明智光秀と濃姫はどういう関係?細川藤孝や長宗我部元親との関係も解説

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明智光秀の生涯に大きな影響を与えた人物で、「織田信長」以外にどのような名前があげられるでしょうか?

 

光秀の生涯に大きな影響を与えた人物は、信長の正室「濃姫」、織田家中で親しく付き合っていた「細川藤孝」、「本能寺の変」の原因ではないかと言われている四国の大名「長宗我部元親」があげられます。

 

この記事では「濃姫」「細川藤孝」「長宗我部元親」について解説していきます。

 

これを読んで、織田信長以外に明智光秀の生涯に、大きな影響を与えた人物について、スッキリと理解してくださいね。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「明智光秀」と織田信長の妻「帰蝶(濃姫)」は、「いとこ同士」という説がある。光秀の父親の妹、つまり叔母である「小見の方」が「斎藤道三」と結婚し、「帰蝶」を産んだという

 

2,明智光秀の娘「珠(ガラシャ)」と、細川藤孝の息子「忠興」は夫婦。子供同士が婚姻する以前、光秀は「朝倉義景」に仕えていた頃に「細川藤孝」と出会った

 

3,明智光秀の家来「斎藤利三」の異父妹が、四国の大名「長宗我部元親」の妻だった。その「長宗我部」氏を救済するために「本能寺の変」が起こったという説があるが、筆者としてはこの「四国説」に疑問が残る


明智光秀と「濃姫」の関係!二人はいとこ同士!

「明智光秀」と、織田信長の正室「濃姫」は、いとこ同士という説が現在は有力です。

《清須公園の織田信長・濃姫銅像:HiCさんによる写真ACからの写真》

ただし、信長の正室・濃姫については信頼できる同時代史料が乏しく、現在私達が抱いている濃姫のイメージは、ほとんどが小説やドラマの影響によるものなのです。

 

また、光秀自身も前半生が不明で、本当に父親が明智光綱なのかも、はっきりしていません。

 

光秀が土岐氏支流の明智氏出身ではなく、勝手に明智姓を名乗ったのではないか、と指摘する研究者もいます。

 

そのため、光秀と濃姫が本当にいとこ同士なのかは、新しい同時代史料が発見されるなどして、2人についての研究が進まない限りはっきりと断言できません。

 

ですがこの記事では、現在有力な「いとこ同士」という説に従ってご紹介していきます。


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《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

光秀の父・明智光綱(1497年〜1535年)には、5人の弟と1人の妹がいました。

 

弟妹の名は

  • 山岸光信(光秀の初恋の相手・千草の父)
  • 光安(明智秀満の父)
  • 光久(明智光忠の父)
  • 原光広
  • 簾光
  • 小見の方(1513年〜1551年もしくは没年不詳)

と言います。

 

男ばかりの兄弟の一番下に、1人だけ妹が生まれたのですね。

 

光綱と小見の方の父・明智光継は、美濃国で斎藤道三が台頭するとすばやく臣従し、まだ幼かった小見の方を道三に人質として差し出したのです。

 

人質として差し出された小見の方でしたが、1532年に斉藤道三の正室となり、1535年に濃姫(帰蝶)を産みました。

《斎藤道三》
「引用元ウィキペディアより」

1541年、道三が美濃守護代・土岐頼芸(とき よりのり)を美濃から追放したことで美濃国は混乱します。

 

道三の台頭を嫌った尾張の織田信秀(信長の父)は、土岐頼芸を援助して派兵し、さらに頼芸が越前に追放した弟「土岐頼武」の子「頼純」も、朝倉孝景(あさくら たかかげ)の援助で美濃に攻め入りました。

 

窮地に陥った道三は、信秀・頼純と和睦。

 

織田家との和睦の条件は、信秀の嫡男「吉法師(のちの織田信長)」と道三の娘「帰蝶(濃姫)」を結婚させることでしたが、濃姫はまだ幼かったため、その実現は先のことになります。

 

土岐家との和睦の条件は、「頼芸」を北方城(岐阜県本巣郡)に、「頼純」を川手城(岐阜県岐阜市)に入れ、美濃国に戻すことでした。


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1546年、道三は朝倉孝景とも人質を差し入れることを条件に和睦し、人質として娘を差し出し、頼純に輿入れさせたのです。

