幕末の京都で、倒幕を目指す坂本龍馬と、幕府を守る新撰組は、まるで水と油のように対立する存在でした。
坂本龍馬と新撰組の関係をたどっていくと、池田屋事件での同志の死、寺田屋での襲撃、そして近江屋での暗殺という、数々の歴史的事件が浮かび上がってきます。
新撰組は龍馬の宿敵だったのか、それとも単に職務を遂行していただけなのか。
幕末最大のミステリーとも言える龍馬暗殺の真相とともに、二つの勢力の知られざる関係性をひも解いていきます。
坂本龍馬と新撰組の関係を正しく理解すれば、教科書には載っていない幕末のリアルな空気が見えてくるはずです。
- 坂本龍馬と新撰組が京都でどのように交錯していたのか
- 池田屋事件が龍馬に与えた衝撃と、活動方針の変化
- 龍馬暗殺と新撰組犯行説の真相、そして真犯人の正体
- 関連する事件や人物の記事もあわせて読むと理解が深まります
坂本龍馬と新撰組の関係とは?幕末の京都で交錯した二つの「正義」
まずは坂本龍馬と新撰組が、それぞれどんな立場で幕末の京都に立っていたのかを整理していきます。
| 項目 | 坂本龍馬 | 新撰組 |
|---|---|---|
| 立場 | 倒幕派の志士 | 幕府を守る治安維持組織 |
| 目的 | 薩長同盟締結・大政奉還による近代国家建設 | 京都の治安維持・尊王攘夷派の取り締まり |
| 活動拠点 | 酢屋(材木商)・寺田屋など | 壬生屯所・西本願寺など |
| 組織形態 | 海援隊(亀山社中) | 浪士隊から武装警察組織へ |
坂本龍馬の革命と新撰組の任務

引用元「Wikipediaコモンズ」より
坂本龍馬は、幕末の動乱期に薩摩藩と長州藩という犬猿の仲だった二つの雄藩を結びつけ、大政奉還という無血革命を実現させた立役者です。土佐藩を脱藩したのち、勝海舟のもとで海軍の重要性を学び、日本初の商社とも言える亀山社中(のちの海援隊)を組織しました。龍馬が成し遂げたのは、単なる武力討幕ではなく、話し合いによる政権交代という近代的な革命だったのです。
一方、新撰組は京都守護職・松平容保のもとで、京都の治安を守る任務を担った武装組織でした。尊王攘夷派の過激な志士たちによるテロ行為が横行していた当時の京都において、彼らは法と秩序を守る警察のような存在だったと言えます。近藤勇、土方歳三、沖田総司といった剣の達人たちが、命懸けで幕府の威信を守ろうとしていたのです。彼らもまた、自分たちなりの信念を抱いて戦っていました。
龍馬が目指したのは「新しい日本の創造」であり、新撰組が守ろうとしたのは「伝統ある幕府体制の維持」でした。この根本的な目的の違いが、二つの勢力を宿命的に対立させることになったのです。
思想の違い:倒幕を目指す「志士」と幕府を守る「佐幕派」
坂本龍馬が属していた尊王攘夷派は、当初は「天皇を尊び、外国人を打ち払う」という思想でした。しかし龍馬はその考えから一歩進んで、開国・貿易による富国強兵を主張するようになります。黒船来航以降、西洋列強の軍事力を目の当たりにした龍馬は、攘夷の現実的な不可能性を悟り、むしろ積極的に西洋の技術を取り入れるべきだと考えるようになったのです。
新撰組もまた「尊王」を掲げていましたが、彼らの尊王は「幕府による天皇の補佐」という形でした。つまり、天皇を中心とした国家体制は認めつつも、その実務は徳川幕府が担うべきだという立場です。新撰組局長・近藤勇は農民出身でありながら武士としての忠義を重んじ、最後まで幕府への忠誠を貫きました。同じ「尊王」という言葉を使いながら、向かう方向はまったく逆だったわけです。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
それぞれが信じた「正義」
龍馬にとっての正義は「日本全体の未来」でした。藩という枠組みを超え、日本を一つの国家として強くすることこそが、外国の植民地化を防ぐ唯一の道だと信じていたのです。一方、新撰組にとっての正義は「秩序の維持」でした。過激派による暗殺やテロが横行する京都で、法を守り、市民の安全を守ることが彼らの使命だったと言えるでしょう。
どちらが正しかったのかという問いに、簡単な答えはありません。歴史は龍馬たち倒幕派に軍配を上げましたが、新撰組もまた自分たちが信じる正義のために命を賭けて戦った、誇り高き集団でした。立場が違えば見える景色も違う、というのが幕末という時代の本質なのかもしれません。
坂本龍馬と新撰組は「近所」に住んでいた?
