明智光秀と妻・煕子の生涯!「あばた顔」と「髪」の逸話がカッコいい

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「明智光秀」は大変な愛妻家で、正室「煕子」が亡くなるまで、側室を持ちませんでした。

 

1556に明智城(岐阜県可児市)が落城した際、従兄弟「明智秀満」に伴われた光秀は身重の「煕子」を背負い、越前に落ち延びたと言われます。

 

浪人中の光秀は大変な苦労をし、そんな光秀を煕子はひたすら献身的に支え続けました。

 

光秀もまた煕子を愛おしく思い、煕子の存命中は側室を持たなかったのです。

 

この記事では、強い絆で結ばれた光秀と煕子の生涯を詳しく説明していきます。

 

これを読んで「そんなに強かったのか、夫妻の絆!」と、疑問をスッキリと解消して下さいね。


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この記事を短く言うと

 

1,明智光秀は「煕子」と婚姻するにあたり、「疱瘡(ほうそう)」の病で顔に「あばた」という痕がの残った「煕子」をあくまでも妻に求め、婚姻した。のちに光秀は「煕子」を背負って美濃国から越前国へ逃れた

 

2,越前国の大名「朝倉義景」に仕えた「明智光秀」は、連歌の会を開くための資金繰りに苦しんだ。その時「煕子」は、自分の髪を売って資金を用意し、光秀を助けた

 

3,1576年5月、「天王寺砦の戦い」で窮地に陥った光秀は「織田信長」の決死の突撃で救出されたが、直後に過労で倒れた。それを看病した「煕子」は、同年11月7日に「看病疲れ」が原因なのか、急死してしまった

 

4,煕子のお墓は「滋賀県大津市」にある「西教寺」に残されている。光秀は当時の風習を無視して、煕子の葬儀に参列した

 

5,光秀には「煕子」以前に、いとこにあたる「千種」という妻がいたという説がある。また、煕子の死後、側室を迎えたという逸話も残されている


明智光秀の妻「煕子」と「あばた顔」の逸話

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

明智光秀の正室・煕子の生年は、はっきりしていません。

 

1576年に亡くなった時の享年も、「46歳」「42歳」「36歳」、と諸説あるため、逆算して推定するのも難しいのです。

 

しかし、父親についての記録は、わりとしっかりとしたものが残っています。

 

光秀と煕子の三女・珠(細川ガラシャ)が、「細川忠興」の正室となっているので、正室の母である煕子は『細川家記』に「妻木範煕(つまき のりひろ)の長女として生まれた」という記録があるのです。

 

細川忠興の正室の母親の記録ですから、煕子が「妻木範煕」の長女であることは、間違いないでしょう。

《細川忠興》
「引用元ウィキペディアより」


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さて、妻木範煕の長女として生まれた煕子はすくすく育ち、明智城の若武者・光秀との縁談がまとまります。

 

しかし不幸なことに、婚約期間中に煕子は疱瘡(ほうそう・天然痘)にかかってしまい、なんとか命はとりとめたものの、左の頬にあばた(疱瘡の跡)が残ってしまったのです。

 

せっかくの縁談が破談になったら困ると考えた妻木範煕は、煕子の代わりに、煕子とよく似た妹「芳子」を嫁に出そうとしました。

 

しかし光秀はその企みを見破り

「儂が嫁に欲しいのは煕子殿じゃ」

と言い、煕子を強く望みます。


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光秀は見た目などどうでも良く、煕子の人柄や心の美しさが気に入っていたのでしょう。

 

煕子も疱瘡のせいで見た目が悪くなってしまった自分を、それでもいいと言ってくれた光秀に、心底感謝し、心惹かれたはずです。

 

光秀と煕子は相思相愛、今風に言えばラブラブだったのですね。

 

こうして2人は結婚し、大変仲の良い夫婦となりました。

 

余談ですが、このとき光秀の差し出された「煕子の妹」は「つまき殿」と呼ばれて、「織田信長の側室となった」という説があります。

 

