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【細川藤孝】本能寺の変で明智光秀を見捨てた理由!実は秘策があった

この記事では「なぜ細川藤孝は、本能寺の変の直後に、盟友の明智光秀に味方しなかったのか」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。

 

これを読めば「細川藤孝の考えていたこと」を、カンタンに理解できます。

 

「細川藤孝」は「光秀が勝っても敗けても、どちらにしても生き残れる秘策を用意していた」のです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,細川藤孝が「本能寺の変」の直後に「明智光秀」に味方しなかった理由は、表向きは「主君・織田信長を殺した謀反人である光秀には味方できない」というものだったが、本音では「明智光秀に味方しても生き残れない」と判断したため

 

2,藤孝は、「明智光秀」を見捨てたものの、もし万が一「光秀」が勝利しても、息子「忠興」の妻である「ガラシャ(玉)」を通じて、光秀との関係修復をすることを考えていた。

 

3,もしも「光秀」が「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に勝利していたら、藤孝は「ガラシャ」を通じて光秀に降伏していただろう。

細川藤孝が「本能寺の変」で明智光秀を見捨てた理由とは?

細川藤孝が「本能寺の変」のあと、「明智光秀」を見捨てた理由は、「主君を裏切ったような者には味方できない」と判断したからです。

《天授庵所蔵の細川藤孝(幽斎)肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン》

 

 

「貴様は主君を裏切った卑怯者だ!

そんな奴には絶対に協力できない!

今後、貴様と私は敵同士だ!」

もっとも信頼し、長年ともに戦ってきた友人に、真っ向からそう言われたら、どんな気持ちになるでしょうか?

 

明智光秀は、もっとも信頼し、どんなときでも味方でいてくれると信じていた友人「細川藤孝」から、そう言われたのです。

 

しかし、これはあくまでも表向きの理由です。

 

藤孝の本心は、別のところにあったと考えられます。

 

「細川藤孝」の本音は、こうです。

「明智光秀には勝ち目はない。

羽柴秀吉や柴田勝家に、光秀は間違いなく滅ぼされる。

光秀に味方したら細川家も滅びかねない」

だから、光秀に味方すべきでないと判断したのです。



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細川藤孝の子孫で、元総理大臣の「細川護熙(ほそかわ もりひろ)」氏が言うには、「本能寺の変」が起こったとき、藤孝は本拠地「丹後(京都府北部)」にいました。

 

信長が亡くなってからわずか「3時間」ほどで、細川藤孝は「本能寺の変」を知ったらしいです。

 

京都から100kmも離れた「丹後」へ、わずか「3時間」とは、凄まじい速さです。

 

このように、完璧ともいうべき情報網を構築していた藤孝は、周囲の情勢を細かく、しかも正確に分析を開始。

 

そうして導き出された結論が

「明智光秀に勝ち目はなく、光秀は天下を取ることができない」

というものだったのでしょう。

 

そこで藤孝は、「織田信長への敬意」を表すために、髪の毛を剃ってその死を弔ったのです。

 

そうすることで「光秀」と敵対する意思を明らかにしたのでした。

 

しかし藤孝は、予想に反して「光秀が天下をとった」としても、細川家が生き残れるように秘策を用意していました。

 

その秘策が、「明智光秀」の娘であり、藤孝の息子「忠興」の妻「ガラシャ(玉)」だったのです。



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藤孝が用意していた秘策とは?

藤孝は「ガラシャ」を、「明智光秀が天下を取ったときのため」の秘策として温存していました。

 

もしも「明智光秀」が天下を取ったとしても、光秀の娘「ガラシャ」に光秀を説得してもらい、細川家を許してもらおうと考えたのです。

 

その証拠に、細川藤孝・忠興親子は、謀反人「明智光秀」の娘である「ガラシャ」を「追放」するでもなく、「処刑」するでもなく、ただ「幽閉」していました。

 

こういう場合、通常は「実家へ送り返す」のが当時の常識でした。

 

例えば、「明智光秀」の長女が「荒木村重」の息子「村次」に嫁いでいました。

 

その「荒木村重」が「織田信長」を裏切って謀反を起こしたのです。

 

そのとき、「荒木村重」は息子の妻である「光秀の娘」を、光秀のもとへ送り返しています。

 

「明智光秀」の長女は直後に「明智秀満」と再婚し、荒木村重との関係を断ち切っています。



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細川藤孝は、「ガラシャ」を返すわけでもなく、かといって処刑もせずに山奥へと幽閉。

 

その理由は、「明智光秀がもし万が一、天下を取った場合、ガラシャに仲介してもあって、細川家の存続を図ろうとした」からでしょう。

 

細川藤孝は、「織田信長」への忠誠心が強かったから「明智光秀」を見捨てたのではありません。

 

「明智光秀には勝ち目がない」

 

冷徹なまでに、そう判断したにすぎないのです。

 

どこまでもしたたかな「細川藤孝」。

 

ただただ、自らの生存を目指していたに過ぎないのでしょう。

 

そんな細川家だからこそ、「鎌倉時代」から現在まで、名家としてその家名を守り続けることができているのです。



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もしも明智光秀が「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に勝利していたら、藤孝はどうしていた?

もしも「明智光秀」が「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に勝利していたら、光秀は天下を取れていたのでしょうか?

 

「細川藤孝」が協力しただけでは、「光秀」が天下を取ることはできなかったでしょう。

 

光秀は、周囲を敵に囲まれすぎていたからです。

 

もしも光秀が勝ったら、藤孝はどうしていたでしょうか?