対立する両者ですが、実は京都という狭い町の中で、意外にも近い場所で活動していました。坂本龍馬が頻繁に出入りしていた河原町の酢屋(材木商)と、新撰組の屯所があった壬生エリアは、徒歩でも30分程度の距離です。当時の京都は、敵味方が入り乱れる緊張感に満ちた空間だったのです。
慶応年間、龍馬は京都市中を潜伏しながら動き回っていました。新撰組も市中警備のため、日夜パトロールを行っていました。両者が街角ですれ違っていた可能性は十分にあります。もし龍馬が新撰組の隊士と鉢合わせしていたら、その場で斬り合いになっていたかもしれません。考えるだけで背筋が寒くなるような緊張感が、当時の京都には漂っていたのです。
龍馬は北辰一刀流の目録(または大目録)相当の腕前と言われ、ピストルも所持していました。一方、新撰組には沖田総司や永倉新八といった剣豪が揃っていました。もし両者が本気で戦っていたら、壮絶な死闘になっていたことでしょう。
余談ですが、筆者が好きなテレビゲームに「龍が如く〜維新〜」という作品があります。これは坂本龍馬が、恩人を殺害した犯人を探すために斎藤一という偽名で新撰組に入隊する、というストーリーです。もちろん坂本龍馬と斎藤一は別人ですし、龍馬が新撰組に入隊したという事実はありません。あくまで史実を基にした、完全なフィクションだとお考えください。
では次に、両者の運命を大きく揺るがした池田屋事件について、龍馬がどう反応したのかを見ていきましょう。
坂本龍馬と新撰組の関係を変えた「池田屋事件」
ここからは、新撰組が幕末史に名を刻んだ池田屋事件と、それが坂本龍馬に与えた影響を掘り下げていきます。
| 池田屋事件の基本情報 | 詳細 |
|---|---|
| 発生日時 | 元治元年6月5日(1864年7月8日)深夜 |
| 場所 | 京都三条小橋の旅籠・池田屋 |
| 襲撃側 | 新撰組(近藤勇隊10名) |
| 犠牲者 | 尊王攘夷派志士約7名死亡、多数負傷 |
| 龍馬の関係者 | 望月亀弥太(神戸海軍操練所の同志)死亡 |
元治元年、新撰組が挙げた最大の功績
元治元年6月5日の夜、京都三条の池田屋で、幕末史に残る大事件が発生しました。新撰組局長・近藤勇が率いる、わずか10名ほどの隊士が、20名以上の尊王攘夷派志士が密談していた池田屋に突入したのです。少数で多数に斬り込むという、まさに命知らずの作戦でした。

新撰組の情報網によると、長州藩を中心とする過激派志士たちは、京都御所への放火と京都守護職・松平容保の暗殺を計画していました。近藤勇は即座に行動を起こし、池田屋を急襲します。激しい斬り合いの結果、尊王攘夷派の主要メンバー7名が死亡、4名が捕縛されました。
この事件により、京都大火と要人暗殺という大惨事が未然に防がれたとして、新撰組の名声は一気に高まりました。幕府からも多額の褒賞金が与えられ、新撰組は名実ともに京都最強の治安維持組織となったのです。皮肉なことに、この功績が後に龍馬との因縁を生むことになります。
池田屋に集まっていた志士たち
池田屋に集結していたのは、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)の配下や、土佐藩出身の北添佶摩、そして龍馬の同志であった望月亀弥太などです。彼らは京都での蜂起を計画し、幕府要人の暗殺リストまで作成していたとされています。しかし近藤勇率いる新撰組の電光石火の襲撃により、その計画は完全に潰されてしまいました。
この事件は「明治維新を一年遅らせた」とも言われています。長州藩の戦力が大きく削がれたことで、その後の禁門の変や第一次長州征伐での敗北につながり、倒幕運動は一時的に停滞することになったのです。新撰組の働きが、幕末の歴史の流れそのものを変えたとも言えるでしょう。
「同志がやられた」龍馬が受けた池田屋の衝撃
池田屋事件の報を聞いた坂本龍馬は、深い衝撃を受けました。特に、神戸海軍操練所で共に学んだ仲間である望月亀弥太が新撰組に斬り殺されたという知らせは、龍馬に大きな悲しみをもたらしたと考えられます。
龍馬は姉の乙女に宛てた手紙の中で、池田屋事件について触れています。「望月亀弥太が戦死した時の難にも遭った者」として、のちに妻となるお龍について言及しているのです。お龍は当時、池田屋近くの旅籠に滞在しており、事件の混乱に巻き込まれる危険がありました。
この事件以降、龍馬の活動方針に変化が見られます。それまでの過激な攘夷思想から、より現実的で平和的な倒幕路線へと舵を切るようになったのです。武力による蜂起ではなく、政治的交渉による革命を目指すようになった背景には、池田屋で失われた同志たちの無念があったと考えられます。悲劇が、龍馬をより大きな構想へと向かわせたとも言えるでしょう。
