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坂本龍馬と新撰組の意外な関係〜池田屋事件から暗殺の真相まで徹底解説

幕末の京都で、倒幕を目指す坂本龍馬と、幕府を守る新撰組は、まるで水と油のように対立する存在でした。

坂本龍馬と新撰組の関係を紐解くと、池田屋事件での同志の死、寺田屋での襲撃、そして近江屋での暗殺という数々の歴史的事件が浮かび上がります。

新撰組は龍馬の宿敵だったのか、それとも単なる職務を遂行していただけなのか、幕末最大のミステリーとも言える龍馬暗殺の真相とともに、二つの勢力の知られざる関係性を徹底的に解明していきます。

この記事のポイント
  • 坂本龍馬と新撰組が京都でどのように交錯していたのか
  • 池田屋事件が龍馬に与えた衝撃と感情の変化
  • 龍馬暗殺と新撰組犯行説の真相
  • 近江屋事件の真犯人と新撰組が冤罪を着せられた経緯

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目次

坂本龍馬と新撰組:幕末の京都で交錯した二つの「正義」

項目坂本龍馬新撰組
立場倒幕派の志士幕府を守る治安維持組織
目的薩長同盟締結・大政奉還による近代国家建設京都の治安維持・尊王攘夷派の取り締まり
活動拠点酢屋(材木商)・寺田屋など壬生屯所・西本願寺など
組織形態海援隊(亀山社中)浪士隊から武装警察組織へ

「何をした人」か一言で解説:坂本龍馬の革命と新撰組の任務

坂本龍馬の像
引用元「Wikipediaコモンズ」より

坂本龍馬は、幕末の動乱期に薩摩藩と長州藩という犬猿の仲だった二つの雄藩を結びつけ、大政奉還という無血革命を実現させた立役者です。土佐藩を脱藩後、勝海舟のもとで海軍の重要性を学び、日本初の商社とも言える亀山社中(後の海援隊)を組織しました。龍馬が成し遂げたのは、単なる武力討幕ではなく、話し合いによる政権交代という近代的な革命でした。

一方、新撰組は京都守護職・松平容保のもとで京都の治安を守る任務を担った武装組織です。尊王攘夷派の過激な志士たちによるテロ行為が横行していた当時の京都で、彼らは法と秩序を守る警察のような存在でした。近藤勇、土方歳三、沖田総司といった剣の達人たちが、命懸けで幕府の威信を守ろうとしていたのです。

龍馬が目指したのは「新しい日本の創造」であり、新撰組が守ろうとしたのは「伝統ある幕府体制の維持」でした。この根本的な目的の違いが、二つの勢力を宿命的に対立させることになったのです。

思想の違い:倒幕を目指す「志士」と幕府を守る「佐幕派」

坂本龍馬が属していた尊王攘夷派は、当初は「天皇を尊び、外国人を打ち払う」という思想でしたが、龍馬はその考えから一歩進んで、開国・貿易による富国強兵を主張するようになります。黒船来航以降、西洋列強の軍事力を目の当たりにした龍馬は、攘夷の現実的不可能性を悟り、むしろ積極的に西洋の技術を取り入れるべきだと考えたのです。

新撰組もまた「尊王」を掲げていましたが、彼らの尊王は「幕府による天皇の補佐」という形でした。つまり、天皇を中心とした国家体制は認めつつも、その実務は徳川幕府が担うべきだという立場です。新撰組局長・近藤勇は農民出身でありながら武士としての忠義を重んじ、最後まで幕府への忠誠を貫きました。

新選組隊旗
引用元「Wikipediaコモンズ」より

それぞれが信じた「正義」

龍馬にとっての正義は「日本全体の未来」でした。藩という枠組みを超え、日本を一つの国家として強くすることこそが、外国の植民地化を防ぐ唯一の道だと信じていました。一方、新撰組にとっての正義は「秩序の維持」でした。過激派による暗殺やテロが横行する京都で、法を守り、市民の安全を守ることが彼らの使命だったのです。

どちらが正しかったのかという問いに、簡単な答えはありません。歴史は龍馬たち倒幕派に軍配を上げましたが、新撰組もまた自分たちが信じる正義のために命を賭けて戦った誇り高き集団だったのです。


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意外な共通点?実は彼らは「近所」に住んでいた可能性

対立する両者ですが、実は京都という狭い町の中で、意外にも近い場所で活動していました。坂本龍馬が頻繁に出入りしていた河原町の酢屋(材木商)と、新撰組の屯所があった壬生エリアは、徒歩でも30分程度の距離です。当時の京都は、敵味方が入り乱れる緊張感に満ちた空間だったのです。

慶応年間、龍馬は京都市中を潜伏しながら動き回っていました。新撰組も市中警備のため、日夜パトロールを行っていました。両者が街角ですれ違っていた可能性は十分にあります。もし龍馬が新撰組の隊士と鉢合わせしていたら、その場で斬り合いになっていたかもしれません。

龍馬は北辰一刀流の免許皆伝の腕前で、ピストルも所持していました。一方、新撰組には沖田総司や永倉新八といった剣豪が揃っていました。もし両者が本気で戦っていたら、壮絶な死闘になっていたことでしょう。

