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坂本龍馬の功績を超わかりやすく解説!当時の時代背景も合わせて説明

幕末の英雄「坂本龍馬」が、どんな「功績」を残したのかを、わかりやすく解説いたします。

「坂本龍馬」は何をした人なのか?実は、答えられない人がたくさんいるのです。

「薩長同盟」「大政奉還」「船中八策」などなど。

これら有名な歴史的事件は、全て龍馬が成し遂げた「功績」なのです。


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この記事を短く言うと

・龍馬には「海援隊」「薩長同盟」「大政奉還」「船中八策」など、数々の功績がある

・幕末とは、諸外国からの圧力により、過激な思想が横行し、治安が悪化していった

・龍馬は公平で自由な国を目指していたのだろう


龍馬の功績とその効果・結果をわかりやすく解説

坂本龍馬は、土佐藩(現在の高知県)の郷士(下級武士)の家に生まれました。

「引用元ウィキペディアより」

青年期は剣術一筋で、江戸の北辰一刀流の桶町千葉道場の門人となり、免許皆伝を授かっています。

そして、幕末に流行した志士(高い志を持ち、国家・社会のために献身しようとする人)活動をする中で様々な人物に出会い、龍馬独自の世界観を育て上げてゆきます。



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龍馬の功績その1「海援隊」

江戸幕府に仕える臣下『勝海舟』と出会い、勝の私塾である「神戸海軍操練所」の設立に参加します。

後に海軍操練所は閉鎖となりますが、海軍の重要性に目覚めた龍馬は、長崎に「亀山社中」、後の「海援隊」をつくります。

海援隊は貿易,海運などから得る利益をもって、国事に奔走した政治集団です。

近代的な株式会社に類似した組織、商社活動としても評価されています。

海援隊は西国諸藩、特に薩長両藩のために、物資の輸送や西洋の武器・船舶の輸入などを行い、薩長の討幕準備に大きな役割を果たします。

龍馬の功績その2「薩長同盟」

幕末において薩摩(現在の鹿児島県)と長州(現在の山口県)は、天下の雄藩(経済力や政治力があり、勢力の強い有力藩のこと)でした。

しかし、両藩は非常に仲が悪く、京都で起こった合戦(禁門の変)では敵同士として戦うほどになりました。

世間では討幕の機運が高まってきたのですが、まだまだ幕府の軍事力は強大でした。

そんな中、誰もが薩長が手を組めば、討幕が出来るのではないかと思っていました。

しかし、薩長は犬猿の仲。

誰もが、そんなことができるとは思っていませんでした。

そこで、坂本龍馬が薩の西郷隆盛、長の桂小五郎を説得します。

その根拠は感情ではなく、利害を一致させることでした。

つまり、長は討幕の為の銃器が欲しかった。

薩は長を隠れ蓑にして討幕の準備を進めたかった。

それをうまく使って龍馬が薩長同盟を締結させたのです。

薩長同盟の締結により、討幕派は薩長を中心として勢いを得て、討幕の動きが加速していくのです。



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龍馬の功績その3「大政奉還」

大政奉還とは、江戸幕府が政権を朝廷に返上したことです。

大政奉還の直前、薩長を中心とした革命戦争を起こそうとしている討幕派に対し、龍馬は平和裏に政権移行をしたい非戦論者でした。

龍馬は土佐藩の参政(藩行政の最高責任者)後藤象二郎に大政奉還の案を授けます。

龍馬の大政奉還案に大いに感銘を受けた後藤は、将軍・徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を建白(政府や上役などに自分の意見を申し立てること)します。

徳川慶喜は大政奉還を受け入れ、これによって江戸幕府はなくなり、鎌倉以来約700年続いてきた武家政治は終了しました。

朝廷による新しい政治が始まったのです。



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龍馬の功績その4「船中八策」

龍馬は上京する途中の船中にて、同乗した後藤象二郎に8カ条の新しい国家構想を示します。

それは政権を幕府から朝廷に奉還し、朝廷(天皇)のもとに大名、および新たに登用された人材(議員)によって、様々な事を公の議論により決め、開国、法律制定、軍事力設置、貨幣統一などによって、国家の体制を整えようとしたものでした。