池田屋事件と龍馬暗殺事件はしばしば混同されますが、両者はまったく別の事件です。気になる方は、こちらの記事もあわせてご覧ください。
北辰一刀流の達人・龍馬が新撰組と戦っていたら
坂本龍馬は江戸三大道場の一つ、千葉道場で北辰一刀流を学び、目録(または大目録)を取得する腕前を持っていたとされています(免許皆伝という説もありますが、後世の創作や誇張である可能性が高いと言われています)。さらに、日本人としては珍しくピストル(スミス&ウェッソン製リボルバー)を所持し、実戦でも使用していたのです。当時としては、きわめて近代的な戦闘スタイルの持ち主だったと言えます。
もし龍馬が新撰組と対峙していたら、どのような戦いになったでしょうか。新撰組には「沖田総司、永倉新八、斎藤一」という剣豪三羽烏がいました。沖田の三段突きは見切ることが不可能とされ、永倉は戊辰戦争を生き抜いた実戦剣術の達人、斎藤は左利手一本突きで敵を圧倒したと伝えられています。
| 坂本龍馬の戦闘能力 | 新撰組隊士の戦闘能力 |
|---|---|
| 北辰一刀流の大目録相当とされる腕前 ピストル所持で近代兵器に精通 身長173cm前後の長身で体格良好 機転が利き、危機回避能力が高い |
沖田総司の三段突き(剣速No.1) 永倉新八の実戦経験(生涯無傷) 斎藤一の左片手突き 集団戦闘に特化した連携攻撃 |
龍馬の強みはピストルです。寺田屋事件では、襲撃してきた伏見奉行所の役人に対してピストルを発砲し、危機を脱しています。接近戦では新撰組に分があるものの、中距離戦なら龍馬に勝機があるという状況だったでしょう。武器の違いが、戦いの構図を大きく左右したはずです。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
ただし、龍馬の性格を考えると、無益な殺し合いは避けたはずです。彼は「日本を今一度、せんたくいたし申候」という言葉を残しているように、日本人同士が争うことを望んでいませんでした。新撰組と遭遇しても、戦うよりは逃げることを選んだでしょう。実際、寺田屋事件でも龍馬は戦うことより逃走を優先しています。
龍馬が愛用していたのはスミスアンドウェッソンのM2という銃で、上の写真はそれより新型のM3です。これは高杉晋作からプレゼントされたものだと言われています。高杉晋作が上海へ渡った際に購入したのだとか。M2は銃身を上方に跳ね上げて装填するチップアップ式(跳ね上げ式)というシステムだったため、当時のガンマンからも愛された銃でした。ちなみに新型のM3は中折れ式を採用しています。
さて、ここまで対立構造を見てきましたが、果たして龍馬と新撰組に「面識」はあったのでしょうか。次の章で検証していきます。
坂本龍馬と新撰組に「面識」はあったのか?史実とドラマの境界線
ドラマでよく描かれる龍馬と新撰組の直接対決は、本当にあったのでしょうか。史実をもとに検証していきます。
| 接触の可能性があった場面 | 状況 | 実際の結果 |
|---|---|---|
| 寺田屋事件(1866年) | 龍馬が伏見の寺田屋で襲撃される | 新撰組ではなく伏見奉行所の捕方が襲撃 |
| 池田屋事件(1864年) | 龍馬の同志が新撰組に襲撃される | 龍馬本人は不在で難を逃れる |
| 京都市中の警備 | 両者が同じ時期に京都で活動 | 直接対峙した記録は残っていない |
寺田屋事件のニアミス:伏見奉行所捕方との死闘
慶応2年(1866年)1月23日深夜、京都伏見の船宿・寺田屋に宿泊していた坂本龍馬は、突然の襲撃を受けます。この事件は「寺田屋事件(寺田屋騒動)」として知られていますが、襲撃したのは新撰組ではなく、伏見奉行所の捕方(捕り方)でした。新撰組が関わっていなかった点は、意外に知られていません。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
当時、龍馬は薩摩藩の援助を受けながら、薩長同盟の実現に向けて奔走していました。幕府側にとって、龍馬は「危険な倒幕思想の持ち主」であり、逮捕すべき要注意人物でした。伏見奉行所は龍馬が寺田屋に潜伏しているという情報をつかみ、深夜に急襲を仕掛けたのです。
龍馬は愛人のお龍の機転により危機を察知し、ピストルを発砲しながら脱出を図ります。このとき龍馬は右手の親指を負傷しましたが、薩摩藩邸に逃げ込むことに成功しました。もしお龍の警告が少しでも遅れていたら、龍馬はこの場で捕縛されるか、殺害されていたかもしれません。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
なぜ新撰組ではなく伏見奉行所だったのか
伏見は京都市中から少し離れた場所にあり、新撰組の管轄外でした。新撰組の主な活動範囲は京都の中心部、特に御所や二条城周辺でしたが、伏見は伏見奉行所が管轄する地域だったのです。もし龍馬が京都市中に潜伏していたら、新撰組と鉢合わせしていた可能性は十分にあったと言えるでしょう。
