皆さんは「一条天皇と定子の関係や性格を物語る逸話やエピソード」を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 一条天皇と藤原定子のあいだには、出家後に再婚した、深夜に通い、未明に帰ったなど、数々の愛情のエピソードがある。
- 定子は両親を失い、火事で二条宮を失い、兄弟を左遷され、試練が続いた
- 定子の性格は、一条天皇や清少納言から、心優しく情け深いとされている
この記事では「一条天皇と定子の逸話やエピソード」を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は「一条天皇と定子のエピソード」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「一条天皇と定子」に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
一条天皇と藤原定子の愛の物語:6つの感動エピソード
一条天皇と藤原定子の間に生まれた愛の物語は、数多くのエピソードに満ち溢れています。
これらのエピソードは、平安時代の宮廷を彩るロマンスとして後世に語り継がれてきました。今回は、その中でも特に感動的な5つのエピソードを紹介します。
兄の罪で愛する人が出家!?天皇のもとを去る定子
一条天皇に深く愛された中宮・定子は、罪を犯した兄や弟をかくまったため出家することとなり、一条天皇を悲しませたというエピソードがあります。
定子の兄・伊周と、弟・隆家は、とても乱暴な人物で有名でした。
叔父・道長を呪う儀式を行ったり、従者の命を奪うなど、ライバルだった藤原道長に対して、乱暴狼藉を繰り返していたのです。
その結果、定子の兄・伊周と、弟・隆家は、左遷されることが決まったのでした。
ところが二人は、左遷に抵抗。
定子はあろうことか、二人を自らの邸宅である二条宮にかくまったのでした。
一条天皇の命令で、二条宮は家宅捜索を受け、二人は捕らわれて左遷されます。
この日、定子は自ら髪をハサミで切り落として出家してしまうのです。
兄と弟の不祥事により、定子は自分が一条天皇にふさわしい女性ではないと悟り、身を引いたのでした。
ところが、一条天皇は定子を忘れられず、その愛は変わることがなかったのです。
出家後も変わらない!再会した二人
一条天皇のもとを去った定子でしたが、一条天皇は定子を忘れられず、異例中の異例で、再びの入内つまり再婚をするのでした。
995年、定子が出家した直後、彼女が住んでいた二条宮が火災で全焼するという不幸が発生します。
同年、定子の母である高階貴子が病死するという、不幸も重なってしまいました。
997年、定子は一条天皇とのあいだに、第一子である脩子内親王を出産。
997年、定子の兄・伊周たちの罪が許されると、一条天皇は定子をそばに呼び戻そうと考えます。
生まれた娘と対面したいという希望もあったようです。
しかし、出家した中宮を呼び戻して再婚するなど、前例がありませんでした。
定子は無理やり宮中へ迎え入れられ、一条天皇のもとへ帰ってきます。
ところが周囲はこれを、冷ややかな目で見ていたといいます。
そのため一条天皇は、「鬼が住む」といわれた宮中のとある建物に、定子を迎え入れます。
一条天皇が出かけている最中に、定子を宮中へ帰還させ、夜に一条天皇は戻ってくるという、世間の目を定子からそらすため、ありとあらゆる手を尽くしたといいます。
さらには深夜に定子の部屋をたずね、夜が明けるまえに戻るというやり方で、二人は密会を繰り返したのでした。
このような関係を続けることが、定子との再婚が、どれほど異例なものであったのかを物語っています。
のちに賢人右府と呼ばれることとなる藤原実資も、日記にこの件について
「出家したはずなのに、出家したように見えない」
と皮肉を記していたほどです。
しかしそれでも、一条天皇は定子を心から想っていたのです。
999年、二人の間に、第一皇子・敦康親王が生まれます。
悲劇的な運命を背負った王子・敦康親王の誕生です。
ライバル・藤原彰子の登場!出産と波乱の三角関係
ある日、定子の前に、藤原彰子というライバルが登場します。
彰子は、定子の兄や弟を左遷に追いやった政敵・藤原道長の娘でした。
道長は、一条天皇の愛情を、定子から彰子へと奪い取らせて、生まれた子供を天皇に即位させようと目論んでいたのです。
天皇に即した自らの孫を操り、思うままに権力を独占しようとしたのです。
999年、わずか12歳の彰子は、一条天皇に入内。
定子に次ぐ、二人目の妻となったのです。
その直後、定子は一条天皇の子・敦康親王を出産します。
一条天皇をはさんで、定子と彰子は、いとこ同士でありながら、三角関係のような状況となります。
この後も、一条天皇の定子への愛情が変わることはありませんでした。
しかし、定子の実家は、兄・伊周と弟・隆家の人望の無さによって、さらに没落していきます。