余談ですが、筆者が好きなテレビゲームに「龍が如く〜維新〜」という作品があります。これは坂本龍馬が、恩人を殺害した犯人を探すために、斎藤一という偽名で新撰組に入隊するというストーリーです。もちろん坂本龍馬と斎藤一は別人ですし、龍馬が新撰組に入隊したという事実はありません。史実を基にした完全なフィクションです。

歴史が動いた夜「池田屋事件」:龍馬はどう反応したのか

池田屋事件の基本情報詳細
発生日時元治元年6月5日(1864年7月8日)深夜
場所京都三条小橋の旅籠・池田屋
襲撃側新撰組(近藤勇隊10名)
犠牲者尊王攘夷派志士約7名死亡、多数負傷
龍馬の関係者望月亀弥太(神戸海軍操練所の同志)死亡

元治元年6月5日、新撰組が挙げた最大の功績

現在の京都・池田屋の跡地(個室居酒屋・池田屋)
引用元「Wikipediaコモンズ」より

元治元年6月5日の夜、京都三条の池田屋で、幕末史に残る大事件が発生しました。新撰組局長・近藤勇率いるわずか10名ほどの隊士が、20名以上の尊王攘夷派志士が密談していた池田屋に突入したのです。

新撰組の情報網によると、長州藩を中心とする過激派志士たちは、京都御所への放火と京都守護職・松平容保の暗殺を計画していました。近藤勇は即座に行動を起こし、池田屋を急襲します。激しい斬り合いの結果、尊王攘夷派の主要メンバー7名が死亡、4名が捕縛されました。

この事件により、京都大火と要人暗殺という大惨事が未然に防がれたとして、新撰組の名声は一気に高まりました。幕府からも多額の褒賞金が与えられ、新撰組は名実ともに京都最強の治安維持組織となったのです。

池田屋に集まっていた志士たち

池田屋に集結していたのは、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)の配下や、土佐藩出身の北添佶摩、そして龍馬の同志であった望月亀弥太などです。彼らは京都での蜂起を計画し、幕府要人の暗殺リストまで作成していたとされています。しかし近藤勇率いる新撰組の電光石火の襲撃により、計画は完全に潰されてしまいました。

この事件は「明治維新を一年遅らせた」とも言われています。長州藩の戦力が大きく削がれたことで、その後の禁門の変や第一次長州征伐での敗北につながり、倒幕運動は一時的に停滞することになったのです。


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「同志がやられた」龍馬が手紙に記した池田屋の衝撃

池田屋事件の報を聞いた坂本龍馬は、深い衝撃を受けました。特に、神戸海軍操練所で共に学んだ仲間である望月亀弥太が新撰組に斬り殺されたという知らせは、龍馬に大きな悲しみをもたらしました。

龍馬は姉の乙女に宛てた手紙の中で、池田屋事件について触れています。「望月亀弥太が戦死した時の難にも遭った者」として、後の妻となるお龍について言及しているのです。お龍は当時、池田屋近くの旅籠に滞在しており、事件の混乱に巻き込まれる危険がありました。

この事件以降、龍馬の活動方針に変化が見られます。それまでの過激な攘夷思想から、より現実的で平和的な倒幕路線へと舵を切るようになったのです。武力による蜂起ではなく、政治的交渉による革命を目指すようになった背景には、池田屋で失われた同志たちの無念があったと考えられます。

龍馬自身が池田屋事件の現場に居合わせなかったのは幸運でした。もし龍馬が池田屋にいたら、その後の薩長同盟も大政奉還も実現しなかったかもしれません。歴史の分岐点は、ほんの偶然で決まることがあるのです。

池田屋事件についてさらに詳しく知りたい方は、こちらの記事もご覧ください。池田屋事件をわかりやすく簡単に解説!坂本龍馬暗殺事件とは全然違う


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北辰一刀流の達人・龍馬が新撰組と戦っていたらどうなった?

坂本龍馬は江戸三大道場の一つ、千葉道場で北辰一刀流を学び、免許皆伝の腕前を持っていました。さらに、日本人としては珍しくピストル(スミス&ウェッソン製リボルバー)を所持し、実戦でも使用していました。

もし龍馬が新撰組と対峙していたら、どのような戦いになったでしょうか。新撰組には「沖田総司、永倉新八、斎藤一」という剣豪三羽烏がいました。沖田の三段突きは見切ることが不可能とされ、永倉は戊辰戦争を生き抜いた実戦剣術の達人、斎藤は左利きの牙突で敵を圧倒しました。

坂本龍馬の戦闘能力新撰組隊士の戦闘能力
北辰一刀流免許皆伝の腕前
ピストル所持で近代兵器に精通
身長173cm前後の長身で体格良好
機転が利き、危機回避能力が高い
沖田総司の三段突き(剣速No.1)
永倉新八の実戦経験(生涯無傷)
斎藤一の左片手突き・牙突
集団戦闘に特化した連携攻撃

龍馬の強みはピストルです。寺田屋事件では、襲撃してきた伏見奉行所の役人に対してピストルを発砲し、2名を射殺して逃げ延びています。接近戦では新撰組に分があるが、中距離戦なら龍馬に勝機があるという状況だったでしょう。

スミスアンドウェッソンM3リボルバー(通称・スコフィールドリボルバー)
引用元「Wikipediaコモンズ」より

ただし、龍馬の性格を考えると、無益な殺し合いは避けたはずです。彼は「日本を今一度、せんたくいたし申候」という言葉を残しているように、日本人同士が争うことを望んでいませんでした。新撰組と遭遇しても、戦うよりは逃げることを選んだでしょう。実際、寺田屋事件でも龍馬は戦うことより逃走を優先しています。

