この記事では「明智光秀が生涯に名乗ったすべての名前」を、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「明智光秀の名前」について、カンタンに理解できます。
「明智光秀」は「十兵衛」「惟任日向守」「彦五郎」など、数多くの名前を持っていたのです。
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この記事を短く言うと
- 明智光秀は生涯で「彦五郎」「十兵衛」「惟任日向守」など、数々の名前を名乗っていた
- 明智光秀は「土岐氏」の出身であり、明智家は「土岐一族」の支流(分家)にあたる
- 明智光秀は【1575年】から、「惟任日向守」と名乗っているが、「惟任」とは「賜姓(しせい)」という、天皇から賜った姓である
明智光秀の本名は「明智」ではなく、「土岐」だった?
明智光秀は、美濃国の豪族「土岐氏」の一族であると言われています
「土岐は今 天が下知る 五月かな」
「本能寺の変」を起こす直前、光秀は
「土岐氏は今こそ天下にその名を知らしめるのだ(天下を支配するのだ)」
という意味の歌を呼んだと言われています。
土岐氏とは、足利尊氏とともに戦い、「ばさら大名」という異名で呼ばれた猛将「土岐頼遠」の一族。
土岐頼遠は、酒に酔っ払って光厳上皇の乗る輿(こし)に、矢を放ったという人物。斬罪で亡くなっています。
光秀は、この「土岐頼遠」の弟「頼基」の子孫にあたると考えられています。
明智家は、「土岐氏」の分家。
つまり「明智土岐氏」と呼ばれる家柄なのです。
光秀の故郷「美濃国」の守護を務めた「土岐一族」も、光秀と同族。
光秀は「明智光秀」と名乗っているものの、「土岐光秀」と名乗っても、不思議ではないわけです。
たとえば、「徳川家康」は、「源氏」を名乗っていましたが、ときどき「源家康」と名乗っていました。
光秀も「源氏」なので、「源光秀」と名乗っていても不思議ではないのです。
明智光秀が名乗った「名前」を一覧ですべて解説!
明智光秀には、複数の名前があります
その光秀が名乗った名前を、一覧でご紹介いたします。
- 【幼名】彦五郎
- 【通称・呼び名】十兵衛
- 【諱(いみな)】光秀
- 【氏】土岐
- 【本姓】清和源氏
- 【官位】従五位下日向守
- 【賜姓】惟任(これとう)
- 【号】咲庵
明智光秀の幼名は「彦五郎」と伝えられています。
また、明智家は「光」の一文字を諱(いみな)の通字として、代々先祖から子孫へと伝えてきました。
光秀の叔父は「光安」、父は「光綱」、祖父は「光継」と、全員が【光】の一文字をつかっています。
もともと明智家は、「清和天皇」の末裔にあたる「清和源氏」から出た一族。
美濃の「明智」という地に土着したため、「明智」という苗字を名乗ったと考えられています。
光秀の通称は「十兵衛」。
映画やドラマで、明智光秀は周囲の人から「みつひで」と呼ばれています。
しかし実際には、諱を呼ぶことは失礼なことであったため、「みつひで」と呼ばれることは、ほとんどなかったはずです。
明治維新の英雄「西郷隆盛」は、その本名を誰からも呼ばれたことがなかったため、長年の友人から名前を間違えられたと言います。(本名は「隆永」だったが、友達から「隆盛」と間違えられたため、それをきっかけに「隆盛」と改名した)
光秀は通称の「十兵衛」または「明智」や「日向守」と呼ばれていたはずなのです。
「惟任日向守光秀」という名前の意味とは?
明智光秀は、【天正3年(1575年)7月】に、「惟任日向守光秀(これとうひゅうがのかみみつひで)」と名乗ります。
この「惟任日向守」とは、どういう意味なのでしょうか?
結論からいえば「惟任日向守」という名前には、「信長から深く信頼されていた事実」と「光秀の未来」が暗示されています。
「惟任」とは、「賜姓(しせい)」。
つまり「天皇」が、功績のある者に対して、褒美として「姓」を賜ることです。
光秀は「日向守」という、九州の日向国(宮崎県)の長官を意味する官位をもらうとともに、「惟任」という由緒正しい「姓」を、天皇からもらっています。
ちなみにこのとき、織田信長の有力家臣「丹羽長秀」もまた、「惟住(これずみ)」という姓を賜っています。
「羽柴秀吉」は、「筑前守」という官位をもらっています。
「賜姓」と「官位」、両方をもらったのは、「明智光秀」だけだったわけです。
光秀はそれだけ織田信長から信頼され、評価されていたのです。
おそらく光秀は、のちに「日向国」を領地としてもらう予定だったのでしょう。
この「惟任日向守」という名前は、「信長からの深い信頼」と「未来の支配領域」を意味した名前だったと考えられます。
『明智光秀』について「ひとこと」いいたい
明智光秀はこれまで、「主君の織田信長を討ち果たした人物」として、あまり評判がよくありませんでした。
近年やっと再評価がされて、その支配領域では「名君」として領民に慕われていた事実が明らかとなりました。
主君の織田信長は、「明智光秀」を事あるごとに殴り、罵り、ひどい目にあわせてきたと言われています。
しかし、「織田信長」は「明智光秀」を誰よりも信頼していました。
信長が信頼した部下といえば、「明智光秀」のほかには「羽柴秀吉」「丹羽長秀」といったところでしょうか。
ところが、羽柴秀吉には与力大名の領地を合わせて120万石。
丹羽長秀は「明智光秀」や「羽柴秀吉」「柴田勝家」のような「方面軍」が任されておらず、方面軍司令官「織田信孝」の補佐役という役どころです。
明智光秀は「近畿管領」とも呼ばれる、「近畿方面軍司令官」が任されていました。
さらに、与力大名あわせて、その支配領域は240万石。
羽柴秀吉の2倍です。
しかも「近畿地方」は、織田信長の本拠地。
その本拠地の軍団は、全て明智光秀に任されていたわけです。
信長を守る軍団は、全て光秀の指揮下にあったということ。
これは、信長が明智光秀にたいして、絶大な信頼をおいていたことを意味します。
光秀が、なぜあれほどまでにあっけなく、覇王「織田信長」を討てたのかというと、信長からの絶大な信頼を裏切ったから・・・といえます。
光秀は信長からとてつもなく信頼されていたからこそ、簡単に信長を討つことができたのです。
だからこそ、後世の人々は「本能寺の変」を「戦国最大のミステリー」と呼んで頭を抱えるのです。
「なぜ、信長から絶大な信頼を勝ち取っていた光秀が、その信長を殺さなくてはいけなかったのか」
「本能寺の変」に隠された謎は、今もハッキリしておらず、人々を悩ませています。
「本能寺の変」の真相については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,明智光秀は「彦五郎」「十兵衛」「惟任日向守」など多くの名前を持っていた
2,明智光秀は「土岐氏」の出身で、明智家は「土岐氏」の支流(分家)にあたる
3,光秀は【1575年】から、「惟任日向守」と名乗っている。「惟任」とは天皇から賜った姓のこと
以上となります。
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