そして、1001年、三人目の子供を出産した直後、定子はその命を落とすこととなるのです。
早すぎる別れ…定子が残した歌の意味
1001年、定子は第三子・媄子内親王を出産した直後に亡くなります。
数え年25歳という若さでした。
定子の死を、一条天皇は深く悲しみます。
定子は最後に、一つの歌を残しました。
夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき
(夜通し誓った愛を、あなたがお忘れにならないのならば、きっとあなたは私を恋しいと想って、一晩中泣いてくださることでしょう。その涙の色がどのような色であるか、この目で確認したいものです)
紅涙を絞るという言葉があります。
美しい女性が流す涙のことを、紅涙というのです。
紅涙とは、血の涙のことともいわれているようです。
一条天皇はきっと、自分の死を悲しんで、血の涙を流してくれる。
そう言い残して、定子は亡くなったのでした。
その愛は、彼女が亡くなった後も、変わることはなかったのでした。
一条天皇は、定子とのあいだに生まれた最愛の子である敦康親王を、自分の後継者にしようと画策するのです。
二人の愛の証・敦康親王に秘められた物語
一条天皇は、定子の死後に、息子の敦康親王を、何度も何度も自分の後継者にしようとします。
しかしその願いは、叶うことはありませんでした。
定子の兄・伊周のライバルであった藤原道長によって、妨害されたためです。
定子が亡くなった後、一条天皇と道長の子・彰子のあいだに、敦成親王が誕生していました。
それでも一条天皇は、定子との子である敦康親王を、次の天皇にしたいと望み続けていたのです。
ところが、藤原道長とその側近である藤原行成によって、説得・妨害されていたのです。
唯一の頼りだった定子の兄・藤原伊周もすでに亡く、弟・藤原隆家も、暴力沙汰を繰り返すばかりでした。
敦康親王は、一条天皇が何度も望んだにもかかわらず、天皇に即位できなかったのです。
敦康親王が即位できない事実に対して、意外な人物が怒りを露わにします。
定子のライバルで、藤原道長の娘でもある彰子です。
彰子は自分の血が繋がった子・敦成親王ではなく、定子の子である敦康親王を次の天皇にしたいと望んだのです。
彰子は、13歳で敦康親王の養母となり、敦康親王に惜しみない愛情を注いでいたのです。
一条天皇の最期!亡き定子へ贈った歌
1011年、一条天皇は32歳という若さで亡くなりますが、最期の時になって、先に逝ってしまった定子に向けて、歌を残しています。
一条天皇の最期の時、そばには藤原道長の娘・彰子が付き添っていました。
そのため一条天皇は、彰子に向けても歌を残します。
その歌が、彰子の父・道長の日記である御堂関白記に記されています。
露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ
(露のように儚い命の私が、草庵のような仮の宿にあなたをおいて、塵のように消えていくことを思うと、胸が張り裂けそうです。)
ところが、一条天皇の側近だった藤原行成の日記「権記」には、これとよく似た別の歌が記されているのです。
露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき
(草の露のように儚い身が、現世の草に宿ったあなたを置いて、私ひとり出家してしまうのは悲しい)
この歌は、先に亡くなった定子に向けた歌といわれています。
なぜなら定子が最期に残した歌の一つが、この一条天皇の歌と、まるで対話をしているかのような形になっているからです。
以下の歌が、定子が最期に残した歌の一つです。
「煙とも 雲ともならぬ 身なりとも 草葉の露を それとながめよ」
(煙にも雲にもならない私の身体ですが、草や葉に置く露を、どうか私だと思ってご覧ください)
一条天皇は、最後の最後まで、定子を想っていたのでしょう。
藤原道長という権力者と、その娘である彰子に見守られて、定子への本心を明かすこともできず、そっとその本心を藤原行成にだけ明かしたのかもしれません。
藤原定子、波乱の運命:4つの試練
藤原定子の人生は、平安時代の宮廷社会において華やかながらも、多くの試練に見舞われました。
彼女の生涯は、家族の不幸、自然災害、陰謀、そして政治的な犠牲という四つの重大な試練によって特徴づけられます。
これらの試練は、定子の強さと彼女が直面した運命の波乱を浮き彫りにします。
家族の不幸…愛する人を失い、出家へ
一条天皇とのあいだに、深い愛を育んでいた定子ですが、父や母の死、そして兄や弟の左遷、宮中の火災など、不幸が次々起こっていました。
995年、それまで最高権力の座にあった関白の父・藤原道隆が死去。
同年、定子の兄・藤原伊周が、愛妾のもとに他の男性が通っていると勘違いし、弟・隆家がその男性に矢を放つという事件が起こりました。(長徳の変)
花山法皇をご存知でしょうか?