坂本龍馬が愛用していた銃スミスアンドウェッソンのM2という銃です。上の写真は龍馬が愛用したものより新型のM3です。これは高杉晋作からプレゼントされたものだといわれています。高杉晋作は上海へ行った際に、銃を購入したのだとか。

余談かもしれませんが、スコフィールドリボルバーは、名銃シングルアクションアーミーとのトライアルに敗れ、惜しくも米軍の正式拳銃に採用されなかった銃です。しかし中折れ式という弾丸の装填が極めて素早く行えるシステムだったため、ガンマンから愛された銃でした。


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坂本龍馬と新撰組に「面識」はあったのか?史実とドラマの境界線

接触の可能性があった場面状況実際の結果
寺田屋事件(1866年)龍馬が伏見の寺田屋で襲撃される新撰組ではなく伏見奉行所の捕方が襲撃
池田屋事件(1864年)龍馬の同志が新撰組に襲撃される龍馬本人は不在で難を逃れる
京都市中の警備両者が同じ時期に京都で活動直接対峙した記録は残っていない

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寺田屋事件のニアミス:伏見奉行所捕方との死闘

慶応2年(1866年)1月23日深夜、京都伏見の船宿・寺田屋に宿泊していた坂本龍馬は、突然の襲撃を受けます。この事件は「寺田屋事件(寺田屋騒動)」として知られていますが、襲撃したのは新撰組ではなく、伏見奉行所の捕方(捕り方)でした。

京都・寺田屋
引用元「Wikipediaコモンズ」より

当時、龍馬は薩摩藩の援助を受けながら、薩長同盟の実現に向けて奔走していました。幕府側にとって、龍馬は「危険な倒幕思想の持ち主」であり、逮捕すべき要注意人物でした。伏見奉行所は龍馬が寺田屋に潜伏しているという情報を掴み、深夜に急襲を仕掛けたのです。

龍馬は愛人のお龍の機転により危機を察知し、ピストルを発砲しながら脱出を図ります。この時、龍馬は右手の親指を負傷しましたが、薩摩藩邸に逃げ込むことに成功しました。もしお龍の警告が少しでも遅れていたら、龍馬はこの場で捕縛されるか、殺害されていたでしょう。

おりょう(坂本龍馬の妻)
引用元「Wikipediaコモンズ」より

なぜ新撰組ではなく伏見奉行所だったのか

伏見は京都市中から少し離れた場所にあり、新撰組の管轄外でした。新撰組の主な活動範囲は京都の中心部、特に御所や二条城周辺でしたが、伏見は伏見奉行所が管轄する地域だったのです。もし龍馬が京都市中に潜伏していたら、新撰組と鉢合わせしていた可能性は十分にあったと言えます。

寺田屋事件の詳細については、こちらの記事で詳しく解説しています。寺田屋事件をわかりやすく簡単に解説!坂本龍馬と有馬新七2つの寺田屋騒動


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近藤勇や土方歳三と龍馬が直接会った記録はあるのか

歴史資料を精査しても、坂本龍馬と新撰組の主要メンバーが直接会ったという記録は一切残っていません。近藤勇、土方歳三、沖田総司といった新撰組幹部と、龍馬との間に面識があったという証拠はないのです。

ただし、両者とも相手の存在は知っていたはずです。新撰組は京都で活動する志士たちの情報を常に収集していましたし、龍馬も新撰組の脅威は十分に認識していました。池田屋事件で同志を失った龍馬は、新撰組を警戒し、彼らとの接触を避けていたと考えられます。

近藤勇
引用元「Wikipediaコモンズ」より

大河ドラマや時代劇では、龍馬と土方歳三が酒を酌み交わしたり、沖田総司と剣を交えたりする場面がよく描かれますが、これらはあくまでフィクションです。実際には、両者は同じ京都で活動しながらも、決して交わることのない平行線の関係だったのです。

もし二人が会っていたら?

龍馬と土方歳三は、実は性格や能力の面で共通点が多い人物です。両者とも組織運営の天才であり、部下からの信頼が厚く、近代的な思考の持ち主でした。土方は新撰組の規律を厳格に定めた「局中法度」を制定し、龍馬は海援隊の規約を定めました。

もし幕末の政治情勢が少し違っていて、龍馬と土方が同じ陣営に属していたら、彼らは最強のコンビになっていたかもしれません。龍馬の構想力と土方の実行力が組み合わされば、明治維新はさらに違った形で実現していたでしょう。

街中ですれ違っていた?当時の京都の狭さと活動エリア

幕末の京都は、現代の京都市中心部よりもはるかに狭い範囲でした。主要な活動エリアは、御所を中心とした半径2~3キロ程度の範囲に集中しており、坂本龍馬と新撰組が街角ですれ違っていた可能性は十分にあります

龍馬が頻繁に訪れていた酢屋(河原町三条)と、新撰組の屯所があった壬生寺周辺は、直線距離で約2キロしか離れていません。また、龍馬が最期を迎えた近江屋も河原町近辺にあり、新撰組の活動範囲と重なっていました。

