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2016年に放送されたTBSのテレビ番組『7時にあいましょう』へ、「クリス・ペプラー」さんが「子供の頃から聞かされてきた歴史上の人物が、本当に自分の祖先かどうか」という問題について、調査を依頼しました。
子供の頃からクリス・ペプラーさんが聞かされてきたのは「彼が光秀の子孫である」ということ。つまりクリス・ペプラーさんは、「明智光秀の末裔」だということだったのです。
番組で調査した結果は、はたして・・・?!
この記事では「クリス・ペプラーさんは本当に明智光秀の末裔なのか」を、可能な限り調べあげ、わかりやすく解説します。
これを読んで「なるほど、そうだったのか!」と、スッキリと納得していただけたら幸いです。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,「クリス・ペプラー」とは、ラジオDJ・タレント・俳優として活動する人物。ドイツ系アメリカ人の父と、日本人の母のハーフ。母方の祖母から「明智光秀」の子孫であると聞かされ続けていた。
2,クリス・ペプラーさんはテレビ番組「7時にあいましょう」へ「自分が明智光秀の子孫か否か」の調査を依頼。光秀の末裔「明智憲三郎」氏による聞き取りの結果、明智憲三郎氏から「光秀の末裔」と認定された。
3,光秀の子孫であるということを隠して生き延びた「クリス・ペプラー」さんのご実家は、それを文章ではなく口で伝えることで、光秀の血筋を伝え続けたのではないか。
明智光秀の血を引く意外なタレント「クリス・ペプラー」とは何者?
関東地方で日曜日午後、J-WAVEの『TOKIO HOT 100』の番組のパーソナリティの、ものすごく渋くて良い声がラジオから流れてきます。
この美声の主はクリス・ペプラーさんですが・・・なんと、明智光秀の子孫ではないかと言われているのです。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」
では、クリス・ペプラーさんの簡単な経歴を見てみましょう。
クリス・ペプラーさんは1957年東京都新宿区下落合生まれ。

《クリス・ペプラーさんが生まれた新宿区下落合の聖母病院:Wikipediaよりパブリックドメイン》
ドイツ系アメリカ人の父親と日本人の母親の間に生まれたハーフで、弟が1人います。
ちなみに、弟の「ALAN・J」さんも、ラジオのパーソナリティとナレーターをしていますよ。
世田谷にあるカトリック系のアメリカン・スクールを卒業した後、アメリカに進学。
帰国後は広告制作の仕事をしていたクリス・ペプラーさんは、音楽好きだったことから友人に勧められ、開局したばかりのJ-WAVEでナビゲーターを始めました。
持って生まれた美声と音楽知識であっという間に人気DJとなり、活躍の場をラジオだけではなく、テレビにも広げていきます。
NHKの『英語でしゃべらナイト』のナレーション、TBSの『世界ふしぎ発見!』の回答者、テレビ朝日『仮面ライダードライブ』の「クリム・スタインベルト博士」役に扮した俳優など、DJやナレーターとしてだけではなく、マルチに活躍するクリス・ペプラーさん。
小学生くらいの男の子なら「仮面ライダードライブのベルトさんの声の人だよ」、というと「あ、ベルトさんの人!?」とすぐ反応するかもしれませんね。
そんなクリス・ペプラーさんが明智光秀の子孫という件について、「はて?」と思われた方も多いのでは?
実はクリス・ペプラーさんは、子供の頃から母方の祖母から「あなたは明智光秀の子孫なのよ」と聞かされて育ったのです。
同じ話を祖母だけではなく、祖父・母からも聞かされてきたクリス・ペプラーさんは、還暦も近くなったある日、自分の祖先が本当に明智光秀なのか調べてみようと思い立ちます。
2016年、クリス・ペプラーさんは、当時TBSで月曜日に放映されていた『7時にあいましょう』という番組に調査を依頼しました。
明智光秀の子孫と聞かされて育ったクリス・ペプラーさんは、この番組でもう1人の明智光秀の子孫と出会い、自分の祖先をたどることになったのです。
クリス・ペプラーさんが光秀の子孫と確認された経緯
自分の祖先が本当に明智光秀なのかを調べようと思い立ったクリス・ペプラーさんは、TBSの『7時にあいましょう』に調査を依頼しました。
TBSはクリス・ペプラーさんを、もう1人の明智光秀の子孫に引き合わせます。
その人物は、明智光秀の子「於隺丸(おづるまる)」の子孫であると公表している、作家の明智憲三郎氏。
1947年生まれの明智憲三郎氏は、慶応義塾大学の工学部と大学院を卒業後、1972年に三菱電機に入社し、数々の要職を歴任する傍ら、2009年に『本能寺の変 431年目の真実』という書籍を出版しました。
明智憲三郎さんの作品は、現在「漫画」でも出版されています。
クリス・ペプラーさんと対面した明智憲三郎氏は、家系図のようなものはないかと確認しますが、残念ながら祖母・祖父・母から口で聞かされた「光秀の子孫」という伝承のみ。
しかしここで、クリス・ペプラーさんが祖母の結婚前の名前が「土岐清子」だったと伝えると、明智憲三郎氏が
「土岐氏なら(光秀の子孫である)可能性があります」
と伝えます。
さらに、クリス・ペプラーさんの祖母・清子さんの実家の墓が都内某所にあることを聞いた明智憲三郎氏と番組スタッフは菩提寺に向かい、住職の案内で土岐家の墓標を確かめました。
墓標には、土岐家の家紋である「桔梗紋」が彫られていたのです。