織田信長の側室「つまき殿」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『織田信長の側室一覧!12人以上の妻に20人以上の子供を産ませていた』の記事はコチラ

 

光秀と煕子
この夫婦の穏やかで幸せな日々は、長く続かなかったのです。


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光秀は、従姉妹(いとこ)であった「帰蝶」の父親「斎藤道三」に仕えていました。

 

ところが、道三は息子「斎藤義龍」に攻め滅ぼされてしまいます。

 

1556年、さらに義龍は、道三の陣営についていた光秀の居城・明智城を攻撃。

 

明智一族は応戦したものの、落城は免れない状況に追い込まれてしまいました。

《斎藤義龍》
「引用元ウィキペディアより」

光秀の叔父「明智光安」は、息子「明智秀満」にたいして「光秀を守るように」と言い渡し、さらに光秀には明智家再興を託し、城外へと逃します。

 

光秀は身重の煕子を背負って城外に脱出し、越前国(福井県)に落ち延びたのでした。

 

叔父「明智光安」は、このとき落城と同時に亡くなったと伝えられています。

 

「明智光安」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。

『明智光安の全てを徹底解説!明智光秀との関係や逸話・最期を完全網羅』の記事はコチラ

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髪を売って夫を支えた賢妻の逸話

命からがら越前に落ち延びた光秀一行は、称念寺(福井県坂井市)の前で寺子屋を始め、ホソボソと生活し始めます。

 

光秀も秀満も、育ててくれた「明智光安」に教育を施され、教養の高い若武者に育っていましたから、その教養を活かして寺子屋を経営して生活の足しにしたのでしょう。

 

門前で寺子屋を営む光秀の才覚を見抜いた称念寺の住職は、越前国の領主・朝倉義景に光秀を推挙しました。

《朝倉義景》
「引用元ウィキペディアより」

こうして、光秀は朝倉氏に仕えることになったのですが、その暮らしはまだまだ貧しいものだったのです。

 

その苦しい暮らしの中、光秀は「連歌会の催し」を担当することになりました。


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酒宴の酒や食べ物を用意する大切なお役目ですが、食材や酒を仕入れるためのお金がなかったために、光秀は苦悩します。

 

そんな光秀を見るに見かねた煕子は、髪をバッサリと切り落として、その髪を売った金で光秀を助けました。

 

「髪は女の命」と言いますが、当時の女性にとって長く美しい黒髪は、美の象徴だったのです。

 

尼僧が、髪を切り落として「美しさ」とともに俗世と縁をきる慣習をみれば、女性の髪が、どれほど大切なものかが想像できるでしょう。

 

その髪をバッサリと切り落として売る、というのは並大抵の覚悟ではできません。

 

それだけ光秀のことを深く愛しており、なんとしても夫の苦境を救わなくては、と思ったのでしょう。


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光秀も「女の命」である髪を売ってまで自分を支え、助けてくれた煕子に深く感謝し、ますます惚れ込んだでしょうね。

 

こうして互いに助け合い、支え合った光秀と煕子の絆は、ますます強くなっていったのです。

 

余談ですが、越前・丸岡を訪れた江戸時代の俳人「松尾芭蕉」は、称念寺に伝わる煕子が髪を売った話を聞き、それを元に1689年

「月さびよ 明智が妻の 噺せむ」

という俳句を詠んでいますよ。

《松尾芭蕉》
「引用元ウィキペディアより」

光秀と煕子が生きた時代から100年以上経っても、称念寺には2人の絆の強さが言い伝えられていたのです。

 

それほど光秀と煕子は深く、愛し愛されあっていたのでしょう。


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煕子の生涯と最期!