新撰組は夜間の市中警備を日課としており、怪しい人物を見つければ職務質問を行っていました。龍馬も夜間に移動することが多かったため、両者がニアミスしていた可能性は非常に高いのです。ただし、龍馬は変装の達人でもあり、商人や農民に化けて新撰組の目をくらましていたと考えられます。

場所龍馬との関係新撰組との関係距離
酢屋龍馬の定宿・海援隊京都本部警備エリア内河原町三条
近江屋龍馬が暗殺された場所見廻組が襲撃河原町蛸薬師
壬生屯所敵対勢力の本拠地新撰組の最初の屯所龍馬の活動エリアから約2km
寺田屋龍馬襲撃事件の現場管轄外(伏見奉行所の管轄)京都中心部から約5km

当時の京都は、敵と味方が同じ街に混在する緊張感に満ちた都市でした。龍馬と新撰組隊士が、互いに気づかぬまま同じ道を歩いていた…そんなドラマチックな場面が、実際にあったかもしれないのです。


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坂本龍馬暗殺の謎:なぜ当初「新撰組の犯行」とされたのか

近江屋事件の基本情報詳細
事件発生日時慶応3年11月15日(1867年12月10日)夜
場所京都河原町蛸薬師の醤油商・近江屋二階
犠牲者坂本龍馬(享年33歳)、中岡慎太郎(2日後死亡)
当初の容疑者新撰組(特に原田左之助)
真犯人京都見廻組(佐々木只三郎、今井信郎ら)

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慶応3年11月15日「近江屋事件」の凄惨な現場検証

慶応3年11月15日の夜、京都河原町の醤油商・近江屋の二階で、幕末史上最大のミステリーとも言える暗殺事件が発生しました。坂本龍馬と土佐藩の同志・中岡慎太郎が、何者かによって襲撃されたのです。

その夜、龍馬と中岡は近江屋の二階で密談をしていました。午後9時頃、十津川郷士を名乗る数名の男たちが訪ねてきます。応対に出た近江屋の使用人が取り次ごうとした瞬間、男たちは突然刀を抜き、階段を駆け上がって龍馬たちを襲撃しました。

龍馬は額を横一文字に斬られ、脳を損傷する致命傷を負いました。北辰一刀流の達人である龍馬も、不意打ちには対応できなかったのです。中岡慎太郎も全身に複数の斬傷を負い、2日後に息を引き取りました。現場は血の海となり、龍馬の愛刀も折れ曲がっていたと伝えられています。

龍馬の最期の言葉

致命傷を負った龍馬は、駆けつけた者たちに「脳をやられたからもういかぬ」と告げたとされています。医学的知識のあった龍馬は、自分の傷が致命的であることを悟っていたのです。その後、龍馬は意識を失い、その夜のうちに息を引き取りました。享年33歳という若さでした。

龍馬の死因について、現代医学の観点から見ると、額を横一文字に斬られた傷は、前頭葉を損傷し、大量出血と脳機能の停止を引き起こしたと考えられます。当時の医療技術では、このような重傷から回復することは不可能でした。


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「こなくそ」現場に残された鞘と原田左之助への疑い

事件直後、現場には重要な証拠品が残されていました。一つは犯人が置き忘れた刀の鞘、もう一つは先斗町の料亭「瓢亭」の焼印が入った下駄でした。さらに、瀕死の中岡慎太郎が「犯人の一人が『こなくそ!』と叫んだ」と証言したことで、新撰組の原田左之助が犯人であるという説が一気に広まりました。

「こなくそ」は伊予(現在の愛媛県)地方の方言で、「ちくしょう」「くそったれ」といった意味の罵倒語です。新撰組十番組組長の原田左之助が伊予松山の出身だったことから、この方言が決定的な証拠とされたのです。

さらに、現場に残された鞘について、元新撰組参謀で当時は御陵衛士を率いていた伊東甲子太郎が「これは原田左之助の鞘だ」と断定しました。こうして、新撰組犯行説は確固たるものになっていったのです。

証拠の矛盾点

しかし、冷静に考えると、この証拠には多くの疑問点があります。まず、プロの暗殺者が自分の出身地を特定されるような方言を大声で叫ぶでしょうか?また、百戦錬磨の原田左之助が鞘を忘れるというミスを犯すでしょうか?

これらの証拠は、あまりにも露骨すぎて、むしろ新撰組に罪を着せるための偽装工作ではないかという疑いが持たれています。実際、後に判明した真犯人は新撰組ではありませんでした。


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伊東甲子太郎の証言が決定打?新撰組犯行説が広まった理由

新撰組犯行説を決定づけたのは、伊東甲子太郎の証言でした。伊東は元新撰組の参謀でしたが、近藤勇と対立して新撰組を離脱し、御陵衛士(高台寺党)という別組織を立ち上げていました。つまり、新撰組とは敵対関係にあったのです。

伊東は事件直後に現場に駆けつけ、遺留品の鞘を見るなり「これは原田左之助のものに間違いない」と断言しました。新撰組の元幹部である伊東の証言は、非常に説得力があったため、多くの人が新撰組犯行説を信じました。

さらに興味深いことに、伊東は龍馬暗殺の数日前に龍馬を訪ね、「新撰組が狙っている」と忠告していました。この忠告は一見親切に見えますが、龍馬の居場所を確認するための偵察だったという説もあります。伊東が実行犯である見廻組や薩摩藩などの勢力に情報を流した可能性も指摘されています。