 

一説には、この時に人質として差し出されて土岐頼純に輿入れしたのは「濃姫」だったと言われています。

 

もしこの説が本当なら、濃姫は信長と後に再婚したことになりますね。

 

ところが1547年8月の大桑城(岐阜県山県市)の落城で、頼純は戦死(または道三による毒殺)し、人質・妻として差し出された「濃姫」は実家に戻ります。

 

一旦和睦したものの、争いが続いていた道三と信秀は、今度こそ和睦しようと、約束していた「信長」と「濃姫」の縁組を実行することにしました。

 

こうして1549年2月、濃姫は当時居住していた「鷺山城(岐阜県岐阜市)」から信長に嫁ぎます。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」


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鷺山城から嫁いだため、濃姫は織田家では「鷺山殿」と呼ばれました。

 

この祝言の仲人は、光秀の育ての親で叔父であり、濃姫にとっても叔父である「明智光安」が務めたと言われています。

 

光安が仲人を務めた信長と濃姫の祝言に、いとこである「明智光秀」も叔父「光安」に付き従ってその場にいたら、信長と光秀はその時にお互い顔見知りになったかもしれませんね。

 

濃姫と信長との間に子供は生まれなかった、と言われています。

 

そのため、信長の正室でありながら、濃姫の同時代史料は乏しく、信長と結婚したあとの人生がはっきりしていません。

 

諸説ある濃姫のその後を紹介すると・・・。

  1. 1556年4月、道三が息子・斉藤義龍に殺されたのち、叔父・光安が城代を務めていた明智城に身を寄せ、1556年の明智城落城時に他の一族と運命を共にした説
  2. 1582年の「本能寺の変」で、信長と共に戦い戦死したという説
  3. 「本能寺の変」後も生きており、1583年に信長の1周忌法要を営み、1600年「関ヶ原の戦い」後も生きながらえ、1612年に亡くなったとする説

 

これら3つの説が、現在提唱されています。

 

この中で、現時点で一番可能性が高いのはどれでしょう?


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②の説はドラマや小説で描かれたことで、その史実を証明する史料は何もありません。

 

では、①はどうでしょう?

 

光秀が織田家中で存在感を増し、出世を果たしたことを考えると、①の説も可能性が低いように思えます。

 

光秀は、明智城落城後、越前で朝倉義景(あさくら よしかげ)に仕え、足利義昭と接触を持つことで信長とも深く関わりを持つようになり、幕臣と織田家家臣という二重の立場に置かれた時期がありました。

《足利義昭》
「引用元ウィキペディアより」

織田家中では、光秀は外様と言ってよい家臣です。

 

外様である光秀が、信長の信頼を深く勝ち取り、織田家中で出世を果たし、畿内の重要拠点を任されるようになったのは、光秀本人の資質と能力と努力だけではなし得なかっただろうと私は思います。

 

恐らく、信長の正室・濃姫の存在が、光秀の出世に強く影響したのでしょう。

 

光秀は前半生の史料が乏しく、濃姫も同時代の史料に乏しく、2人が本当に「いとこ同士」だったかどうか断言できる史料は、残念ながらありません。

 

それでも、織田家中で光秀があれだけ出世を果たしたことから考えると、いとこ同士ではなかったとしても、何らかの血縁関係はあったのではないかと私は思います。


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光秀と「細川藤孝」の関係!子供同士が婚姻していた

《天授庵所蔵の細川藤孝(幽斎)肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン》

明智光秀と細川藤孝は、織田信長の命令でそれぞれの三女「珠」と嫡男「忠興」を婚姻させています。

 

つまり、光秀と藤孝は姻戚関係にあたり、細川忠興にとって光秀は舅ということになります。

 

実は、互いの子供を結婚させる以前から、光秀と藤孝は面識があり、親しい間柄でした。

 

では、光秀と藤孝はどのようにして出会ったのでしょうか。

 

まず細川藤孝が、どのような武将だったのか、についてお伝えしましょう。

 

藤孝は1534年、「三淵晴員」の次男として京都に生まれました。

 

1540年、三淵晴員の兄と考えられている「藤川元常」の養子となり、藤川姓を名乗るようになります。

 

