関ヶ原の戦いとは、いったいどんな戦いだったのか、わかりやすく解説いたします。
いつ、何が原因で、誰と誰が、戦ったのでしょうか?
西暦1600年10月20日、岐阜県西部・関ヶ原で徳川家康と石田三成が激突。
戦いは6時間ほどで、家康の勝利に終わります。
しかし近年の研究で、この関ヶ原の戦いは実在しなかったと言われているようです。
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この記事を短く言うと
- 関ヶ原の戦いは、西暦1600(慶長5年)に起こった、徳川家康と石田三成の戦争
- 関ヶ原の戦いは、天下の支配者・豊臣秀吉の死後、徳川家康が次の天下人の座を狙ったため起こった
- 徳川家康は、小早川秀秋の裏切り・豊臣秀頼の中立・石田三成の不人気・毛利輝元が出陣しなかったなどの理由で、勝利できた
【関ヶ原の戦いとは?】小学生向けにわかりやすく簡単に解説
【結論】1600年に起こった徳川家康VS石田三成の戦い。家康が勝利した。
関ヶ原の戦いとは、1600年10月21日(旧暦・慶長5年9月15日)に起こった、徳川家康と石田三成の戦争です。
日本全国が真っ二つになって争ったため、天下分け目の戦ともいわれています。
関ヶ原の戦い | ||
【東軍】 | 【西軍】 | |
【総大将】 | 徳川家康 | 石田三成 |
【兵力】 | 80,000人 | 74,000人
〜 104,000人 |
【勝敗】 | 勝利 | 敗北 |
【戦死者】 | 8,000人
〜 32,600人 |
4,000人
〜 10,000人 |
【戦死した武将】 | 特に無し
(前哨戦で鳥居元忠が戦死) |
大谷吉継
島左近清興 島津豊久 |
戦場は、現在の岐阜県関ヶ原町にある関ヶ原という場所です。
1600年10月21日、東軍と西軍あわせて20万人が、この地で激突しました。
ちなみになぜ徳川軍vs石田軍ではなく、東軍vs西軍と呼ぶのでしょうか?
それは、家康も三成も、ともに豊臣軍を自称していたためです。
家康も三成も、自分こそが豊臣軍であり、相手は豊臣家に害をなす裏切り者だと主張したのです。
そのため、おそらくですが、東の江戸(東京都)に本拠地を持つ家康を東軍、西の佐和山城(滋賀県)に本拠地を持つ三成を西軍としたのでしょう。
戦いは当初、石田三成が率いる西軍が優勢でした。
しかし戦いの途中で、西軍の主力だった小早川秀秋が裏切ったのです。
小早川秀秋軍15,000人が裏切って、東軍の徳川家康に味方したため、形勢は一気に東軍に傾きます。
そしてそのまま、戦いは東軍の勝利で終わりました。
諸説あるものの関ヶ原の戦いは、午前8時頃開始、午後2時頃終了、つまり6時間で終ったのです。
戦いが終わった後、西軍の総大将だった石田三成は捕えられます。
三成はその後、京都で処刑され、亡くなりました。
→→→→→【石田三成の子孫の現在!家系図付き】についてくわしくはこちら
【関ヶ原の戦い】は、なぜ起こったのか?
関ヶ原の戦いは、天下の支配者・豊臣秀吉が亡くなったあと、徳川家康が天下を取ろうとして起こったのです。
1598年、それまで日本全土を支配していた天下人・豊臣秀吉が病死しました。
秀吉は、次の天下人に、自分の息子である豊臣秀頼を指名していました。
ところが、秀吉に次ぐ実力をもつ徳川家康が、次の天下人となるために行動を開始したのです。
これに激怒したのが、石田三成でした。
次の天下人を狙う家康に対して、石田三成は決戦を挑みます。
三成は、豊臣秀吉の遺言を守り、秀頼こそが次の天下人にふさわしいと考えていたのです。
石田三成は、自分と同じく家康を敵視する武将たち
- 毛利輝元
- 上杉景勝
- 宇喜多秀家
などを味方につけて、打倒家康を目指して挙兵。
しかし石田三成は嫌われていたため、思ったほど味方は集まりませんでした。
対して家康は
- 福島正則
- 黒田長政
- 浅野幸長
などの、石田三成を嫌っている歴戦の猛将たちを味方につけました。
両者は大軍団をひきいて、関ヶ原で決戦に挑んだのです。
【関ヶ原の戦い】で徳川家康は、なぜ勝利できたの?