伊東甲子太郎自身も、龍馬暗殺のわずか2週間後に新撰組によって暗殺されています(油小路事件)。新撰組と御陵衛士の対立は激しく、互いに相手を陥れようとする謀略戦が繰り広げられていたのです。

新撰組犯行説の根拠疑問点・反証
「こなくそ」という伊予弁偽装工作の可能性・聞き間違いの可能性
原田左之助の鞘プロが鞘を忘れるのは不自然・陥れるための工作
瓢亭の下駄あまりに露骨な証拠で偽装の疑い
伊東甲子太郎の証言新撰組と敵対関係にあり、証言の信憑性に疑問

結果的に、新撰組犯行説は冤罪でした。しかし、この誤った情報により、新撰組、特に局長の近藤勇は「龍馬暗殺の首謀者」という汚名を着せられ、その後の処刑につながっていくのです。


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龍馬の「死因」を徹底分析:脳への一撃が運命を決めた

龍馬の負傷部位医学的影響
額を横一文字に斬られる前頭葉損傷・大量出血
右手の傷防御時につけられた可能性
背中の傷複数の刺客による同時攻撃

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額を横に斬られた致命傷:現代医学から見る「脳」へのダメージ

坂本龍馬の死因は、額を横一文字に斬られたことによる脳損傷と大量出血です。現代医学の観点から見ると、この傷がいかに致命的だったかがわかります。

額を横に斬られるということは、頭蓋骨ごと前頭葉を切断されるということです。前頭葉は、思考、判断、感情のコントロールといった高次脳機能を司る重要な部位です。ここを損傷すると、意識の混濁、運動機能の麻痺、そして大量の出血が起こります。

さらに、頭部の傷からは大量の血液が流れ出します。人間の体内には約4~5リットルの血液がありますが、そのうち30~40%を失うと生命の危機に陥り、50%以上失うと死に至ります。龍馬の傷からは、おそらく数リットル単位の出血があったと推測されます。

なぜ額を狙ったのか

犯人が龍馬の額を狙ったのは、確実に仕留めるためです。剣術の達人である龍馬を相手にする場合、一撃で戦闘不能にしなければ反撃される危険があります。額への横斬りは、防御が難しく、かつ致命傷を与えられる攻撃なのです。

また、龍馬はピストルを所持していたため、犯人たちは龍馬が武器を取り出す前に倒す必要がありました。不意打ちで額を斬ることで、龍馬は抵抗する間もなく倒れたと考えられます。


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「脳をやられたからもういかぬ」最期の言葉に込められた意味

龍馬は致命傷を負った後、駆けつけた者たちに対して「脳をやられたからもういかぬ」と告げたと伝えられています。この言葉は、龍馬が自分の傷の致命性を正確に理解していたことを示しています。

龍馬は勝海舟のもとで西洋の学問を学び、医学的知識もある程度持っていました。自分の額を斬られ、大量の血が流れ出ている状況で、それが致命傷であることを悟ったのです。「脳をやられた」という表現は、単なる頭の傷ではなく、脳そのものが損傷していることを認識していたことを示しています。

この言葉には、龍馬の冷静さと諦観が込められています。自分の死を悟りながらも、パニックに陥ることなく、客観的に自分の状態を分析する。これこそが坂本龍馬という人物の本質を表しているのかもしれません。

龍馬の最期の言葉については諸説あり、「残念、残念」と言ったという説や、「新しい日本を見たかった」と言ったという説もあります。いずれにしても、龍馬は自分の死を冷静に受け入れたと伝えられています。

即死ではなかった?蘇生措置と最期の時間の真実

坂本龍馬は額を斬られた後、即死したわけではありませんでした。襲撃から死亡まで、数時間の時間があったと考えられています。この間、龍馬は意識があり、周囲の人々と会話をしたり、自分の状況を説明したりしていました。

当時の医療技術では、脳損傷と大量出血に対する有効な治療法はありませんでした。止血を試みたり、傷口を縛ったりといった応急処置は行われたでしょうが、根本的な治療は不可能でした。龍馬自身もそれを理解していたからこそ、「もういかぬ」と言ったのです。

一緒に襲撃された中岡慎太郎は、龍馬よりも重傷でしたが、2日間生き延びました。中岡は全身に複数の斬傷を負っていましたが、脳への直接的なダメージは龍馬ほど深刻ではなかったため、少し長く生き延びることができたのです。中岡は意識がある間に、犯人の特徴や「こなくそ」という言葉について証言を残しました。

もし現代医療があれば

もし坂本龍馬が現代に生きていて、同じ傷を負ったとしたら、救命できた可能性はあるのでしょうか。現代医学では、脳外科手術、輸血、集中治療室での管理など、様々な治療が可能です。しかし、前頭葉を切断されるほどの重傷であれば、現代でも救命は極めて困難でしょう。

仮に命が助かったとしても、高次脳機能に重大な障害が残る可能性が高く、龍馬が元の活動に戻ることは不可能だったでしょう。ある意味で、龍馬は自分の使命を果たしきった最高の瞬間に、この世を去ることができたのかもしれません。


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誰に殺されたのか?歴史捜査で判明した「真犯人」

組織特徴龍馬暗殺への関与
新撰組浪士組織・京都市中の警備担当関与せず(冤罪)
京都見廻組幕臣による警察組織・格式高い実行犯(佐々木只三郎、今井信郎ら)
土佐藩龍馬の出身藩黒幕説あり(後藤象二郎ら)
薩摩藩龍馬を支援していた藩黒幕説あり(利害関係)