《桔梗紋》
「引用元ウィキペディアより」
クリス・ペプラーさんの祖母の家系が、美濃土岐氏の末裔である可能性は非常に高くなりました。
さらにクリス・ペプラーさんはアメリカにいる母に問い合わせ、家系図を番組スタッフに送ります。
ペプラーさんの家系図にあった、クリス・ペプラーさんの曽祖父「頼敬」の名前を、明智憲三郎氏が「土岐家の家系図」の中から探すと、なんとペプラーさんの曽祖父にあたると考えられるお方の名前・年代が一致する人物を発見。
クリス・ペプラーさんが、「美濃土岐氏本家」の直系子孫であるということが、確実になったのです。
では、なぜ美濃土岐氏の子孫であるクリス・ペプラーさんの祖母、母が「あなたは明智光秀の子孫よ」と聞かせて育てたのでしょう?
土岐家の家系図でクリス・ペプラーさんの曽祖父「頼敬」から7代さかのぼると、「土岐頼勝」という人物に行き当たります。
明智憲三郎氏はこの頼勝を、「本能寺の変」後に落ち延びた「明智光秀の実子」ではないかと推測しました。

《本能寺の変》
「引用元ウィキペディアより」
もし本当に頼勝が明智光秀の実子であれば、クリス・ペプラーさんは明智光秀の男系直系の子孫ということになりますね。
さて、本当のところはどうなのでしょうか?
ハーフタレント「クリス・ペプラー」さんは本当に光秀の子孫なの?
クリス・ペプラーさんは、本当に明智光秀の子孫なのでしょうか?
それについて語る前に、まずクリス・ペプラーさんの祖先だと確定した美濃の土岐氏のことから簡単に解説します。
土岐氏は「清和天皇」の皇子が臣籍降下して「源氏」を名乗った、いわゆる「清和源氏」の子孫で、美濃国を中心に栄えた一族です。

《清和天皇》
「引用元ウィキペディアより」
土岐氏は最盛期には美濃だけではなく、尾張と伊勢も支配下に置き守護大名を務めました。
美濃土岐氏からは、明智光秀の実家・明智氏や光秀の正妻・煕子の実家・妻木氏など、数多くの庶家(分家のこと)が発生しています。
さて、一時は美濃だけではなく尾張、伊勢も支配下に置いていた土岐家でしたが、戦国時代になると越前の朝倉氏、尾張の織田氏、近江の六角氏などにおされ、以前の勢いがなくなったのです。
この不安定な情勢時に当主だった「土岐政房」は、長男「頼武」より次男「土岐頼芸(とき よりのり)」の方を溺愛し、長男「頼武」をさしおいて、家督を次男「頼芸」にゆずろうと考えるようになります。

《土岐家・家系図1》
「家系図の引用等は何卒ご遠慮くださいませ」
遂には土岐家同士で争いが起き、一旦は頼芸側が敗れたものの、1518年に弟「頼芸」は兄「頼武」を越前に追放しました。
しかし朝倉氏の援助を受けた頼武は美濃に攻め込み、頼芸は頼武に敗れ、兄・頼武が美濃の守護になります。
ところが1525年に弟・頼芸は再び挙兵し、1530年に兄・頼武をまたしても越前に追放しました。
兄弟で家督を争い、そのたびに美濃国内で戦を起こしていたのですから、民も国土も疲弊しますよね。
1535年、頼芸は父・土岐政房の17回忌法要を営み、自分が美濃の正当な後継者だと誇示します。
しかしこの行動に兄・頼武の息子「頼純(よりずみ)」が黙っておらず、朝倉氏と六角氏が加勢して挙兵し、美濃全土が戦乱に陥りました。