1546年、室町幕府第13代将軍「足利義藤(後に改名して義輝)」の名前から1文字貰い、「細川藤孝」と名乗ります。

《足利義輝》
「引用元ウィキペディアより」

1552年には幕臣として「従五位下兵部大輔」に叙任されます。


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1562年に若狭国熊川城主である「沼田光兼」の娘「麝香」と結婚し、1563年に嫡男「忠興」が生まれました。

 

藤孝と麝香の夫婦仲は良く、藤孝は側室を娶らず、2人の間には「8人」の子供が生まれています。

 

ところが幕臣として順調に出世し、夫婦仲も良く子供にも恵まれて暮らしていた藤孝の生活は、1565年に急変しました。

 

室町幕府第13代将軍「義輝」が「三好三人衆(三好政康・三好長逸・岩成友通)」らによって暗殺されてしまったのです。

 

三好三人衆は、自分たちに都合の良い「足利義親(後に改名して足利義栄)」を征夷大将軍に擁立し、義輝の弟の僧侶「覚慶」を幽閉しました。

 

藤孝は兄「三淵藤英」「一色藤長」らと協力して「覚慶」を救出します。

 

1565年に足利家の当主宣言を行った「覚慶」は、1566年に還俗して「義秋」と名乗ります。

 

細川藤孝は、この「義秋」を征夷大将軍とするべく奮闘したのです。

 

義秋は、各地の大名に上洛(軍をひきいて京都へ向かうこと)を要請する書状を送り、その要請に尾張国の「織田信長」が応えました。

 

しかし、信長は美濃の「斉藤義龍」との争いで、その時は上洛が果たせなかったのです。

《斎藤義龍》
「引用元ウィキペディアより」

藤孝は義秋を守って近江国の「六角義賢」を頼りますが、六角氏が三好三人衆と内通した疑いが出たため、若狭国に移り、「武田義統」を頼ります。

 

しかし、武田義統は家督争いなどで国内状況が安定しておらず、義秋の上洛要請に応えられる状態ではありませんでした。

 

義秋の一行は、越前国の「朝倉義景」の元に身を寄せます。


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この頃の藤孝の暮らしは非常に苦しく、灯籠の油さえ購入することができず、神社から油を失敬することさえありました。

 

朝倉義景に身を寄せていたこの極貧生活の中、藤孝は美濃国から落ち延び、朝倉氏に仕えていた「光秀」と出会ったのです。

 

光秀もまた、連歌会の食料や酒の調達に苦しみ、見かねた妻「煕子」が髪を切って売り、資金調達を支えるほどの極貧生活を送っていました。

 

京都で生まれ育った「藤孝」は、剣術を剣豪「塚原卜伝(つかはら ぼくでん)」から学び、武芸だけではなく「和歌、茶道、連歌」などの文芸にも秀でた武将でした。(ちなみに、細川藤孝や剣豪将軍「足利義輝」の剣術の同門には、「100人相手にして傷を負わせた」という剣豪「北畠具教(とものり)」もいた)

 

一方の光秀は「鉄砲・射撃の名手」であり、美濃にいた頃に京都嵯峨「天竜寺」の「雲水」「勝恵」という学僧を招き、勉学に励んでいますから、恐らく京言葉にも精通していたでしょう。

 

余談ですが、現在私達が見る戦国時代のドラマや映画は、俳優さんたちが標準語でお芝居をしていますよね?

 

しかし、書き言葉としての日本語は統一されていたのでしょうが、戦国時代は今よりも地方ごとの方言の差が大きかったはずです。(現代人のように、テレビやラジオで地方の方言を耳にする機会もなかったため、方言が異なると、外国語と会話するようなものだった)

 

藤孝は京言葉に精通し、武術と教養に溢れている武将が越前にいたことに、驚いたかもしれません。

 

流浪の生活を強いられて極貧生活を送り、武術に優れて、教養にもあふれた2人の若い武将は、意気投合して終生の友となります。


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光秀は、上洛要請になかなか応じない朝倉義景にイライラする義秋に対して

「尾張の織田信長を頼りなさい」

と勧めました。

 

義秋は、前回の織田信長への上洛要請が破綻したことを考え、信長の正室「濃姫」の「いとこ」である光秀を通して、ふたたび信長に上洛を要請したのです。

 