一条天皇のいとこであり、一条天皇の前に天皇だったお方です。
藤原隆家が射った矢は、この花山法皇の袖を貫いたのでした。
花山法皇は、伊周の愛妾に手を出したと勘違いされ、矢で射られ危うく命を落とすところだったのです。
他にも伊周は、ライバルだった伯父・道長を呪う儀式を行うなど、他にも許されぬ失態を犯していました。
さらに、定子の弟・隆家は、花山法皇の従者の首を持ち去り、道長の従者の命を奪うなどの暴力事件を繰り返していたのです。
これにより、伊周と隆家は逮捕され、左遷。
実は、これだけではありません。
これでもかというほどに、定子に不幸が舞い込みます。
兄と弟の逮捕を受けて、定子は出家。
ところが、定子は一条天皇に強く求められ、再び一条天皇のもとへ舞い戻ることとなるのです。
周囲の厳しく冷たい目を向けられながら。
火災と母の死…絶望のどん底に
さらに、藤原定子の人生は、火災と母の死という別の大きな試練に直面します。
これらの出来事は、彼女を絶望のどん底に陥れました。
出家した直後、定子が暮らしていた二条宮が全焼するという事件が発生します。
このとき定子は妊娠しており、出産に備えて、内裏を出て二条宮に移動していたのです。
この火災によって、定子の住まいは失われます。
そしてさらに、火災が起こったのは彼女のせいであると、非難の声があがりました。
大江匡衡という人物が、定子を痛烈に批判しています。
「中宮・定子は、まるで唐を滅亡へ追いやった女帝・則天武后のようだ。
出家した身であるにも関わらず、後宮(天皇のプライベート空間のこと)へ戻ってくるから、内裏が焼失したのだ」
その直後の996年、今度は母・高階貴子が病死。
高階貴子は、息子である伊周と隆家が左遷される際に、その車にしがみついて、一緒に行きたいと望んだといいます。
しかしその願いはかなわず、その直後に病気となって亡くなってしまうのでした。
貴族たちの陰謀…孤独と苦悩の日々
藤原定子の人生の第三の試練は、貴族たちの陰謀に巻き込まれたことでした。
定子の実家である中関白家は、先ほど解説した長徳の変ほか、伊周や隆家の暴挙によって没落していきました。
しかし実は、この没落は、ひとりの人物の陰謀によるものでした。
叔父・藤原道長です。
道長は、定子の兄・伊周と、叔父と甥という関係ではあったものの、権力をめぐるライバル関係だったのです。
若い伊周は、百戦錬磨・藤原道長を敵ではありませんでした。
権力闘争に敗北した伊周と隆家は左遷され、兄と弟の後ろ盾を失った定子もまた、苦しい立場に追いやられます。
何よりも、定子と一条天皇の子である敦康親王は、次の天皇となる道を閉ざされました。
もしも伊周や隆家が、その後ろ盾となったならば、敦康親王が次の天皇になれていたかもしれません。
定子は、父も母も兄も弟も失い、孤独で苦悩に満ちた日々を送っていたことでしょう。
ただ一条天皇だけが、彼女の救いだったのです。
政治の犠牲!三人目の子を産み、亡くなる。
藤原定子の人生における最後の大きな試練は、三人目の子を産むと同時に、命を失ってしまったことでしょう。
1001年、定子は媄子内親王を産んだ直後に亡くなります。
25歳という若さで亡くなった定子は、幼い我が子を残して逝くこととなりました。
悲劇はそれだけでは終わりませんでした。
産み落とされた媄子内親王は、なんとわずか9歳で病死してしまうのです。
長女の脩子内親王は、人々から慕われ、父・一条天皇からも愛され、生涯未婚で50歳を過ぎるまで生きています。
敦康親王は、養母となった彰子から愛されて大事にされたものの、天皇になることはできず、20歳で亡くなります。
