この記事では「斎藤義龍(高政)と明智光秀の関係」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば「義龍(高政)と光秀が、どういう関係なのか」を、カンタンに理解できます。
「義龍と光秀」は「幼馴染で親友同士」という関係であった可能性があります。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
1,「斎藤義龍(高政)」と「明智光秀」の関係とは?
義龍と光秀は、年齢が近かったため、ともに学んだ幼馴染(おさななじみ)だったのかもしれない
2,「義龍(高政)」と「光秀」は親友同士だったのか?
くわしい資料がないのでハッキリしていないが、幼馴染で親友同士だった可能性もある
3,「斎藤義龍」の最期とは?
【1561年】、「桶狭間の戦い」の翌年、斎藤義龍は病死している。享年35歳
目次
斎藤義龍(高政)と明智光秀は、どういう関係?
「斎藤義龍(高政)」と、「明智光秀」は主従関係にありました。
明智光秀は、「斎藤義龍(高政)」の父「斎藤道三」に仕えていたのです。
そのため、「光秀」にとって、「義龍」は、主君の息子ということになるのです。

《斎藤義龍》
「引用元ウィキペディアより」
光秀は、義龍の妹「帰蝶」と「いとこ同士」でした。
光秀の父の妹である「小見の方」が、斎藤道三の正室(正妻)であり、「帰蝶」を産んでいるのです。
しかし、「光秀」と「義龍」は、「いとこ」ではありません。
「帰蝶」と「義龍」は、異母兄弟です。
「義龍」の母は、「深芳野(みよしの)」という女性です。
そのため、光秀と義龍(高政)のあいだには、血縁・親戚関係はありません。
「明智光秀と帰蝶の関係」については、以下のリンク記事で、さらに詳しく解説しております
義龍(高政)と光秀、2人は親友同士だったのか?
もしかすると、「斎藤義龍(高政)」と「明智光秀」は、「親友同士」だったかもしれません。
はっきりとしたことはわかりませんが、「光秀」は、「斎藤義龍」の幼馴染(おさななじみ)だった可能性があります。
光秀は【1528年】に生まれたという説があります。(【1516年】に生まれたという説もある)
義龍は【1527年】に生まれています。
つまり「1歳」しか違わないのです。
光秀は、義龍の父「道三」に近習として仕えていたという説があります。
もしかすると、「光秀」は「義龍」の「小姓」だったのかもしれません。
「小姓(こしょう)」とは、主君の身近に仕える、一種のエリート武士のことです。
幼い頃から主君とともに学問・武術を修行するので、主君と小姓の「きずな」は、とても深いものになります。
そうすることで、小姓の主君への忠誠心を育んだのでしょう。
たとえば、三代将軍「徳川家光」と、小姓だった「松平信綱」は、ともに幼い頃からともに育ったため、その「きずな」はとてつもなく強いものでした。
「光秀」と「義龍(高政)」が、親友同士であったという記録はありません。
ただ、年齢が近い2人が、幼い頃に、ともに遊んだ可能性は、あるかもしれません。
「明智光秀」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
斎藤義龍と明智光秀、それぞれの最期
「斎藤義龍(高政)」の最期
「斎藤義龍」は、【1561年】に病死しています。
宿敵であった「織田信長」が「桶狭間の戦い」で、「今川義元」を倒した翌年のことです。
享年「35歳」。
義龍の後継者は、嫡子「斎藤龍興(たつおき)」。
義龍が亡くなった直後から、織田信長は義龍の領地であった「美濃国」への侵攻を本格化させるのです。
「明智光秀」の最期
「明智光秀」は、この「斎藤義龍」が亡くなった時、「越前国」の「称念寺」というお寺の門前で、「塾の先生」または「医者」をして生計をたてていたと考えられています。
その「明智光秀」は、【1568年】に「足利義昭」を「織田信長」に紹介し、信長に部下として従うことになります。
光秀はその優れた能力で、凄まじい勢いで出世を繰り返します。
ところが【1582年】、「本能寺の変」を起こして主君「織田信長」を殺害。
「本能寺の変」の11日後、「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に大敗し、「落ち武者狩り」に殺害されるのです。
享年55歳(または67歳)。
首は「本能寺」にさらされた、といわれています。
「明智光秀の最期」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
斎藤義龍が亡くなった「その後」、何が起こったのか
【1561年】、「斎藤義龍(高政)」が若くして亡くなると、「織田信長」は美濃国への攻撃を本格的に開始します。
信長はまず、後方にあたる三河国の「徳川家康」と「清洲同盟」を締結し、安全を確保。
次に居城を「清須城」から、美濃国との国境に近い「小牧山城」へと移しています。
また、信長は妻「帰蝶」の父「斎藤道三」から、「美濃国を信長にゆずる」という遺言状を預かっていました。
この「遺言状」が、信長を「美濃国主の正当な後継者」としての立場を裏付けたのです。
信長は、この「美濃国主の正当な後継者」という立場を、全力でアピールします。
そうすることで、美濃国の豪族たちを次々と寝返らせ、「斎藤龍興」の居城「稲葉山城」を孤立させたのです。
【1567年】、道三の死から11年後、信長は難攻不落の名城「稲葉山城」から、「斎藤龍興」を追い出すことに成功。
ついに美濃国の攻略を成功させます。
斎藤龍興は、この後も信長への抵抗をつづけたものの、【1573年】に「朝倉義景」とともに信長に滅ぼされています。
こうして「斎藤家」は滅亡。
ただし「斎藤道三」の2人の息子である「斎藤利治(としはる)」と「斎藤利堯(としたか)」は、信長の信頼厚い家臣として、「本能寺の変」まで仕え続けています。
「斎藤道三の息子達の最期」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,「斎藤義龍(高政)」と「明智光秀」は、年齢が近かったため、ともに学んだ幼馴染(おさななじみ)だったのかもしれない
2,くわしい資料がないのでハッキリしていないが、「義龍(高政)」と「光秀」は、幼馴染で親友同士だった可能性もある
3,【1561年】、「桶狭間の戦い」の翌年、「斎藤義龍」は病死している。享年35歳
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
「斎藤義龍(高政)」関連記事
よろしければ、以下のリンク記事も、ぜひお役立てくださいませ。
コメント