寺田屋事件には、坂本龍馬のものと、薩摩藩士・有馬新七が関わったものの二つがあり、混同されがちです。その違いについては、こちらの記事で詳しく解説しています。
近藤勇や土方歳三と龍馬が直接会った記録はあるのか
歴史資料を精査しても、坂本龍馬と新撰組の主要メンバーが直接会ったという記録は一切残っていません。近藤勇、土方歳三、沖田総司といった新撰組幹部と、龍馬との間に面識があったという証拠はないのです。ドラマで描かれる場面の多くは、創作だと考えてよいでしょう。
ただし、両者とも相手の存在は知っていたはずです。新撰組は京都で活動する志士たちの情報を常に収集していましたし、龍馬も新撰組の脅威は十分に認識していました。池田屋事件で同志を失った龍馬は、新撰組を警戒し、彼らとの接触を慎重に避けていたと考えられます。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
大河ドラマや時代劇では、龍馬と土方歳三が酒を酌み交わしたり、沖田総司と剣を交えたりする場面がよく描かれます。しかし、これらはあくまでフィクションです。実際には、両者は同じ京都で活動しながらも、決して交わることのない平行線の関係だったのです。それでも創作で何度も共演させられるのは、二人の魅力ゆえなのかもしれません。
ここで、筆者の個人的な見解を少し述べさせてください。坂本龍馬と新撰組の間に、友情や協力関係があったとは到底思えません。役人をピストルで死なせた龍馬に対して、治安維持を担う新撰組が情けをかけるはずがないからです。ドラマなどで描かれるような緊密な交流は、現実にはなかったでしょう。ただ、近藤勇のように政治的信念を持つ人物なら、龍馬の思想に一瞬共感し、心が揺らいだ可能性はあると私は感じています。それは、現代の警察官が逃亡犯の動機に一定の理解を示すのと似ているのかもしれません。
もし二人が会っていたら?
龍馬と土方歳三は、実は性格や能力の面で共通点が多い人物です。両者とも組織運営の才に長け、部下からの信頼が厚く、近代的な思考の持ち主でした。土方は新撰組の規律を厳格に定めた「局中法度」を制定し、龍馬は海援隊の規約を定めています。組織を率いるリーダーとしての資質が、よく似ていたのです。
街中ですれ違っていた?当時の京都の狭さと活動エリア
幕末の京都は、現代の京都市中心部よりもはるかに狭い範囲でした。主要な活動エリアは、御所を中心とした半径2〜3キロ程度の範囲に集中しており、坂本龍馬と新撰組が街角ですれ違っていた可能性は十分にあります。同じ空気を吸いながら、敵対していたわけです。
龍馬が頻繁に訪れていた酢屋(河原町三条)と、新撰組の屯所があった壬生寺周辺は、直線距離で約2キロしか離れていません。また、龍馬が最期を迎えた近江屋も河原町近辺にあり、新撰組の活動範囲と重なっていました。
新撰組は夜間の市中警備を日課としており、怪しい人物を見つければ職務質問を行っていました。龍馬も夜間に移動することが多かったため、両者がニアミスしていた可能性は非常に高いのです。ただし、龍馬は変装の達人でもあり、商人や農民に化けて新撰組の目をくらましていたと考えられます。
余談になりますが、筆者は以前、龍馬たちが暗殺された近江屋の跡地を訪れたことがあります。当時はそこに回転寿司店が建っていました。実は新撰組が名を轟かせた池田屋と、この近江屋はわずか三百メートルほど、歩いて五分の距離しかありません。場所が近いからといって両者に直接的な関係があったわけではないのですが、これほど近い場所で二組の英雄が同じ時代を駆け抜けていたという事実を現地で実感したとき、激動の幕末の空気が鮮明に脳裏に浮かび上がってきたのを覚えています。
では、いよいよ幕末最大のミステリーである龍馬暗殺の謎に迫っていきましょう。
坂本龍馬暗殺の謎:なぜ「新撰組の犯行」とされたのか
ここからは、龍馬暗殺事件において、なぜ新撰組が真っ先に疑われたのかを検証していきます。
| 近江屋事件の基本情報 | 詳細 |
|---|---|
| 事件発生日時 | 慶応3年11月15日(1867年12月10日)夜 |
| 場所 | 京都河原町蛸薬師の醤油商・近江屋二階 |
| 犠牲者 | 坂本龍馬(享年33歳)、中岡慎太郎(2日後死亡) |
| 当初の容疑者 | 新撰組(特に原田左之助) |
| 真犯人 | 京都見廻組(佐々木只三郎、今井信郎ら) |
慶応3年「近江屋事件」の凄惨な現場
慶応3年11月15日の夜、京都河原町の醤油商・近江屋の二階で、幕末史上最大のミステリーとも言える暗殺事件が発生しました。坂本龍馬と土佐藩の同志・中岡慎太郎が、何者かによって襲撃されたのです。