光秀が義景に仕えながらも貧乏暮らしをしていた1565年、室町幕府の第13代征夷大将軍「足利義輝」が暗殺されるという大事件が勃発しました。

《足利義輝》
「引用元ウィキペディアより」

大和国・興福寺で僧侶だった義輝の弟「足利義昭」は、身の危険を感じ、「細川藤孝」らの強力によって大和国を脱出します。

 

室町幕府の再興を目指した義昭は、各地の大名に上洛(軍をひきいて京都へ向かうこと)をうながす書状を送り、その要請に尾張国・織田信長が応えました。

 

ところが、信長は義父「斎藤道三」の仇であった「斎藤義龍」との戦いを優先させたため、上洛の話が流れてしまったのです。

 

義昭は「若狭武田」氏を頼りますが、若狭武田氏も上洛できる状況ではなく、今度は越前の朝倉氏を頼ることにしました。

 

ところが義景はなかなか重い腰をあげず、義昭は苛立ちます。


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そんな義昭に「尾張の織田信長を頼りなさい」と進言したのが、明智光秀だったのです。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」

義昭は光秀を幕臣として迎え入れ、細川藤孝を使者とし、ふたたび信長に上洛を要請しました。

 

こうして義昭をとおし、信長と光秀は出会ったのです。


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才気にあふれ、朝廷の有職故実にも詳しい光秀を、信長は大変気に入りました。

 

幕臣であった明智光秀を、織田家の家臣として迎え入れます。

 

こうして朝倉義景の元で貧乏暮らしを続けていた光秀は、幕臣でありながら織田家の家臣でもあるという二重の立場に置かれ、信長の対朝廷工作を手伝うようになりました。

 

暮らし向きは一気に良くなったことでしょう。

 

信長の家臣として目覚ましい活躍を続けた光秀は、1571年に琵琶湖湖畔に坂本城の建築を初めます。

 

坂本城は、ルイス・フロイスが「安土城に次ぐ」豪壮華麗な城として感想を書き残しました。

《琵琶湖の日の出:calvinkkによるPixabayからの画像》

1556年に明智城が落城して、浪人暮らしで辛酸を舐め、朝倉家家臣としても貧乏暮らしを強いられた光秀は、落城の15年後に安土城に次ぐ名城「坂本城」の主となり、豊かな生活を手に入れたのです。

 

煕子も夫・光秀が出世を果たしたことを心から喜び、長年の苦労が報われたことにさぞ安堵したことでしょう。

 

夫婦がお互いを思いあう姿は、明智城落城の頃から何も変わりませんでした。

 

終生にわたって仲がよかった光秀と煕子の間には、「3男4女」、「合計7人」の子供がいたと言われています。

 

戦乱の世ではあっても夫婦にとっては、光秀が信長の家臣となり、築城した坂本城に居住した頃が一番穏やかで豊かな、幸せな時間だったのかも知れません。

 

信長の天下統一を手伝っていた光秀は戦いに明け暮れますが、そんな夫を煕子は献身的に支え続けました。


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1576年5月、石山本願寺との戦いで、守備していた天王寺砦を包囲された光秀は、命の危険に晒されます。

 

光秀の窮地を救ったのは、自ら先頭に立って援軍にきた織田信長でした。

 

窮地を脱した光秀でしたが、5月23日に「過労」または「ウイルス性腸炎(ノロウイルスなど)」で倒れ、療養生活を余儀なくされます。

 

煕子は献身的に看護を続け、光秀は回復しました。

 

しかし出産直後に全身全霊で看病した疲れがたたったのか、それとも夫「光秀」から、「ウイルス性腸炎」が感染したのか、10月14日に煕子が病に倒れました。

 

光秀は友人である吉田神社神主・吉田兼見に煕子の病気平癒祈願を依頼します。

 

10月24日、煕子が回復し、光秀は吉田神社に使いの者をやってお礼参りを行い、銀1枚を奉納しました。

 

しかしその後、煕子は容態が急変したのか、11月7日に坂本城で亡くなってしまったのです。

 

11月2日に、明智光秀の友人「吉田兼見」が、煕子の病気見舞いのため、京都宿舎に滞在していた光秀に面会しています。

 

つまり、煕子が亡くなる5日前、光秀は「坂本城」ではなく「京都」にいたのです。

 

