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斎藤利三の全てを解説!家系図や子孫に春日局との関係も完全網羅

皆さんは「斎藤利三(さいとう としみつ)」を、ご存知でしょうか?

 

実は「斎藤利三」について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

 

この記事では「斎藤利三の子孫や家系図、春日局との関係など」を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

 

今は「斎藤利三」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、「斎藤利三」に詳しくなれます。

 

この記事を読んで、「斎藤利三」の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,「斎藤利三(さいとう としみつ)」とは、【1582年】の「本能寺の変」で、「織田信長」を討ち果たした武将「明智光秀」につかえた家来だった武将

 

2,斎藤利三は【撫子紋(なでしこもん)】という家紋を使っていた

 

3,「春日局」は「斎藤利三」の娘にあたる。春日局とは、徳川将軍家の三代将軍「徳川家光」の乳母、すなわち教育係をつとめた女性。その後、絶大な権力を握って、江戸城「大奥」を創設した。

【斎藤利三】とは何者なのか?

「斎藤利三」とは、あの「織田信長」を討ち果たした武将「明智光秀」につかえた家来です。

 

猛将として知られており、「明智光秀」の重臣「明智五宿老」の一人に数えられています。

《斎藤利三》
『引用元ウィキペディアより』

 

斎藤利三は、もともと「斎藤道三」の重臣だった「美濃三人衆」の一人「稲葉良通(稲葉一鉄)」に仕えた武将でした。

 

「稲葉一鉄」の娘「安」が、斎藤利三の妻となっています。

 

ところが稲葉一鉄と喧嘩してしまい、明智光秀に仕えることとなります。

 

その後は光秀の重臣「明智秀満」とともに筆頭家老として活躍。

 

「丹波黒井城」を与えられて城主となっています。

 

利三は、異母妹が四国の大名「長宗我部元親」の妻となっていた縁で、長宗我部との外交を担当していました。(「長宗我部元親」との外交が原因で、光秀は「本能寺の変」を起こしたという説がある【本能寺の変・四国説】)

 

そして【1582年】、「斎藤利三」は主君「明智光秀」とともに「本能寺の変」を起こして「織田信長」を討ち果たします。

 

ちなみに「本能寺の変」では、「斎藤道三」の息子で、利三の妻「安」の妹婿にあたる「斎藤利治(としはる)」を討ち果たしています。(つまり「道三の息子「斎藤利治」は「斎藤利三」の義弟にあたる)

 

「本能寺の変」から11日後、「明智光秀」は「羽柴秀吉」との「山崎の戦い」で敗北。

 

捕らえられた斎藤利三は、秀吉によって処刑されています

 

享年49歳。



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斎藤利三がつかった「家紋」

斎藤利三は【撫子紋(なでしこもん)】という家紋を使っていたと考えられます。

 

「撫子紋」とは、撫子の花を模した家紋。

《撫子紋・なでしこもん》
「引用元ウィキペディアより」

 

利三の実家である「美濃斎藤家」は、もともと「美濃国」の守護代の家柄でした。

 

しかし「長井規秀」という武将が、この守護代「斎藤家」の名跡を乗っ取り、「斎藤道三」と名乗ったのです。

 

「斎藤利三」は、「道三」の家来だった「稲葉一鉄」につかえていました。

 

利三は、主君「稲葉一鉄」の娘を妻にしています。

 

ところが利三はその後、「稲葉一鉄」の家来をやめて「明智光秀」に仕えるようになるのです。



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斎藤利三と「春日局」の関係

斎藤利三と「春日局」は、親子です。

 

「春日局」は斎藤利三の娘にあたります。

 

春日局とは、徳川将軍家の三代将軍「徳川家光」の乳母、すなわち教育係をつとめた女性です。

 

家光は「徳川家康」の孫であり、二代将軍「徳川秀忠」と織田信長の姪「お江」、この二人の息子にあたる人物です。

 

春日局は、のちに「大奥」を創設し、すさまじい権勢を誇った女性です。

 