信長への仲介をつとめた光秀は

「織田信長の妻に縁があって(信長に仕えるようにと)誘われたが、(破格の)高給を与える(だから自分に仕えよ)と言われてしまい、逆にためらっている」

という言葉を残しています。

 

京都の宮中や、室町幕府の将軍・幕臣が話していた当時の方言を、尾張出身の織田信長が理解することは、当時としてはとても難しいことでした。

 

信長から見ると光秀は、「美濃や尾張のあたりの方言」と「京言葉」に精通した頼りになる男。いわゆる「通訳」のような仕事ができる人物だったのでしょう。

 

しかも自分の正室「濃姫」の「いとこ」ですから、ぜひともスカウトしたい有能かつ魅力的な人物に見えたのでしょう。

 

逆に光秀からすれば、極貧生活を送っている状態で、いきなり「高給を与える」と言われたら、面食らってしまいますよね。

 

1568年4月、義秋は元服して「足利義昭」と名を改め、尾張国の織田信長のところへ移りました。


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信長への使者は細川藤孝が務め、1568年9月、信長は妹「お市の方」の夫「浅井長政」と共に、義昭を警護して上洛。

 

光秀と藤孝も、義昭に従って上洛します。

 

1568年10月、義昭は、室町幕府・第15代将軍に就任しました。

 

義昭は信長に、「京都に残ってほしい」と懇願しますが、信長は義昭の警護を光秀に託して、岐阜へ帰ってしまいます。

 

1569年1月5日、信長の不在を突いて、義昭の御所だった「本圀寺」を、「三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)」「斎藤龍興」が襲撃しました。(本圀寺の変)

《本圀寺》
「引用元ウィキペディアより」

光秀は、織田勢や本圀寺の警護に加わっていた若狭衆をまとめて奮戦し、なんとか持ちこたえます。

 

翌1月6日、本圀寺襲撃の知らせを受けた細川藤孝が、「荒木村重」などその他の武将と共に救援に駆けつけ、「三好三人衆」は退却。

《荒木村重》
「引用元ウィキペディアより」

しばらくは良好な関係だった義昭と信長でしたが、その関係が悪化すると、藤孝は足利義昭を見限って、信長に恭順を示して織田家中に加わります。

 

光秀もまた、「幕臣」かつ「信長の家臣」という二重身分から脱却し、織田家中に専従。

 

信長の正室「濃姫」の「いとこ」という立場も後押しをし、遂には畿内の重要拠点を任されます。

 

それだけではなく、「畿内方面軍の司令官」に任命されました。

 

この時、「筒井順慶」とともに光秀の指揮下に加えられた「藤孝」は、光秀の部下という立場になったのです。

 

越前で光秀と藤孝が出会った頃は、光秀が藤孝の部下だったと考える人もいます。

 

しかし、互いに極貧状態で出会っていますから、その頃に考えられる身分差は、官位のある室町幕府の幕臣(藤孝)と、官位のない朝倉氏の下級武士(光秀)というものでしょう。

 

私個人は、光秀と藤孝の間には、「出自にまつわる上下関係」が終生つきまとったと考えています。

 

江戸時代に完成した『細川全記』や『寛政重修諸家譜』によれば、「細川藤孝」の父親は「三淵晴員」、母は戦国時代の公卿で「吉田兼倶」の三男「清原宣賢」の娘とあります。

 

この「清原宣賢の娘」は、室町幕府第12代将軍「足利義晴」の側室でしたが、義晴の子を身ごもった状態で「三淵晴員」に嫁ぎ、藤孝を生んだ・・・・と『細川全記』と『寛政重修諸家譜』に書かれているのです。

《ガラシャ家系図5》
「家系図の引用等はご遠慮くださいませ」

それが事実だとしたら、藤孝は将軍「足利義晴」のご落胤で、第13代将軍「義輝」や第15代将軍「義昭」の【腹違いの兄】ということになりますよね。

 

一方の「明智光秀」は、美濃国守護代・土岐家の支流・明智家の出身です。

 

地方の名家でも、土岐家は足利将軍家にとってあくまでも臣下ですから、細川藤孝が将軍のご落胤なら、藤孝からすれば光秀は「臣下の子」という関係になります。

 

臣下の子である光秀が、将軍のご落胤である自分(細川藤孝)よりも織田家の中で出世を果たしたことについて、藤孝はどう思ったでしょうか。

 