敦康親王が残した一人娘は、藤原道長の孫であり、彰子の子にあたる後朱雀天皇に嫁ぎ、二人の娘を産みます。
その敦康親王の二人の孫娘は、子を残さずに亡くなり、定子の子孫は断絶します。
定子は、悲しいことに、その血筋を残すこともできなかったのです。
一条天皇が定子を愛し続けた理由:3つの魅力
一条天皇と藤原定子の間には、数々の試練にもかかわらず、深い愛情がありました。
天皇が定子を愛し続けた理由は、彼女が持つ三つの魅力によるものでした。
これらの魅力は、彼らの関係を特別なものにし、平安時代の愛情を示すものとして、後世に語り継がれています。
芯の強さと優しさ…心を奪われた天皇
思慮と分別があり、とても情け深い。
この点において、定子に勝る女性が、この世にいるだろうか
これは一条天皇が、定子を評価して言った言葉といわれています。
定子に女房としてつかえ、枕草子の著者としても知られる才女・清少納言もまた、心優しい定子をとても高く評価していました。
兄・伊周と、弟・隆家をかくまったことは、確かにまずい判断でしたが、それも定子の兄弟への優しさを証明しています。
なんといっても、千年も残る随筆「枕草子」が誕生した理由は、定子と一条天皇が、清少納言に当時としては貴重だった和紙をプレゼントしたことがきっかけでした。
何を書こうと悩んだ際に、「四季(史記)を記してはいかが?」と清少納言が口にしたため
「春はあけぼの」
から始まる随筆が誕生したというのです。
その枕草子には、定子がとても素晴らしい女性であることが、記されています。
一条天皇から深く愛された定子は、当初は周囲からも温かく見守られる、とても仲の良い関係だったようです。
いつでも一条天皇を優先し、出しゃばることもなく、慎み深く、心優しい。
そんな定子に、一条天皇は心を奪われていたのでしょう。
さらに定子は
- 両親を失う
- 火災で二条宮を失う
- 左遷で兄弟を失う
- 出家で一条天皇を失いかける
など、多くの試練に直面しながらも、決して屈することなく、その困難を乗り越えてきました。
この内なる強さと、同時に見せる優しい心遣いは、一条天皇にとって非常に魅力的であったのでしょう
冷たい批判も耐え抜く強さ!二人だけの特別な絆
周囲からの反対と非難を受け、一条天皇と藤原定子の絆は、かえって強くなったと考えられます。
定子と一条天皇は、いとこ同士で幼馴染でもありました。
そして二人の関係は、周囲から徐々にうとまれ、冷たい目を向けられるようになります。
二条宮で火災が起こった際、大江匡衡が定子を批判したといいますが、出家しておきながら後宮へ戻ったことは、当時としてはあり得ないことだったので、批判の対象だったのです。
こういった周囲からの冷たい目が、二人の愛情と絆をさらに強いものとしたのでしょう。
一条天皇以外に頼れる人もいない定子。
その定子を深く愛し、禁を破ってでもそばに置こうとした一条天皇。
二人はまるで、紫式部の作品「源氏物語」に登場する光源氏の父・桐壺帝と、母・桐壺の更衣のように感じられます。
ただただ一条天皇を想う一途さ!苦難を乗り越えた信頼関係
兄・伊周と弟・隆家の不祥事により出家した定子でしたが、一条天皇と定子はその困難を乗り越え、再入内つまり再婚することによって、この困難を乗り越えました。
何事も先例つまり歴史上にそういった事例があるかどうかを重んじる平安時代において、再入内は異例中の異例でした。
周囲からの批判や冷たい目は、一条天皇と定子を苦しめました。
しかしそれでも二人は困難を乗り越え、再入内を果たし、さらに二人の子を儲けたのです。