京都見廻組・佐々木只三郎と今井信郎の告白

大正時代に入り、坂本龍馬暗殺の真相が明らかになります。元京都見廻組隊士の今井信郎が、自分たちが龍馬を殺害したと告白したのです。

京都見廻組は、新撰組と同じく京都の治安維持を担当していましたが、その構成員は旗本や御家人といった正規の幕臣でした。新撰組が浪士出身者の集まりだったのに対し、見廻組は身分の高い武士たちで構成されており、幕府からも新撰組より格上の組織と見なされていました。

今井信郎の証言によれば、龍馬暗殺の実行犯は佐々木只三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥伴蔵、桜井大三郎の7名でした。彼らは見廻組の隊士として、幕府の命を受けて龍馬を襲撃したと語っています。

なぜ告白したのか

今井信郎が告白したのは、明治維新から約50年が経過した大正時代でした。すでに幕府も新撰組も存在せず、当事者の多くが亡くなっていました。今井は「歴史の真実を後世に伝えるため」として、自分たちの行為を公にしたのです。

今井の証言は詳細で具体的であり、現場の状況や使用した武器、襲撃の手順などが明確に語られていました。この証言により、新撰組犯行説は完全に否定され、京都見廻組が真犯人であることが確定しました。


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新撰組ではなかった:近藤勇が処刑された「冤罪」の悲劇

新撰組局長の近藤勇は、慶応4年(1868年)4月25日、板橋宿で処刑されました。その罪状の一つに「坂本龍馬暗殺」が含まれていたのです。しかし、実際には近藤も新撰組も龍馬暗殺には一切関与していませんでした。これは完全な冤罪だったのです。

近藤勇を捕らえたのは、土佐藩の谷干城でした。土佐藩は龍馬の出身藩であり、龍馬暗殺の犯人を強く求めていました。現場に残された「こなくそ」という方言や鞘から、新撰組の原田左之助が犯人だと信じ込んでいた土佐藩は、新撰組幹部の近藤勇を捕縛すると、即座に処刑を決定したのです。

近藤勇は「自分は龍馬暗殺とは無関係だ」と主張しましたが、聞き入れられませんでした。明治新政府にとって、旧幕府の象徴である新撰組を処罰することは、新時代の始まりを示す重要な儀式でした。近藤の処刑は、政治的な見せしめとしての意味合いが強かったのです。

土方歳三の無念

新撰組副長の土方歳三は、近藤勇の釈放を求めて奔走しましたが、叶いませんでした。近藤の処刑後、土方は函館まで戦い続け、最後まで幕府への忠義を貫きました。土方もまた、「龍馬暗殺の冤罪」という汚名を晴らすことなく、戊辰戦争の最終局面で戦死しています。

土方歳三
引用元「Wikipediaコモンズ」より

近藤勇の処刑は斬首という、武士としては最も屈辱的な方法で行われました。通常、武士は切腹という名誉ある死に方を許されますが、近藤には切腹すら許されなかったのです。これは、新撰組が「賊軍」として扱われたことを示しています。

新撰組の最期について詳しく知りたい方は、こちらの記事もご覧ください。新撰組(新選組)メンバーを一覧で解説!隊長たち生き残りのその後

なぜ見廻組は龍馬を狙ったのか?幕府崩壊直前の政治力学

京都見廻組が坂本龍馬を襲撃した動機については、今井信郎の証言から明らかになっています。彼らにとって、龍馬の暗殺は「暗殺」ではなく「公務執行」だったのです。

その法的根拠となったのが、慶応2年の寺田屋事件です。この事件で、龍馬は伏見奉行所の捕方(捕り方)に対してピストルを発砲し、2名を射殺しています。現代の法体系で言えば「公務執行妨害」および「警察官殺害」という重大犯罪に相当します。

幕府側から見れば、坂本龍馬は単なる政治活動家ではなく、凶器を持った危険な逃亡犯でした。見廻組は「寺田屋で役人を殺害して逃亡した坂本龍馬を、幕府の命により捕縛、抵抗すれば討ち取る」という命令を受けていたのです。

筆者は以前、憲政史家の倉山満先生が、こんなことをおっしゃっていたことを覚えています

「龍馬暗殺に謎なんてありません!」

つまり、倉山先生が言うには、犯人は京都市中見廻組で間違いないというのです。さらに、それを指示したのは、松平容保以外にはいないというのです。

しかし筆者はここで一つの疑問を抱きました。「坂本龍馬を斬ったことが公務だというのならば、なぜ坂本龍馬の遺体と負傷した中岡慎太郎を放置してその場を立ち去ったのか」ということと「なぜ自らが行ったことをアピールして逃亡犯・坂本龍馬を討ち果たした手柄を強調せず、あろうことか新撰組が行ったという噂を放置したのか」ということです。

これらの疑問に対して辻褄があう仮説があります。

それは、幕府の上層部から、坂本龍馬を捕縛または斬ってはならないという命令がされていたのではないかということです。龍馬はこのあとに解説します大政奉還によって、徳川家と薩長の内戦をやめさせようとしていました。そのため、徳川からすると、龍馬は必要な人間だったということになります。幕府のトップ・徳川慶喜またはそれに近い人物から、秘密裏に龍馬を傷つけないように命令があったとしたら、それに逆らえない会津藩としては、秘密裏に暗殺するしかなかったのではないでしょうか。