光秀と親しくしつつも、忸怩(じくじ)たる思いだったはず。

 

1582年、「本能寺の変」の後、光秀が再三にわたって「味方してくれるように」と願っても、藤孝は拒絶。

 

藤孝は、あろうことか家督を息子の「細川忠興」へ譲り、隠居してしまいました。

《本能寺の変》
「引用元ウィキペディアより」

用意周到な智将「明智光秀」が、織田信長への謀反を事前に綿密に計画していたら、細川藤孝を味方にするため、もっと慎重に根回ししていたでしょう。

 

藤孝からすれば「本能寺の変」は、まさに寝耳に水、突発的な出来事だったのではないでしょうか。

 

現実的な判断をする武将だった細川藤孝は、突発的な出来事に加担して自分と一族を危険にさらすよりも、心を鬼にして光秀を見捨てる判断を下したのではないか、と私は思います。

 

その冷徹な判断の奥底には

臣下の子である「明智光秀」が天下を取ったら、「征夷大将軍のご落胤」である自分が、その家臣になる。

そんなことは言語道断!!

という気持ちが働いたのかも知れません。

 

光秀と藤孝は姻戚関係にあるだけではなく、越前時代から親しい友人でしたが、親しくしつつも藤孝の心の奥底には光秀に対する鬱屈とした思いがあったのでしょう。


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光秀と「長宗我部元親」!斎藤利三を通じて繋がっていた

《秦神社所蔵長宗我部元親肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン》

光秀が「本能寺の変」を起こした動機として、「四国の長宗我部氏を救済するため」という説をあげる人がいます。

 

では、長宗我部氏の当主「長宗我部元親(ちょそかべ もとちか)」とは、どういう人物なのでしょうか。

 

簡単に解説いたします。

 

長宗我部元親は、土佐国(現在の高知県)の武将で、1539年、父「長宗我部国親」と母「祥鳳玄陽(美濃斉藤氏出身)」の間に、岡豊城(おこうじょう・高知県南国市)で生まれました。

 

美濃斉藤氏は、光秀の家臣「斉藤利三」の出身氏族です。

 

さらに1563年、「長宗我部元親」は家臣の反対を押し切り、武勇の誉の高い「美濃斉藤氏」から正室を迎えいれました。

 

この正室は「斉藤利三」の異父妹だったので、元親は「斎藤利三」を通して「明智光秀」とも縁ができました。

 

元親は、さらに織田信長とも関係を持つようになります。

《斎藤利三》
『引用元ウィキペディアより』

1575年、土佐統一を果たした元親は、織田信長と同盟を結びました。

 

さらに信長は元親の嫡男が元服した際に、その烏帽子親を務め、「信」の一文字をあたえて「長宗我部信親」と名乗らせました。

 

また、長宗我部元親にたいしても

「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ(四国はこれから元親が好きにして良い」

という朱印状を与えます。


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信長は、長宗我部と同盟を結ぶことによって

  • 中国地方の「毛利氏」
  • 伊予国の「河野氏」
  • 阿波国と讃岐国で勢力を保つ「三好氏」

これらの背後を、土佐から「長宗我部元親」に攻撃させよう、と考えたのです。

 

信長のお墨付きをもらった元親は、四国統一を目指して「伊予国、讃岐国、阿波国」に侵攻。

 

1578年から1580年にかけて、「讃岐国」と「阿波国」の制圧に成功しました。

 

しかし元親は、伊予国を支配していた「河野氏」が、中国地方の大勢力「毛利氏」からの援助を受けていたため、苦戦を強いられます。

 

一方、河内国の高屋城(大阪府羽曳野市)城主だった「三好康長」は、1575年、織田信長に敗れて、臣従していました。

 

三好康長は、阿波国・讃岐国の豪族たちを、信長の味方とするために「説得工作」をおこないます。

 

同時に三好康長は、「羽柴秀吉」に接近し、秀吉の姉の子(のちの豊臣秀次)を養子に迎え入れたのです。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」

さらに三好康長は、長宗我部元親に奪われた三好家の本領地「阿波国」と「美馬(現在の徳島県)」の旧領回復を信長に願い、織田家の「長宗我部元親に協力する」という四国政策の方針を、を変えるように働きかけました。

