとともに、どこかで「ああ・・やっぱり」という気持ちが湧いてきました。
ただ、もし本当にそうだったとしても、「山崎の戦い」で「豊臣秀吉」が「明智光秀」を滅ぼした後、秀吉にとって都合の悪い史料は全て破棄されたでしょうから、証明することは不可能でしょう。
部下から、公明正大であったために慕われ、領民想いの明智光秀が、『本能寺の変』で世の中を混乱させるような一大事を、自分の意志で積極的に起こしたのかなぁ、とこの原稿を書きながら思っています。
証拠は何もありませんから、あくまでも憶測です。
しかし「本能寺の変」の黒幕は「秀吉」で、「光秀」は言葉巧みに秀吉に嵌められたのではないか、と私は思っています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 明智光秀は、織田信長を裏切った武将ではあるが、その能力は極めて高い人物だった
- 光秀には、優しさや誠実さを表すエピソードが数多く残されている。妻「煕子」を生涯大切にしたエピソードは特に有名
- 領民を特に大切にした「明智光秀」。そのおかげで、現在でも各地で光秀を崇拝する習慣が残っている
この記事を短くまとめると、以下のとおり
「主君を裏切った逆臣」というイメージがつきまとう明智光秀。
しかし実際の光秀は、心優しく、誠実で、家臣にも領民にも慕われる武将だったのです。
妻「熙子(ひろこ)」を生涯深く愛し続け、側室を置きませんでした。
光秀と熙子(ひろこ)は「3男4女」に恵まれたと言われており、娘の1人が歴史に名高い「細川ガラシャ」です。
光秀は今でも、かつての領地だった土地の人たちから愛されており、「光秀祭り」が年に1回開催され、光秀公のイラストがあしらわれた自動販売機が設置されています。
明智光秀は、ゆかりの土地の人たちから現代も深く愛され続ける、心優しい名君だったのです。
以上となります。
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よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
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