ちなみにこれはあくまで筆者の想像でしかなく、確固たる証拠は何もありません。

大政奉還という脅威

さらに、龍馬暗殺のもう一つの理由として、大政奉還の実現が挙げられます。龍馬は「船中八策」という日本の近代化構想を練り、土佐藩の後藤象二郎を通じて徳川慶喜に大政奉還を進言させました。

慶応3年10月14日、徳川慶喜は大政奉還を決断し、260年続いた江戸幕府は事実上終焉を迎えました。しかし、この決定に反発する幕臣たちも多く存在しました。「幕府を崩壊させた張本人」として、龍馬は幕府強硬派から恨まれていたのです。

龍馬が暗殺されたのは、大政奉還からわずか1ヶ月後のことでした。このタイミングは偶然ではなく、龍馬の影響力がこれ以上拡大する前に排除しようとした幕府側の意図があったと考えられます。

見廻組の動機詳細
法的根拠寺田屋事件での役人殺害による指名手配犯の逮捕
政治的動機大政奉還を主導した龍馬への報復
組織の使命京都の治安維持・危険人物の排除
指令系統京都守護職・松平容保からの命令(推測)

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もし坂本龍馬と土方歳三が手を組んでいたら?歴史のifを考察

能力坂本龍馬土方歳三
組織運営海援隊を設立・商社機能を持たせる局中法度を制定・厳格な規律維持
戦略眼薩長同盟・大政奉還という大局観鳥羽伏見から函館まで戦い抜いた戦術家
人望身分を超えた人脈構築隊士からの絶対的信頼
近代化志向西洋兵器・海軍への理解洋式軍制の導入・合理主義

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組織論の天才・土方歳三と構想力の天才・坂本龍馬

坂本龍馬と土方歳三は、対立する陣営にいましたが、能力や性格の面で驚くほど共通点が多い人物です。両者とも、組織を作り上げる天才であり、近代的な思考を持っていました。

土方歳三は、農民出身の浪士集団を、京都最強の武装組織に作り上げました。「局中法度」という厳格な規律を定め、違反者には切腹を命じるという恐怖政治で組織を統制しました。その一方で、隊士たちの生活を気遣い、給与や装備を充実させるなど、部下思いの一面も持っていました。

龍馬もまた、身分制度に縛られない新しい組織「海援隊」を作りました。海援隊は武士だけでなく、商人や町人も参加できる開かれた組織で、貿易や海運業を行う日本初の商社的機能を持っていました。封建的な身分制度を超えた組織運営という点で、龍馬は時代を先取りしていたのです。

二人の美学と信念

龍馬と土方は、それぞれが信じる「美学」を持っていました。龍馬は「日本の未来」を信じ、そのためなら藩の枠を超え、敵対していた薩摩と長州を結びつけることも厭いませんでした。土方は「武士の誇り」を信じ、最後まで幕府への忠義を貫きました。

どちらが正しかったのかは、歴史が判断することです。しかし、自分の信念を最後まで貫き通したという点で、両者は同じ精神を持っていたと言えるでしょう。


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薩長同盟ならぬ「新・海援隊」?あり得たかもしれない未来

もし幕末の政治情勢が少し違っていて、龍馬と土方が同じ陣営に属していたら、どのような歴史が展開されていたでしょうか。龍馬の構想力と土方の実行力が組み合わされば、日本最強の組織が誕生していたかもしれません。

龍馬は大局的な戦略を立てる天才でした。薩長同盟という、誰も思いつかなかった発想を実現させたのは龍馬の構想力あってこそです。一方、土方は戦術レベルでの実行力に優れていました。鳥羽伏見の戦いから函館戦争まで、常に最前線で戦い続けた土方の戦闘能力は、幕末随一でした。

この二人が協力していたら、例えば「幕府改革派」として、徳川慶喜を中心とした近代的な政府を作り上げることができたかもしれません。龍馬が政治的交渉を担当し、土方が軍事面を統括する。そして、西洋列強に対抗できる強力な日本を作り上げる…そんな未来も、あり得たのです。

実際、土方歳三は函館戦争の際に、榎本武揚と協力して「蝦夷共和国」という構想を実現しようとしていました。これは日本初の共和制国家を目指す試みであり、土方にも近代的な思想があったことを示しています。


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現代人が惹かれる理由:生き様に見る「日本人の精神」

坂本龍馬も土方歳三も、現代に至るまで多くの日本人から愛され続けています。大河ドラマや映画、小説、漫画など、様々な作品で彼らの生涯が描かれ、その度に新しいファンが生まれています。なぜ、彼らはこれほどまでに人々を惹きつけるのでしょうか。

その理由の一つは、「信念を貫き通した生き様」にあります。龍馬は日本の未来のために命を賭け、土方は武士の誇りのために最後まで戦いました。現代社会では、自分の信念を貫くことが難しくなっています。周囲の空気を読み、妥協を重ねることが求められる中で、彼らのような生き方に憧れを抱く人が多いのです。

もう一つの理由は、「敗者の美学」です。龍馬は志半ばで暗殺され、土方は賊軍として戦い続けて戦死しました。二人とも、自分が思い描いた未来を見ることなくこの世を去りました。しかし、その不完全な人生だからこそ、人々は共感し、「もし彼らが生きていたら」という想像を膨らませるのです。