その夜、龍馬と中岡は近江屋の二階で密談をしていました。午後9時頃、十津川郷士を名乗る数名の男たちが訪ねてきます。応対に出た近江屋の使用人が取り次ごうとした瞬間、男たちは突然刀を抜き、階段を駆け上がって龍馬たちを襲撃しました。
龍馬は額を横一文字に斬られ、脳を損傷する致命傷を負いました。北辰一刀流の達人である龍馬も、不意打ちには対応できなかったのです。中岡慎太郎も全身に複数の斬傷を負い、2日後に息を引き取りました。現場は血の海となり、龍馬の愛刀も折れ曲がっていたと伝えられています。
致命傷を負った龍馬は、駆けつけた者たちに「脳をやられたからもういかぬ」と告げたとされています。医学的知識のあった龍馬は、自分の傷が致命的であることを悟っていたのです。その後、龍馬は意識を失い、その夜のうちに息を引き取りました。享年33歳という、あまりにも早すぎる死でした。
龍馬の死因について、現代医学の観点から見ると、額を横一文字に斬られた傷は前頭葉を損傷し、大量出血と脳機能の停止を引き起こしたと考えられます。当時の医療技術では、このような重傷から回復することは不可能でした。
「こなくそ」現場に残された鞘と原田左之助への疑い
事件直後、現場には重要な証拠品が残されていました。一つは犯人が置き忘れた刀の鞘、もう一つは先斗町の料亭「瓢亭」の焼印が入った下駄でした。さらに、瀕死の中岡慎太郎が「犯人の一人が『こなくそ!』と叫んだ」と証言したことで、新撰組の原田左之助が犯人であるという説が一気に広まったのです。
「こなくそ」は伊予(現在の愛媛県)地方の方言で、「ちくしょう」「くそったれ」といった意味の罵倒語です。新撰組十番組組長の原田左之助が伊予松山の出身だったことから、この方言が決定的な証拠とされてしまいました。
さらに、現場に残された鞘について、元新撰組参謀で当時は御陵衛士を率いていた伊東甲子太郎が「これは原田左之助の鞘だ」と断定しました。こうして、新撰組犯行説は確固たるものになっていったのです。
証拠の矛盾点
しかし、冷静に考えると、この証拠には多くの疑問点があります。まず、プロの暗殺者が自分の出身地を特定されるような方言を、大声で叫ぶでしょうか。また、百戦錬磨の原田左之助が、鞘を忘れるというミスを犯すでしょうか。どちらも、不自然と言わざるを得ません。
これらの証拠は、あまりにも露骨すぎて、むしろ新撰組に罪を着せるための偽装工作ではないかという疑いが持たれています。実際、後に判明した真犯人は新撰組ではありませんでした。証拠が出来すぎている場合、かえって真実から遠いというのは、現代の事件でもよくある話です。
伊東甲子太郎の証言が決定打?犯行説が広まった理由
新撰組犯行説を決定づけたのは、伊東甲子太郎の証言でした。伊東は元新撰組の参謀でしたが、近藤勇と対立して新撰組を離脱し、御陵衛士(高台寺党)という別組織を立ち上げていました。つまり、新撰組とは敵対関係にあったのです。
伊東は事件直後に現場に駆けつけ、遺留品の鞘を見るなり「これは原田左之助のものに間違いない」と断言しました。新撰組の元幹部である伊東の証言は非常に説得力があったため、多くの人が新撰組犯行説を信じてしまったのです。
さらに興味深いことに、伊東は龍馬暗殺の数日前に龍馬を訪ね、「新撰組が狙っている」と忠告していました。この忠告は一見親切に見えますが、龍馬の居場所を確認するための偵察だったという説もあります。伊東が実行犯側に情報を流した可能性も指摘されているのです。
| 新撰組犯行説の根拠 | 疑問点・反証 |
|---|---|
| 「こなくそ」という伊予弁 | 偽装工作の可能性・聞き間違いの可能性 |
| 原田左之助の鞘 | プロが鞘を忘れるのは不自然・陥れるための工作 |
| 瓢亭の下駄 | あまりに露骨な証拠で偽装の疑い |
| 伊東甲子太郎の証言 | 新撰組と敵対関係にあり、証言の信憑性に疑問 |
結果的に、新撰組犯行説は冤罪でした。しかし、この誤った情報により、新撰組、特に局長の近藤勇は「龍馬暗殺の首謀者」という汚名を着せられ、その後の処刑につながっていくことになります。では、真犯人はいったい誰だったのでしょうか。次の章で明らかにしていきます。
坂本龍馬を殺した真犯人は誰か?歴史捜査で判明した正体
長年の謎とされてきた龍馬暗殺の真犯人について、現在判明している事実を解説していきます。
| 組織 | 特徴 | 龍馬暗殺への関与 |
|---|---|---|
| 新撰組 | 浪士組織・京都市中の警備担当 | 関与せず(冤罪) |
| 京都見廻組 | 幕臣による警察組織・格式高い | 実行犯(佐々木只三郎、今井信郎ら) |
| 土佐藩 | 龍馬の出身藩 | 黒幕説あり(後藤象二郎ら) |
| 薩摩藩 | 龍馬を支援していた藩 | 黒幕説あり(利害関係) |
京都見廻組・佐々木只三郎と今井信郎の告白