徳川家康が、圧倒的に有利だったはずの石田三成を相手に勝利できた理由は、主に4つあります。
- 小早川秀秋が、石田三成を裏切ったため
- 豊臣秀頼が中立を決め込んで、石田三成の味方をしなかったため
- 三成が嫌われ者だったため、多くの猛将が家康に味方したため
- 西軍の総大将・毛利輝元が、大坂城から出陣しなかったため
①小早川秀秋が裏切った
小早川秀秋が、土壇場で石田三成を裏切って徳川家康に味方したため、三成ひきいる西軍は崩壊したのです。
小早川秀秋は、亡くなった天下人・豊臣秀吉の甥にあたる人物でした。
関ヶ原の戦いで、小早川秀秋は15,000人の大軍団をひきいて参戦。
当初は石田三成たち西軍の味方のはずでした。
ところが小早川秀秋は突然、西軍を裏切ったのです。
小早川秀秋の軍団15,000人が、敵に回ったため、西軍は一瞬で崩壊しました。
しかも小早川秀秋だけでなく、吉川広家も裏切っていたため、三成は手も足も出ずに敗北したのでした。
もしも裏切りがなかったら結果は変わっていたかもしれませんが、家康の首を取るところまではいけなかったと思います。
→→→→→【関ヶ原の戦いで裏切りがなければ?】についてくわしくはこちら
→→→→→【関ヶ原の戦いで、石田三成が勝利していたら?】についてくわしくはこちら
余談ですが、小早川秀秋は関ヶ原の戦いから、わずか2年後に21歳という若さで急死しています。
関ヶ原の戦いで裏切った大谷吉継の祟りで亡くなったという逸話がありますが、くわしくは以下のリンク記事で解説いたします。
→→→→→【小早川秀秋の死因と最期の様子】についてくわしくはこちら
②豊臣秀頼が中立を保ち、石田三成に味方しなかった
秀吉の息子で三成や家康の主君であるはずの豊臣秀頼が、三成に味方せず、中立を保ったため、三成は敗北しました。
家康は、豊臣秀頼の味方のふりをしながら、次の天下人の地位を狙っていました。
それを見抜いた石田三成は、豊臣秀頼を守るために、家康に戦いを挑んだのです。
ところが秀頼は、三成にも家康にも味方せず、なんと中立を保ったのです。
もしも秀頼が三成に味方していたら、家康はひとたまりもなかったはずです。
秀頼は当時8歳の子供だったため、秀頼の母親である淀殿(茶々)が実権を握っていました。
淀殿はどちらかに味方することで、敗北してしまうリスクを避けて、中立を選んだのです。
ところがこれが原因で、豊臣秀頼と淀殿は15年後、家康に滅ぼされるのです。
③三成が嫌われ者だったため、味方が集まらなかった
石田三成は嫌われ者だったため味方が集まらず、三成を嫌う武将はみんな家康に味方してしまい、勝利を逃したのでした。
石田三成は、とても賢い人物で、傲慢で人を見下した態度を取っていたといいます。
三成は、その賢さを豊臣秀吉に気に入られ、豊臣家家臣の中でも一番の出世頭でした。
出世を妬まれ、傲慢な性格を憎まれた三成は、福島正則や加藤清正たち武断派と呼ばれる猛将に嫌われていました。
挙げ句の果てには、福島正則・加藤清正たち七人の猛将に襲われかけたほどです。
そのため徳川家康を討伐するために挙兵した三成に、味方するものはほとんどいませんでした。
三成は仕方なく、西軍の総大将にならず、毛利輝元を総大将にむかえて挙兵。
しかし三成が総大将ではなかったため、誰も三成の命令に従わず、敗北してしまうのでした。
④西軍の総大将・毛利輝元が出陣しなかった
西軍の総大将・毛利輝元が大坂城から出陣しなかったため、西軍は主力を欠いて決戦に挑み、敗北したのです。
石田三成は、徳川家康と並ぶ実力者・毛利輝元を総大将にむかえいれて挙兵しました。
ところが毛利輝元は、あろうことか敵の総大将・徳川家康と、吉川広家を通じて、密かにつながっていたのです。
そしてなんと、家康と不可侵条約、つまり互いに戦わない約束を結んでしまうのです。
毛利輝元が大坂城から一歩も動かないまま、石田三成は徳川家康を相手に関ヶ原で決戦させられたのでした。
当然ですが、西軍の兵力は不足し、徳川家康は楽に西軍に勝利できました。
実は西軍の総兵力は、東軍の総兵力よりも、はるかに多かったのです。
全力で戦っていれば、西軍が圧勝していたはずです。
毛利輝元は出陣せず大敗し、領地の7割近くを没収されて、没落してしまいます。
このときの屈辱を、毛利家は268年ものあいだ忘れることなく、1868年に長州藩(毛利家)は、江戸幕府を倒すことになるのです。(明治維新)
【関ヶ原の戦い】のその後、何が起こったの?
