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明智光秀の死因は?どこで亡くなったのか地図でわかりやすく簡単に解説

明智光秀の死因は何だったのか?どこで亡くなったのか?

わかりやすく簡単に解説いたします。

光秀は、明智薮あけちやぶと呼ばれる場所で、落武者に槍で突かれて亡くなったのです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  • 光秀の死因は、腰への槍の一撃、そして切腹
  • 京都市の明智薮と呼ばれる場所で亡くなった
  • 本能寺の変の動機は、主君・織田信長が命令をコロコロ変えたため、光秀が愛想を尽かしてキレたこと
  • 光秀が豊臣秀吉に敗北した山崎の戦いで、後に運命の分かれ道を意味する言葉となる場所・天王山は、あんまり重要じゃなかった

目次

明智光秀の死因と場所

明智光秀の死因!なぜ亡くなったのか?

明智光秀は、落武者狩りに腰のあたりをびついたやり(または竹槍たけやり)で刺され、亡くなったといいます。

もしくは、その槍による傷が深いことを悟り、部下に介錯かいしゃく(とどめの一撃)を頼んで、切腹したともいわれています。

主君・織田信長本能寺の変で殺害した逆臣・明智光秀

明智光秀
引用元ウィキペディアより

本能寺の変が起こったのは【天正10年(1582年)6月2日】です

光秀が亡くなったのは、11日後の6月13日。

山崎の戦いで、羽柴秀吉が率いる4万の軍団に、わずか1万数千で相対した光秀。

わずか数時間の戦いで敗北した光秀は、近江(滋賀県)にある居城・坂本城へ敗走。

その途中、京都で落武者狩りに襲われ、亡くなったといわれています。


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明智光秀は、どこで死んだのか?

明智光秀が亡くなった場所は、小栗栖おぐるす(現在の京都市伏見区)という場所です。

その亡くなった場所は、現在【明智藪あけちやぶ】と呼ばれています。

光秀の首は、近くのみぞに隠されたということですが、発見されて結局は京都でさらされたといわれています。

その首は、のちに京都市東山に埋められたとされており、現在も首塚が残されています。

明智光秀の首塚は、とても細い道の途中にあり、うっかり見逃してしまいかねない場所にありました。

京都市・明智光秀の首塚

死因は、切腹からの介錯かいしゃく(介錯とは、とどめの一撃のこと)。

または腰骨のあたりへの負傷と出血といわれています。

三日天下みっかてんかといわれた光秀の天下。

実際には11日でしたが、その最期は無惨なものだったようです。


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本能寺の変を起こした動機・最新の説とは?

本能寺の変の動機は、最新説によると、四国の長宗我部元親を救うためといわれています。

これまで光秀の突然の謀反は、動機が謎とされてきました。

などが黒幕だったという黒幕説。

または光秀による単独犯説。

あらゆる説が唱えられていたのです。

最新の研究では、光秀は朝令暮改を繰り返す信長に愛想を尽かしたという説が有力なようです。

織田信長
引用元ウィキペディアより

本能寺の変が起こった6月2日は、信長の三男・織田信孝と重臣・丹羽長秀が、四国方面軍を出撃させて四国の長宗我部元親の討伐を開始する日の前日でした。

長宗我部元親は、元々織田信長へ降伏したいと申し出ていた人物です。

長宗我部元親
引用元ウィキペディアより

長宗我部は、信長に降伏するため、光秀と長いあいだ交渉をしていたのです。

実は長宗我部元親は、織田信長を後ろ盾にして、四国を制圧する直前まで勢力を拡大していました。

しかし降伏するにあたり、四国の4カ国の内、2カ国を信長に差し出すようにと光秀は迫っていたのです。

それをなんとか納得させた光秀。

それなのに信長は突如として態度を変え「3カ国よこせ」と言い出しました。

命令に従い、光秀は交渉を再開。

長宗我部元親は、渋々土佐一国以外、全ての領地を差し出すことで納得。

するとまた信長は気が変わり、長宗我部を滅ぼして4カ国全てを手にしようと言い出し、三男・織田信孝を司令官に任命して方面軍を差し向けたのです。

面目を潰された光秀は、信長の朝令暮改に嫌気が差し、自分との交渉に応え続けてくれた長宗我部を守るために、信長を殺害。

最近の研究では、これが最も有力な説と言われているみたいですね。


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実は天王山は重要じゃなかった?

戦いの勝負所としてことわざができるほど有名な天王山

しかし、山崎の戦いで天王山はそれほど重要じゃなかったと、近年の研究ではいわれているようです。

光秀と秀吉が、互いの運命をかけて戦った山崎の戦い

この山崎の戦いは天王山という場所を制圧したほうが勝利できるとされてきました。

しかし、天王山の争奪戦は創作である可能性が高いと言われています。

太閤記などの資料では天王山を制圧したことで、一気に流れが変わり、光秀は敗北した、ということになっているのです

しかし一次資料で信憑性の高い浅野家文書や秀吉事記などに天王山争奪戦は全く登場しないのです。

つまり、天王山はそれほど重要だったわけではなく、もっといえば、天王山争奪戦自体が行われていたかどうか、それすら怪しいのだとか・・・。

この山崎の戦いから、運命の分かれ道・勝敗を分ける正念場を天王山というようになったのですが、実際には天王山は、秀吉と光秀の運命を分けた場所ではなかったということですね。

山崎の戦いは、序盤は光秀が優勢だったと言われてきましたが、実際には戦闘開始直後から秀吉の圧勝だったみたいです。

秀吉軍のほうが3倍近い兵力だったのだから、当然といえば当然です。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  • 光秀の死因は腰骨あたりへの槍の一撃からの切腹
  • 本能寺の変の動機は、朝令暮改の織田信長に、光秀がキレた
  • 秀吉との山崎の戦いで、天王山は重要じゃなかった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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