本能寺の変は新暦の日にちでいつ?明智光秀がこの日にした理由に驚愕

織田信長が亡くなった「本能寺の変」

現在の新暦で、何日に発生した出来事なの?

明智光秀がこの日に「本能寺の変」を起こした理由・・・・実は重大な事情があった?


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この記事を短く言うと
・本能寺の変は「6月2日(新暦6月21日)」に勃発した

・光秀は「四国征伐軍」の出発を阻止し、長宗我部家を守ろうとした

・「光秀の母の命日」に本能寺の変を起こしたという説があるが・・・


本能寺の変の日付!新暦で何日?

本能寺の変」が発生したのは、「1582年」、旧暦では「6月2日」の早朝。

新暦(グレゴリオ暦)では、「6月21日」です。

この本能寺の変の直後に、備中高松城を攻撃していた「羽柴秀吉」が「中国大返し」と呼ばれる急激な撤退を敢行!

わずか11日後の「6月13日(新暦7月2日)」に発生した「山崎の戦い」で、明智光秀は敗北し、撤退の途中で死亡・・・。

後世「三日天下」と呼ばれた明智光秀の天下奪取・・・実際には「11日」で終わってしまいました。

この後は、羽柴秀吉が織田信長の「天下統一事業」を継承。

8年後の1590年に、小田原北条氏を滅ぼし、天下統一が完成したのです。


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光秀がこの日を選んだ理由

なぜ光秀は、この「6月2日」を選んだのでしょうか?

実はこの日にやらなければならない事情があったのです。

明智光秀は、四国の大名「長宗我部」氏と長く良好な関係を続けていました。

「長宗我部」は、織田信長に臣従・・つまり降伏したいと考え、織田家重臣の「明智光秀」を窓口にして、降伏の意思を伝えていたのです。

明智光秀は、長宗我部の意思を信長に伝えた所、信長は長宗我部に「領地をよこせ」とふっかけたのです。

「生き残りたかったら四国の内2カ国をよこせ」と・・・・。当時の四国は、大半が長宗我部に支配されていました。

明智光秀は、このことを長宗我部につたえ、交渉は成立。

すると信長は何を思ったか「やっぱり1カ国を長宗我部家に残して、四国の内3カ国をよこせ」と言い出し、光秀は交渉をやり直して長宗我部を納得させました。

しかし、また信長は考えを改め「長宗我部を滅ぼして4カ国全部もらう」と言い出し、三男・信孝丹羽長秀に、四国征伐を指示・・・。

これまでの苦労を水の泡にされた光秀の面目は、丸つぶれ・・・。

「朝令暮改」を繰り返す信長にキレた光秀は、交渉に応じてくれた長宗我部を守るために、信孝が率いる「四国征伐軍」が出発する「6月2日(新暦6月21日)」に、本能寺を襲撃。

長宗我部家を救うために、光秀は信長を殺害し、「四国征伐軍」の出撃を阻止しようとしたのです。

計画は成功しましたが、予想外の速さで中国地方から戻ってきた「羽柴秀吉」に敗北し、光秀は命を落としたのでした。


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日付に「光秀の怨念」が込められてる?

一説によると「光秀」が「6月2日」を選んだ理由について、「母の敵討ち」という意図が隠されている・・・とのこと。

光秀の母親は、織田信長に殺害された?らしいのです。

光秀は、1579年に「丹波国」を平定。

その時、「丹波・八上城」を治める豪族「波多野秀治」を攻撃。

この「波多野秀治」・・・光秀に攻められ、最終的には降伏しているのですが、その降伏の際に「明智光秀の母」を「人質」として預かっているのです。

波多野秀治は、降伏のために安土城へ旅し、織田信長を訪ねる予定・・・・

無事に帰ってこれる保証として「光秀の母」を念のため人質として預かり、その間に「安土城」を訪れるはずだったのです。

しかし織田信長は、光秀の母が人質となっているにも関わらず、波多野秀治を磔にして殺害。

光秀の母は、「約束違反」を理由に波多野の家臣に殺害されました・・・。

光秀はこの信長の仕打を恨み・・・本能寺の変を起こした・・・と言われているのですが、その信長に殺害された母親の命日が、本能寺の変を起こした「6月2日」だったというわけです。

・・・・。

以前は、この「光秀の母を死なせたのは信長」という説が、信じられていました。

しかし最近の定説では、この「信長が光秀の母を見殺しにした」という説は、創作であると言われているようです。

実際、波多野秀治は安土に到着してすぐに磔にされていますが、覚悟を決めていたらしく、辞世の句を残してます。

「よわりける 心の闇に 迷はねば いで物見せん 後の世にこそ」

この句を簡単に説明すると「化けて出てやるからな!」という意気込みを歌ったもの。

この歌を残して「波多野秀治」は6月4日に磔になって亡くなりました。

当初の「母は信長に見捨てられた」説では、「波多野秀治が信長に殺害されて、次に光秀の母が死亡」という順序だったはず。

波多野秀治が「6月4日」に亡くなってるなら、明智光秀の母の命日は、6月4日以降じゃなくてはならないはず・・・。

6月2日・・・・母の命日に本能寺の変を起こした・・・というこれまでの説は、通用しなくなります。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・「本能寺の変」は「6月2日(新暦6月21日)」に発生

・「光秀」は、「四国征伐軍」の出発を阻止するために、「6月2日」に本能寺の変を起こした

・「6月2日」は、信長に殺害された「光秀の母」の命日という説があるが、これは後世の創作

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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