困難な状況を乗り越えた関係だからこそ、絆も深く強くなったのでしょう。
一条天皇の定子への愛情は、定子が亡くなった後も変わることはありませんでした。
それは一条天皇が、絶対権力者・藤原道長の意向に逆らってでも、道長の娘である彰子の子供を差し置いてでも、定子とのあいだに生まれた子・敦康親王を次の天皇に即位させたいと望んだことからも明らかでしょう。
定子は中宮としての評価は低いかもしれませんが、それでも一条天皇との関係だけは、美しいものなのではないでしょうか。
一条天皇と藤原定子:平安時代の恋愛模様
一条天皇と藤原定子の関係は、平安時代の恋愛模様の中でも特に記憶に残る物語として語り継がれています。
愛と権力が複雑に絡み合う中で、二人の関係は平安時代の宮廷社会における女性の生き方や文化に深い影響を与えました。
この物語は、苦難と希望、そして定子が残した文化的遺産を通して、後世に多大な影響を与え続けています。
愛と権力…複雑な人間関係
一条天皇と藤原定子の関係は、愛と権力が深く絡み合ったものでした。
平安時代の宮廷社会では、政治的な結婚が一般的であり、愛情だけではなく、権力闘争や家族の野望が結婚に大きく関わっていました。
定子が一条天皇に入内したのは、定子の祖父・藤原兼家と、定子の父である藤原道隆が、さらなる権力を手にいれるための手段でしかありませんでした。
定子に一条天皇の皇子を産ませ、その子を天皇に即位させて、思うまま自分たちにとって都合の良い政治を行おうとしたのです。
しかし、一条天皇と定子の間には、そんな政治的背景を超えた深い愛情が存在していたのでしょう。
権力者の思惑を乗り越えた愛情があったように感じられます。
この複雑な人間関係は、以下のような特徴を持っています。
- 一条天皇と定子の結婚は、藤原氏の政治的権力を強化するためのものでしたが、二人の間には真の愛情が芽生えていました。
- 宮廷内の権力闘争や家族間の野望にもかかわらず、彼らの愛情は変わらず、多くの試練を乗り越えました。
- 彼らの関係は、平安時代の恋愛観や結婚観に新しい見方を投げかけ、後世に語り継がれるものとなりました。
女性の生き方:苦難と希望
藤原定子は、平安時代の女性の生き方を象徴する存在として、苦難と希望の物語を残しました。
宮廷社会で生きる女性たちは、政治的な道具として利用されることも多く、自らの意志で人生を決定することは容易ではありませんでした。
実際に、定子が一条天皇に入内したことは、定子自身が望んだことではありません。
さらにいえば、定子が出家したことも、定子に失敗があったわけではなく、あくまでも伊周と隆家が傍若無人なふるまいを続けた結果です。(兄弟をかくまったことは、失態かもしれない)
しかし、定子はそのような環境の中でも自己の意志を貫き、希望を与えました。
望まぬ運命が、全て不幸だとは限らないのだと、定子の一生は証明しているのではないでしょうか。
定子は、政治的な立場や家族の期待に縛られながらも、自己の信念や愛情を大切に生きたのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 一条天皇と藤原定子のあいだには、出家後に再婚した、深夜に通い、未明に帰ったなど、数々の愛情のエピソードがある。
- 定子は両親を失い、火事で二条宮を失い、兄弟を左遷され、試練が続いた
- 定子の性格は、一条天皇や清少納言から、心優しく情け深いとされている
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
コメント