明治時代に入り、坂本龍馬暗殺の真相が明らかになり始めます。元京都見廻組隊士の今井信郎が、自分たちが龍馬を殺害したと告白したのです。長く謎とされてきた事件に、ようやく光が当たった瞬間でした。
京都見廻組は、新撰組と同じく京都の治安維持を担当していましたが、その構成員は旗本や御家人といった正規の幕臣でした。新撰組が浪士出身者の集まりだったのに対し、見廻組は身分の高い武士たちで構成されており、幕府からも新撰組より格上の組織と見なされていたのです。
今井信郎の証言によれば、龍馬暗殺の実行犯は佐々木只三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥伴蔵、桜井大三郎の7名でした。彼らは見廻組の隊士として、幕府の命を受けて龍馬を襲撃したと語っています。
なぜ告白したのか
今井信郎が告白したのは、明治時代のことでした。すでに幕府も新撰組も存在せず、当事者の多くが亡くなっていました。今井は「歴史の真実を後世に伝えるため」として、自分たちの行為を公にしたのです。真相が判明するまで、半世紀もの時間がかかったことになります。
今井の証言は詳細で具体的であり、現場の状況や使用した武器、襲撃の手順などが明確に語られていました。この証言により、新撰組犯行説は完全に否定され、京都見廻組が真犯人であることがほぼ確定したのです。
新撰組ではなかった:近藤勇が処刑された「冤罪」の悲劇
新撰組局長の近藤勇は、慶応4年(1868年)4月25日、板橋宿で処刑されました。その罪状の一つに「坂本龍馬暗殺」が含まれていたのです。しかし、実際には近藤も新撰組も龍馬暗殺には一切関与していませんでした。これは完全な冤罪だったのです。
近藤勇が新政府軍に投降した後、土佐藩の谷干城が龍馬暗殺の罪を問い、強硬に処刑を主張したと言われています。土佐藩は龍馬の出身藩であり、龍馬暗殺の犯人を強く求めていました。現場に残された「こなくそ」という方言や鞘から、新撰組の原田左之助が犯人だと信じ込んでいた土佐藩の強硬姿勢もあり、新撰組幹部の近藤勇の処刑が決定されたのです。
近藤勇は「自分は龍馬暗殺とは無関係だ」と主張しましたが、聞き入れられませんでした。明治新政府にとって、旧幕府の象徴である新撰組を処罰することは、新時代の始まりを示す重要な儀式でもありました。近藤の処刑は、政治的な見せしめとしての意味合いが強かったと言えるでしょう。

引用元「Wikipediaコモンズ」より
近藤勇の処刑は斬首という、武士としては最も屈辱的な方法で行われました。通常、武士は切腹という名誉ある死に方を許されますが、近藤には切腹すら許されなかったのです。これは、新撰組が「賊軍」として扱われたことを物語っています。
新撰組副長の土方歳三は、近藤勇の釈放を求めて奔走しましたが、叶いませんでした。近藤の処刑後、土方は函館まで戦い続け、最後まで幕府への忠義を貫きます。土方もまた、「龍馬暗殺の冤罪」という汚名を晴らすことなく、戊辰戦争の最終局面で戦死しました。新撰組の悲劇は、龍馬暗殺の誤解とともに語り継がれることになったのです。
新撰組のメンバーがその後どのような運命をたどったのか、気になる方はこちらの記事もご覧ください。生き残った隊士たちのその後も紹介しています。
なぜ見廻組は龍馬を狙ったのか?幕府崩壊直前の政治力学
京都見廻組が坂本龍馬を襲撃した動機については、今井信郎の証言から明らかになっています。彼らにとって、龍馬の暗殺は「暗殺」ではなく「公務執行」だったのです。立場が違えば、同じ行為もまったく異なる意味を帯びてきます。
その法的根拠となったのが、慶応2年の寺田屋事件です。この事件で、龍馬は伏見奉行所の捕方に対してピストルを発砲しています。現代の法体系で言えば「公務執行妨害」や「警察官殺害」という重大犯罪に相当するものでした。
幕府側から見れば、坂本龍馬は単なる政治活動家ではなく、凶器を持った危険な逃亡犯でした。見廻組は「寺田屋で役人を殺害して逃亡した坂本龍馬を、幕府の命により捕縛し、抵抗すれば討ち取る」という命令を受けていたのです。
さらに、龍馬暗殺のもう一つの理由として、大政奉還の実現が挙げられます。龍馬は「船中八策」という日本の近代化構想を練り、土佐藩の後藤象二郎を通じて徳川慶喜に大政奉還を進言させました。慶応3年10月14日、徳川慶喜は大政奉還を決断し、260年続いた江戸幕府は事実上終焉を迎えます。「幕府を崩壊させた張本人」として、龍馬は幕府強硬派から恨まれていたのです。
筆者は以前、憲政史家の倉山満先生が「龍馬暗殺に謎なんてありません」とおっしゃっていたのを覚えています。倉山先生によれば、犯人は京都見廻組で間違いなく、それを指示したのは松平容保以外にはいないというのです。説得力のある見解だと思います。