 

信長は、この「三好康長」からの願いを聞き入れ、四国政策の責任者を「明智光秀」から「羽柴秀吉」へと交代。

 

「三好康長」と「長宗我部元親」の間を調停して、元親に対して「阿波国の占領地半分を返還するように」と伝えます。


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光秀は、家臣「斎藤利三」の親戚である元親を助ける立場のはずが、秀吉との派閥争いに敗北し、逆に窮地に陥れてしまいました。

 

メンツを潰された形になってしまったわけですね。

 

一度は「四国を攻略し次第、自由に自分の領地として構わない」と、信長から言われていた元親は、当然この信長からの命令に従いません。

 

1582年1月、信長は長宗我部元親に対して

「土佐一国と南阿波以外は、すべてを返上せよ」

という新たな命令書を出し、この命令に従うよう促しました。

 

元親と親戚関係にある「斎藤利三」が、元親の説得を試みたものの、応じることなどなく、ついに織田信長の堪忍袋の尾が切れてしまいます。

 

信長の三男「神戸信孝(織田信孝)」を大将にした「四国遠征」が行われることになったのです。

《織田信孝》
「引用元ウィキペディアより」

1581年秋、四国で軍事活動を開始していたらしい三好康長は、1582年2月、信長から四国遠征を命じられました。

 

5月、織田軍の先鋒を命じられた「三好康長」は、首尾よく阿波国半分の奪還に成功。

 

対岸にあった大坂から、「神戸信孝」の軍勢の到着を待つだけの状態になっていたのです。

 

この状況で長宗我部元親は、斎藤利三を通し、5月21日付けで信長に対し、

「土佐への入口にあたる阿波国の城、この城の領有を認めてくれたら、讃岐・阿波の両国から撤退します」

という書状を送りました。

 

しかし、この書状が信長の手に渡って読まれたのかはどうか、不明です。

 

また、その内容を知った「光秀」や「斎藤利三」が、どのように感じたのかはわかりません。

 

メンツを潰された光秀は、安土城を訪問した「徳川家康」の饗応役を命じられたものの、途中で切り上げさせられ、毛利攻めを行っている「羽柴秀吉」への援軍を命じられます。

 

「四国政策」で対立していたライバル「羽柴秀吉」の援軍に向かうということは、「明智光秀」に対して「羽柴秀吉」の命令に従って毛利と戦え、という意味です。

 

光秀は、またしても面子(メンツ)を潰された形ですよね。


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一度、丹波での拠点である「亀山城」に戻った光秀は、1582年6月1日、京都に向けて進軍を開始

 

1582年6月2日、「本能寺の変」を起こしたのです。

 

信長が亡くなったことで、四国征伐は中止。

 

長宗我部元親は、織田信長に滅ぼされずに済みました。

 

斎藤利三と長宗我部元親は、親戚関係です。

 

そのつながりを通して元親は、光秀とも信長とも関係を築いていたのです。

 

このことから、光秀が「本能寺の変」を起こした原因を

「長宗我部救援のため、信長による四国征伐を阻止することが目的だった」

と考える人もいます。

 

しかし、光秀や斎藤利三が事前に信長を討つということを、元親に知らせた書状などは見つかっていません。

 

また「本能寺の変」後に、長宗我部氏が光秀に味方したという記録はなく、秀吉の中国大返しを妨害することもありませんでした。

 

「本能寺の変」が結果として、長宗我部を救援することになったとしても、決してそれが目的だったとは言えないでしょう。

 

私個人は、「本能寺の変」の黒幕は「羽柴秀吉」で、光秀は罠にハメめられたのだ、と考えています。

 

信長が亡くなったことで一番得をしたのは、信長の死後たった3年で「関白」まで上り詰めた「秀吉」です。


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光秀が「四国・長宗我部」との調停役を信長に解任され、代わりに羽柴秀吉が就任した1581年、光秀にとってある重要な人物が亡くなりました。

 

その女性は『言経卿記』『兼見卿記』『多聞院日記』などの文献に、「光秀の妹」として登場する「オツマキ」と呼ばれた人です。

 

同一人物かどうかははっきりしていませんが、「オツマキ」と呼ばれて「光秀の妹」と書かれていることから、私個人は「オツマキ」は光秀の正室「妻木煕子の妹」ではないか、と考えています。