関ヶ原の戦いの15年後、石田三成が守ろうとした豊臣秀頼は、徳川家康に滅ぼされてしまいます。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に就任します。
そして家康は、江戸幕府を開きます。
石田三成は、主君・豊臣秀吉が最期まで愛した息子の豊臣秀頼を、家康から守ろうとしていました。
三成は子供の頃、お寺に住み込みで修行するお坊さんでした。
その才能を見抜いた秀吉に抜擢されて大出世したため、秀吉に感謝していたのです。
しかし、家康が石田三成を滅ぼしてしまうと、もはや日本には秀頼を守ってくれる武将はいませんでした。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、一気に日本全土を支配します。
逆に豊臣秀頼は、一気に弱体化していきます。
そして、関ヶ原の戦いから15年後の1615年に、家康と秀頼のあいだで、大坂夏の陣が起こります。
この戦いで、真田幸村(信繁)たちの奮戦があったものの、豊臣秀頼は家康に滅ぼされてしまうのです。
こうして豊臣家は滅亡し、徳川家は日本の支配者として、260年もの長い平和を実現するのです。
→→→→→【淀殿(茶々)の最期と死因】についてくわしくはこちら
→→→→→【真田幸村(信繁)の最期と死因】についてくわしくはこちら
新説!実は関ヶ原の戦いは、なかった
近年の研究で関ヶ原の戦いが、実は後世の創作だという説があります。
つまり関ヶ原の戦いなど存在しなかったのではないか、というのです。
関ヶ原の戦いは、1600年に行なわれた大戦争ですが、それを示す一次資料が存在しないのです。
現在、関ヶ原の戦いをつたえている資料は、実際に戦いが行われてから数十年が経過した、江戸時代に記されたものがほとんどです。
一次資料によると1600年10月当時、関ヶ原の戦いではなく、関ヶ原の西に位置する山中という地で、小さな戦いが勃発。
そこで西軍の大谷吉継という武将が戦死したことが語られているのだとか。
大谷吉継といえば、病気で顔が崩れたといわれている人物で、石田三成の親友です。(真田幸村の妻の父でもある)
そして関ヶ原の戦いで、東軍西軍のなかで唯一戦死した大将です。
(同じく戦死した西軍の島津豊久と島左近清興は、副将格)
両軍あわせて20万人近くの大軍団がぶつかって、亡くなった大将が大谷吉継ただ一人というのは、おかしな話です。
同じ規模の軍が激突した1615年の大坂夏の陣では、真田幸村(信繁)たち数多くの武将が命を落としています。
本当に関ヶ原の戦いが実在したのか。
もしかすると、映画や小説で語られているストーリーは、現実に起こったことではないかもしれないのです。
ちなみにこの説によると、これまで信じられてきた数々の逸話の真実が、別の一面をみせてくれるのです。
西軍を裏切って東軍に味方したされる武将・小早川秀秋について考えてみましょう。
新説によれば、その小早川秀秋がもともと東軍に味方しており、天才的な采配力をみせて、大谷吉継の軍を撃破したことになっています。
小早川秀秋は裏切り者どころか、ずば抜けた能力をもつ名将だったというのです。
さらに、これまでは犬猿の仲だったとされる家康と三成も、関係は良好だったと考えられるのだとか。
戦前、三成は長男に家康から【家】の一字をもらって【石田重家】と名乗らせています。
しかも戦後、家康は三成の子供たちを、1人残らず全員助けています。
→→→→→【石田三成の子孫の現在!家系図付き】についてくわしくはこちら
また、これまでの史実では家康打倒を志す三成が、自分の居城・佐和山城に親友の大谷吉継を呼び、3日にわたって説得したという逸話について。
一緒に家康を討伐することを誓ったと言われています。
しかし、説得する側(三成)が相手(吉継)を呼びつけるでしょうか?
本当は逆で、大谷吉継が、家康打倒を渋る石田三成を説得し、参戦させたのではないかと考えられるのです。
信じられないことですが、もしかしたら本当に関ヶ原の戦いは、なかったのかもしれません。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 関ヶ原の戦いとは西暦1600年に起こった徳川家康と石田三成による戦争。家康が勝利した
- 関ヶ原の戦いの原因は、家康が豊臣家から天下を奪おうとしたこと
- 最近の研究では関ヶ原の戦いは存在しなかったという説が浮上している
以上となります。
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