しかし筆者は、ここで一つの疑問を抱きました。「坂本龍馬を斬ったことが公務だというのならば、なぜ龍馬の遺体と負傷した中岡慎太郎を放置して立ち去ったのか」、そして「なぜ自らの手柄を強調せず、あろうことか新撰組の犯行という噂を放置したのか」という点です。これらの疑問には、辻褄の合う仮説が考えられます。
それは、幕府の上層部から、坂本龍馬を傷つけてはならないという命令が出ていたのではないか、というものです。龍馬は大政奉還によって徳川家と薩長の内戦を止めようとしていました。徳川からすれば、龍馬は必要な人間だったとも言えます。幕府のトップである徳川慶喜、あるいはそれに近い人物から秘密裏に龍馬を守るよう命令が出ていたとしたら、それに逆らえない立場の者としては、ひそかに暗殺するしかなかったのではないでしょうか。もちろん、これはあくまで筆者の想像であり、確固たる証拠は何もありません。
| 見廻組の動機 | 詳細 |
|---|---|
| 法的根拠 | 寺田屋事件での役人殺害による指名手配犯の逮捕 |
| 政治的動機 | 大政奉還を主導した龍馬への報復 |
| 組織の使命 | 京都の治安維持・危険人物の排除 |
| 指令系統 | 京都守護職・松平容保からの命令(推測) |
龍馬暗殺の真相と、新撰組がどのように関わっていたのかが見えてきました。続いて、二人の英雄に関するよくある疑問にお答えしていきます。
坂本龍馬と新撰組をもっと深く知る関連トピック
ここでは、龍馬と新撰組の物語をさらに楽しむための、いくつかのトピックを紹介します。
龍馬と土方歳三、もし手を組んでいたら
坂本龍馬と土方歳三は、対立する陣営にいましたが、能力や性格の面で驚くほど共通点が多い人物です。両者とも、組織を作り上げる才能があり、近代的な思考を持っていました。立場さえ違わなければ、最高の相棒になっていたかもしれません。
土方歳三は、農民出身の浪士集団を、京都最強の武装組織に作り上げました。「局中法度」という厳格な規律を定める一方で、隊士たちの生活を気遣い、給与や装備を充実させるなど、部下思いの一面も持っていました。龍馬もまた、身分制度に縛られない新しい組織「海援隊」を作り、武士だけでなく商人や町人も参加できる開かれた組織を実現しています。
もし龍馬の構想力と土方の実行力が組み合わされば、幕府改革派として近代的な政府を作り上げることができたかもしれません。実際、土方は函館戦争の際に榎本武揚と協力して「蝦夷共和国」という構想を実現しようとしていました。土方にも近代的な思想があったことを示すエピソードです。
現代人が惹かれる理由:生き様に見る「日本人の精神」
坂本龍馬も土方歳三も、現代に至るまで多くの日本人から愛され続けています。大河ドラマや映画、小説、漫画など、さまざまな作品で彼らの生涯が描かれ、その度に新しいファンが生まれているのです。なぜ、彼らはこれほどまでに人々を惹きつけるのでしょうか。
その理由の一つは、「信念を貫き通した生き様」にあります。龍馬は日本の未来のために命を賭け、土方は武士の誇りのために最後まで戦いました。周囲の空気を読み、妥協を重ねることが求められる現代社会だからこそ、彼らのような生き方に憧れを抱く人が多いのでしょう。
もう一つの理由は、「敗者の美学」です。龍馬は志半ばで暗殺され、土方は賊軍として戦い続けて戦死しました。二人とも、自分が思い描いた未来を見ることなくこの世を去っています。しかし、その不完全な人生だからこそ、人々は共感し、「もし彼らが生きていたら」という想像を膨らませるのです。

幕末という時代は、AIやグローバル化が進む現代と同じく、大きな変革の時代でした。将来がどうなるかわからない不安の中で、私たちは龍馬や土方の生き方から、自分の信念を持ち、それを貫くことの大切さを学ぶことができるのではないでしょうか。
龍馬を斬った相手でもある土方歳三の最期について、より詳しく知りたい方はこちらの記事もおすすめです。
ここまで読んでいただき、龍馬と新撰組の関係がかなり立体的に見えてきたのではないでしょうか。次は、読者の皆さんが抱きやすい疑問をQ&A形式でまとめていきます。
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坂本龍馬と新撰組の関係に関するよくある質問
最後に、坂本龍馬と新撰組の関係について、特に多く寄せられる疑問にお答えしていきます。
- 坂本龍馬は新撰組に入隊したことがあるのですか?
- いいえ、坂本龍馬が新撰組に入隊した事実はありません。ゲーム「龍が如く〜維新〜」などでは龍馬が斎藤一を名乗って新撰組に入隊する設定が描かれますが、これは完全なフィクションです。龍馬は一貫して倒幕側の志士であり、幕府を守る新撰組とは正反対の立場にいました。
- 坂本龍馬と新撰組は直接戦ったことがありますか?