土方歳三・最期の地・函館市・五稜郭

時代を超えて語り継がれる理由

龍馬と土方の物語が時代を超えて語り継がれるのは、彼らが「時代の変革期に生きた人間の葛藤と決断」を体現しているからです。幕末という激動の時代、誰もが正解のわからない中で、自分の信じる道を選び、その結果として命を落としました。

現代もまた、AIやグローバル化といった大きな変革の時代です。将来がどうなるかわからない不安の中で、私たちは龍馬や土方の生き方から、「自分の信念を持ち、それを貫くことの大切さ」を学ぶことができるのです。

土方歳三の生涯について詳しく知りたい方は、こちらの記事もご覧ください。土方歳三の死因に隠された謎がスゴイ!性格が災いし裏切られて死亡?


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坂本龍馬と新撰組が教えてくれる幕末の真実

  • 坂本龍馬と新撰組は思想的には対立していたが、どちらも日本の未来を真剣に考えていた
  • 池田屋事件で龍馬の同志・望月亀弥太が新撰組に殺害され、龍馬の活動方針が現実路線へと転換した
  • 龍馬と新撰組の主要メンバーが直接会ったという記録は残っていないが、京都の狭い範囲で活動していたためすれ違っていた可能性は高い
  • 龍馬暗殺の犯人は当初新撰組と疑われたが、実際は京都見廻組が実行犯だった
  • 現場に残された「こなくそ」という方言と鞘が新撰組犯行説の根拠とされたが、これは偽装工作だった可能性が高い
  • 伊東甲子太郎の証言が新撰組犯行説を決定づけたが、彼は新撰組と敵対関係にあり証言の信憑性に疑問がある
  • 龍馬の死因は額を横一文字に斬られたことによる脳損傷と大量出血で、現代医学でも救命は困難だった
  • 龍馬は「脳をやられたからもういかぬ」と自分の傷が致命的であることを理解していた
  • 近藤勇は龍馬暗殺の冤罪で処刑され、新撰組は汚名を着せられたまま歴史から消えた
  • 京都見廻組が龍馬を襲撃したのは、寺田屋事件での役人殺害と大政奉還への報復が理由だった
  • 今井信郎の告白により、大正時代になって初めて真犯人が判明した
  • 龍馬と土方歳三は対立する陣営にいたが、組織運営の才能と近代的思考という共通点があった
  • もし二人が協力していたら幕府改革派として新しい日本を作れた可能性がある
  • 両者とも自分の信念を最後まで貫き通した生き様が現代人の心を惹きつけている
  • 幕末という時代は敵味方が単純に分かれていたのではなく、それぞれが信じる正義のために戦っていた

坂本龍馬と新撰組の関係を紐解くことで、幕末という時代がいかに複雑で、人間的なドラマに満ちていたかがわかります。敵対する陣営でありながら、どちらも日本の未来を真剣に考え、自分の信念のために命を賭けた人々でした。龍馬暗殺の真相が明らかになるまで約50年かかったという事実も、歴史の真実を知ることの難しさを物語っています。現代を生きる私たちも、彼らの生き様から多くを学ぶことができるのです。

坂本龍馬についてさらに詳しく知りたい方は、こちらの記事もご覧ください。坂本龍馬の死因は脳を斬られたこと?最後の言葉をわかりやすく解説!

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コメント

コメント一覧 (5件)

  • 坂本龍馬は、坂本竜馬と習った世代です。
    なかなか捨てられない日本史の辞書二冊と山川出版の教科書を調べると全て坂本竜馬になっていました。
    現在は、坂本龍馬なんですね。

    あと一点、坂本龍馬は新撰組・斎藤一が暗殺したのか考察!新選組は龍馬の敵か?で「新撰組」となっていたり、「新選組」となっていたりしています。最近は、「新選組」のようですね。
    新選組で統一してほしいです。「新選組」の関連記事で、「新撰組(新選組)」と書かれているので、新撰組派なのですか。私は「新撰組」と習いました。

    • おはようございます
      いつもお言葉をいただきありがとうございます
      新選組についてですが、早速確認して修正いたします

      坂本龍馬については、最近では龍馬で統一されているようです

      そして「新選組」なのですが、どうやら新選組が存在していた時代から、「新選組」と「新撰組」の両方の文字が使われていたようです。
      局長近藤勇の直筆の文書によると、近藤自身も「新選組」と「新撰組」の両方の文字を使っていたとのこと。
      いったいなぜそうなったのかは不明ですが、「竜馬」という文字についても「新選組」という字についても、私どもはその事情を現在も調査中です。

      本日もコメントありがとうございました。
      またぜひ当サイトをご利用頂けたらと思います。
      ありがとうございました。

    • こんにちは
      いつも貴重なコメントをいただき、ありがとうございます。
      実は先日指摘いただきました「新選組」という表記の統一なのですが、まことに申し訳ありませんが、システム上の都合により、ご期待に沿うことができなくなりました。
      せっかく貴重な指摘を頂きましたのに、このような理由で期待を裏切ることとなりますことを、お詫び申し上げます。
      申し訳ありませんでした。
      ご指摘はごもっともなのですが、本当に申し訳ありません。

      また貴重なお言葉をいただけましたら、これほど嬉しいことはありません。
      失礼いたしました。
      いつもありがとうございます。

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