もしかしたら光秀は、煕子が坂本城で亡くなった時に京都滞在中のため、その死に目には会えなかったのかもしれません。

 

一旦は回復して吉田神社にお礼参りも済ませた煕子が、急変して亡くなったと知らされた光秀の心痛はどれほど深く、辛かったことでしょう。

 

まして、その死に目にも立ち会えなかったのだとしたら。


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煕子のお墓はどこ?大津市「西教寺」

1576年11月7日に坂本城で亡くなった煕子は、坂本城の近くにある西教寺(滋賀県大津市坂本)に埋葬されました。

《明智光秀正室:煕子の墓:Wikipediaより立花左近による撮影、パブリクドメイン》

1571年、西教寺は信長の比叡山焼き討ちで焼失しています。

 

信長に比叡山の監視を命じられた光秀は、信長から与えられた近江国滋賀郡坂本に城を築き、さらに坂本城近くで焼失し、荒廃した西教寺の復興を援助しました。

 

1958年、西教寺大本坊を改築する際、屋根裏から「天正年中明智公所造之古木」と銘打たれた古木が発見されていることからも、光秀が西教寺復興を援助したのは裏付けられるでしょう。

 

この大本坊は、坂本城の陣屋だった建物を、西教寺の復興のために光秀が寄進したと言われています。

 

さらに、光秀は戦死した部下のために、供養米を西教寺に寄進しました。

 

このように、坂本城に近い西教寺と光秀の関わりは深く、光秀は西教寺を、明智一族の菩提寺にするつもりでいたのです。


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1576年11月】に亡くなった煕子が西教寺に埋葬されたのは、当然の成り行きでした。

《西教寺》
「引用元ウィキペディアより」

さて、1582年に光秀は本能寺の変を起こし、そのあと山崎の合戦で敗れ、坂本城に落ち延びる途中で落ち武者狩りに遭って亡くなった、と言われています。

 

その知らせを受けた光秀の従兄弟で娘婿でもあった「明智秀満」は、坂本城で光秀の妻子と自分の妻子を殺害し、城に火を放って自害したのです。

 

坂本城には、煕子の実家である妻木城城主「妻木広忠」も籠城していました。

 

広忠は明智一族が亡くなったのを見届けた後、西教寺で明智一族と彼らに殉じて亡くなった人たちを埋葬・供養し、自身は煕子の墓の前で自刃したのです。

 

西教寺の墓地の一番本堂に近い場所には、光秀の供養塔と明智一族の墓所があり、その左手に1576年に埋葬された煕子のお墓がぽつんとあり、自刃した広忠ら妻木一族の供養塔もあります。

 

墓地のそのあたり一帯は、坂本城の城主である明智一族の墓所として用意された場所だったのでしょう。

 

西教寺に伝わる古文書によると、西教寺で営まれた煕子の葬儀に、夫の「光秀」が参列していました。

 

戦国時代の武将は、妻が亡くなっても葬儀には参列しない風習だったそうですが、光秀はそんな風習を無視して愛する煕子を見送ったのです。

 

それだけ、互いに深く愛し合っていた夫婦だったのでしょうね。

坂本城城主として、菩提寺を用意した光秀が思い描いていたのは、愛する煕子に見送られ、自分がその墓所に最初に眠る者となること、だったのではないでしょうか。

 

まさかその愛する妻を、菩提寺の墓所に最初に埋葬するなど、夢にも思わずにいたことでしょう。


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光秀の奥さんは「2人」もいた?