《土岐頼純》
「引用元ウィキペディアより」
この混乱の中、1542年に頼芸の家臣「斎藤道三」は下剋上をおこし、頼芸とその嫡男「頼次」をともに尾張国に追放したのです。

《斎藤道三》
「引用元ウィキペディアより」
その後、頼芸は織田信秀(信長の父)の援助で美濃守護に復帰したものの、1552年に再び道三に追放され、諸国の縁者を頼って流浪の身となり、最終的に甲斐国で武田氏に保護されました。
1582年、織田信長の甲州征伐の際に、美濃三人衆のひとり「稲葉一鉄」に発見された頼芸は、許されて美濃へと帰還し、81歳で亡くなったのです。

《稲葉一鉄》
「引用元ウィキペディアより」
その後の土岐氏は、頼芸の子「頼次」と「頼元」が江戸幕府の旗本となり、現代にその子孫を伝えています。(旗本とは、1万石以下の領地を持つ幕府の直臣のこと)
話を「クリス・ペプラー」さんに戻しましょう。
さて、クリス・ペプラーさんの曽祖父「頼敬」から7代さかのぼると、「頼勝」という人物がいましたね。

《土岐家・家系図1》
「家系図の引用等は何卒ご遠慮くださいませ」
明智憲三郎氏の見解によれば、本能寺の変後に落ち延びた光秀の子が、この頼勝ではないかということでした。
土岐氏の系図によれば、頼勝の父親は「斎藤道三」に追放された頼芸の子「頼次」なのです。
頼次は美濃を追放されたのち、「松永久秀」に仕え、その後は馬廻(うままわり・親衛隊)として「豊臣秀吉」に仕えました。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」
秀吉の死後、徳川家康に仕えた土岐頼次は、「関ヶ原の戦い」では東軍に属し、その後江戸幕府の旗本となって1614年に70歳で亡くなっています。
江戸幕府の旗本になった頼次の子「頼勝」は、旗本の中でも幕府の儀式を執り行うことを許された特別な「高家旗本」になりました。
頼勝は、土岐家菩提寺の過去帳の記録によれば、1666年に亡くなり、その頼勝の子「頼直」は1685年に亡くなっています。
土岐家菩提寺の過去帳の記載は、1809年に完成した『断家譜』(江戸時代の断絶した大名・旗本・官医の家系を記録したもの)と内容が一致しており、非常に信憑性の高いものです。
土岐頼勝の生年は不明ですが、1666年の没年から満年齢で逆算して生年を考えてみましょう。
仮に享年を祖父「土岐頼芸」と同じ80歳くらいと仮定すると「1586年」、父「土岐頼次」と同じ70歳くらいと仮定した場合は、「1596年」となりますね。
いずれも、1582年の「本能寺の変」と「坂本城の落城」よりもあとになりますから、1582年に亡くなったと言われる光秀の子という可能性は消滅します。
1576年11月に光秀の正室・煕子は坂本城で亡くなりました。
煕子に先立たれるまで側室を持たなかったと言われる光秀が、側室を娶り子供をもうけたのは1577年〜1582年の間でしょう。
もし土岐頼勝が光秀の実子ならば、1577年〜1582年の間の生まれ、満年齢で享年が84歳〜89歳だったことになります。
頼勝の生年と享年がこの推定どおりであれば、明智憲三郎氏が推定したように「土岐頼勝」が光秀の実子だった可能性が出てきますね。
しかし頼勝の享年が「84~89歳」よりも若かったのであれば、残念ながら光秀の直系の子孫という可能性はなくなります。
頼勝が光秀の実子の可能性があるとすれば、「かなりの高齢で亡くなった」という条件付きの推定となるのです。
しかしなぜ、クリス・ペプラーさんの母方の実家である美濃土岐氏の本家が、「光秀の子孫」ということを言い伝えたのでしょうか?
美濃土岐氏の本家である家系が、分家である明智氏の、しかも謀反を起こしたと言われている人物の子孫だと言い伝えるのは、メリットが何もないばかりか、むしろ危険でしょう。
わざわざその危険を冒してまで言い伝えたということは、クリス・ペプラーさんの母方の家系にどこかで光秀の血筋が入った可能性を否定できない、ということでもあります。
筆者個人としては
『「土岐頼勝」は「明智光秀」の実子ではなく、クリス・ペプラーさんの母方の家系には、女系で光秀の血筋が伝わり、それを口伝で「光秀の子孫」として言い継がれたのではないか』
と思っています。
どういうことなのか、解説いたしますね。
1545年生まれの「土岐頼次」に、現代に記録が伝わっていない光秀の娘が嫁ぎ、「土岐頼勝」を生んだのではないでしょうか。

