【関ヶ原の戦い】簡単にわかりやすく解説!いつ誰と誰が戦ったの?

「関ヶ原の戦い」は、いつ、何が原因で、誰と誰が戦ったのか、わかりやすく解説いたします。

西暦1600年10月20日、岐阜県西部「関ヶ原」で「徳川家康」と「石田三成」が激突。

戦いは6時間ほどで、家康の勝利に終わります。

しかし近年の研究で、この「関ヶ原の戦い」は実在しなかったと言われているようです。


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この記事を短く言うと

 

1,「関ヶ原の戦い」は「西暦1600(慶長5年)」に起こった「徳川家康」と「石田三成」の戦争

 

2,「関ヶ原の戦い」は、日本が東西に別れて戦った、まさに「天下分け目」の戦いだった

 

3,この戦いは、徳川家康が「豊臣家」から天下を奪うために「石田三成」を利用した戦い


「関ヶ原の戦い」は、いつ、誰と誰が戦ったの?

「天下分け目」と呼ばれるほど、日本を二つに分けて争われた大戦争「関ヶ原の戦い」。

《関ヶ原の戦い》
「引用元ウィキペディアより」

関ヶ原の戦いは「西暦1600年」というキリの良い年に行われた戦いです。非常に覚えやすいと思います。年号は「慶長5年」。

新暦で「西暦1600年10月21日」。旧暦では「慶長5年9月15日」に「関ヶ原の戦い」は行われているのです。

 

この「関ヶ原の戦い」は誰と誰の戦いだったのかというと、「東軍・徳川家康」と「西軍・石田三成」の戦い。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

《石田三成》
「引用元ウィキペディアより」

なぜ「徳川軍 対 石田軍」ではなく、「東軍 対 西軍」と言っているのかというと、家康も三成も

「自分たちは豊臣軍であり、あいては豊臣家を裏切った裏切り者である」

と主張していたためです。ちなみに双方とも「豊臣軍」を名乗っているものの、肝心の豊臣秀頼は「中立」を決め込んでおり、どちらにも味方していませんでした。

ちなみに豊臣秀頼は、この時8歳。中立をたもってしまし、家康を討たなかったため、この15年後の「大阪夏の陣」で「豊臣秀頼」は亡くなってしまうのです。


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「関ヶ原の戦い」とは何か?簡単にわかりやすく解説

「関ヶ原の戦い」とは、そもそも何のための戦いだったのか?簡単に分かりやすくいうと

「石田三成が、ルール違反ばかりやらかす徳川家康を討伐しようとした戦い」

なのです。

関ヶ原の戦いが起こる2年前の「1598年」、天下人「豊臣秀吉」が亡くなります。

秀吉は、自分の死後「秀頼」が成人するまで、豊臣家の家臣である「徳川家康」や「石田三成」が話し合いで政治をおこなうようにと遺言を残していました。

つまり「豊臣政権による合議制」で政治をおこなうようにと遺言したのです。

ところが家康は秀吉が死ぬと、独断で政治をおこない、定められているルールや法律を次々と破り始めたのです。

これに怒った三成は、家康を倒そうと味方を増やし「関ヶ原の戦い」を起こします。

三成は約「8万」の軍団を「関ヶ原」へ布陣。家康もまた「10万」の兵を関ヶ原へすすめます。

石田三成の西軍が戦死者「8千~3万」。徳川家康の東軍戦死者が「4千~1万」。最大で合計「4万」もの戦死者が出たと言われています。

石田三成は百戦錬磨の「徳川家康」に、わずか6時間で敗北。

戦場から逃亡したものの、捕縛され、西軍の武将「小西行長」「安国寺恵瓊」とともに斬首刑で命を落とすのでした。


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「関ヶ原の戦い」の原因は?家康の野心!

そもそもどうして「関ヶ原の戦い」は起こったのでしょうか?