さて、そんな愛妻家の光秀ですが、煕子の前に愛した女性がいたのではないかと言われています。

 

山岸光信の娘で、名は「千草」と言いました。

 

山岸光信は「明智光継」の子で、光秀の父「光綱」の弟にあたり、斎藤道三の正室「小見の方」の兄にあたる人物です。

《斎藤道三》
「引用元ウィキペディアより」

つまり光秀と千草は、父方のいとこ同士ということですね。

 

もしかすると2人は、明智城の中で顔を合わせて過ごしているうちに、いつしか恋仲になったのかもしれません。

 

光秀と千草は正式な婚姻関係は結んでいませんが、2人の間には「男の子」が生まれたという伝承があります。

 

正式な婚姻関係がなかったためか、生まれた男の子は山岸家が養育して「山岸光重」と名乗り、美濃国で郷士になったとも、光秀の家臣に加わり「明智光重」と称したとも言われています。

 

しかし、確たる史料があるわけではなく、判然としていません。

 

もし光秀と千草の関係が実際にあったのだとしたら、光秀の周囲の大人たちが男子を産み落とした千草と光秀を結婚させていたはずですよね。

 

それをしていないということは、この話が伝承に過ぎないか、あるいは出産の際に千草が命を落として婚姻自体ができなくなってしまったかのどちらかではないでしょうか。

 

千草が出産で命を落としたのなら、生まれた子供を山岸家が養育したという話に納得がいきますよね。

 

恐らく、正式な婚姻関係ではなく男女関係になって千草は身ごもり、光秀の周囲の大人たちは2人を結婚させようと考えたのでしょう。

 

しかし不幸にも、千草は出産で命を落とし、生まれた男子は千草の実家・山岸家が養育することになりました。

 

その後、光秀は妻木家の煕子と縁談がまとまり、煕子の疱瘡を乗り越えて結婚します。


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光秀が煕子をとても大切に思っていたのは、初めて愛した女性・千草と死に別れたことも影響していたのかも知れませんね。

 

さて、明確な史料は存在しませんが、それまで側室を持たなかった光秀ですが、煕子を亡くした後になって、初めて側室を迎えたと言われています。

 

「喜多村保光」という武将の娘が光秀の側室となり、1582年に男子を生んだと言われています。

 

「山崎の戦い」で光秀が秀吉に敗れた後、この側室は生まれたばかりの赤子を抱いて実家に逃げました。

 

そこで育てられた男子は元服して「喜多村保之」と名乗りますが、母から「そなたの父は明智光秀様」と教えられて育ち、江戸幕府の役人となって1638年に亡くなります。

 

晩年、「明智家系図」を妙心寺から送られた「喜多村保之」は、系図を見て自分の父が母から教えられた通り「明智光秀」だと確信した、と言われています。

 

光秀には、煕子と出会う前に初恋の女性がおり、煕子が亡くなった後には側室もいました。

 

奥さんは「2人」だけではなく、正式な婚姻関係でないものも含めると「3人」はいたことになります。

 

それでも、光秀の生涯で最も深く愛した女性が煕子であったことは、間違いないでしょう。


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「煕子」について「ひとこと」いいたい

煕子は1576年に亡くなったのですが、享年が46歳、42歳、36歳とまちまちで、生年を逆算することは難しいのです。

 

ここで、煕子の娘が生まれた年から、煕子の生まれた年を考えてみましょう。

 

細川ガラシャとして有名な「明智珠」は、光秀と煕子の三女として1563年に越前で生まれました。

 

1556年の明智城が落城した際、光秀は身重の煕子を背負って逃げ延びました。

 

江戸時代に書かれた軍記物で、史料としての信憑性はあまり高いとは言えない『明智軍記』によると、光秀と煕子の間には「3男4女」があり、誕生順は「長女、次女、三女、四女、男子」の順だったようです。

 

明智城落城の際、煕子のお腹の中にいた子供は長女で、1556年1557年の生まれでしょう。

 

享年から生年を逆算すると、46歳なら1532年、42歳なら1536年、36歳なら1542年生まれになります。

 

これらの生年候補から、1563年に珠をいくつで生んだのかを計算してみましょう。

 

すると、1532年生まれなら数え33歳、1536年生まれなら数え29歳、1542年生まれなら数え23歳の時に生んだということになりますね。

 

珠のあとに光秀と煕子の間には1女3男が生まれており、そのうち嫡男の光慶は1569年の生まれだと言われています。


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数え33歳で珠を生んだあとにさらに1女3男を生んだというのは、戦国時代の人の寿命を考えると無理があるように思います。