《土岐家・家系図2》
「家系図の引用等は何卒ご遠慮くださいませ」
だとすれば、女系でクリス・ペプラーさんの母方の家系が光秀の血筋を継承することは、可能です。
「頼勝が光秀の実子である」よりも、こちらの方が可能性は高いのではないか、と思うのですが、いかがでしょう?
TBSの『7時にあいましょう』の放映枠の中では語りきれなかったことを、明智憲三郎氏は自身のブログで公開しています。
興味のある方は一読すると良いでしょう。
『明智光秀』について「ひとこと」言いたい!
明智光秀の史料は、多く残されてはいません。
「山崎の合戦」後に廃棄されてしまったからでしょう。
光秀の前半生も謎に満ちていますが、子供の人数・名前・性別・生まれた年なども謎に満ちており、はっきりしていません。
光秀の子供の中で、生まれた年、名前、性別、結婚相手とその間にもうけた子供の数、本能寺の変後の消息、亡くなった年がハッキリとわかっているのは、三女・珠(細川ガラシャ)だけなのです。
三女・珠(細川ガラシャ)のそうした記録がはっきり残ったのは、珠が細川忠興に嫁ぎ、正室として細川家の記録に残されたからです。

《細川忠興》
「引用元ウィキペディアより」
三女・珠(細川ガラシャ)も忠興の正室ではなく側室だったら、ここまではっきりとした記録は残らなかったかも知れません。
明智憲三郎氏の祖先は光秀の子「於隺丸(おづるまる)」ということですが、『明智軍記』と『鈴木叢書』にその名前は出てきていませんね。
「於隺丸」の名前が登場するのは、熊本の安国寺が所蔵する『明智光秀公家譜覚書』という史料で、この史料には『明智軍記』『鈴木叢書』にある名前だけではなく、20人以上の名前が光秀の子として記載されています。
中には「?」と首を傾げたくなるような名前も書かれた史料ですから、鵜呑みにすることはできません。
しかし光秀には、現在残されている史料では他の史料との比較検討が難しい、あるいは不可能な、歴史の闇の中に埋もれた側室やその子供がいた可能性を否定できない、と考えるべきでしょう。
クリス・ペプラーさんは、そうした歴史の闇の中に埋もれた祖先を持つ「光秀の子孫」なのかもしれません。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「クリス・ペプラー」氏は、ラジオDJやタレント、そして俳優としても活動する人物で、ドイツ系アメリカ人の父と、日本人の母のハーフ。母方の祖母から「先祖は明智光秀」と教えられてきたらしい。
2,クリス・ペプラーさんはテレビ番組「7時にあいましょう」へ「自分が明智光秀の子孫なのかどうか」についての調査を依頼。光秀の子孫「明智憲三郎」氏から「光秀の末裔」と認定された。
3,光秀の子孫であるということを隠して生き延びた「クリス・ペプラー」さんの先祖は、口伝でそれを子孫に伝え続けたのではないか。ペプラーさんは、女系による光秀の子孫である可能性がある。
ドイツ系アメリカ人と日本人のハーフであり、マルチに活躍するクリス・ペプラーさんは、子供の頃から祖母、祖父、母から「光秀の子孫」と聞かされて育ちました。
還暦を前に「自分の祖先が本当に明智光秀なのか」調べようと思い立ったクリス・ペプラーさんは、TBSの番組に調査を依頼します。
その番組で、作家・明智憲三郎の調査により、クリス・ペプラーさんの母方の祖母が美濃土岐氏の末裔だということが、史料から明らかになりました。
さらに曽祖父から7代さかのぼった祖先「土岐頼勝」を、光秀の実子ではないかと考え、クリス・ペプラーさんを光秀の末裔として番組で紹介したのです。
しかし、クリス・ペプラーさんの母方の菩提寺過去帳によれば、土岐頼勝は1666年に亡くなっていました。
もし土岐頼勝が光秀の実子だとしたら、84歳〜89歳という当時としてはかなりの高齢で亡くなったことになるため、あくまでも没年齢の推定条件が合えば、光秀の実子の可能性がある、と考えた方が良さそうです。
光秀の正確な子供の人数、性別、名前、生まれた年、「本能寺の変」後の消息などはわかっていません。
現在残されている史料には名前が伝わっていない光秀の側室とその子供がいたということは、誰にも否定はできないのです。
筆者個人は、土岐頼勝ではなく彼の母親がそうした記録が残っていない光秀の娘で、クリス・ペプラーさんの母方には女系で光秀の血脈が入ったのではないかと考えています。
美濃土岐氏本家は、それを口伝で「光秀の子孫」と言い伝えたのではないでしょうか。