彼女は「徳川家光」から母親のように慕われ、信頼されていたため、その後ろ盾で絶大な権力を振るったといわれています。



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斎藤利三の「子孫」と「家系図」

斎藤利三の子孫は、春日局を通じて、「稲葉」という苗字で代々続いていきました。

「《斎藤利三の家系図》
家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

 

「春日局」は、「稲葉正成」という武将へと嫁いでいたため、彼女の子供は「稲葉」という姓を名乗っていました。

 

ところが「春日局」は、家光の乳母になるにあたって、夫「稲葉正成」と離婚しています。

 

春日局の息子「稲葉正勝」は、「徳川家光」の側近として活躍。

 

その子孫は、「稲葉正綱」の代で、明治維新をむかえています。

 

さて、その「稲葉正綱」のお墓ですが、「東京・青山霊園」にあります。

 

その墓石には

「稲葉家は、稲葉正綱の孫『正輝』の代で途絶えた」

と記されているのです。

 

正綱には、貴族院議員「稲葉正凱(まさよし)」という息子がいたらしいのです。

 

この「正凱」の子が、お墓に刻まれていた「正輝」であり、そこで「稲葉家」は途絶えたのだとか。

 

しかし、「斎藤利三」の血を引く他の子供や孫から、現代まで続く子孫がいても、全く不思議ではありません。

 

ただ、その「他の子孫」については、詳しい情報が見つかっておりません。



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斎藤利三の親友「海北友松」の逸話

絵師「海北友松(かいほう ゆうしょう)」は、斎藤利三の親友だったと言われています。

 

「海北友松」とは、「豊臣秀吉」にも認められた、当時もっとも有名だった「絵師」「画家」です。

 

「狩野永徳」の弟子とも言われており、『海北派』という一派の始祖となった人物。

 

斎藤利三は、「山崎の戦い」で敗北したあと、市中引き回しにされて処刑。

 

「明智光秀」のご遺体とともに「はりつけ」になったのですが、その「斎藤利三」の遺体を取り戻したのが海北友松です。

 

海北友松は、槍を振り回して見張りを倒し、親友「斎藤利三」の遺体を奪い取って、埋葬したと言われています。

 

その後、海北友松は「絵師」として活躍し「海北派」という一派を創設。

 

京都府京都市左京区の「真正極楽寺」には、海北友松の墓がありますが、その隣には親友「斎藤利三」のお墓が並んでいます。



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「斎藤利三」が亡くなったその後、何が起こったのか?

「斎藤利三」が亡くなった8年後の1590年に「豊臣秀吉」が天下統一に成功。

 

しかし「秀吉」は【1598年】に死去。

 

その後、豊臣家は一気に没落していくことになります。

 

「斎藤利三」の娘「お福」は、謀反人の娘として、かなりつらい生活を余儀なくされたと言われています。

 

しかし、二代将軍「徳川秀忠」に嫡男「竹千代(のちの徳川家光)」が誕生すると、「お福」はその乳母として採用されることになるのです。

 

その後、「お福」は「徳川家光」の後ろ盾を得て、絶大な権力を握り、「大奥」の創設などに尽力。

 

朝廷から「従三位」の位階と、「春日局」という称号を与えられるほどになります。

 

のちに「従二位」にまで昇り、「源頼朝」の妻「北条政子」と並ぶ位にまで上りつめたのでした。

 

「斎藤利三」を倒した「豊臣家」は、「利三」が亡くなってから【33年後】の【1615年】に「大坂・夏の陣」で滅亡。

 

図らずも、父「斎藤利三」の仇討ちは、「春日局」が仕えた「徳川家」によって、果たされることとなったのです。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,「斎藤利三(さいとう としみつ)」とは、「織田信長」を倒した武将「明智光秀」につかえた家来

 

2,斎藤利三は【撫子紋】という「撫子の花」を模した家紋を使っていた

 

3,「春日局」は「斎藤利三」の娘。春日局とは、徳川三代将軍「徳川家光」の乳母、教育係をつとめ、絶大な権力を握った女性。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

 

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