 

数え29歳だったとしても、やはりそのあとに1女3男を生むのは無理がありそうです。

 

だとすると、数え23歳で珠を生む計算になる、1542年に煕子は生まれた、というのが1番可能性は高そうですね。

 

私は光秀が明智光綱の子であるなら、1535年に光綱が亡くなった、その翌年1536年に「明智光秀」は生まれたのではないか、と考えています。

 

煕子も同い年だったのではないかと考えていましたが、珠を生んだ時に何歳だったのかを考えると、光秀より6歳下だったのではないかと思い至りました。

 

1536年に光秀が生まれたのだとすると、1550年前後に元服を迎えているでしょう。

 

元服したかしないかくらいで、光秀は千草と男女関係になったが先立たれ、その後煕子と結婚したのだとしたら・・・。

 

煕子が数え14歳くらいで嫁いだとして、光秀と煕子が結婚したのは、1554年1555年頃ではないでしょうか。

 

結婚から約20年間、光秀と煕子は互いに深く愛し合い、支え合って戦乱の世を生きたのです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,明智光秀は、「疱瘡(ほうそう)」で顔に「あばた」という痕がの残った「煕子」をあくまでも妻に求め、煕子の両親の反対を押しきって婚姻した

 

2,「朝倉義景」に仕えた「明智光秀」は、連歌の会を開くための資金を用意できず苦しんだが、「煕子」が自分の髪を売って資金を用意してくれたた

 

3,1576年5月「天王寺砦の戦い」で敵に囲まれた光秀は絶体絶命の危機に陥った。このときは「織田信長」に救出されたが、直後に過労で療養。必死に看病した「煕子」は、同年11月7日に「看病疲れ」が原因なのか、急死してしまう

 

4,煕子のお墓・供養塔は「滋賀県大津市」にある「西教寺」に残されている。

 

5,光秀には「煕子」と出会う以前に、「いとこ」にあたる「千種」という妻がいて子供もいた。さらに、煕子の死後に側室を迎えたという逸話もある

明智光秀の正室・煕子は、妻木範煕の娘です。

 

光秀との婚約中、不幸にも疱瘡にかかった煕子は、命こそ助かったものの、左頬にアバタが残ってしまいました。

 

範煕はよく似た妹を光秀に嫁がせようとしますが、見た目よりも煕子の心根を重視した光秀は、煕子を妻に迎えます。

 

仲睦まじく明智城で暮らしていた2人は、斎藤義龍の攻撃によって明智城が落城したため、越前に落ち延びて大変な苦労をすることになりました。

 

苦労した日々の中でも光り続けた光秀の才気は、朝倉義景への仕官の道を開きます。

 

しかし朝倉氏に仕官した後も、経済的な苦労は絶えず、連歌会の酒と食べ物を購入する費用にも困っていた光秀の苦労を見かねた煕子は、髪を切って売り、夫を助けます。

 

やがて足利義昭に織田信長を勧めたことで、幕臣としてだけではなく織田家家臣としても働くことになった光秀は、織田家中でメキメキと頭角を現しました。

《足利義昭》
「引用元ウィキペディアより」

信長から畿内の重要拠点を任されるようになり、1571年に琵琶湖湖畔に安土城に並び称される坂本城を築きます。

 

光秀と煕子夫婦にとって、坂本城で過ごしたこの時期が、もっとも穏やかで豊かな時間だったのかもしれません。

 

しかし、1576年に過労で倒れた光秀を看護した煕子は10月に病に倒れ、1度は回復したものの、11月7日に亡くなってしまったのです。

 

娘・細川ガラシャを生んだ年齢から推定すると、享年は数え36歳でした。

 

戦国武将の当時の風習を無視して、光秀は西教寺で催された煕子の葬儀に参列します。

 

光秀と煕子は、それほど互いに深く愛し合っていたのでしょう。

《湖の2人:nanairo125さんによる写真ACからの写真》

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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