《明智光秀出生地と伝わる明智城跡:Wikipediaよりクリエイティブ・コモンズ3.0》
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
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始めましてこちらは賴次の子孫です、土岐賴次の惣家頼勝は明智家からの養子と言うのは無理です
明智憲三郎さんにもお伝えしましたが、古文書もあり賴次が美濃から松永を頼り大和(奈良)に移ってからの
子供で長男頼勝の生国は大和で次男賴高、三男賴泰(ヨリヒロ)は山城(京都)生まれです。
賴次には後継ぎが4人(賴吉)含む女3人いてわざわざ分家である明智家から養子をもらう必要もなく
万が一養子をとるなら土岐家男系直近血縁の次男をもらうはずです。
分家の明智さんの方が有名なためどうしてもそちらが前に出ています、
水色桔梗も土岐家の家紋で分家は使うことを許されているだけですけどね
それでクリスペプラーさんの件ですが情報では頼勝からの分家筋かと思われます、
頼勝より二代目惣家頼直の三男頼重が新規と三代目惣家頼満の六男賴行が新規召出しで
同じく三代目惣家賴満の五男頼泰が惣家で養子をもらうが賴盈ここで断絶途絶えてるようです
新規300石頼行からの家系かと思われます、この家系は後継ぎに恵まれず新規300俵頼重系より
養子をもらい最終賴敬までは記録があります、賴敬の先代5代目頼重は初代300俵頼重系よりの養子です
この頼重からの手紙は現在も残っており付き合いはあったみたいです。当家も清和源氏の末裔なので源頼朝
の子孫という事も聞いてましたが、頼朝とは親戚ではあるけど末裔ではなく明智家は土岐家からの分家なので
親戚にはなると思いますがクリスペプラーさんは土岐家の可能性はあっても明智家の末裔ではないと思います。
こんにちは
この度は当サイトをご利用いただきありがとうございます
また、この上なく詳しい解説までいただき、感謝の言葉が見つかりません!
まさか「土岐頼次」公の末裔の方からご連絡を頂けるとは思いませんでした。
頂きました情報を、当サイトにて是非紹介させていただきたいと思います。
お言葉頂き感謝にたえません。
なんと申し上げれば良いものか。
心より御礼を申し上げます。
こちらこそ色々調べて頂きありがとうございます、筆者様の見解が事実寄りで良かったです、子孫としましては
創造や希望(こうであって欲しい)が事実として広まる事を懸念しております、今回の「麒麟がくる」も
土岐賴藝の子供達が一人も出ておらず、その子供達との関係がすべて光秀との関係になっているようで残念です。
クリスペプラーさんの租と言われている頼敬については当方も明智憲三郎さんと同じ資料ですがその父頼重
(斧吉)の書いた親類書きが残っています、但し本家頼勝1000石は断絶の記録はありますが、
どこかが継承した記録は今の所ありません、分家は断絶前に新規召出しされています、
土岐家は同じ名前が多くあり賴次以降を調べている人も少なく、厄介ですが殺された人は居ないので分家は
多くあると思います。ただ口答での伝承は誤った(創造や希望の入った)伝わり方をするので要注意です
当方も本家と言われてました、何をもって本家か?新規召出しの初代からであれば本家ですが賴次からで
あれば分家です、今後も正しい事実情報を宜しくお願い致します。