- 史料を確認する限り、坂本龍馬と新撰組が直接斬り合ったという記録は残っていません。龍馬が襲撃された寺田屋事件の相手は伏見奉行所の捕方であり、近江屋での暗殺も京都見廻組の犯行でした。同じ京都で活動していたため、すれ違っていた可能性はありますが、面識を示す証拠は見つかっていません。
- 坂本龍馬を暗殺したのは新撰組ではないのですか?
- 真犯人は新撰組ではなく、京都見廻組だったとされています。当初は現場の証拠から新撰組の原田左之助が疑われましたが、明治時代に元見廻組の今井信郎が自分たちの犯行だと告白しました。この証言により、新撰組犯行説は冤罪であったことがほぼ確定しています。
- 池田屋事件で坂本龍馬は新撰組に襲われたのですか?
- 池田屋事件で龍馬本人は現場にいなかったため、直接襲われてはいません。ただし、神戸海軍操練所で共に学んだ同志の望月亀弥太が、この事件で新撰組に斬られて命を落としています。同志を失った衝撃が、その後の龍馬の活動方針に影響を与えたと考えられています。
- なぜ近藤勇は龍馬暗殺の罪で処刑されたのですか?
- 現場に残された「こなくそ」という方言や鞘から新撰組犯行説が広まり、龍馬の出身藩である土佐藩がそれを信じ込んだためです。近藤勇は無関係だと主張しましたが、聞き入れられず板橋宿で斬首されました。これは完全な冤罪であり、新時代を示す政治的見せしめの側面も強かったとされています。
それでは最後に、この記事の内容をまとめておきましょう。
坂本龍馬と新撰組の関係から見える幕末の真実
坂本龍馬と新撰組の関係について、重要なポイントを振り返っていきます。
- 坂本龍馬と新撰組は思想的に対立していたが、どちらも日本の未来を真剣に考えていた
- 池田屋事件で龍馬の同志・望月亀弥太が新撰組に殺害され、龍馬の活動方針が現実路線へと転換した
- 龍馬と新撰組幹部が直接会った記録はないが、狭い京都で活動していたためすれ違っていた可能性は高い
- 龍馬暗殺の犯人は当初新撰組と疑われたが、実際の実行犯は京都見廻組だった
- 近藤勇は龍馬暗殺の冤罪で処刑され、新撰組は汚名を着せられたまま歴史から消えた
- 真相は明治時代の今井信郎の告白などによって、後にようやく判明した
坂本龍馬と新撰組の関係を紐解くことで、幕末という時代がいかに複雑で、人間的なドラマに満ちていたかがわかります。敵対する陣営でありながら、どちらも日本の未来を真剣に考え、自分の信念のために命を賭けた人々でした。龍馬暗殺の真相が明らかになるまで約50年かかったという事実も、歴史の真実を知ることの難しさを物語っています。現代を生きる私たちも、彼らの生き様から多くを学ぶことができるのではないでしょうか。
坂本龍馬の最期や死因について、さらに詳しく知りたい方はこちらの記事もあわせてご覧ください。

コメント
コメント一覧 (7件)
坂本龍馬は、坂本竜馬と習った世代です。
なかなか捨てられない日本史の辞書二冊と山川出版の教科書を調べると全て坂本竜馬になっていました。
現在は、坂本龍馬なんですね。
あと一点、坂本龍馬は新撰組・斎藤一が暗殺したのか考察!新選組は龍馬の敵か?で「新撰組」となっていたり、「新選組」となっていたりしています。最近は、「新選組」のようですね。
新選組で統一してほしいです。「新選組」の関連記事で、「新撰組(新選組)」と書かれているので、新撰組派なのですか。私は「新撰組」と習いました。
おはようございます
いつもお言葉をいただきありがとうございます
新選組についてですが、早速確認して修正いたします
坂本龍馬については、最近では龍馬で統一されているようです
そして「新選組」なのですが、どうやら新選組が存在していた時代から、「新選組」と「新撰組」の両方の文字が使われていたようです。
局長近藤勇の直筆の文書によると、近藤自身も「新選組」と「新撰組」の両方の文字を使っていたとのこと。
いったいなぜそうなったのかは不明ですが、「竜馬」という文字についても「新選組」という字についても、私どもはその事情を現在も調査中です。
本日もコメントありがとうございました。
またぜひ当サイトをご利用頂けたらと思います。
ありがとうございました。
こんにちは
いつも貴重なコメントをいただき、ありがとうございます。
実は先日指摘いただきました「新選組」という表記の統一なのですが、まことに申し訳ありませんが、システム上の都合により、ご期待に沿うことができなくなりました。
せっかく貴重な指摘を頂きましたのに、このような理由で期待を裏切ることとなりますことを、お詫び申し上げます。
申し訳ありませんでした。
ご指摘はごもっともなのですが、本当に申し訳ありません。
また貴重なお言葉をいただけましたら、これほど嬉しいことはありません。
失礼いたしました。
いつもありがとうございます。
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