家康は秀吉の死後、『天下』を奪おうと画策します。そのためにとった作戦が「石田三成」を挑発することでした。

石田三成には大きな弱点が有りました。「あまりにも人望がなく、周囲の武将からめちゃくちゃ嫌われていた」ことです。

そんな三成が、「徳川家康を倒すために協力してほしい」と声をあげます。結果、誰も味方にはついてくれませんでした。

家康は三成を嫌う大名たちを味方につけ、「関ヶ原の戦い」で三成を撃破。

その勢いのまま、家康は「豊臣秀頼」の領地の70%近くを没収。豊臣家の力を削ぎ落とすことに成功します。

「関ヶ原の戦い」が起こった原因。それは「家康が豊臣家から天下を奪おうとしたから」なのです。三成は、家康にみごとに利用されたのでした。


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新説!実は「関ヶ原の戦い」は、なかった

近年の研究で「関ヶ原の戦い」が、実は「後世の創作」・・・つまり「関ヶ原の戦い」など存在しなかったのではないか、と言われています。

「関ヶ原の戦い」は、1600年に行なわれた大戦争ですが、それを示す「一次資料」が存在しないのです。

現在「関ヶ原の戦い」をつたえている資料は、「江戸時代」に記されたものがほとんどなのです。

一次資料によると、1600年10月当時、「関ヶ原の戦い」ではなく、「関ヶ原」の西に位置する「山中(やまなか)」という地で、小さな戦いが勃発。そこで「大谷吉継」という武将が戦死したことが語られているのだとか。

「大谷吉継」といえば、病気で顔が崩れた「石田三成」の親友。そして「関ヶ原の戦い」で東軍西軍のなかで唯一戦死した大将です。(同じく戦死した島津豊久・島左近は、副将格)

両軍あわせて「20万人」近くの大軍団がぶつかって、亡くなった大将が「大谷吉継」ただ一人・・・。同じ規模の軍が激突した「大阪夏の陣」では、数多くの武将が命を落としています。

本当に「関ヶ原の戦い」が実在したのか・・・。もしかすると、映画や小説で語られている「ストーリー」は、現実に起こったことではないかもしれないのです。

ちなみにこの説によると、これまで信じられてきた数々の逸話の真実が、別の一面をみせてくれるのです。


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西軍を裏切ったとされる武将「小早川秀秋」は、もともと東軍に味方しており、天才的な采配力をみせて大谷吉継の軍を撃破したことになっています。

小早川秀秋・・・・裏切り者どころか、ずば抜けた能力をもつ「名将」だったのです。

さらに、これまでは「犬猿の仲だった」とされる「家康」と「三成」も、関係は良好だったと考えられるのだとか。戦前、三成は長男に家康から「家」の一字をもらって「重家」と名乗らせています。しかも戦後、家康は三成の子供たちを全員助けています。

また、これまでの史実では「家康打倒」を志す三成が、自分の居城「佐和山城」に親友「大谷吉継」を呼び、3日にわたって説得。一緒に家康を討伐することを誓ったと言われています。しかし、説得する側(三成)が相手(吉継)を呼びつけるでしょうか?本当は逆で「大谷吉継」が、家康打倒を渋る石田三成を説得し、参戦させたのではないか・・・と考えられるのです。

信じられないことですが、もしかしたら本当に「関ヶ原の戦い」はなかったのかもしれません。


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『関ヶ原の戦い』について「ひとこと」言いたい!

関ヶ原の戦い・・・・「創作かもしれない」とは言いましたが、ここでは「関ヶ原の戦いが現実に起こっていた」ことを前提に話を進めさせていただきます。

もしも『石田三成』が勝利して、家康を討ち取っていたら、どうなっていたでしょうか?

間違いなく、「江戸時代260年」の平和な時代はありませんでした。一時的な平和はあっても、「豊臣秀頼」や「石田三成」に、「徳川家康」や「徳川秀忠」が作り上げたような「長期間の平和」を築くことが出来たとは思えません。

歴史はあるべき方向へと、ひとりでに進むものなのかもしれません。

「応仁の乱」から100年以上続いた「戦国時代」という内戦の時代。その傷を癒やすために「260年」の間、平和を維持することは、家康という英雄がこの世に生まれたことで運命だったように感じられます。

義将「石田三成」が敗北したことは残念ですが、そのほうが犠牲者も少なかったと考えられます。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「関ヶ原の戦い」とは西暦1600年に起こった「徳川家康」と「石田三成」による戦争。「家康」が勝利した
  2. 関ヶ原の戦いの原因は「家康が豊臣家から天下を奪おうとした」こと
  3. 最近の研究では「関ヶ原の戦いは存在しなかった」という説が浮上している

以上となります。

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ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「豊臣秀吉の天下統一までの道を解説!農民が偉業達成できた3つの理由」の記事はコチラ
「【島津義弘】関ヶ原の戦い敵中突破の詳細とは!戦国最強の逸話が怖い」の記事はコチラ
「井伊直政の死因は銃創だけじゃない?殺害した犯人が誰なのかも判明!」の記事はコチラ

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