その後、大政奉還により政権が朝廷に移ったとはいえ、実際にどの様に政治を運営すればよいのか、どんな国家にすればよいのか、明確な考えがある人は誰もいませんでした。

そんな状況の中で、龍馬の船中八策は新国家体制の基本方針とされ、明治維新政府に受け継がれて「五箇条の御誓文」へとつながってゆくのです。



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坂本龍馬が生きた「幕末」の時代背景を簡単解説

黒船来航以降、幕府と外国との条約締結を経て、開国反対の朝廷(天皇)の意向を受けて各藩の志士が「尊王攘夷」(王を尊び、夷を攘う(はらう)という意味で、天皇を敬い、外国人を排斥するということ)を合言葉に、天皇のおひざ元の京都を中心に反幕的な活動を始めます。

幕府側も、尊王攘夷志士を取り締まるため、新選組や見廻組を組織し、京都では殺人が横行し、治安が非常に悪化します。

雄藩の内では、長州藩が最も過激になり、新選組に長州藩の志士数人が殺害されたため、怒った長州藩兵が上京し、御所周辺を巻き込んだ合戦(禁門の変)が行われます。

敗れた長州藩はその後、幕府による長州征伐を受けて危機におちいりますが、薩長同盟により薩摩と共に密かに討幕の準備を始めます。

武力による討幕派である薩長は、大政奉還により一旦は肩透かしとなりますが、新政府として徳川家に辞官納地(官位と領地を返上すること)を迫ります。

他にも大名はいるのに、何故徳川家だけ辞官納地をしなければならないのか。

領地を返上すれば徳川家家臣は、明日からどうやって生活すればよいのか。

これに怒った大阪城にいた旧幕府軍は、京都の新政府に戦いを挑みます。これが鳥羽伏見の戦いです。

以降、新政府軍(官軍)と旧幕府軍および幕府側の諸藩との全面戦争となります。

これを戊辰戦争と言います。

戊辰戦争の戦線は北上してゆき、北海道の函館でようやく終結します。

火縄銃中心の旧幕府軍に対し、西洋の最新式銃器をもった官軍はなんとか勝利をおさめました。

これにより名実ともに明治維新を迎えることとなるのです。



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坂本龍馬は何を目指していたのか?

坂本龍馬は、アメリカでは一般民衆が大統領を選び、大統領は民衆の生活の心配をするという国にあこがれていました。

身分制度や藩や幕府にしばられることがない、公平な世の中を望んでいました。

龍馬は「世界の海援隊」により世界中と貿易が出来るような、自由な国家を理想としたのです。

その為には、貿易を独占し、人々に自由を許さない幕府がなくなればいいや、と思ったのです。

龍馬にとって、討幕は自分の理想を形にするひとつの手段でしかなかったのです。

幕末から維新に生きた人々の中で、龍馬の他には誰ひとり、このような人物はいませんでした。

だからこそ、坂本龍馬は「維新史の奇蹟」といわれるのです。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・龍馬の主な功績は「海援隊」「薩長同盟」「大政奉還」「船中八策」いずれも歴史をつくるうえで、大きな役割を果たしました。

・黒船来航以降、日本は京都を中心に沸騰した時世となります。その中で出てきたのが薩摩と長州。この二つの藩を中心に討幕がなされます。

・龍馬は世界を見ていました。幕末の時代にそんな日本人は龍馬だけです。龍馬がいなければ明治維新はもっと違ったものになったでしょう。

坂本龍馬は同時代に生きた日本人な中で飛び抜けて型破りな思想をもった人間でした。

そして、大政奉還を成し遂げてわずか1か月後に暗殺されてしまいます。

そんな悲劇性もあり、長く語り継がれ、愛される人間として私たちの心の中に生きているのだと思います。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



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