明智光秀の最後の地と日付!人質となり死んだ母親の命日に信長殺害?

本能寺の変で「織田信長」を討った「明智光秀」

光秀の最後の地とは?そして、何日に亡くなったのか?

「信長に殺害された母親」の命日に、光秀は「本能寺の変」を起こした?


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この記事を短く言うと
・光秀の最期の地は「京都・小栗栖」で、現在の「京都市伏見区」にある「明智藪」

・光秀が本能寺の変を起こしたのは、「母の復讐」が動機という説もあり、本能寺の変は母の命日に行われたという説もあった

・最新の研究では、「怨恨」ではなく、織田信長の命令がコロコロ変わることに光秀がキレた!という説が有力らしい


明智光秀の最後の地はどこ?

本能寺の変で「織田信長」を倒し、「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に敗北した「明智光秀

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

その最期の地は、何処だったのでしょうか?

光秀が亡くなったのは京都の「小栗栖(おぐるす)」と呼ばれる地。

この場所は現在の「京都府伏見区」

光秀の最期の場所は「明智藪(あけちやぶ)」と名付けられており、石碑が建てられています。

 

亡くなったのは旧暦で「6月13日」・・・新暦では「7月2日」

最期は「落ち武者刈り」の槍で腰骨の辺りを貫かれて絶命したとか、なんとか生き残って切腹したとか言われています。

首は秀吉の元に届けられ、最終的に京都で「さらし首」となっています。


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明智光秀は、母親の命日に「本能寺の変」を起こした?

光秀が本能寺の変で「織田信長」を殺害した動機・・・「母親の復讐」という説が存在しています。

1579年、明智光秀は難攻不落の山岳地帯「丹波国」を攻略し、信長に絶賛されています。

この丹波攻略の最中、「波多野秀治」という丹波国の豪族が、当初は光秀の味方をしていたのですが、突然光秀を裏切っています。

この波多野秀治が治める「八上城」を、光秀は攻略。

そして波多野秀治は降伏を決意し、安土城の織田信長に謁見することを約束したのでした。

安土城へ行く際に、「波多野秀治の安全」を保証するために、光秀は自分の「母親」を、人質として八上城で預ける事となったのです。

信長は、光秀の母が人質となっていることを、知っていたにも関わらず、裏切り者の「波多野秀治」を殺害してしまいます。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

主君を殺されたことに激怒した波多野一族は、光秀の母を磔にして殺害。

現在の兵庫県・八上城には「はりつけ松」といって、光秀の母が磔にされたと伝えられる「松」の跡があるのだとか・・・。

この松の跡・・・・なんど植え替えても枯れてしまうと言われているようです。

この母親の命日が「6月2日」。

本能寺の変も「6月2日」。

明智光秀は、織田信長討伐の名目を「母親の仇」を主張したかったのかもしれません。

実は、自分の正当性を主張するために、その命日に「仇討ち」を実行するというのは、日本の歴史では結構よくあることなのです。

例えば、有名な「忠臣蔵」では、月は違っても主君「浅野内匠頭」の月命日に、仇の「吉良上野介」の家に突入して、これを討ち果たしています。

「足利尊氏」は、重臣「高師直」の仇である実弟「足利直義」を、その命日に毒殺しています。

光秀も、「母の仇討ち」のため、その命日に「本能寺の変」を起こしたのでしょうか?


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「光秀」の母親殺害の真実!

明智光秀の母親が、信長に見捨てられて亡くなった・・。

これは、けっこう有名な話ですが、実はこれ、すべて後世の創作。

実は母親は「八上城」へ人質になどなっておらず、城主「波多野秀治」は籠城するための食料が欠乏したため、ただ降伏しただけ。

光秀の母親が「はりつけ」になったというのも創作。

「はりつけの松」で、光秀の母親が亡くなった・・・という事実もありません。

光秀は、その配下や与力大名が支配する地域も含めれば「240万石」もの領地を信長に任されていました。

ライバルの秀吉ですら、「120万石」前後です。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)
「引用元ウィキペディアより」

光秀は、信長から最も信頼された家来だったのです。

ですので「本能寺で主君の織田信長を討った」というのは、当時から信じがたい暴挙だったんですね。

長年のあいだ、謎とされてきた「本能寺の変」の動機・・・謎が解けなかった理由は、この「信頼」にあったわけです。

最近の説では「四国への対応をめぐって、信長の朝令暮改に光秀がキレた」という説が有力なようです。

元々、織田信長は、中国の大名「長宗我部」の降伏の申し出を認めて、長宗我部家当主の「長宗我部元親」を臣下にする予定でした。

《長宗我部元親》
「引用元ウィキペディアより」

そのため、長宗我部家の臣従を認める条件として、「四国の2カ国をよこせ」と条件を出し、光秀が交渉を担当。

長宗我部家はこの条件をのんだ・・・はずが、信長は突然四国征伐軍を編成し、三男・信孝を司令官にして「6月2日」に出撃を命令。

《織田信孝》
「引用元ウィキペディアより」

交渉を担当していた光秀は、信長の命令変更に面目丸つぶれで、「信用出来ないやつ」という評判が・・。

長宗我部家を助けるために、四国征伐軍出発当日に光秀は「信長」を殺害したのです。

これが最近最も有力な説と言われているようですね。


本能寺の変の真実」については、以下のリンク記事で詳しく解説させていただいております。

「明智光秀の死因は何?本能寺の変を起こした動機・理由や真実を解説!」の記事はコチラ

明智光秀・生存説」は、以下のリンク記事で、詳しく解説させていただいております。

「明智光秀の家紋・桔梗紋の意味と読み方とは?日光東照宮に刻まれた理由」の記事はコチラ

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まとめ

本日の記事をまとめますと

・光秀の最期の地は、京都・小栗栖・・・現在の「京都市伏見区」の「明智藪」

・本能寺の変は、明智光秀の母親の復讐だったという説がある

・しかし、最近では「母親の復讐」説は創作で「信長の朝令暮改に光秀がキレた」という説が有力

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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明智光秀の全てを徹底解説!年表からエピソードや性格まで完全網羅』 の記事はコチラ
「明智光秀と織田信長・豊臣秀吉の関係を解説!実は互いを憎んでいた?」の記事はコチラ
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コメント

    • sakura
    • 2019年 6月 16日

    今、三浦綾子読書会で彼女の書いた「細川ガラシャ」をしております。

    明智光秀を父に持ち、信長の命により細川忠興と結婚しますが、その運命も悲惨でした。
    文献を探しているうちに、ここに辿りつきました。

    また寄らせて下さい。

      • rekishiru
      • 2019年 6月 20日

      いつもお世話になっております。
      この度は当サイトをご利用いただき、誠にありがとうございました
      「細川ガラシャ」
      絶世の美女でありながら、父「明智光秀」の謀反により、夫から軟禁生活を余儀なくされた悲劇の女性ですね。
      関ヶ原の戦い直前に自害なさったお方・・・。
      いつか私どものサイトでも「細川ガラシャ」について記事を書きたいと考えています。

      もしもよろしければ、今後も当サイトをぜひぜひご利用くださいませ。
      ありがとうございました

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