 

証明する史料はありませんが、この「オツマキ」とは、もしかしたら明智光秀の正室「煕子」の父「妻木範煕」が、光秀と煕子が婚約していた時代に、疱瘡(ほうそう・天然痘)にかかって顔に「あばた」ができた煕子の身代わりとして、光秀に嫁がせようとした妹「芳子」だったのかもしれません。

 

1581年8月

「惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也」

(光秀の妹オツマキが亡くなった、信長にとりわけ気に入られていた、光秀は非常にがっくりとしていた)」

と『多聞院日記』に書かれています。

 

「オツマキ」が、織田信長お気に入りの側室の1人だったのか、あるいは安土城に仕える女房衆の中でも、とりわけ信長に気に入られていたのかは、定かではありません。

 

しかし、「オツマキ」は気難しいお館様(信長)の、現在の状況と織田家中の他の武将の動向を、光秀に伝えていたでしょうから、相当心強い味方だったはずです。

 

もしこの「オツマキ」が、煕子の妹「芳子」だったのであれば、光秀は煕子によく似た面差しに、亡き妻の面影を見ていたでしょうし、それを楽しみにしていたのかもしれません。

 

そんな頼もしい身内を亡くし、ガックリとした光秀を、野心家であった羽柴秀吉が見逃さず、追い落とすなら今だ、と考えたのでしょう。


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折しも、「本能寺の変」発生直前、織田家中の有力武将はすべて遠くへと出払い、京都周辺にいたのは光秀のみ。

 

安土城訪問中の「徳川家康」も、京都の混乱に乗じて命を落としてくれれば、羽柴秀吉は、「明智光秀」、「徳川家康」という邪魔者を、一気に片付けることが可能です。

 

「家康がお館様のお命を狙っているから防いでほしい」

などと、羽柴秀吉は明智光秀に相談。

 

光秀は、「信長を守るため」と、京都へ兵を差し向けたら、信長が死んでいた・・・。

 

いつの間にやら、自分が信長を討ったということにされて、もはや取り返しのつかない一大事に発展してしまった、ということではないでしょうか。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

「本能寺の変」後に安土城のある近江を平定したのは当然ですが、用意周到な智将として知られた光秀にしては、その後の対応が後手に回っている感が否めません。

 

秀吉は「本能寺の変」後に、光秀が当てにした武将「高山右近」「中川清秀」らに

「織田信長公は、生きて京都に潜伏しておられる」

と伝え、光秀の孤立を図ったと言われています。

 

恐らく秀吉は、そうやって光秀を孤立させ、天下人に駆け上がって行ったのでしょう。

 

さて、「本能寺の変」で信長が亡くなったあと、阿波国を平定した「長宗我部元親」は、1583年、「賤ヶ岳の戦い」で「柴田勝家」に強力

 

1584年、「小牧・長久手の戦い」でも、「織田信雄」と「徳川家康」に味方して、徹底的に羽柴秀吉に抵抗をし続けます。

《柴田勝家》
「引用元ウィキペディアより」

1585年、四国の平定に成功した元親ですが、秀吉に攻められ、同年7月には降伏・臣従しました。

 

1586年、秀吉の家来「仙石秀久」がひきいた九州征伐の先遣隊に「長宗我部元親」は従軍。

 

このとき、「仙石秀久」は「島津家」に大敗。

 

元親は、最愛の嫡男「信親」を戦死させてしまい、それ以来人が変わったように残虐な行為を家臣にたいして行うようになってしまったのです。

 

1598年、豊臣秀吉が亡くなり、ちまたの政情が不安定になった頃、体調を崩しがちになった長宗我部元親は、1599年、静養先の京都・伏見で亡くなりました。

 

斎藤利三を通して繋がっていた「光秀」と「元親」ですが、「本能寺の変」は決して「長宗我部救済のため」ではなかったと、筆者は考えます。

 

メンツを潰された形になった光秀でしたが、信長を討って元親を救済しても、光秀には何のメリットもなかったでしょうから。


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『光秀と濃姫』について「ひとこと」言いたい!

歴史系のブログを見て回ると、「光秀と濃姫が恋仲だった」というロマンティックな記述を見つけることがあります。

 

私は見たことがないのですが、ドラマかなにかで、そのようなロマンティックな関係に光秀と濃姫は描かれているのでしょうか?

