本能寺の変で「織田信長」を討った「明智光秀」
光秀の最後の地とは?そして、何日に亡くなったのか?
「信長に殺害された母親」の命日に、光秀は「本能寺の変」を起こした?
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この記事を短く言うと
・光秀の最期の地は「京都・小栗栖」で、現在の「京都市伏見区」にある「明智藪」
・光秀が本能寺の変を起こしたのは、「母の復讐」が動機という説もあり、本能寺の変は母の命日に行われたという説もあった
・最新の研究では、「怨恨」ではなく、織田信長の命令がコロコロ変わることに光秀がキレた!という説が有力らしい
明智光秀の最後の地はどこ?
本能寺の変で「織田信長」を倒し、「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に敗北した「明智光秀」
その最期の地は、何処だったのでしょうか?
光秀が亡くなったのは京都の「小栗栖(おぐるす)」と呼ばれる地。
この場所は現在の「京都府伏見区」
光秀の最期の場所は「明智藪(あけちやぶ)」と名付けられており、石碑が建てられています。
亡くなったのは旧暦で「6月13日」・・・新暦では「7月2日」
最期は「落ち武者刈り」の槍で腰骨の辺りを貫かれて絶命したとか、なんとか生き残って切腹したとか言われています。
首は秀吉の元に届けられ、最終的に京都で「さらし首」となっています。
明智光秀は、母親の命日に「本能寺の変」を起こした?
光秀が本能寺の変で「織田信長」を殺害した動機・・・「母親の復讐」という説が存在しています。
1579年、明智光秀は難攻不落の山岳地帯「丹波国」を攻略し、信長に絶賛されています。
この丹波攻略の最中、「波多野秀治」という丹波国の豪族が、当初は光秀の味方をしていたのですが、突然光秀を裏切っています。
この波多野秀治が治める「八上城」を、光秀は攻略。
そして波多野秀治は降伏を決意し、安土城の織田信長に謁見することを約束したのでした。
安土城へ行く際に、「波多野秀治の安全」を保証するために、光秀は自分の「母親」を、人質として八上城で預ける事となったのです。
信長は、光秀の母が人質となっていることを、知っていたにも関わらず、裏切り者の「波多野秀治」を殺害してしまいます。
主君を殺されたことに激怒した波多野一族は、光秀の母を磔にして殺害。
現在の兵庫県・八上城には「はりつけ松」といって、光秀の母が磔にされたと伝えられる「松」の跡があるのだとか・・・。
この松の跡・・・・なんど植え替えても枯れてしまうと言われているようです。
この母親の命日が「6月2日」。
本能寺の変も「6月2日」。
明智光秀は、織田信長討伐の名目を「母親の仇」を主張したかったのかもしれません。
実は、自分の正当性を主張するために、その命日に「仇討ち」を実行するというのは、日本の歴史では結構よくあることなのです。
例えば、有名な「忠臣蔵」では、月は違っても主君「浅野内匠頭」の月命日に、仇の「吉良上野介」の家に突入して、これを討ち果たしています。
「足利尊氏」は、重臣「高師直」の仇である実弟「足利直義」を、その命日に毒殺しています。
光秀も、「母の仇討ち」のため、その命日に「本能寺の変」を起こしたのでしょうか?
「光秀」の母親殺害の真実!
明智光秀の母親が、信長に見捨てられて亡くなった・・。
これは、けっこう有名な話ですが、実はこれ、すべて後世の創作。
実は母親は「八上城」へ人質になどなっておらず、城主「波多野秀治」は籠城するための食料が欠乏したため、ただ降伏しただけ。
光秀の母親が「はりつけ」になったというのも創作。
「はりつけの松」で、光秀の母親が亡くなった・・・という事実もありません。
光秀は、その配下や与力大名が支配する地域も含めれば「240万石」もの領地を信長に任されていました。
ライバルの秀吉ですら、「120万石」前後です。
光秀は、信長から最も信頼された家来だったのです。
ですので「本能寺で主君の織田信長を討った」というのは、当時から信じがたい暴挙だったんですね。
長年のあいだ、謎とされてきた「本能寺の変」の動機・・・謎が解けなかった理由は、この「信頼」にあったわけです。
最近の説では「四国への対応をめぐって、信長の朝令暮改に光秀がキレた」という説が有力なようです。
元々、織田信長は、中国の大名「長宗我部」の降伏の申し出を認めて、長宗我部家当主の「長宗我部元親」を臣下にする予定でした。
そのため、長宗我部家の臣従を認める条件として、「四国の2カ国をよこせ」と条件を出し、光秀が交渉を担当。
長宗我部家はこの条件をのんだ・・・はずが、信長は突然四国征伐軍を編成し、三男・信孝を司令官にして「6月2日」に出撃を命令。
交渉を担当していた光秀は、信長の命令変更に面目丸つぶれで、「信用出来ないやつ」という評判が・・。
長宗我部家を助けるために、四国征伐軍出発当日に光秀は「信長」を殺害したのです。
これが最近最も有力な説と言われているようですね。
「本能寺の変の真実」については、以下のリンク記事で詳しく解説させていただいております。
「明智光秀・生存説」は、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・光秀の最期の地は、京都・小栗栖・・・現在の「京都市伏見区」の「明智藪」
・本能寺の変は、明智光秀の母親の復讐だったという説がある
・しかし、最近では「母親の復讐」説は創作で「信長の朝令暮改に光秀がキレた」という説が有力
以上となります。
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コメント
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今、三浦綾子読書会で彼女の書いた「細川ガラシャ」をしております。
明智光秀を父に持ち、信長の命により細川忠興と結婚しますが、その運命も悲惨でした。
文献を探しているうちに、ここに辿りつきました。
また寄らせて下さい。
いつもお世話になっております。
この度は当サイトをご利用いただき、誠にありがとうございました
「細川ガラシャ」
絶世の美女でありながら、父「明智光秀」の謀反により、夫から軟禁生活を余儀なくされた悲劇の女性ですね。
関ヶ原の戦い直前に自害なさったお方・・・。
いつか私どものサイトでも「細川ガラシャ」について記事を書きたいと考えています。
もしもよろしければ、今後も当サイトをぜひぜひご利用くださいませ。
ありがとうございました