 

藤孝は当時、それほど多くの軍を持ってはいませんでした。

 

そのため光秀がもしも「山崎の戦い」で秀吉に勝利していたら、光秀に攻められていたはずです。



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「関ヶ原の戦い」で、少数の軍団で徹底抗戦した猛将「細川藤孝」が、そう簡単に降伏したとは思えません。

 

丹後の居城に籠城して、光秀と戦いながら、「柴田勝家」など、織田家の援軍をまつ戦略を描いていたはずです。

 

しかし援軍が来なかったら、藤孝は「ガラシャ」をつかって光秀との関係を修復しようとしたでしょう。

 

そうして生き残ることで、なんとか「細川家」の家名を存続しようとしたはず。

 

光秀も、娘の嫁ぎ先であり、盟友「細川藤孝」が降伏したら、命や領地まで奪おうとはしなかったはずです。

 

そんなしたたかな細川藤孝のことなので、「明智光秀」に一度は降伏しても、光秀の旗色がわるくなったら、即座に裏切っても不思議ではないと思います。

 

もしも「明智光秀」が、「羽柴秀吉」に勝利したあと、「柴田勝家」や「徳川家康」に敗北していたとしたら、細川藤孝は「柴田」「徳川」へと乗り換えていたと思います。



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もしも「細川藤孝」が「明智光秀」に味方していたら、どうなっていた?

もしも「細川藤孝」が「明智光秀」に味方していたら、歴史はどうかわっていたのでしょうか?

 

あれほどあっけなく光秀が敗北することはなかっただろうと思います。

 

光秀は、もっと生き残ることができたかもしれません。

 

だが、天下にはとどかなかったでしょう。

 

「本能寺の変」は、あまりに無計画で無謀な行為でした。

 

「織田信長を倒す」ことまでは鮮やかで見事だが、「信長を倒したあと」については、まったくの無計画で、行きあたりばったりです。

 

細川家は、当時10万石ほどの領地しか持っていませんでした。

 

そのため軍勢も「3千~6千」がやっとだったはずです。

 

そんな軍勢では、焼け石に水。

 

とはいえ、「山崎の戦い」で、あれほど明智光秀に味方が集まらなかった理由は、「細川藤孝が光秀に味方しなかったこと」が大きいです。

「娘の嫁ぎ先である細川家からすら見捨てられた明智光秀。

もはや味方する者などいないだろう」

細川藤孝に見捨てられたことにより、周辺の武将はそう思ったのです。

 

そのため「高山右近」「中川清秀」「筒井順慶」は、早々に光秀を見捨ててしまったのです。

 

もしも「細川藤孝」が光秀に味方していたら、これらの武将のなかにも光秀に味方してくれたかもしれません。

 

しかし、それでも「天下」を取ることは難しいです。

 

「羽柴秀吉」を倒しても、「柴田勝家」「織田信雄」「徳川家康」などの軍が、光秀を囲んでいたのですから。

 

いわば「光秀包囲網」を、形成していたのです。

 

「毛利輝元」「上杉景勝」「長宗我部元親」「北条氏政」と協力したとしても、光秀にこれらの敵をすべて倒すことができたとは、考えにくいです。

 

光秀は「根回し」があまりにも足りなかったということです。

 

情報漏えいのリスクはあるものの、「毛利」「上杉」「長宗我部」「北条」へと、しっかり根回しをして、協力して織田信長を倒していたら、天下も取れたはず。

 

とはいえ、「情報漏えい」の危険性を考えれば、それは「至難の業」なのですがね。



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「本能寺の変」の真相とは?細川藤孝は黒幕だったのか?

今も謎に包まれている「本能寺の変」。

 

この謎の真相は、合計で50以上の説が唱えられています。

 

2014年】に発見された新文書により、最近では「四国説」と呼ばれる説が、もっとも有力とみなされています。

 

しかし、その他にも魅力的な説が数々となえられています。

 

中でもオススメしたい説は、作家「安部龍太郎」氏による「複数の黒幕説」。

 

「安部龍太郎」氏は、「イエズス会」や「朝廷」など、複数の黒幕が複雑に絡みあい、信長を死にいたらしめた、という説を唱えておられます。

 

もう一つが「明智光秀」の末裔「明智憲三郎」氏による「徳川家康・共謀説」です。

 

安部龍太郎氏は、自らが執筆した書籍「信長はなぜ葬られたのか」の中で、「近衛前久を中心として、複数の黒幕が共同して信長を暗殺した説」を唱えておられます。

 

明智憲三郎氏は、著書「本能寺の変~431年目の真実~」と、マンガ「信長を殺した男」の中で、「徳川家康と明智光秀が協力して信長を排除した」という説を主張しています。

 

また、歴史家の「小和田哲男」先生も、本能寺の変について本を出版しておられます。

 

「安部龍太郎」氏や「明智憲三郎」氏とは異なり、その推測はスタンダードなものです。

 

別の書籍によるものですが、「小和田哲男」先生は、「あまりにも非道な信長を、明智光秀は許せなかった」という説を唱えておられました

 

どちらも、とても興味深い説です。

 

ちなみに最新の「四国説」については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,細川藤孝が「本能寺の変」の後に「明智光秀」に味方しなかったのは、「織田信長を殺した光秀には味方できない」というものだが、本音は「光秀に味方しても生き残れない」というものだっただろう

 

2,藤孝は、「光秀」を見捨てたが、もし「光秀」が勝っても、「ガラシャ(玉)」を通じて、光秀に降伏することを考えていた

 

3,もし「光秀」が「秀吉」に勝利していたら、藤孝は「ガラシャ」を利用して光秀に降伏していただろう。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。



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