 

しかし、「斎藤道三」の娘として「鷺山城」にいた濃姫と、明智光安が城代を務めた「明智城」にいた光秀が顔を合わせる機会は、光秀が道三に仕えてはいても、そう多くはなかったはずです。

 

あくまでも創作の中の出来事でしょうね。

 

信長と細川藤孝は、1534年生まれの同い年です。

 

信長は「本能寺の変」で1582年に亡くなり、「関ヶ原の戦い」を生き抜いた藤孝は、1610年に亡くなりました。

 

では、彼らと1歳違いの1535年生まれの「濃姫」は、その後どうなったのでしょうか?

 

安土総見寺の『泰巌相公縁会名簿』名簿に、「鷺山殿」という人物の戒名と、亡くなった日が

「養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」

と書かれていたことが1992年に発表されました。

 

濃姫は鷺山殿と呼ばれていましたから、これが「濃姫」の戒名だとすれば、彼女は1612年まで生きていたことになります。

 

現代は男性より女性の平均寿命が長いですが、「戦国時代〜安土桃山時代」はどうだったのか、私にはわかりません。

 

しかし、1534年生まれの「細川藤孝」が、1610年に亡くなったことを考えても、この戒名の持ち主が1535年生まれの「濃姫」が1612年に亡くなったのだと考えるのに、無理はないと思います。

 

「関ヶ原の戦い」後も、濃姫が生き延びたのだとしたら、いとこ「光秀」が夫「信長」に謀反を起こし、死に追いやったと聞かされた後は、2人の冥福を祈りながら、静かに暮らしたのでしょうか?

 

濃姫と考えられる女性の墓所は、大徳寺総見院(京都市北区)の、信長の供養塔に並んで建てられています。

《京都大徳寺総見院信長供養塔と濃姫と思われる女性の供養塔:Wikipediaよりパブリックドメイン》


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,現在の定説によると「明智光秀」と織田信長の妻「帰蝶(濃姫)」は、「いとこ同士」。つまり、光秀の父親の妹「小見の方」が「斎藤道三」と結婚し「帰蝶」を生んだ。

 

2,光秀の娘「珠(ガラシャ)」と、細川藤孝の息子「細川忠興」は夫婦。光秀と藤孝は、子供同士が婚姻する以前から親しい間柄だった。光秀は越前国の大名「朝倉義景」に仕えていた頃に「細川藤孝」と出会ったと考えられている

 

3,光秀の部下「斎藤利三」の異父妹が、土佐国の戦国大名「長宗我部元親」の正室だった。織田信長は「長宗我部」氏を滅ぼそうと「四国征伐軍」を用意していたが、その「長曾我部」を救済するために光秀は「本能寺の変」が起こした、という説がある

明智光秀の生涯に、大きな影響を及ぼした人物は、「織田信長」以外に信長の正室・濃姫、細川藤孝、長宗我部元親の3人がいます。

 

濃姫」は、光秀と「いとこ同士」と考えられており、その血縁関係は、光秀が信長に仕えるキッカケと、出世の後ろ盾になりました。

 

越前で知り合った「足利義昭」の幕臣「細川藤孝」とは終生の友となり、互いの嫡男と三女を婚姻させ、姻戚関係となりました。

 

しかし「本能寺の変」の後、細川藤孝は明智光秀に味方することはなく、「山崎の戦い」で光秀が「羽柴秀吉」に敗れる一因ともなったのです。

 

光秀の家臣「斎藤利三」の親戚でもある「長宗我部元親」とは、利三を通して明智光秀と関係を結び、織田信長との同盟を締結。

 

光秀は「長宗我部元親」と「織田信長」の仲介役・調停役を果たしましたが、信長の「対四国政策変更」で、光秀はメンツを潰されました。

 

長宗我部元親が信長に抵抗したことで、四国征伐が開始。

 

その「四国征伐」を阻止して長宗我部元親を救済するために、光秀が「本能寺の変」を起こしたと、考える人もいますが、その場合に光秀には何もメリットがありません。

 

「本能寺の変」が起きた理由は、他に考えたほうがのではないでしょうか。

《坂本城跡の明智光秀銅像:夢さんさんによる写真ACからの写真》

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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